櫻唄−さくらうた−

= 春 =



−1−


────── 待っています。あなただけを、ずっと、ずっと。

  きれいな花をみんなに褒められなくても、いい。

         ただ、あなたが側にいてくれれば、それで良い──────── 




櫻唄-さくらうた-




  ふもとの桜はそろそろ7分咲きだというのに、この公園の桜はどれもまだ蕾だ。
やはり標高があると違うねぇ、と呟きながら男はずり落ちかけたショルダーバッグを背負い直す。
見渡す限り、という表現が相応しい桜の園。ソメイヨシノ、エドヒガン、しだれ桜。

趣の違う桜をゆったり散策しながら見て回れるように工夫されたこの観桜公園は、花の時期には県外から観光バスのツアーが来るほどの桜の名所だ。

 だが、この数年、村の観光窓口職員の顔色は冴えない。

「あれか・・・・なるほどねぇ・・。」

 一番奥の丘の上に一際立派なしだれ桜の木がある。
左右に大きく袖を広げたような姿はこの公園のシンボルだ。



 男は樹齢500年ともいわれる老木の下までやってきた。

ぐるりと周りを囲んだ柵。立てられた看板には『白妙桜』の文字と、その由来が書かれている。
その看板には見向きもせずに、男はひょい、と柵を乗り越え桜に近づいた。

「入っちゃダメなのよ。」

思いがけず若い声を掛けられて男は辺りを見回す。
ごつごつした太い幹の向こうから、一人の少女が顔を出した。
肩の上ですっぱりと切り揃えられた紅桜色の髪。年の頃は15,6だろうか。

「桜を傷めないように、柵から中には入っちゃダメなの。いい年した大人なんだから、そのくらい分かるでしょう?」

 眉を顰め、「大人なんだから」と言いながらもその口調はまるで小さな子どもに言い聞かすようで。
男は思わず笑った。

「そういう君も、さっきから柵の内側にいるようだけど?」
「私は良いの。特別だから。でもあなたみたいな大きなオジサンがのしのし歩き回ったら、根っこが痛むわ。
それにほら、頭が枝に触ってる!」

しだれ桜の細枝は、長いものは地面にまで届くほどだ。
触らないようにするには確かに柵の外にいるしかない。

「手厳しいねぇ。しかし、オジサンはないだろう?私はまだ31だよ。」
「十分オジサンだわ。どうでも良いけど早く出て!」
「用が済めば退散するよ。今日はザッと様子を見るだけのつもりだからね。」
「様子?何の?」
「この桜のさ。私は樹木医なんだよ。」

少女が首を傾げた。

「じゅもくいって何?」
「木のお医者さんだよ。この桜はもう何年も花を付けないそうだね。
村の観光の目玉を無くすわけにはいかないと、役場のオジサン達に頼まれたのさ。
病気なのか、年のせいか・・・・花を付けない原因を探し出して、対処する。また花を咲かせられるようにね。」

 そう言いながら男は木の根本まで来ると、静かにバッグを降ろす。

取り出したのはメジャー。
基本的なデータは依頼を受けたときに貰っているが、自分の目で確認するのが彼の流儀だ。
 手慣れた様子で幹周り、主要な枝までの高さを計測し、更に根の張り具合などを確かめる。

それをじっと少女は見ている。

「無駄よ。」
「何がだい?」

少女の素っ気ない言葉に、男は作業の手を止めずに問い返した。

「この子は花を『咲かせられない』んじゃなくて『咲かせない』んだもの。お医者さんでも直せないわ。」

男は土のサンプルを採ろうとしていた手を止め、初めてじっくり少女を見た。
気の強そうな、だがどこか不安定な光を宿した若葉の瞳。じっと痛みを堪えるようにごつごつした木を見上げている。



 木が、花を『咲かせられない』のではなくて『咲かせない』?自分の意志で花を付けないでいる、と?



「・・・・・何か、知っているのかい?」

男の声に促されるように、少女は語り始めた。

「・・・・・どうしてこの木が『白妙桜』と呼ばれるか、知ってる?」

昔、京の都からふらりと村にやってきて住み着いた、一人の貴族と若い女性。
さぞ身分のある貴族だったろうに、村はずれの小さな庵で特に不自由そうでもなく暮らしたという。
仲睦まじい2人が庭に植えた2本の紅しだれ桜は、年月を経て2人が亡くなり庵が朽ちた後も、
まるで2人の化身のように寄り添って毎年紅色の花を咲かせ続けていた。

 が、今から150年ほど前、大きな台風がこの地方を襲い、しだれ桜の一本が倒れてしまった。
今なら何とか助けてやることも出来たろうが、当時はその技術も余裕もない。

 たった一本残された桜は、いつの間にか白い花を付けるようになった。
左右に枝を張り、花枝をまるで着物の袖のように垂らすその姿は、還らぬ夫を待つ女性のようにも見えて、
誰ともなく「白妙桜」と呼ぶようになったのだ。

「・・・・・その有名な『紅』しだれが、『白い』花を付けなくなった、と。」
「そう。もう何年も、葉は茂らすけれど花は付けない。」

男は桜のごつごつした幹をそっと撫でる少女をじっと見た。

「・・・・・・何故?」

ゆっくりと少女が振り向いた。木の陰になっているからか、明るい若葉の瞳の奥に暗い翳りが見える。
表面上は何ともなくても、幹深くに病巣が巣くっている木のような。

「・・・・この子は待っているの。」
「待っている?」

何を、と問いかけようとした途端、突然強い風が吹いてきて男は思わず目を閉じた。

『あなたは、違うの?』

え?と顔を上げた時、既に少女の姿はどこにもなかった。



◇◇◇



 村の旅館の一室で。男は心づくしの素朴な料理を堪能していた。給仕しているのは宿の若女将だ。

「・・・じゃあ、あの桜はあなたが小さい頃には花を咲かせていた、と?」
「ええ、まるで雪が降ってるかと思うくらいきれいな花びらが風に乗って。きれいでしたよ。
・・・・・ご飯のお代わりはいかがですか?」
「ありがとう。もう、結構です。・・・・では、咲かなくなってしまって寂しいですね。」
「そうですねぇ。でも、もうあの桜もいい加減寿命でしょう。年より連中は何かというと大騒ぎしますけど、仕方ないんじゃないですか?他の桜もきれいに花を付けてますし・・・おみそ汁、もう一杯いかがです?
具の菜の花は、私が育てたんですよ。」

 些か過剰なサービスに男は苦笑する。元々そう食べる方ではないのだ。

「いや、もう十分ですよ。ごちそうさま。さて、ではさっそく色々調べさせていただきますので、下げてもらえますか?」

まだまだ話足りなさそうな女将をにっこり笑って下がらせて。
男は採集してきた土壌サンプルなどを取りだした。

その夜。

彼は夢を見た。あの丘の上に女が一人立っている。
昼間の少女のようにも見えるし、もっと髪の長い別の女のようにも見えた。
辺りは雪が降っていて・・・・違う。桜だ。

 白い桜の花びらがまるで雪のように辺りを埋め尽くし、舞っている。
 ただ黙って立ちつくす、女。その女が、顔を上げ、彼を見た。その唇が動くのが見えた。



 還ってきてくれたの?



 声なき声が彼の脳裏に響く。縋るような、声。何のことか分からずに思わず一歩近づこうとして────
────── 目が、覚めた。
部屋の真ん中に敷いた布団。昔ながらの木枠の窓から差し込む朝日が目に痛い。




 妙な夢だな・・・・・・昨日のあの子の話に影響されたかな?




 夢の残滓を振り払うように少し癖のある長い髪を掻き上げ、男は少女の名を知らないことに気が付いた。

 まぁ、もう会うこともないだろうしね・・・・何がこんなに気に掛かるのやら。

ふっと笑って起きあがる。今日はあの桜が病気になっていないか、調べなければ。



◇◇◇



こんこん、と幹を叩き、耳を寄せて音を聞く。
樹皮の下で腐ったり病気になっていれば音の違いで分かるのだ。

ざっと見る限り、幹には病気や傷はないようだ。
樹齢500年という伝承がどのくらい当てになるモノか分からないが、少なくともこの桜は二百年は経っている。
ただでさえ桜は傷に弱い。年を取っていればさらに傷や病気に抵抗力がないのは当たり前だ。



 取り敢えず地上部分は問題なし、と。




 次は地中の根を調べよう、と。別の道具を取り出しながら、男は口を開いた。

「随分君はこの桜が気になるようだね。」

いつの間にか幹の反対側に昨日の少女がもたれるように立っていた。
近づいてくる気配は感じなかったのに。不思議に思いながら男は立ち上がる。
なるべく根を傷つけないように土の中の状態を調べなくてはならない。
昨日のサンプルを見る限り、少しこの土は栄養が不足しているようだ。

「まだ春休みには早いと思うのだけどね。学校はどうしたの?」

地面から盛り上がった根の向きから、地中での根の張り具合を予測する。
少女の大仰なため息が聞こえた。

「オジサンって、誰でも同じことしか聞かないのね。私が学校へ行かないとオジサンに何か迷惑が掛かるの?」

『オジサン』を連呼されて男もまた、ため息をつく。

「オジサンではないと言っているだろう?私は橘友雅というのだよ、生意気なお嬢さん?」

顔を上げると思いがけず近いところに少女が立っていた。互いの瞳をのぞき込めるほどの距離に。
 その瞳は昨夜の夢の女を思い起こさせる。どこか霞むような、焦点をなくした瞳。
『タチバ・・・ナ・・・・・やはり・・・樹木を選・・・・ばれた・・・のですね・・・・。』

虚ろな、しかしどこか嬉しそうな声。

「君?」

訝しげに問いかけると、はっと少女が目をしばたいた。

「何?」

 もう先ほどの茫洋とした様子はない。友雅は肩をすくめた。

「随分ぼぉっとしているようだね。寝不足かい?」

少女の頬がさっと赤くなった。

「・・・・眠れないのっ。別に夜遊びなんか、してないわ。」

誰かに夜遊びしているとでも言われたのだろうか。ムキになる、年頃らしい言動に友雅はくすくす笑った。

「どうして眠れないの?」

細い管を地中に差し、手応えを確かめながら自然に問いが口をついた。
黙々と作業を進めながら、友雅は内心驚く。
 こんなふうに誰かのことを気に掛けることなど滅多にないのに。
ましてやこんな年の離れた子どもとなど、話をすることもまれなのに。

「・・・・夢を見るの。」
「夢?・・・・・どんな?」

不意の昨夜の夢が脳裏に蘇る。白い桜吹雪が目の前をちらついたような錯覚を覚えて、友雅は軽く頭を振った。

「・・・・・・友雅さんには関係ないでしょ。詮索好きな男は嫌われるわよ。」

こんなに年が離れているのに、「橘さん」ではなく、いきなり名前で呼ばれた。
一瞬目を瞠ったが、少女の可愛らしい声で呼ばれる自分の名は、悪くない。
そうして更に気が付いた。どうやら自分はこの少女との会話を楽しんでいるらしい。

「名前は何と言うんだい、お嬢さん?」

抜き取った管の中から土壌サンプルをビニール袋にいれ、ナンバリングしていく。

「あかねよ。元宮あかね。」

あかね、か。黙々と作業をこなしながら友雅は口の中でその名を繰り返した。
ひどくしっくり来る名前。まるで昔から知っているかのようだ。口元に自然に笑みが浮かんだ。




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夢見たい / koko 様