雪月花

= 出会い =



−1−


たゆたう気だるい音楽。
時間の流れを感じさせない空間に満ちる挽きたてのコーヒー豆の匂い。
時折響くのは新聞や雑誌を捲る音。
そして店主が立てる、食器の音くらいだ。
携帯電話の電源を落とさないような無粋な人間はこの店には来ない。
まるで世間から隔絶されたように存在しているその店は、彼が好んで足を運ぶ店だった。

彼―――橘友雅は、休日はいつも行きつけの店でゆったりとした時間を過ごすことにしている。
静かで落ち着いた店内、小さなボリュームで流れているジャズ、邪魔な雑音もなく、店にいる誰もが無関心を装い座っている。
その実細やかな心配りがそこには存在していて、お互いの領域を侵さないように最低限の注意を払いながらそれぞれの時間を過ごすのだ。
その何気ない時間を、友雅はとても好んでいた。

出されるコーヒーはすっきりとした味で、苦味も酸味も少なく、友雅がこの店を気に入ったのにはそれも理由の一つに挙げられる。
一杯五百円で提供されているそれは、ブルーマウンテンを多めに配合したこの店のオリジナルブレンドだ。
癖のあるコーヒーが好きな人間には物足りないかもしれないが、友雅はこのオリジナルブレンドが丁度いい。
評判を聞くとコーヒー以外にもケーキが美味しいとのことだったが、甘いものに興味のない友雅がそれを試す機会は恐らく永劫ないだろう。

ぱらり、と友雅の長い指が本のページを繰る。

真剣に読み耽るつもりがないのは雑誌の種類が薄いタウン情報誌であることからも読み取れる。
今日はなぜか心がざわめいて集中出来ないという理由もあった。

―――どうしてだろう。

長く癖のある艶やかな髪を肩口から払い除け、友雅は冷えかけたコーヒーを口にした。
常ならば冷める前に飲みきってしまうというのに、今日ばかりはそれを忘れていたのも驚くべき事実だ。

(今日はどうかしているな)

内心そっと呟いて、カップをソーサーに戻す。
熱をなくしたコーヒーの味はどうしても好きになれない。
今日は帰った方がいいだろうと伝票を手に立ち上がれば、レジの前に一人の少女が立っているのが見えた。

桜色の、さらりと些細な動きに連動するように揺れる髪。
その隙間から覗く白い頬は柔らかく丸い稜線を描いていた。
耳を澄ませば鈴のような軽やかで透明な声が両の耳に響く。
この店には相応しくない幼い少女が―――高校生だろうか、どこかで見たことのある制服に身を包んで店主と何やら言葉を交わしていた。

「…だから、うちは高校生はちょっとねぇ」
「どうしてもだめですか?」
「お客様の年齢層が高いから、あまり若すぎる子は断っているんだよ」
「…そうですか……。分かりました、お時間取らせてしまってすみません、有難うございました!」

ぺこり、と勢い良く上体を倒し、笑顔を見せてお礼を述べる少女はどうやらアルバイトの募集を見てこの店を訪れたらしい。
先程捲っていたタウン誌に募集が掲載されているのを友雅も見ていた。
しかし年齢制限などどこにもなく、少女がアルバイト希望として足を運んだのならば辻褄が合う。
今時の―――というほど年ではないつもりではいるが、相手が高校生ならば一回り以上違うことになる―――若い子にしてはしっかりとした受け答え、そして礼儀を弁えている態度に好感を憶えた。
もしもこの店で働いていたとしたら、少女を目当てに通う客も増えただろうと予想が出来るほどに。

「失礼するよ。お勘定をお願い出来るかな」

ごめんねと謝る店主と慌てて顔の前で手を振る少女の間に割って入り、友雅はひらりと伝票を店主に手渡した。

「あ、すみませんねぇ。騒がしかったですか?」
「いや、いいんだよ。可愛らしい声だったからね、耳に心地よかったくらいさ」
「あっ、あの、私これで失礼します。お邪魔しました」
「ああそうだ、ねぇ君、アルバイト先を探しているのかな?」

逃げるように身体を返そうとした少女に、友雅はゆったりと微笑んで声を掛けた。
驚いて目を瞬かせる顔はやはり高校生なのだろう、まだあどけなさがそこかしこに残っていて微笑ましくさえ感じる。
印象深い桜色の髪が傾げられた首の動きに合わせてさらり、と首筋を滑り落ちた。

「はい、でも…貴方は?」

不審に思うのも当然だろう。
友雅は笑みを湛えたまま少女を脅かさないように距離を詰めないままで流れる髪を弄るように指に絡める。

「私は橘友雅と言うのだよ。しがない珈琲専門店、と言うのを経営していてね。丁度ウエイトレスを探していたんだ、何かの縁だしいかがかと思って声を掛けたのだけれど余計なお節介だったかな?」
「え?でもどうしてそんなお店の店長さんが違うお店に来るんですか?」

きょとんとした丸い目で、全く見当外れのことを聞いてくる少女に、つい堪えきれずに声を立てて笑っていた。
たまには直感を信じてみるものだ───友雅はくっくと笑いながら思う。
常ならば友雅が声を掛けた相手は疑問も挟まずに一も二もなく頷くのだ。
柔らかな笑みと艶のあるバリトン、ただそれに魅了されるがごとく女性は皆友雅の虜になる。
その恩恵に常々預かっている身としては有り難いと思わなくもないが、鬱陶しい方がそれを上回ることが多い。
しかしこの少女はそんな目で友雅を見ないばかりか、思ったことを直球でぶつけてきた。
今までに友雅が出会ったことのないタイプだった。

「私がコーヒーを飲みに来てはおかしいかな?ご覧のとおり、この店はとても落ち着いていて素晴らしい雰囲気がある…自分の店では立場上寛いでばかりいられないからね、こうして時折息抜きに来るのだよ」
「あっ、そうか…そうですよね!自分で作ったご飯が美味しくないのと同じ感じだ!」
「…っく…あははは!君は本当に面白い表現をするねぇ、気に入ったよ。どうだい、私の店で働いてはくれまいか?君の仰るとおり、自分で淹れたコーヒーを自分で飲むのは味気なくてねぇ」

ひとと論点がずれる、というか。
天然というのはこういうのを指し示すのだろう。
友雅は久しぶりに心底楽しさを感じながら少女を誘った。
本来ならば友雅の店にウエイトレスなど必要ないにも関わらず、どうしてもこの少女と接点を持ってみたいと思わずにはいられなかったのだ。
その誘いに、少女はぱあっと顔を明るくして満面の笑みを浮かべると、花が咲き誇るかのように頬を色づかせて「はい!」と喜色を滲ませた声で返事をする。
友雅の素性を疑うこともなく、この数分の間ですっかりと信用しきった様子を見せるのは無防備と言わざるを得ない。
しかし、それが恐らくこの少女の持ち味なのだろう。
素直な少女に満足げに頷くと、友雅は支払いを済ませて少女と連れ立って店を後にした。


***


「歩かせてしまってすまなかったね。ここが私の店だよ」

先程の店から徒歩で二十分程度の距離に、友雅の店はあった。
表通りではなく裏通りにあるせいで、日当たりはあまりいいとは言えないような立地条件。
しかし、その分都会の喧騒からは遠く、静かな時間を過ごせるというのが友雅がこの地を選んだ一番の理由だった。

パチンとスイッチを入れて照明を灯す。
桜の花を模ったシャンデリアがほんのりとオレンジを帯び、壁のブラケットも同じ色を湛えていた。
ダークブラウンの床材、腰壁はしっとりとした大人の雰囲気を醸し出し、それより少し明るいライトブラウンの壁が店内を暗すぎず明るすぎずに見せている。
磨き抜かれた欅の一枚板のカウンターと、同じく欅の丸いテーブルが二つ。
客席の数はカウンターも含めてたったの十席。
決して広いとは言えない店内は、芳醇なコーヒーの匂いを含み時が止まったような錯覚すら憶える。

お世辞にも決して入りやすいと言える店ではない。
それでも客足が遠のかないのはこの独特な雰囲気を好む客が多いからだ。
それに加えて店主である友雅の優雅な立ち振る舞いに魅せられて常連になった女性客も多い。
但し、もしもこの店で何か問題を起こそうものなら二度と店内への立ち入りは許されないという友雅の決めたルールがあった。
友雅を巡って女性同士が大声で騒ぎ立てることも少なくはないのだ。

「橘さんも大変だねぇ」

と常連客は笑ってくれるけれど、友雅としては苦笑せざるを得ない。
友雅が望まなくともそういうものを引き寄せてしまうのは最早この店の名物になりつつあった。
それを楽しみにしている常連客もいるのだから、悪趣味にも程がある。

そういった常連たちが各々店に通う理由はあれども、一番の理由は出されるコーヒーが他店とは比べ物にならないほど美味いということなのだ。
友雅にとっては自分の舌に合うようにブレンドしているだけで、美味しいものを作ろうとしたことは一度もない。

「さあ、どうぞ姫君。狭苦しいところだけれど一応は我が城というやつだよ」

入り口で足を止めていた少女を店内へ導くと、少女はきょろきょろと辺りを見回しながら臆することなく足を踏み入れた。
薄暗い店内、見知らぬ大人。
普通ならば警戒してもおかしくないシチュエーションだというのに、少女の様子はまるで違う。
とととっ、とカウンターに駆け寄ったかと思うと、顔を映すほど磨かれた欅に感嘆の声を上げて触れ、店内のあちこちに置かれている雑貨やアンティーク品を見てはきらきらと目を輝かせる。
開店祝いにと随分前に贈られた数々の観葉植物も一つずつ顔を近づけるように見てははしゃぐ。
珍しいものではないだろうに、と少女の後ろをゆっくりとついて回る友雅は、少女が店内を観察する様子をじっと見詰めていた。

「凄いですね、素敵なお店!」

ようやく探究心が落ち着いたのか、くるりとスカートの裾を揺らして少女は振り返った。

「お気に召していただけたようだね、安心したよ」
「はい、あの、本当にいいんですか?お世話になってしまって…」
「おや?私がお願いしたのだよ、悪いわけないだろう?」

友雅はカウンターの向こう側、シンクの前に立つと冷蔵庫から水を取り出してシルバーのケトルに注いだ。
一般的に見るスリムなそれではなく、少し変わった形をしているあたり、友雅の拘りが窺える。

「その薬缶も素敵なデザインですね。何だか可愛い形…」

薬缶、という単語に友雅は目許を緩めた。

「ああ、私も気に入っていてね。普通の店で見るようなスリムなケトルだと中まで洗いにくいだろう?これなら手もしっかり入るし、それでいて注ぎ口は鋭角的だから細く注げるしね。水切れも中々いいから重宝しているのだよ」
「見た目だけじゃなく機能的だなんて、凄いなあ。それ、高いんじゃないですか?」
「そうでもないよ。でもそうだね…君が買うには少し、高いかもしれないね」

実際の値段は一万円程度だ。
友雅にとってはどうという値段ではない。
IHクッキングヒーターのトッププレートの上にケトルを置いて、ボタンを押す。
火力がガスより強く、すぐにお湯が沸くのがいい。
友雅はその間にドリッパーを準備してコーヒーカップをお湯につけてカップを暖めた。
コーヒーメーカーで落とすコーヒーはあまり好きではない友雅の拘りで、この店で出されるコーヒーは全て友雅がハンドドリップしているのだ。

「この店で働いてもらうからには、一度は飲んでおいて貰った方がいいかと思ってね。さて姫君、君はどんなコーヒーがお好きなのかな?」

シンクの後ろにずらりと並ぶコーヒー豆の数々。
一度に仕入れる量が少ないため、人気の豆は売切れてしまうこともある。
しかし大量に仕入れて風味を劣化させるのは友雅のプライドが許さない。
その代わり、一日一度の注文で毎日豆が届くように手筈を整えていた。

「苦いのはちょっと苦手です。それから、私は姫君なんかじゃありません。元宮あかねって言います」
「では、あかねと呼んでも構わないかい?」
「え、ええと…橘さんは初対面の女の子を下の名前で呼ぶタイプなんですか?」
「苗字で呼び合う他人行儀さがあまり好きではないからね。客は別だけれど、それ以外は名前で呼ぶようにしているよ」

ちなみに軽い遊び程度なら名前を呼ぶ必要もない。
君、で事足りてしまうからだ。

「じゃあ、わかりました。あかねでいいです」
「それでは私のことも友雅と呼んでくれて構わないよ。片方だけ他人行儀なのも好きじゃないからね」

出来るだけ苦味と酸味の少ない豆を選び、ブレンドする。
毎回決まった配合などはない。
何となく、で配合が決まるのだ。
それをミルで挽いて、ペーパーフィルタの中に分量を量って入れ、挽き立ての香りを確認して、少しだけ冷ましたお湯をドリッパーに落とし、まずは蒸らす。
それから少しずつくるくると円を描くようにお湯を注いでいけば、コーヒーがぽたぽたと抽出されて落ちていく。
この瞬間が友雅は一番好きだと思う。

「店長って呼ばなくてもいいんですか?」

ドリッパーから目を上げて、カウンター席から覗き込んでいるあかねを見る。
大人の男をそんな風に呼べないという戸惑いを含んだ目に、友雅はふわりと微笑んだ。

「いいよ。堅苦しいのも好きではないんだ。それに君みたいな愛らしい子にはぜひ名前で呼んで欲しいからね」
「分かりました、じゃあ、友雅さん…でいいですか?」
「構わないよ。呼び捨てでもいいくらいだけれど…それは追々だね」

暖めておいたカップにコーヒーを注いで、友雅は青磁のそれをソーサーに乗せてあかねの前へ滑らせた。
あまり見かけないコーヒーカップにあかねが興味深げに顔を傾けては眺めている。

「ベトナムに行ったときに惚れ込んで買い求めたものだよ。青磁というには青味が薄いかもしれないけれど、こんな緑の器も綺麗だとは思わないかい?」
「綺麗なモスグリーン…うん、友雅さんにはすっきりした青よりもこんな緑がかった暖かい色の方が似合っていると思います」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいねぇ。ああ、ちなみに落として割っても予備はたくさんあるから気にしなくて言いよ」
「む、そんなにドジじゃありません!」
「そうだといいのだけれど、ね」

ぷっくりと頬を膨らませるその幼さ、物怖じせず友雅に突っかかってくる態度、どれもが新鮮で愛らしい。

「ミルクは入れる?砂糖はそこに置いてあるから、好きなだけ入れていいよ」
「あ、子供扱いしてますね?私、こう見えてもブラックで飲むんです」
「意外だね、驚いたよ」
「紅茶はミルクだけ入れますけど、コーヒーはこのままじゃないと折角の味と香りが飛んじゃいます」

桜桃の実のように瑞々しく淡い紅色の唇が緑のカップの縁に触れる。
苦味が好きではなさそうな少女のためにブルーマウンテンを多めに配合したブレンドは口に合うだろうか。
友雅は自分のカップにもそれを注いで、コクリと一口飲み込んだ。

「うわ、…凄く美味しいです!」

友雅には少々軽すぎる口当たりではあったけれど、あかねの反応は悪くない。
こくこくと喉が動くのを見ながら友雅は自分の分をくっと一気に煽った。
店には出せないが、あかねのような若い少女にはこのくらいが丁度いいのだろう。

「友雅さん、私にもいつかこんなに美味しいコーヒーが淹れられるようになりますか?」

カチャリとカップを置いて、あかねは真剣な顔を見せた。
突然の変貌に些か驚きながらも友雅は微笑む。
直向で純粋で、好感が持てる態度だ。
ほんの気紛れでウェイトレスを勤めてもらうことになったけれど、正解だったと友雅は確信した。

「淹れられるようになるよ。私が保証しよう」
「本当ですか?私、頑張ります、それで、いつかきっと…」

あかねは一旦言葉を切ると、ほんのりと頬を赤らめた。
柔らかな白の稜線が薄桃色に変わっている。

「友雅さんに、美味しいコーヒーを入れますね」

それは他愛のない約束だったはずなのに、それでも律儀に守ろうとしてくれる気持ちが酷く嬉しい。
友雅は蕩けるような笑みを浮かべて「楽しみにしているよ」とカウンター越しにあかねの髪に触れた。
指の間をするりと抜けていく春色の髪はまるで桜の花びらのようだ。
まだ花冷えの季節、鮮やかに花を咲かせている少女。

(桜の精だろうか)

そんなはずはないのに、と口の端を上げた友雅に、あかねは小首を傾げて未だ頬を染めている。

(…これは、囚われてしまったかな)

頬を擽るように指の背で撫で、名残を惜しみながら手を離す。

「友雅さん?」
「いや、何でもないよ。綺麗な髪だったからつい、ね」
「…っ……友雅さん、ずるいです…」

ついに真っ赤になって俯いてしまったあかねに、友雅は殺しきれずにくつくつと笑った。
本当にまだ幼い少女だ。
自分の人生の半分ほどしか生きていない、無垢な存在だ。
なのにどうしてこんなにも心が暖かく揺らされるのかが分からない。

(上手にコーヒーを淹れられるようになった頃に、分かるのかもしれないね)

照れ隠しにコーヒーのお替りを強請る少女の声に応え、友雅はもう一度ドリップすべく愛用のケトルに長く綺麗な指を伸ばしたのだった。


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Lost Heaven / 柚季 様