幽し雨(かそけしあめ) |
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= 雨 = |
〜友雅×あかね / 京ED後〜 (ああ、この雨は私の罪を拭うのか、それとも私の罪を曝すのか) ――きっと恐らく、後者だろう。この罪は決して贖えるものではない。 皮肉で象った口元のままに仰いだ空は、厚い雲で閉ざされていた。彼の望む月を遠くに隠して。 音もなく降る雨は、包むように彼の衣を濡らしていく。けれど、構わずに彼の体はゆらりとまた揺れて――雨の中に消えていった。 □ 龍神の神子の働きにより、京の都からは鬼は去った――去ったはず、であった。 しかし、それより半年の後の今。再びこの都に徘徊する幽鬼の目撃談が俄かに上った。 それは音もなく降る幽し雨の折に、都のあちこちに現れるという。目撃者の談から、乱れた狩衣の姿のその幽鬼は、すわ怨霊か――かつて宮中で政争に負けたものの祟りかとさえ囁かれた。 だが、その正体を知る者たちがいた。けれど、真実は語られることなく一様にその口を重く閉ざしていた。知るからこそ、その者たちは何も口にすることが出来なかったのだ。 止めることも、何も――何も。ただ哀しくて遣り切れなさを抱えていた。 かつての仲間の、誰より優雅でその実頼もしかったはずの、その人間の余りの変わり様に。 誰も彼もがその人たちの幸せを願っていた。複雑な想いも確かに抱いていたが、何よりも「彼女」がとても幸せそうだったから、ならばと身を引いてずっとその笑顔が消えぬようにと祈っていた。 だが、しかし。その願いも虚しく、幸せな光景はあっと言う間に瓦解した。それこそ、半年も経たずに――だ。 ひょっとしたら「彼」なりの理由があってのことかも知れなかった。けれど、当の本人が決して語ろうとはしない。ゆえに、何か浮かんだとしてもそれらはすべて推測の域を出ず、ただ「彼女が消えてしまった」、その事実だけが重たく彼らの前に横たわっていた。 誰も彼もがその現実に苦しみ、彼を責め立てもした。 だが、やがて拳を振り上げることすらしなくなった。彼を攻めたとしても彼女は戻らない。虚しさだけが皆の胸に降り積もるばかりであった。 あるいは彼が――無抵抗であったからかも知れない。彼はただただ彼女の残した唯一の縁(よすが)を抱きしめて、微動だにしなかったのだから。 ――それから、暫くのことだ。 まるで彼女があの時流した涙のような――音もない雨の夜に、幽鬼のごとく彼が徘徊を始めたのは。 □ (何か大切なことを忘れている気がする) ――でも何故だろう、思い出すのは、とても恐い。とても、切ない。 それはいつもの帰り道。 高校生活が始まって、早半年。中等部からの友達もいたし、高等部で出来た新しい友達とも上手くやっているし、勉強とか色々頭を悩ませるけれどそれなりに楽しい日々を送っている。 アルバイトも申請すれば許可される学校だったので、帰宅部でいるのも何だと思い、夏休みに親戚の伝手を頼って駅前の小洒落た喫茶店で手伝いも始めていた。 最初は不慣れで失敗ばかりだったけれど、思いの外充実感を味わって、こうして秋になっても続けている。 そんな、帰り道だ。 さほど遅い時間でもないから、自宅までは徒歩で帰る。生憎と夕方から雨模様だったが、置き傘もしっかり常備していたので問題はなかった。 けれど、なぜか。 雨の日は――特に今日みたいな音のない雨の夜は――どうにも心がさざめいていた。何一つ、不安になることなどないというのに、だ。 微かに戦慄く口唇を噛み締めて、傘の中から仰げ覗けば広がる曇天。今夜も月の欠片すら見えない雨空だ。 けれど、どうしてだろう、月が見えないことでどこか安堵もしている自分がいた。 大切な何かを忘れてはいないか、その考えはずっと頭のどこかにあった。けれど、それを思い浮かべると、いつも心地よい、けれど少し恐い鈴の音が聴覚を超えた場所で鳴り響き、たちまちの内に思考を霧散させてしまう。 まるで、考えなくていい――そう言うように。 その理由を、当たり前だが誰も知らなかった。自分ですらわからないのだから、訊ねようもないものだ。 でも多分、それに従えっていれば、ずっと恐いことも胸を締め付けるようなこともなく、平穏に暮らせるのだろう、そう感じてはいた。 ぼんやりとしながらでも、形のない笑いを重ねても、それでも優しい時間の中で。 (――、………) 空を見上げる。相変わらず音のない雨が降り続き、辺りを満遍なく濡らしている。 当然ながら月なんて、ない。『見れなくて良かった』はずなのに――胸の奥のどこかで哀しがっていた。 失くしてしまった大切な何か。 忘れたままでいた方がきっといい。そうに違いない。 「なのに」 どうして、音のない雨が隠す月を懐かしいと、そう思ってしまうのだろう。 □ 雨の夜を、今宵もあてどなく彷徨っていた。 罪の証、罪を暴く、罪を責め立てる。 音もなく今にも消えそうな、そんな雨だというのに。 「――否、だからこそ、だ」 この雨は、彼女の涙。彼女の頬を音もなく伝い、己の罪を知らしめた、あの滴。 それを前にして己の思考は漸く希求するに至った。どこから間違ったのかどこで間違ったのか。だが、答えは簡単であった。単純に初めから間違えていたのだ。 やっと気づいたその瞬間、何か言葉を重ねたとて最早言い訳にしか過ぎず、ただ己に突きつけられたその事実を噛み締めるだけで精一杯であった。 だから。 差し伸ばした指の先で、震える体躯を抱えて消え入るように「己から逃げだした」彼女を――誰も責めることなど出来はしない。むしろ、当然の仕打ちであった。 「すべての罪は私にある――」 失って初めて気づくなど、なんと愚かなことか。 消え去る前に彼女がまとっていた唐衣、それだけが彼女と己を繋ぐ縁となり、たった一つだけ残されたそれを抱え、彼女との時間をたゆたい、そして現に戻り打ちのめされる。 それを、ずっと繰り返している。 それが、己の唯一出来ることだった。 そして、己はこの幽し雨に打たれる。――断罪され続ける、それすらも彼女とつながっているような気さえして。そんなことは有り得ないと知るのに、願ってしまう己がいた。 さらに、今一つ。叶うならばと、祈りにも似た願いがあった。望むことすら許されないだろうはずなのに、それでも願わずにはいられなかった。 「ただ一言、君にあやまりたい、それだけが今の私の望みだよ――あかね」 □ 早めに帰れた今夜は、夕食後、一人部屋の中から雨空を何気なく眺めていた。 楽しいはずの日常は、けれど時折、どこか夢のように思える時があった。 確かに『ここ』に自分はいるのに、自分の居場所ではない気がしてならなかった。 あの音もない雨が明けた次の日は特に、だった。 高校生活も半年を過ぎると、あちこちで恋愛話が盛り上がっていた。 早い人は、それこそ入学当初からである。 でも、自分はどこかそれをいつも他人事のように思っていた。まるで興味がないと、必要ないとさえ思っていた。 「でも、本当は――」 時折ざわめく心。何か大切なものを置き忘れたかのような、喪失感。それにまつわる胸の痛み。それは最近、とみに酷くなっていた。 秋雨という言葉があるように、雨夜が増えたせいかも知れなかったけれど、それだけではない気がしてならなかった。 「でも本当は、私は」 その先を口にしてはいけなかった。頭の中で鈴が鳴り、忘れていなさいと優しく宥められる。 それで、そのままで多分、幸せだった。幸せでいられるはずであった。 「――でも」 窓に映る自分が自分でないと、漸く気づく。気づいて、肩が震えた。心音が、呼吸が早くなり、指先がわななく。 恋は、必要なかった。しなくて良かった。 (だって、『もう二度と』傷つきたくないから、絶望したくないから) 「――!」 ……刹那、鈴鳴りが一際大きくなった。思い出したくなかった、けれど、覚えていなくてはならかったあの痛みが端から蘇っていく、溢れていく。 それは全身を苛み、己の体躯を抱き締めて膝を突いた。 「あ――、ああ、」 ごめんなさい、ごめんなさい。 気づけば涙を流して、うわ言のようにそう繰り返していた。 窓の外で音もなく降る雨が、街を濡らす。音のない世界で、慟哭だけが響き渡る。 「逃げちゃ、いけなかった」 ごめんなさい、友雅さん――! □ (誰か、誰か――……) 我知らず『彼女』は――あかねは部屋を飛び出し、雨の中を駆けていた。 (どこへ――) そんなのは判らなかった、けれど、走らずにはいられなかった。 (誰か、助けて。誰か、お願い。どうしても、逢いたい。どうしても、逢わなくちゃいけない) おこがましいと罵られても、それでも。 「――っ」 息が切れる、体が熱る、それを諌めるように雨は降る。 「雨――」 不意に、彼女は立ち止まった。肩は疾うに濡れて、髪からは滴が滴る。 それに構うことなく、彼女は降り止まぬ雨空を見上げた。 ずっと気がかりだった、この雨。心にいつもさざめきを与えた、この音なき雨。 この雨は何を伝える、何の意味をもたらす。何を繋ぐのか。 「龍神さま……」 口唇から零れ落ちた、その名は現にしっかりと刻まれ、彼女は目を見開いた。 すべてを、確信した。 誰でもない、その存在しかあの世界を繋ぐのに頼れるものはなかった。 逃げた彼女を慟哭から守っていた、その存在しか。 「龍神さま……龍神さま、ごめんなさいごめんなさい、でも、逢いたいの、友雅さんに、」 お願い、逢わせて――!! 言葉にならない叫びが雨の夜を割き、そして彼女の視界は闇で覆われた。 □ 華やかな大人で恋多き宮廷人である友雅に、まだまだこどもっぽさを多分に残したあかねが恋をしてしまったのが、そもそもの間違いなのかも知れなかった。けれど想いを、芽吹いたそれを育むことを放棄することは、彼女には出来なかった。 だがしかし、結末は彼女の夢が具現化する形となった。友雅が混沌と迷いの果てにあかねを乞うてくれたのだ。 それからはもう、あかねにとってこの世の幸せを独り占めしたような日々だった。あわただしさの中で周囲からも祝福され、妻の地位である北の方として迎えられることになった彼女は、慣れ親しんだ土御門を出て友雅の邸宅へと移り住むことになった。そこでは心得た女房たちが何くれとなく世話をしてくれたので、初め不慣れながらも、心おきなく過ごすことが出来ていた。 大好きな人に優しく微笑まれ、そっと抱き寄せられては包まれる。本当に本当にあかねは幸せだった。 でも、結局、夢は夢のままに、儚いものだと知らしめられるに至った。 友雅が他に通うひとがいることを――それも複数で、密に――あかねは知ってしまったのである。 おそらく、友雅は上手くやっていたのだろう。けれど、相手の女性らとそこに仕える者が自分こそ友雅に愛されているのだと、わざわざ彼女に教えてくれたのだ。 自分がいた世界と彼女が住むと決めた世界では、道徳観や倫理観が異なるのだと彼女は友人を通して知っていた。 けれど、それは所詮頭でのことで、真にその意味を理解していたとは言えなかった。恋愛遍歴を重ねた女性だとしても眉を顰めるだろうに、ほとんど恋愛経験のなかった彼女には余計に理解し難いことであるのは当然だった。 友雅が――真の意味であかねと夫婦としての契りを交わしていなかったのが、追い討ちをかけた。 まさか、であるその事実は、二人だけしか知らぬことだ。その理由は友雅しか知らない、あかねにも解らない。だが、それだけに友雅が自分を抱かずに他の女性を抱きに行っているという事実は、酷く彼女を打ちのめした。 何のために、自分はここにいるのだろう。『ただこの世界にいるだけでいいお飾りの妻』なんて、お笑い種だと。 彼女がそう思うに至ったには、理由があった。友雅が通うという女性からの文に、こう書かれていたのだ。 『中将様は、主上の思し召しにより『神子』を都にお留めするべく、かたちばかりの北の方として迎えたのですよ』 ――と。 友雅が優しければ優しいほど、彼女に触れなければ触れぬほどに、それは真実味を帯びた。抱く意味もない価値もない、『いるだけでいい存在』、自分がそうだなんて、とても耐えられなかった。 でも、どこかで信じたい自分がいた。だから、ある日彼女は決心して、彼の動向を追いかけることにした。 それは音もない雨が都を包み込んだ夜であった。 どこかで覚悟をしていたのに、やはりその光景には体を震わさずにはいられなかった。 彼女の目の前で彼を乗せた俥は見知らぬ邸へとそっと入ったのだ。門番や舎人それとなく訊けばよく通ってくるらしく、婚儀もじきだろうとのことであった。 なんと喜ばしいことか、浮かれたように告げる舎人たちに曖昧にうなづいて、あかねはその場から逃げるように立ち去った。 立ち去るしか――出来なかった。 それからどこをどうやって走ったのか記憶が定かではないが、彼女は気づくと神泉苑の淵で膝を抱えて泣いていた。あとからあとから涙が溢れて仕方がない。止める手立てもなかった。 「もう――いやだ。もうわけがわからないよ」 かえりたい……。 そう、呟いた瞬間。 彼女の背後から走り寄る気配がした。 あろうことか――友雅であった。 |
y+ / 橘由良 様 |