雪月花 |
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= 出会い = |
「ああ、もうそんな季節なのだね。見てごらん、桜が咲いているよ」 こぽり、と音を立てたドリッパーの中の挽き立てのコーヒー豆から目を離し、少女はふわりとスカートの裾と春色の髪を揺らして窓を振り返った。 窓際の席で長い足をゆったりと組んで外を見ている友雅の視線の先を追えば、薄紅色の花を咲かせる細い桜が目に入る。 街路樹というにはたった一本しかない桜は、春になるたびにこの店に色を添えるのだ。 「わ、本当だ。蕾がついてきたなーって思ってはいたんですけど、今日は暖かいから花開いたんですね」 「これを見ると春なのだと思うね。ああ、あかね、コーヒーはまだかい?」 「あ!もう…友雅さんが声掛けるから忘れてたじゃないですか!あーあ、今日のはいい出来だと思ったんだけどな」 慌ててドリップし終えたコーヒーを温めたカップに注いで友雅のテーブルの前まで運んでくる。 その姿は手馴れたもので、この一年あかねがウェイトレスとして頑張っていたことの証だった。 あかねが友雅の店で働くようになり、早いものでもう一年。 最初は予想通り悉く食器を割ったり客にコーヒーを引っ掛けたりと及第点どころか落第点ばかりのあかねも、一年で随分と成長して接客も卒なくこなせるようになっていた。 出されたコーヒーを口許に運びと、友雅はふうっと表面に息を吹き掛けてから一口含み、味わってから嚥下する。 開店前のひととき、もしくは閉店後のひととき、一日に一度だけ友雅のために淹れられるコーヒーだ。 あかねが友雅のところでアルバイトを始めてからというもの、必ずあかねは友雅のためにコーヒーを淹れている。 それは友雅が望んだことでもあったし、あかねが望んだことでもあった。 いつか友雅を唸らせるほど美味しいコーヒーを淹れるのがあかねの密かな野望の一つで、味に煩い店長、友雅は未だにあかねに合格を出していないのだ。 「ん……今日は少し酸味がきついね。モカを入れすぎたかな?」 「昨日は足りないって言ってたから、今日はキリマンジャロをベースにしてモカを足してみたんですけど…」 「残念、今日も不合格だ」 「友雅さん、厳しすぎます!」 「でも、いつか私好みのコーヒーを淹れてくれると言ったろう?だから私が妥協してはいけないと思ってね」 かちゃんとカップがソーサーに戻る。 あかねがどんなコーヒーを淹れたとしても、残さないのが友雅の気持ちの表れだ。 例え不合格だろうと、とんでもない味のコーヒーだろうと、友雅は必ず最後まで飲み干すことにしている。 美味しいものを飲ませたいというあかねの気持ちそのものが嬉しいからだ。 柔らかな黒髪を掻き上げて、友雅は広げていた新聞を畳むと長すぎる足を伸ばして立ち上がった。 春休みの今だからこそあかねは毎日朝から夜までアルバイトに来てくれている。 あかね目当ての常連客も少なくはないから、今日も朝からコーヒーを飲みに客がやってくるに違いない。 「さてと、そろそろ詩紋のところに食パンを取りに行ってくれるかな?私は豆の準備をするから」 「はい、友雅さん」 ほわほわと緩んだ空気はキリッと店長の顔を作った友雅の一言によって一変する。 そんな空気を読み取ることにもあかねはすぐさま慣れて、今では友雅の視線一つで仕事の優先順位を変えることも出来るようになっていた。 人に教えることはあまり好きではない、というのが友雅がアルバイトを雇わなかった最大の原因だが、あかねにだけは教えていても楽しいとさえ思い、更に教える必要がないほど友雅の意図を的確に汲んでくれる。 これ以上はないほどうってつけの人材だった。 「本当に、よく出来た子だね」 ドアベルをからんと軽やかに鳴らして店を飛び出していったあかねの後姿を眺めながら、友雅はシャツの袖を捲り上げると今日のブレンドコーヒーに使う豆を何にするかシャープな顎の先に指を当てて考え込んだ。 「今日はグァテマラにしようか…」 豆の匂いを確かめ、焙煎の具合をチェックする。 今朝届いたばかりの豆は芳醇な香りで鼻腔を擽り、友雅は満足げに頷いた。 アンティグア産の豆の品質はいい。丁度それが入荷したのだと友雅が付き合いを続けている業者が嬉しそうに持ち込んできたものだ。 「これに…ブラジルと…、ああ、これも」 ブレンドする豆を数種類チョイスして、友雅はそれをミルにセットした。 流石に手で挽くのは面倒だと、こちらは電動のものを使用している。 ボタン一つで好みの粗さに挽いてくれるのだから便利なものだ。 尤も、自分用に淹れるときやあかねが友雅のために淹れるときは手挽きしているのだが。 「…うん、匂いは悪くないね」 挽き立ての豆をドリッパーに入れてケトルをヒーターの上に載せると、冷蔵庫からキャベツやトマト、チーズなどの具材を取り出した。 お湯が沸くまでの間にトマトと玉ねぎをスライスし、キャベツを手で千切り、バターにマスタードを混ぜて下拵えをする。 味付けはワインビネガーにサラダオイル、塩胡椒という実に簡単なもの。 それに玉ねぎをしっかりと漬け込んで軽く揉み込んだ。 サラダをパンに挟むだけというのに近い。 これもあかねが朝からアルバイトに入るときの約束のようなもので、案外朝に弱いあかねが朝食を食べて来ないことを心配した友雅がいつの間にか朝食を作ってあげるようになっていたのだ。 時計を確認すれば開店まであと一時間。 徒歩五分の距離にあるパン屋から食パンを持って帰ってきたあかねがサンドイッチを食べる時間としては充分だ。 「ただいま戻りました!」 そこへ、タイミングを見計らったようにあかねが戻ってきて、友雅は食パンを受け取るとあかねに座っておいでと声を掛けた。 「今日も美味しそう。私、友雅さんの料理って凄く好きなんです」 「おや、それは嬉しいね。お褒めに預かり光栄だよ」 「でも女としてはちょっと悔しいかな。私より絶対友雅さんの方が上手だもの」 「一応は免許を持っている身だからね、あかねより下手だったら立つ瀬がないとは思わない?」 「それはそうですけど…複雑です」 沸騰したお湯を少しだけ冷ましている間に、パンの耳を切り落としてバターを塗る。 辛いのが苦手なあかねのためにマスタードは控え目だ。 そこに具材をたっぷり乗せてからドレッシングを少し垂らすようにしてかけ、最後にハムとチーズを乗せてパンで蓋をして完成。 食べやすいように四つ切にして皿に盛り付け、友雅はコトンとあかねの前に皿を置いた。 「有難うございます」 「今コーヒーも淹れるからね」 「今日はどんなコーヒーですか?」 ドリッパーにお湯を注ぎながら今日のコーヒーの説明をする。 毎日ブレンドが変わるこの店では、客からどんなコーヒーなのかを聞かれることが多々あるのだ。 サーバーに一杯分溜まったのを確認してドリッパーを外し、カップに注いであかねにの前に置いた。 「春だからね、それらしいコーヒーにしてみたよ」 使っている豆の種類、どの豆のどの特徴を引き出したか、一つずつ説明すればあかねは砂が水を吸うように吸収していく。 きっと学校でもそうなのだろう、友雅は見たこともない教室でのあかねの姿を想像した。 今年で高校二年生になるという少女がどんな風に育っていくのかと思うと興味が湧く。 しかし、興味を持ったところであかねはいつかアルバイトを辞めて己の道を目指すのだろう。 既に道が定まっている友雅とは違う。 自由に羽ばたき、いつか友雅のことも忘れてしまうに違いない。 多感な時期を駆け抜けた、一時の恩人として。 「…さん、友雅さん?」 「っああ、すまないね、少しぼうっとしていたようだ。何か他に聞きたいことがあった?」 取り繕うように微笑めば、あかねの顔が見る見るうちに曇っていく。 サンドイッチをぱくりと咥え、もぐもぐと口を動かしながらもしゅんとなっているのがつぶさに分かるほど、気落ちしているようだった。 「どうしたの?あかね、何か悩みでもあるのかい?」 いつも元気なだけに、落ち込んでいるところを見ると必要以上に焦りが生まれる。 友雅はカウンターを回り込むとあかねの隣の席に座り、あかねの顔を覗き込んだ。 「…友雅さんこそ、悩んでることがあるんじゃないですか?」 軽く批難染みた声で、あかねが呟く。 「私がかい?別に悩んでなどいないよ」 「私、頼りないかもしれないけど、それでも友雅さんの力になりたいんです。ずっとお世話になりっぱなしだから、せめて話を聞くだけでもって思って…」 「あかね…」 あかねの手が膝に落ち、ぎゅっと強く握られた。 「もし、私がここでバイトしてるのが迷惑になってるなら…」 飛び出す言葉は見当違いもいいところだ。 友雅は間違いを正そうと口を開きかけた。 しかしあかねの言葉は止まらない。 辞めますから、と続けられた言葉に、友雅は衝動的にぐっとあかねの肩を掴んでいた。 「った…!」 「辞める…なんて言わないでくれまいか。聞きたくないんだ」 「でも、私が迷惑を掛けてるなら…っ」 「私が一度でも君のことを迷惑だと言ったことがあるかい?」 「ない、です…けど…」 「あかねさえよければ、いつまででもここで働いていてくれてもいいのだよ。いずれここを辞めてもっと大きな社会の中に旅立ってしまうのだろうけれど、それまでは…」 言葉を切って、友雅は強く掴みすぎていた手を離した。 あかねの碧色の瞳が潤みながら友雅を見上げている。 外にある桜の花よりずっと色濃い綺麗な色の髪が震えるように小刻みに揺れた。 「私、ずっとここにいてもいいんですか…?」 「勿論だよ。お望みなら私のところへ就職したって構わないくらいさ」 途端、ぱっと春色の髪が広がり、あっという間にそれが腕の中に飛び込んでくる。 ガタンと椅子が倒れ、友雅が座っている椅子もぐらりと揺れたけれど何とかカウンターに肘をついて持ちこたえた。 一体何が起こったのかと瞠目した目を瞬かせても現象は変わらない。 椅子から転げるようにして胸にしがみついてた少女と、行き場をなくした腕を中途半端に上げている自分。 そろりと華奢な背に腕を回してもあかねは逃げる気配を見せない。 じわじわと胸を押し潰すように去来するのは、ただひたすらに甘い何かだ。 今まで誰にも感じたことのないような感情がひたひたと胸の内を満たしていくのを感じる。 保護者的なものとは違う、もっと対等に並び立てるような、そんな感情だった。 「ここにいたい。私、ずっと友雅さんの傍にいたいんです」 甘える子猫のように頬を摺り寄せながら、あかねがぽたりと涙を零した。 「卒業しても、大学に行っても、私…きっと他の仕事をすることなんて考えられない…」 「あかね、だがここはただの喫茶店でしかないのだよ?君みたいな未来のある子が今から将来を決め付けてしまってはいけない」 「でも、友雅さん言ったじゃないですか!望むなら、就職しても構わないって!」 小さな手が友雅の胸を叩き、怒りを湛えた眼差しが射抜くように友雅を睨んでいる。 感情が高ぶって赤く染まった頬を伝う涙はこの上なく透明で綺麗だ。 友雅は腕を解いてあかねの頬を包み込むように両手を伸ばすと、親指の腹でそっと涙を拭った。 先程からあかねが口にしている言葉は全て、ストレートな愛の告白のようなものばかりだ。 しかしこの少女にはその自覚はないだろう。 ただ居心地のいい場所にいたい、優しい大人の傍にいたい、それだけかもしれない。 だが、あかねは踏み込みすぎたのだ。 それは一年掛けてゆっくりと、友雅を保護者から男に変えた。 時間が掛かりすぎて今の今まで気がつかなかったのは不覚としか言い様がなかったけれど、気づいてしまったからにはこのままみすみす手をこまねいて見ているわけにはいかない。 「そのときが来てもまだここで働きたいと言うのなら、歓迎するよ。だが可能性を潰すことは私には出来ない。だからあかね、もっと簡単に私と一緒にいられる方法を…ひとつ、提案したいのだけれど」 きょとんとするあかねの顔を上から覗き込むようにして見下ろした。 長い黒髪があかねの顔を包み込むようにしてはらりと落ちて、甘く柔らかい匂いがあかねの肺を満たしていく。 逃げ道を全部自分で否定したあかねに残された道はただひとつだ。 簡単なことだった、と友雅は思う。 あかねをアルバイトとして雇ったことも、彼女の成長をいつまででも見守っていたいと思ったことも、辞めると口にされて咄嗟に肩を掴んでしまったことも、全てたったひとつの理由からだ。 初めて見たときから目を奪われた、桜の精のような少女。 臆することなく、疑うことなく友雅を信じてくれた稀有な純粋さがとても好ましく思えた。 澄んだ碧の瞳が微笑むたびに同じだけ微笑み返したその理由など、最早自問するまでもない。 ―――愛おしく思う、この心の情熱。 ずっと錆びついた扉の向こうにあった柔らかく暖かな感情を、白い手が時間をかけて呼び覚ましてくれたのだ。 他でもない、あかねが。 誰も触れることが出来なかった心の奥底にある何かをそっと包み込んで温めて芽生えさせた。 そしてそれは恐らく、あかねの中にもゆっくりと育っているはずの感情だ。 確かめるべく、友雅は艶然と微笑むと吐息が触れるぎりぎりの距離まで唇を寄せた。 「私とお付き合い願えないかな?ああ…勿論恋人という意味だよ。そうすれば働かなくとも私の傍にはいられる…いいと思わないかい?」 「え…、友雅、さん…?」 「私も君と離れたくないのだよ。出来ることならずっと傍にいて欲しい。だが、まだ若い君には私の腕の檻は少し狭すぎるかもしれないね」 狭量だから、と付け加え、頬に触れていた手を外すと背中に腕を回して抱き寄せる。 椅子に座ったままの友雅と、立っているあかねの距離は常より近い。 まずは額にそっと唇を押し当てて様子を窺えば、茹で上がった蛸のように顔を火照らせて友雅を見詰めるあかねの瞳とぶつかった。 「狭くなんて、ないです…凄く大きくて、私…」 とくり、と胸が疼くように高鳴る。 こんなときでもあかねはあかねなのだと思い知らされるかのようだ。 「もっと、狭くてもいいくらい、です」 だから抱きしめてと言わんばかりに友雅にしがみつくあかねを、友雅はうっとりと蕩けるような表情をしながら甘く抱きしめた。 「ふふ、妙な心持ちだね。浮かれて仕事が手につかないかもしれないよ」 「私も、お皿を割っちゃいそうです。こんな…幸せで、いいのかなあ」 「まだまだこれから二人で幸せになるのだからね。このくらいで心配していてはきっと身が持たないよ…っと、時間切れだね。名残は惜しいけれど、続きは閉店後にしようか」 「え?」 ちらりと時計に目を遣ってからあかねを腕の中から解放し、友雅は豊かな髪をふわりと掻き上げてドアへと向かう。 まさか、とぎこちなくドアを見たあかねの目にはにやにやと笑う常連客の姿。 「無粋だね、全く。折角キス出来るかと思ったのに」 「き、キキキ、キスって、とも、友雅さん!?」 カチン、と錠の外れる音とともに、暇を持て余しているらしい常連客が雪崩れ込んでくる。 口々に「おめでとう」と祝われてしどろもどろのあかねに、友雅は緩く笑うと薄紫の紐で長い髪をひとつに纏めて括った。 「さて、冷やかしなら帰っていただくけれど…ご注文は私とあかねの惚気話かな?それともコーヒーかい?」 「と、友雅さん!」 「挙式はいつの予定なんだい、橘さん。あんたいい年なんだから、さっさとあかねちゃんを娶っちまいなよ」 「あ、あの、私たちまだそんなんじゃ…!」 「今日やっと赤の他人から恋人に格上げになったばかりでね。話をしようにも硝子越しに覗いてくる酔狂なお客様がいらっしゃるからそこまで話が出来なかったのだよ。私としては今すぐでもいいのだけれど…ねぇあかね。君はどうなの?」 意地悪く笑う友雅に、あかねは真っ赤になって「知りません!」と叫ぶとカウンターの上の皿とカップを片付けておしぼりと水を用意すべくさっさとカウンターの中へ逃げ込んでしまった。 「まだまだ色よい返事はいただけないようだね」 肩を竦め、あかねを追ってカウンターの中へと入る。 常連客が注文するのはいつも決まってブレンドコーヒーとトースト。 あかねがトーストを用意している横でお湯を沸かしてサーバーにドリッパーをセットした。 いつもの仕事風景の中、ちらちらと桜色の髪が視界を過ぎるたびに心が暖かく感じるのだから、恋というのは不思議なものだ。 「あかね、トーストが随分と香ばしい色になっているけれど」 くす、と笑って指摘したオーブンの中のパンは、こんがりと狐色を通り越して墨色になろうとしている。 「あっ、ご、ごめんなさい!」 慌てて新しいトーストを用意するあかねの耳は未だにしっかりと朱色を保っている。 まだ羞恥が引かないのだろう。 そして、その原因が近くでコーヒーを淹れているのだから落ち着かないのも無理はない。 意識されることがこんなにも楽しいことだったとは、と友雅は温めたカップにコーヒーを注ぎながら優しい笑みを浮かべた。 ちらちらと向けられるあかねの視線も心地いい。 恋人という、甘くくすぐったい響き。 そんなものに胸を弾ませる日が来るなどと、想像したことがあっただろうか。 (いや、あるはずもない…あかねだけだ) 心を揺らす情熱。 雪が溶けて春が訪れた世界。 桜の花がふわりと花開くように、恋が咲いた。 ずっと焦がれていた桃源郷の月が、友雅の手の中にある。 春の味がするコーヒーの匂いがふわりと漂う店内―――雪月花。 名の通りの幸いを全て手に入れて、店主の男は幸せそうに秀麗な顔を綻ばせていた。 -終- |
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Lost Heaven / 柚季 様 |