櫻唄−さくらうた−

= 春 =



−3−


ジャケットの前袷をきっちり締めて、友雅は宿で借りた懐中電灯を片手に外へ出る。
思わず怯んでしまうほどの、風。しかもまるで台風のようにひっきりなしにその風向きが変わる。




あの、桜だ。




何故か確信していた。
ぼんやりと足下を照らす頼りない灯りだけで、友雅はこの数日毎日通った細い道を辿る。
 村落を抜けるとますます風は勢いを増した。友雅の髪が風になぶられ、耳元で風が唸る。
ネオンなど皆無、外灯も数えるほどしかない村だ。
 本来なら満月であろう夜空は雲が急かされるように流れていく。
時折薄くなった雲の間から銀色の光が覗くが、たいていは自分の手もはっきりしない暗闇だ。



舗装された道から石畳のアプローチに入った。
観桜公園の看板だけが白く浮かび上がっている。その、はるか奥。
なだらかな丘陵のてっぺんに、濃い灰色をバックに、闇よりさらに黒くそびえる姿。
昼間の穏やかな姿と違い、風に揺さぶられ大きく広げた枝を揺らす様はまるで怒り狂う魔王のようだ。

「あかねちゃん!どこだ、返事をしてくれ──────あかねちゃん!」

友雅の声が風にかき消される。
 闇に目をこらし、時に足下を草地に取られながら、友雅は丘を駆け上がる。

「あかねちゃん!」

黒くごつごつした幹の根もとに、白くわだかまる姿。
柔らかな桜色の髪が独立した生き物のように舞っている。
 見つけた安堵のため息と、一見して普通ではない様子への焦燥。
柵を乗り越える手間すら惜しい。

「あかねちゃん、大丈夫かい?しっかり・・・・。」

手を伸ばし抱き起こそうとした、その時に。
ゆっくりと白い姿は起き上がる。

「あか・・・・!?」

肩のあたりで切りそろえられていた髪がまるで天に昇る竜のように渦を巻いて宙へと伸びる。
白いワンピースの袖がはためき、友雅の腕を撫で上げた─── まるで着物の袂のように!
見えない糸に操られるように立ち上がると、ゆっくりとその顔を上げる。

うつろな、瞳。明らかに普段の少女とはかけ離れた外見。
2メートルほどの距離を置いたまま、友雅は厳しい目を向けた。

「───────君は、誰だ?」

桜の細枝が少女を包むように囲い込む。

「あかねちゃん!─────その子を離せ!何のつもりか知らないが、その子を
巻き込むのは止めてもらいたいね!」

ゆっくりと少女の唇が動く。

『・・・・・なた・・・・・。・・・・っと・・お・・・・ちして・・・・ます・・・のに・・・・ど・・・して・・・・。』

ひび割れた、生気のない声。いつもの鈴を転がすような少女の声とは似ても似つかない。

「誰を?君は誰を待っているのだい?」

じりじりと近づきながら、友雅は何とか穏やかに話そうと苦心する。
本当は今すぐ飛びついてあかねをここから引き剥がしたい。
だが、おそらく『何か』に憑依されてしまっているあかねを一時的にここから引き離しても、
根本的には何の解決にもならない。

『あなた・・・・きっと還ってくると・・・・言ってくださったのに・・・・』

不意に視界が歪んだ。
思わず一瞬目をつぶり・・・・再び目に映ったのは、2本の桜。
紅色の花を美しく纏った今より若い桜の木に、寄り添うように別の桜の木が、佇んでいる。
2本の枝は互いに手を伸ばすように絡み合い、まさしく『夫婦桜』だ。
穏やかな春の日に枝をそよがせ、友雅も一瞬今がどういう状況かを忘れて微笑みそうになる。
だが次の瞬間、世界は一変した。
先ほどまでと同じ、暗闇の中に荒れ狂う風。
いや、先ほどの数倍の風が唸り、すさまじい咆吼をあげる。
 風を遮るものもない丘の上。2本の桜はただ為す術もなく風に翻弄される。
前触れもなく風が牙を剥いた。竜巻のように渦巻き、桜を襲う。
片方の桜が風に枝をもぎ取られ、幹を縦に引き裂かれ。
生木を裂かれる音はまるで悲鳴のように友雅の頭蓋に響いた。

もう一本の桜にはほとんど傷を負わさず渦は去る。
それは自然の不思議な選択ではあるが、まるで倒れた桜が自分の連れ合いを
我が身を呈して守ったように見えた。

『・・・・守って・・・・くれたのです・・・・私を・・・・でも・・・。』

友雅の心を読み取ったかのようにあかねの姿をした女が言葉を継ぐ。

『・・・あなたは・・・・逝ってしまった・・・・・私をおいて・・・。』

あかねの頬を、赤い涙が伝う。それは風に乗ると真っ赤な花びらとなって闇に消えていく。
後から、後から。血の涙は途切れることなく流れ続ける。それは残された桜の心が流す、血。

『いつか必ず戻る、と・・・・・別の命に姿を変えて・・・・必ず私に元に戻るから、と・・・・。』

そういって、この桜の番(つがい)はその命を散らした。
残された桜はひたすらに、待ち続ける。
自分を愛し、守ってくれた連れ合いがその姿を変えて戻ってくるのをただひたすらに。

 春の蝶になるのだろうか。 

    夏のツバメになるのだろうか。

       秋のトンボに、あるいは別の植物に?

夏の日差しを受けて葉を茂らせ、秋には葉を落とし、冬の寒さに耐えて春には花を咲かせて。
たったひとりで立ち続け、いつの間にか花の色は褪せた。
伸びやかな幹は硬くて皺だらけの厚い皮に覆われた。
 優しい雨を全身に浴びて伸びやかに深呼吸することも出来なくなった。

 老いは、全ての命に訪れる。


 もし、あのひとが還ってくる前に、この命がつきてしまったら。


二度と会えない、恐怖。
少しでも長く、待ち続けるために。

桜は花をつけることを止めた。

もっとも生命力を使う、花。それは次代へと命をつなぐためのもの。
 けれど、桜の望みはその命を次へつなぐことではなかった。

会いたい。

会いたい。

会いたい。

あのひとにもう一度、会いたい。共に日を浴びて、共に風になびき、共に雪の衣を纏って。
誰に褒められるより、あのひとに花を見てもらうことが嬉しかった。
あのひとが側にいて、私をずっと見ていてくれないなら、花なんていらない。

 

花をつけなくなった桜に人は見向きもしない。蜜を求める蝶も、鳥も、来ない。




 私は花を求められるだけの存在なの? 咲くことを止めた私は、誰からも求められないの?




「────パパやママの望むいい子でない私は・・・・要らないの?」
「あかねちゃん?」

女の影が時折ゆらりと揺れ、本来のあかねの姿とダブる。
生意気な攻撃性はなりを潜め、置き去りにされた幼子のような寄る辺ない瞳。
友雅は思わず駆け寄り抱きしめた。

「そんなことはないよ、あかねちゃん。私がいる。私は君を必要としているよ?」

あかねの瞳は友雅を映さない。その瞳からは再び光が失われた。
友雅は少女の身体を抱きしめる腕に力を込める。

「あかねちゃん、私の声が聞こえるかい?あかねちゃん・・・・あかね!」

これほど応えて欲しいと強く願ったことなどあったろうか。
揺さぶり呼び続けると、再び微かな感情の揺らぎが若葉の瞳に戻ってきた。

「あかね!戻っておいで、あかね。私はここだよ?」

血の気の失せた唇が微かに動く。

「何?あかね、聞こえないよ、もう一度!」

唇に耳を寄せると、微かな囁きが耳朶をくすぐる。

「友雅さんも・・・・行ってしまうんでしょ・・・・?」

友雅は一瞬目を瞠り、唇を噛んだ。やはり少女は傷ついていたのだ。

「友雅さんだって、花だけが目的でしょ?花を咲かせるために来て、用が済めば帰ってしまう。
私の事なんて・・・・・どうでもいいんでしょう・・・・?」

ぽろぽろと溢れる涙は血の色ではなく少女の悲しみのままの透明で。
風に飛ばされると真珠のように煌めいた。儚い煌めきは後から後から溢れ続ける。
少女の目尻に唇を寄せ吸い上げると、真珠は微かに甘かった。

「違うよ、あかね・・・私は君をどうでもいいなんて思っていない。
ちゃんと言うつもりだったのだよ、この仕事が終わってもまた会いたいと。」

すっかり冷たくなったその頬に自分の頬をすり寄せる。
少しでも凍えた少女の心に温もりが戻るように。
だが少女の心には彼の言葉は聞こえていないようだった。

「パパもママも、私がテストでいい点を取ってお兄ちゃんみたいにいい学校へ行くことだけを
望んでる。私の話なんか聞いてくれない。
だんだん何のために勉強するのか分からなくなって・・・・苦しくて、でも私が勉強しなくなったら・・・・『そんな子はうちの子じゃない』って・・・私は、いい点を取るためだけにいるの?
勉強しない私は、要らない子なの?
こんなに苦しいのに・・・・こんなに辛いのに、何も出来ない私に価値はないの?」

 再び少女の姿に別の女の姿が被る。

『みんな、花が見たいだけでしょう?私でなくても良いんでしょう?だからあのひとも還って来てくれないのでしょう?花を咲かせられない私は・・・・』
「『私は・・・誰にも必要ないの!』」

2人の叫びに桜の軋みが重なる。

「あかね!」

友雅はぐっとあかねを抱きしめた。堅い。まるで木の幹を抱いているかのようだ。
構わずその唇に自分の唇を重ねる。強く押しつけ、堅く冷たいそこをぺろりと舐めた。

「私がいるよ。」

うつろな瞳の目尻に、こめかみに、額に口づけを落とす。

「私だって、大したことが出来るわけではない。樹木医と言ったって、結局木が自分で自分を
癒す手助けをするだけだ。いや、私だけではないよ。
人は誰しも、それほど重い役割を背負ってなどいない。どうしてもやらなくてはならない使命
などありはしない。辛かったら逃げて良いんだよ、あかね。」

 再び唇を合わせる。微かに温もりが戻っているように思えるのは気のせいだろうか。
乱れた前髪をそっと指で掻き上げてやって。

「だけどね、だからこそ、ちょっとしたことに喜びを感じられるのではないかい?
木が若芽を出しているのを見つけただけで・・・誰かが少し優しい言葉を掛けてくれただけで、
ほんの少し、幸せになれる。それだけではいけないの?」

繰り返し撫でる頬にゆっくりと、血の気が戻ってくる。
友雅は慈しみに満ちた眼であかねを見つめた。

「私はあかねと話をしていて楽しかったよ?君が隣にいるだけで、一人でいるよりずっと
心が温かくなった。それでも君は、何も出来ない、必要のない存在だというのかい?」

少女の目からまた、涙がこぼれた。だがそれは先ほどよりもずっと温かな涙だった。
 あかねを片腕に抱いたまま、友雅はそびえ立つ桜の幹に手を添える。

「・・・君もね・・・何百年も生きる君から見たら、人はあっという間に消えてしまう儚い命
だろうけれど、君を見るだけで、私たちは心が温かくなる。
確かに多くの人は、君の花しか見ないかもしれないけれど・・・・私は、君がその花を咲かせる
ためにとても力を尽くしている事を知っているよ?君が人知れずがんばった証だからこそ、
その美しい花を咲かせるところを、見たいと思うよ。それだけでは、君の孤独は癒せないかい?
どうしても、君の恋人にしか、花は見せたくない?」

 強い風がざぁぁっと友雅を取り巻くように渦巻き、どこかへ吹き抜けていく。

『・・・・・ああ、あなた・・・・還ってきてくれたのですね・・・・・』

そんな声を聞いた気がした。




◇◇◇




翌朝。
特大の春の嵐は随分あちこちに被害をもたらしていったようだが、幸い観桜公園には取り立てて被害と呼べるようなことは起こらなかった。

むしろ『奇跡』と呼べるような出来事のおかげで村役場は大騒ぎだ。
間もなくここに大挙して人が押し寄せてくるだろう。

 その前に少しだけ、我々だけで楽しもうか、と。

友雅とあかねは並んで立って、何年ぶりかで花を、それも一夜にして咲かせた『白妙桜』を
眺めていた。

「きれいだね。」
「うん。」

友雅は横目であかねの表情を覗う。
まっすぐな迷いのない目で嬉しそうに桜を見つめている。初めて会ったときからずっと少女に
まとわりついていた、春霞のような気配は僅かも残ってはいなかった。

 ここにいるのは年齢に相応しい、快活な少女だ。

 結局、この子にはあの桜が憑いていたのだろうか。
連れ合いに会いたいと願うあの桜の思いと、家族に愛されたいこの子の気持ちが同調して?
それとも・・・。

 友雅は肩をすくめた。
専門外のことに首を突っ込むのは止めよう。自分は咲かない桜を診に来た。
そして桜は咲いた。それで、いい。
 じぶんもあの桜に囚われかけていたかもしれない、などと考えても仕方のないことだ。
もう桜は啼いたりしないだろうから。

だが、もしあの伝承が本当なのだとしたら、疑問が一つ残る。

「・・・・・結局、花は白いままだねぇ。」

まだ桜は悲しみに沈んでいるのだろうか?まだ還らぬ連れを想っていると?
首を傾げる友雅にあかねはちょっと目を瞠り、キッパリという。

「良いのよ、白で。」
「そうかい?」

さぁっと温かな風が吹き、白い花弁を巻き上げる。

「そう、いいの。やっぱり友雅さんってオジサンね!そ〜んなことも分からないの?」
「わからないねぇ。」

花びらを追うように、あかねはくるくると廻りながら丘を下る。
苦笑しながらもぶらぶらとその少女を追う。
あかねが立ち止まり、友雅に向かっていたずらっぽく微笑んだ。

「花嫁衣装は白って決まってるでしょ!」

今度は友雅が目を瞠る番だった。
白い花びらはまるで打ち掛けの袖のようにあかねの周りを舞う。
自分が魅せられているのはその花の舞か、それとも思いがけない大人の顔を垣間見せた
少女の方か。
ポケットに手を入れ、ゆっくりと坂を下りながら、友雅はじっくり考えてみることにした。




 櫻の唄が、聞こえる。








 「桜の花が出てくる(たまには)しっとりした話」を目指すはずが、中途半端な作品になってしまいなんともお恥ずかしい限りです。甘さもほとんどないし、友雅さんがいつも以上に(?)オヤジ臭いし。やっぱ「あかねちゃん」と呼ばせたのが敗因か・・・。でもきっとこの後はラブラブになったはず!と信じて(汗)、読み流してやってくださいませ・・・。
夢見たい / koko 様