水簸 -すいひ-

= 雨 =



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   水簸(すいひ):陶芸用土を作る方法の一つ。
             原土を粉砕し、水の中に入れ攪拌し、土に混ざっているゴミ・小石などを
             取り除き、陶芸に向いた滑らかな土(はい土)を作る。







雨が、降る。


 アスファルトのあちこちに出来始めた水溜りに、不規則な細波を立てながら、雨が降り続けている。
あかねはふぅ、とため息をついた。雨粒に翻弄されて揺れ動く水鏡は、今の自分の心のようだ。
もうすぐ来るであろう、自分にとっての雨粒を・・いや、彼は雨粒なんて可愛いものではない。
土砂降りの豪雨だ。
台風だ。
こちらの都合も聞かずにどんどん押し寄せ、翻弄し、攫っていく。後に残されるのは・・・。

また、ため息。
まだ夕暮れ早い時間なのに、低く垂れ込めた雲のせいで、玄関が少し暗い。
あかねは壁のスイッチに手を伸ばした。
ぱちん、というかすかな音とともに、玄関の外、内側、そして運動部の生徒たちが過去勝ち取った、優勝旗やトロフィーが飾られた
ガラス棚が明るく照らし出される。

「元宮先生?そんなところでどうしたんです・・・ああ、保護者待ちですか?」

あかねは振り返り、意識して笑顔を浮かべる。

「はい、そうなんです。5時半に来校されることになってますから。」
「大変ですね、もう勤務時間は終わりなのに。まぁ、保護者の方も働かれているから、仕方ないのでしょうが・・。」

少しかすれた優しい声でそうねぎらうと、事務の藤原主査は「お先に」とかすかに頭を下げて去っていった。

 その後姿に同じように会釈を返し、また、あかねはため息をついた。
そう、普通に会社勤めなどをしている保護者は、学校から呼び出されてもすぐには来られない。
どうしても仕事が終わった後、5時、6時、中には9時なんていう保護者もいて、つくづく教師は24時間勤務だと思い知らされる。

だが、彼の場合は、違う。
もっと昼間に自由が利くくせに、いつもこんな時間を指定してくる。
過去のやり取りを思い出し、憤り半分、諦め半分のため息をまたこぼした、時・・・。

「・・・・・何を想って、そんな切ないため息をつかれているのかな・・・・・?私を想ってなら、嬉しいのだけれどね・・・・・?」

ぞわり、と何かが背中を駆け上がった。思わず縮み上がりそうな体を何とか押さえて、あかねは振り向いた。
 アンバーの織りが入ったジャケットに生成りのオープンシャツ。
くだけた姿なのに、まるでそのままパーティにでも行けそうなくらいな華やかさ。
流れる緑の黒髪が少ししっとりしているところをみると傘を差さずに駐車場から歩いてきたらしい。

「・・・・・お忙しいところお呼び立てして申し訳ありません・・・・・・橘さん。」

つい引き込まれそうになる視線を何とか外し、あかねは頭を下げる。

「すぐに!・・・・教頭を呼びますので、こちらへ・・・・・。会議室で、お待ちいただけますか?」

2人きりじゃありませんからね、という気持ちを込めたのが分かるのか、口元にかすかな苦笑を浮かべ、
男は-----------橘友雅は黙ってあかねについて会議室へ向かった。



「何度もお呼び出しして、本当に申し訳ありません。本来なら同居されている保護者の方においで願うのですが、
橘さんは、イノリ君の後見人ということで・・・・・・・。」
「友雅。」
「・・・・・・・・・・。」

友雅と視線を合わせるのを避け、無意味に書類をめくっていたあかねの手が、止まる。

「友雅と呼んで欲しいと、何度も言っているだろう・・・・・・?・・・・・・・あかね?」
「『元宮』、です!『橘』さん!わ、私は、イノリ君の担任として、昨日の事件の概要をご説明するために来ていただいたのであって・・・!」
「つれないね。ようやく愛しい姫君からお呼びを頂いたと、取るものも取らずに駆けつけたのに?」

うそをつけ!電話をしたのは昨日の夕方。いくらだって昼間に来れたでしょうが!
という叫びは、声には出来ない。

 彼は自ら工房を構える、名の通った陶芸家。
時間などいくらでも自由になるはず。なのに、いつもこんな時間を指定してくる。

「話はイノリから聞いているよ。また悪ふざけが過ぎて、教室のガラスを割ったそうだね?申し訳ない。
・・・・・・・お詫びに、食事をご馳走させてもらえないかな?」
「・・・・・・私が個人的にお詫びされるようなものじゃないですから。ガラス代だって、ちゃんと弁償していただきますし。」
「でもまた君が半分出すつもりでいるのだろう?」

う、とあかねが詰まる。
くすくすと笑いながら、友雅が会議用長机の向こうから手を伸ばす。

「・・・・・・優しいね、君は・・・・・・。」

 彫刻のように長く美しい指がそっとあかねの指に絡みついた。
慌てて引き抜こうとするが、意外な強さで押さえられてぴくりとも動かない。

「そんな君の優しさが、イノリの・・・・・生徒たちの救いなのだろうね・・・・・。
ああ、でも・・・・・・・そんな風に他の男のために一生懸命になられると・・・・・・・妬けるよ・・・・・・・。」
「橘さん!離してください!」
「友雅、だよ。ねぇ、どうしてもっと会いに来てくれないの?あるいは電話でも?
君の姿を見て声を聞けないと、私は何も手につかないというのに?」

じたばたと手を引き抜こうと必死になっているのに、友雅はまるで意に介さず、むしろ更に深くあかねの手を包み込む。
秀麗な眉が哀しみに寄せられる。

「だ、だめですってば!私、仕事中なんですよ───── 友雅さん!」

友雅の切なそうな顔が一気に綻ぶ。

「もう、勤務時間は終わりなのだろう?こんな遅くまで仕事をしていては、体によくないよ?」
「誰のせいで遅くなったと思ってるんですかっ!」
「私のせいだね・・・・・。ああ、申し訳ない。やはりお詫びに、夕食をご馳走させて頂くよ?」

最初っからそのつもりでこの時間に来たくせにー!

「こ、この前、陶芸教室の後にお茶をご馳走になりましたから、もういいです!」
「本当はあんな大勢他人がいる時ではなく、一人で私の工房に来てくれればいいのに。
君になら、土の練り方もろくろの蹴り方も、付きっ切りで教えてあげるよ・・?手取り足取り、ね?」

 そんな危ないこと出来ませーん!とあかねは必死で首を振る。

「君がこの前作った茶碗にね、今日釉薬(うわぐすり)を掛けたのだよ。翠のイメージがいいと言っていただろう・・?
だから、ね。私のオリジナルの、あの釉薬を掛けてみたのだよ・・・どう仕上がるかは、焼いてみなければ分からないけれど、ね?」

 あの、釉薬?私が最初に友雅さんの作品に惹かれた、あの?

あかねの顔が喜びに、ついで戸惑いに満ちる。

「あの、でもあの釉薬は・・・。友雅さんがすごく苦労して作られたものじゃ・・・?」

あかねの気遣いに友雅が柔らかな笑みで応える。

「いいのだよ。君がせっかく気に入ってくれたのだから・・。それに、あの釉薬があったから、君と私は出会えたのだから、ね?」

いつの間にか友雅は長机を回りこみ、あかねのすぐ前に跪くと、両手をしっかりと握り締めた。

「君が想いを込めた茶碗は、君そのものだからね?そっと大切に、私の釉薬に浸したよ・・・。
大丈夫、きっと綺麗に焼きあがる・・・・・・私の色に、ね?ああ・・・君を、早くあんな風に、私に染め上げてしまいたいよ・・・・・・。」

 愛しげに、友雅はあかねの両手を自らの唇に寄せる。
熱い吐息が、ついで柔らかな唇が指先から手の甲をなぞり、あかねの体の奥に別の生き物を目覚めさせようとする。

「友雅さん!だ、だめですって言ってるのに!離してください、もうすぐ教頭先生が・・・!」
「・・・・・・・・夕食を一緒にして、くれる・・?ずっと君に会えなくて・・・・・・私は気が狂ってしまいそうだったのだよ?」
「・・・・・・ひょっとして、また食べてなかったんですか・・?」

そういえばなんだか顔色が悪いような気もする。
あかねは手をふりほどこうとするのを止めて、友雅の顔を心配そうに覗き込んだ。
 生きることに執着のなかった彼は、以前から食事や睡眠といった、本来なら人間の本能に基づく欲求が乏しかった。
彼の才能に惚れ込んでいる好事家が一日置きに通わせる家政婦が、何とか彼を食べさせていたらしいが、
あかねに出会って彼はすっかり変わってしまった。
 あかねと共にあれば、食べることにも出掛けることにもひどく前向きで。
あかねの手料理をねだり、あかねの滅多に取れない休みの日には、あちこちに連れ出してくれた。
その反面、忙しくてあかねが何日も連絡が取れなかったり会えなかったりすると、以前よりひどい引きこもり状態になってしまう。

 家政婦が何と言おうと、食べない。着替えない。眠らない。最小限の水と、栄養調整バーを囓るだけ。

「私は君がいないと、生きていけないのだよ・・・・。」

それは脅迫ですか、と目眩を覚えたあかねだが、次の瞬間それは衝撃に変わる。

「とっ、友雅さん!何して・・・っ!」

抵抗を忘れてしまったあかねの小さくて柔らかな手の感触を楽しんでいた友雅が、再びその指に唇を寄せる。
ぱくり、とその桜色をした指先を咥え、舌で悪戯を始めたのだ。

「・・・君が来てくれないから、ずっと食欲がなくてね・・・・・・。ああ、でも・・・・・・君の指はなんて美味しそうなのだろう・・・・・・。
このまま食べてしまっても、良い?」
「良いわけないじゃないですかー!」

 再び必死に指を引き抜こうとするが、まるで意に介さない友雅はさらに大胆に舌を這わせる。
指の先から関節を丁寧に巡り、付け根までの短い旅を終えた後は、そのままそこに留まり、ちろちろとあかねを翻弄する。
 ぞわぞわした痺れが手から腕に駆け上り、あかねの心臓を直撃した。
そこからさらに血流に乗り、全身へ。まるで即効性の毒のように体中を痺れさせる。

「わ、わかりました!一緒にご飯食べに行きますから!だから、離してください!」

泣きそうな叫びに、ようやく友雅はあかねを開放する。

「約束だよ?どこが良いかな・・。君がこの前言っていた、創作料理の店に行こうか?
大丈夫、後でちゃんと君のアパートまで送るから。」

 まるで遠足を楽しみに待つ子どものように満面の笑みを浮かべる男に、あかねはこくこく頷くしかなかった。
目をうるうる潤ませながら・・。


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夢見たい / koko様