櫻唄−さくらうた−

= 春 =



−2−


次の日も、また次の日も。


 友雅が作業を始めるといつの間にかあかねが現れ、時にとりとめのない話をし、時にはただ黙って
友雅の作業を見つめていた。そうしていつの間にかその姿を消しているのだ。

 どこに住んでいるのか、普段は何をしているのか。さりげなく探りを入れてもあかねは一切応えない。

最初に日に『学校は?』と聞いて以来、友雅が説教じみたことは何も言わないからか、あかねは次第に友雅に懐いてきたようだ。すぐ隣で作業を覗き込んだり、この年頃の少女らしい、生意気で穿った物言いをしたり。
子どもに限らず、親密な人付き合いはどちらかといえば避けている友雅も、あかねが現れるのをいつの間にか心待ちにするようになっていた。

 春先の薄曇りから青空が覗くような笑顔が心を浮き立たせてくれる。
手を尽くした植物がやっと迎えた芽吹きのような愛おしさ。

いい年をして、と苦笑しながらも間もなく終わる仕事と共に終わりにしてしまうには惜しい、と思えるほど友雅はあかねとの時間を楽しんでいた。

 そうして少女が何かの拍子にふっと見せる、ひどく人間離れした、まるで桜と同化してしまいそうな儚げな風情が、さらに友雅を引きつけるのだ。




 まさかあの桜の木の精、とかいうのではないだろうね?




少女のあまりに生活感のない雰囲気と、昔ながらの伝承がそのまま息づいているかのような村の佇まいに感化されているのだろうか。
 自分でもまさかなと思いながらも埒もない考えが頭をよぎる。

「高校生くらいの女の子・・・?ああ、元宮さんとこのお孫さんでしょう。」

漸く得られた情報は噂好きの宿の若女将からだった。

「元宮さんの息子さん、街で大学の先生をしてらっしゃるんですよ。」

いつものように夕食の給仕をしながら、女将は立て板に水で話し続ける。

 社会的地位の高い父と育ちの良い母。
出来のいい兄。
あかね自身も小さい頃から私立の進学校に入れられて。
絵に描いたように恵まれていた家族の歯車が狂い始めたのは昨年、あかねが中学3年になった頃から。
いわゆる『燃え尽き症候群』だろうか。 それまでは成績も良く、教師からももちろん両親からも
文句なしの『いい子』だったあかねが突然全てを投げ出した。

 学校も休みがちになり、授業にも身は入らず。
 クラスメートとの連絡は途絶えがちになり。
誰かと出かけることはなくなり、いつも一人でぼんやりと庭の桜の木を眺めていた。
ひょっとして学校でいじめられているのか、何か悩みがあるのかとの周りの声にもただ首を振るだけ。
当然成績は急降下で、なんとか付属先の高校に入れたのはそれまでの積み重ねによる貯金があったからに過ぎない。
 進学先の高校でもあかねはクラスに馴染まず、授業もおざなりだ。
欠席も多く、本来なら進学のための補習授業があるはずのこの時期、匙を投げた父親によって、父方の祖父母の家に預けられているのだ、と。

「でも元宮のおじいちゃん達ももうお年ですしね、この村には年の近い子たちもいないし、ひとりでぶらぶらしてるみたいですよ。・・・・お茶、もう一杯ですか?」



過剰サービス気味の夕食と入浴を済ませ、友雅は宿の浴衣をだらしなく着崩したまま、窓に腰掛けて夜空を見上げる。
明日辺り満月だろうか。真円に近い月にはうっすらと霞がかかり、強い銀光を和らげている。
この宿からはあの桜は見えない。
だが、友雅はふと、家族からも友人からもはじき出されたあかねが、一本だけ花をつけないあの桜の下でぽつんと佇んでいるような気がした。




◇◇◇




 花の盛りはまだ先だが、何本かの桜は蕾を綻ばせている。
気の早い花見客たちが花の香りを楽しみながら散策しているのを見下ろして。
 『白妙桜』の周りには、今日は珍しくいくつもの声が飛び交う。

「そう、そこからここまでだ。根を必要以上に傷つけないよう、細心の注意を払うようにね。」

一通り地元の造園業者に指示をして、友雅は振り向いた。意識せずに笑みが浮かび、そちらへと足を向ける。

「やぁ、おはよう、桜の姫君。今日はずいぶん控えめだね?」

桜から離れた常緑樹の陰から作業を窺っていたあかねに友雅は笑いかけた。

「・・・・・何をしてるの?」

桜の根元でシャベルを振るう男たちが気になるのだろう。
可愛らしい眉をひそめていささか剣呑な目つきで友雅を見上げてくる。
その眼は『私の桜に危害を加えるなら容赦はしない』というメッセージを明確に伝えてくる。
自分の無実を主張するように男は両手を広げて肩をすくめた。

「治療だよ。・・・あの部分にね、」

と、友雅は顎をしゃくって見せた。

「カビが見つかったんだ。樹木につく独特のカビでね。取り除かないと、木全体を侵してしまう。
・・・そう、言ってみれば、ガンのようなものだね。」

菌に冒された根を最小限で切り取る。
本当は安全のためには大きく切り取りたいところだが、根が少なくなれば木が弱る。
周りの土ごと取り除き、発根を促す有機土壌改良材を注入して一年様子を見ることにした。

「上手くいけば来年、少しくらい花が咲くかも知れないね。」
「・・・・花を咲かせるのが、そんなに大事?」

あかねらしくない、固い声に友雅は俯いてしまった少女の顔を覗き込んだ。

「───────────  あかねちゃんはこの木に・・・・咲いて欲しくないの?」
「私はっ・・・・!」

傷ついた、苦しそうな顔で何か言いかけ、まるで喉が詰まってしまったかのように言い淀む。
言いたいのに、言えない。
呼吸まで止まってしまったように荒い息をつく少女の肩を、友雅は宥めるように撫でる。



───────また、だ・・・・。




 ふっとあかねの瞳から光が消えた。

「あかねちゃん・・・?」

探るような男の声に、あかねがゆっくりと顔を上げる。
だがその表情は彼が見慣れた快活な少女のものではない。むしろもっと大人びた、女の顔。

『────あなたもただ、花を求めるのですか・・・・。花を咲かせない私には、もう何の価値もない、と・・・?
だから還ってきてはくださらないのですか・・・?』

友雅は眉をひそめた。声は確かにあかねのものだ。
だがその口調も内容も、およそ日頃の少女のものからはかけ離れていて。
少女の肩に置いた手に力を込める。

「あかねちゃん、こっちを見なさい。──────  君は、どこにいるんだい?」

ふっとあかねの身体から力が抜ける。意識を無くし、倒れかかった少女の身体をしっかりと抱きしめて。
友雅は空に大きく腕を広げたしだれ桜を見上げる。まさか、と思いながらも思わず言葉が口をついて出た。

「・・・・・今、私に話しかけたのは、君なのかい?」

桜の枝がざあっと強い風になびいた。

「おーい先生!雲行きが怪しい。風が強くなるかも知れねぇから、そろそろ引き上げよう!」

手早く作業を済ませ、業者たちが去る頃にはあかねは意識を取り戻していた。

「大丈夫?どこか具合の悪いところはない?」

自分を膝に横抱きにするようにして微笑む友雅に、あかねは狼狽える。

「だ、大丈夫!でも・・・・え?何があった・・・んだっけ?」

友雅の目が眇められた。どうやらあかねは自分の行動を覚えていないようだ。




・・・・魅入られた、のかもしれないね・・・・。




友雅は迷信深い方ではない。
だが、数百年、時には千年を超えて生きる大きな命を相手にする仕事なのだ。自然に対する畏敬の念は深い。
不思議な、現代科学では説明のつかないことがこの世の中にはあるのだということも認めている。
慌てて男の膝から飛び降りようとする少女を一瞬ぎゅっと抱きしめると可愛らしい頬が桜色に染まる。

「友雅さん!」

じたばたと藻掻く少女に逆らわず開放してやりながら友雅はくすくす笑った。

「あのね、あかねちゃん。私の仕事は今日でとりあえず終わりなんだ。明日には帰ることになっている。だから・・・。」

少女の顔がみるみる強ばっていく。

「あかねちゃん?」

引き寄せようと握った手はぱしん!と弾かれた。

「・・・・・勝手に帰ればいいでしょ!どうせ友雅さんだって、自分の都合しか考えてない、他の人とおんなじなんだから!」
「あかねちゃん!待ちなさい!」

友雅の制止を振り切って、あかねはあっという間に走り去った。
後を追いたかったが、次第に強くなる風に、処置後の養生について指示しなければならず、内心友雅はほぞを噛んだ。



 あかねが『見捨てられる』ことに敏感になっていることは予想がついたのに。
あんな切り出し方をするべきではなかった。
『白妙桜』の枝が風に翻弄されて宙に舞う。
乱れ狂うその姿がきっと友雅にも捨てられるのだと思いこんだだろう、あかねの心のように見えて、友雅はやりきれない思いでただ、細い枝を見つめていた。



◇◇◇




風は夜になるとますます強くなった。
サッシなどない、昔ながらの宿のガラス戸は時折強く吹き付ける風にがたがたとその身を揺らす。

「この時期にはたまにこういう天気があるんですよ。」

最後の晩だから、と宿では随分豪華な夕食が供された。

「もうお仕事も終わりなんだから、少しくらいいかがですか。」

そう勧められれば酒も断りにくい。
ひっきりなしの騒音には辟易させられたが、女将のおしゃべりも今日で最後だと思えば多少は友雅も気が楽だ。

「世話になりましたね。女将さんも一杯いかがです?」
「あらまぁ!いいんですか?じゃぁ少しだけ、ご相伴に預かっちゃいましょうか!」

待ってましたとばかりに予め用意されていた予備のお猪口を女将は嬉々と差し出した。

苦笑しながらも二杯、三杯と杯を重ねさせ、女将の僅かばかりのプロ意識も薄れてきた頃に男はさりげなさを装って切り出した。

「そういえば、先日言っていらした元宮さん、お住まいは近くですか?」
「元宮さん?ああ、谷向こうですねぇ。」
「電話番号は分かりますか?・・・次の依頼先が、息子さんが勤務されている大学の近くなんですよ。
是非話を伺いたいので、連絡先を知りたいのですが。」
「まぁ、そうなんですか!はいはい、すぐにお持ちしますね。」

自分の半分ほどの年の少女の連絡先を知りたい、などと言えば昔ながらの意識の強い小さな村のことだ、元宮の家も、何よりあかねが何と噂されるか分かったものではない。
疑われなかったようだ、と友雅は小さく息をつく。もっと早くあかねの連絡先を聞いておくべきだった。
彼女がいつまでこの村にいるのか分からない。そして自分も、次はどこへ行くのか分からない。
だが、これで終わりにしてしまいたくないのだ。あの少女との心地よい時間を。




 それに・・・・・やはり少し気になるね、あの桜があの子にちょっかいを出しているのなら・・・・。




友雅が銚子を一本手酌で空けた頃、女将が紙片を手に戻ってきた。その顔はどこか戸惑っていて。

「どうかしましたか?」
「いえ、ねぇ・・・・。ああ、お待たせして申し訳ありませんでしたね、これ、息子さんの家の電話番号ですわ。」
「・・・ありがとうございます。」 

友雅は内心舌打ちをする。知りたいのは父親の電話番号ではない。
あかねが今滞在している、祖父母の家の電話番号だ。気を利かせすぎた女将に、しかし友雅は首を傾げた。

「何かあったんじゃありませんか?」
「あら、いえ、たいしたことは・・・。実は、お孫さんがおうちにいらっしゃらないそうなんですよ。」
「あかねちゃんが?!」

思わず大きな声を上げた友雅に女将が驚く。
桜の側で高校生くらいの女の子を見かけたが、と友雅が女将に話したのは一度だけだ。
それが元宮の孫娘だとは話したが、どうしてこんなに驚いて、しかも親しげに名前を呼ぶのだろう?

「こんな時間にどうして・・・!いつからです?」

すでに夜の八時を回っている。街と違って村では夜も更けた時間帯だ。
ましてや今夜は早春の嵐。外を歩く者などいるはずがない。

「あ、あの・・・元宮のおばあちゃんももうお年ですし、いつ出て行ったか分からないそうなんですよ。
ご飯を食べに来ないこともよくあるそうなので、気にしなかったらしくて。
お風呂をどうするのか聞きに行ったら部屋にいなかったとかで。」

 今度こそはっきりと友雅は舌打ちをする。

昼間のあかねは明らかに普通ではなかった。さらに別れ際のやりとり。
単に年頃の娘が拗ねて一人になりたがっているでは片付けられない、嫌な胸騒ぎがした。

「誰か探しには出ているのですか?警察に連絡は?」

問いながら立ち上がる友雅に女将の目はさらに丸くなる。
元宮の孫娘が少々難しい年頃で、祖父母の悩みの種であることは村の評判だ。
部屋に籠もったり、一人でふらふらしていることはよく聞く話。
確かにこんな夜に出掛けたという話は初めてだが・・・。

「一応、うちの若い者に様子を聞きに行かせましたけど。でもあの、難しい年頃の子ですしね、あまり大騒ぎするとかえって気まずいこともあるでしょうし。大丈夫ですよ、この村には若い娘が一人でふらふらしてたって悪さするような者はいませんから!」

 なんとか友雅の気を納めさせようと女将はわざとらしく声を明るくするが、友雅は全く耳を貸さない。
続き部屋へ引っ込んだかと思うと、女将のセリフが終わる頃には昼間と同じ格好で出てきた。

「こんな天気の夜に女の子が一人で出歩いて大丈夫、何てことありえませんね。私もその辺りを探してみます。
何か分かったら私の携帯に連絡を下さい。」

あまりの剣幕に女将はぽかんと口を開けたまま頷いた。



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夢見たい / koko 様