水簸 -すいひ- |
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= 雨 = |
ようやくやってきた教頭は、涼しい顔の友雅と、なぜか涙目になって消耗しているあかねを一瞬不信そうに眺めた。 が、すぐに照り光る広い額をハンカチで拭いながら、ぐだぐだと学校方針やら安全責任やらの話を始める。 「ああ、大変申し訳なく思っています。イノリには私からきちんと話をしますので・・。 元宮先生がお心を砕いてくださっているのに、こんなことでご迷惑を掛けていては申し訳ないですからね?」 話の分かる保護者の見本のような笑顔を浮かべる友雅に、教頭はほっとしたように油ぎった笑顔で応える。 「そうしていただけると助かります。今度何かあったら、担任が家庭訪問をさせていただかなくてはならないので、 よろしくご協力のほどを・・。」 「家庭訪問?・・・・・・つまり、元宮先生が、うちに様子を見に来てくださる、と?」 友雅の目がきらりと光る。 『あなたの』家じゃありません!イノリ君の家ですってば! というあかねの叫びはまたも心の中だけに響く。 「そうですか・・・・・わざわざご足労願うのは申し訳ないですから・・・・・・良く、言い聞かせておきますよ。」 『何を』良く言い聞かせるつもりなのか。 あかねは近いうちにイノリがまた、『うっかり』何かを壊すことになるような気がした。 「では、今日のところはこれで失礼してよろしいですか?」 世間話に入りそうな教頭をさえぎって、友雅は立ち上がった。 「ああ、そうですね。では、私はこれで失礼いたします。元宮先生、保護者の方を玄関まで、お送りしてくださいね。 私はまだこの後会議がありますので、失礼させていただきますよ。」 時計を見て、そそくさと去って行く教頭の『次の会議』が、居酒屋で行なわれることをあかねは知っていた。 「さて、では帰ろうか。・・・・・・ね、あかね?」 するりと。 さりげなく肩をホールドされる。 逃げられそうもない。あかねは深いため息をつくと、結局ほとんど意味をなさなかった書類の束を手にとった。 「・・荷物、取ってきます。」 「玄関で待っているからね?」 嬉しそうな男の声が、一段と激しさを増した雨の音に紛れた。 職員室にまだ残っていた同僚に声を掛け、あかねは職員用下駄箱に向かう。 置き傘を探そうとして気がついた。この前急に雨が振り出した時に使って、アパートに置いてきてしまったのだ。 仕方ない。そのまま靴を持って来客用玄関へ向かう。 「友雅さん、私、傘がないんですけど・・・。」 「おや、私もだよ。・・・では、待っていなさい。玄関先まで、車を回してあげよう。」 「え、いいですよ。駐車場まで、走ります。」 「・・・・・・・そう?では、一緒に走ろうか。」 靴を履いて、玄関を出る。 雨は随分と激しくなっていた。これは大分濡れるかも、と思った時。 ふわり、といい香りと共にあかねの頭に柔らかいものが掛けられる。友雅が着ていたジャケットだ。 「友雅さん?だ、大丈夫ですよ、車までくらい・・。」 「君に風邪を引かせては、イノリに恨まれてしまうからね?」 「それを言うなら、友雅さんこそ!一人暮らしなのに風邪ひいたりしたら大変です。」 「おや、看病に来てはくれないの?そうだね、君が風邪をひいて寝込んだら、 私が付きっきりで看病してあげる、というのもなかなかいいね?」 そんな怖いこと、頼めません!意地でも風邪なんか引くものか、とあかねは顔を引きつらせる。 そんなあかねに蕩けるような笑顔を向けると、友雅はあかねに掛けたジャケットの端を持ち上げた。 「では、ね?こうしよう。2人一緒に被っていけばいい。」 あかねの肩をぐいっと抱き寄せ、頬を擦り合わせるようにしてジャケットの下に潜り込む。 「ちょ・・・!友雅さん、近すぎます!」 「このくらい寄っていないと、濡れてしまうよ?まぁ、君となら濡れてしまっても私は構わないのだけれど・・・・・・。 どうせなら、もっと温かいところで二人で濡れていたいものだね・・・・・?」 意味ありげにあかねの顔を覗き込む。 そんなことに同意を求めるなー!という叫びを口の中でもごもごさせ、真っ赤な顔であかねは一歩、踏み出した。 「も、いいです・・・・・。行きましょう。」 すこしだけ斜め上から、くすくす笑いがあかねを擽る。 自分の体中の神経がそちらに引っ張られてしまうのを感じながら、あかねはすっかり暗くなった中、雨の駐車場に飛び出した。 友雅の車は、なんと駐車場の一番奥に停められていた。 「もう!手前にいくらでも空いているところがあるのに、何でこんな遠いところに停めるんですか?」 ジャケットが意味をなさないほどすっかり濡れて、あかねは友雅の車に飛び込んだ。 あかねを助手席に押し込んだ後、少し遅れて友雅も運転席に滑り込む。 「君の傘に入れてもらって、2人でゆっくり歩いてくるつもりだったからねぇ。」 優雅に髪を掻き揚げ滴を拭いながら、男はうそぶく。 最初からそこまで計画してたんですか・・・・・? がっくりと力が抜けた途端、あかねの体がぶるっと震えた。すかさず友雅は車のエンジンを掛け、空調を暖房MAXに設定する。 「すっかり濡れてしまったね・・・・・・ほら、こっちを向いて?」 少し大判のハンカチを取り出し、友雅はあかねの髪から滴る雫を丁寧に拭いに掛かる。 彼の掌があかねの頬から顎をそっと固定した。すべすべとした、暖かな指先にあかねの心臓が跳ねる。 「い、いいです!自分でやりますからっ!」 あかねは慌てて身を引くと、自分のカバンからピンクのタオル地のハンカチを取り出す。 まるで友雅から隠れるようにそれを頭にぱさっと掛け、ごしごしと拭きに掛かるあかねに、友雅はすこしだけ寂しそうに笑うと、 黙ってハンカチで自分の肩を拭い始めた。 ・・・・・・綺麗な人、だなぁ・・・。 髪を拭き終わり、自分も肩や膝を軽く叩くように拭いながら、こっそりあかねは隣を盗み見る。 初めて会ったときから彼のペースに乗せられっぱなしで。 自分としては至極まっとうな、常識ある態度で接しようとがんばっているのに、何故か気がつくと友雅の言うなりになっている。 ・・・・・・生徒の保護者とこういうのって、やっぱまずいよねぇ・・・。 別に妻子ある男性と不倫をしているわけでは、ナイ。 でもやっぱり、あかねの中では友雅は「生徒の親」なのである。毅然とした態度で臨まなくては、と思うのだが・・・。 再びちらり、と窺い・・心臓がまたドクン、と飛び跳ねる。ひどく優しい目で自分を見つめる友雅と視線が合ってしまったのだ。 「・・・・・・・寒くは、ないかい?」 動揺してまるで乾布摩擦のようにごしごしとハンカチで腕を擦るあかねに、友雅の声はあくまで甘い。 「だっ、大丈夫です!・・・!友雅さんこそっ!」 エンジンを掛けてすぐに友雅がつけたルームライトを受けて、友雅の長くうねった髪から光る雫がぽたり、ぽたりと落ちるのが目に入った。 「まだ全然拭けてないじゃないですか!本当に風邪引きますよ?」 さっきまでは頬を染めて恥じらって、友雅と目を合わせないようにしていたのに、あかねはもう全力で友雅を心配して顔をしかめている。 そんなあかねが嬉しくて、友雅はふわりと体を助手席に傾ける。 「じゃあ・・・・・・拭いて?」 「・・・は?」 ステアリングと運転シートの背もたれに懸けた腕で体を支えて、友雅はさしだした頭を動かさない。 「・・・・・・。」 あかねは、はぁっとため息をつく。 どうしてこの人は!と拳を握りたくなる。いい年をして子どもみたいに甘えてっ! でもいつの間にかそれに慣らされ、受け入れてしまっている自分も、確かにいるのだ。 戸惑ってばかりだったのに。こんなふうに甘えられることが心地良くなってきていて。 やばいよ・・・絶対、流されてる・・・。 そう思いながらも手はもう、コシコシと友雅の髪を拭きに掛かっている。 豊かな黒髪は少し癖があって。男の人とは思えないほどに柔らかい。 そっと一房掬いとると、ほんのり湿った感じが指に気持ち良い。 さらさらと梳き通しながら、髪の先まで包み込むようにハンカチで丁寧に雫を吸い取っていく。 肩から滑り落ちた分を拭き終わり顔を上げると、背中がずいぶん濡れている。 「友雅さん、背中もまだびしょぬれじゃないですか。もう、ホントに子どもみたいな人ですね?」 手で背中を向けるように促すと、30過ぎの男は嬉しそうに向きを変えた。 まず髪を拭い、その髪を持ち上げるようにして背中にハンカチを当てる。運転席側へ身を乗り出すようにして、反対側の肩へ手を伸ばす。 友雅の髪があかねの頬に触れた。 それがなんだか友雅に頬を撫でられたようで、またあかねの体温が上がってきた。 大分水気を含んできたハンカチが伝える友雅の背中の熱がさらにそれを煽る。 離れないと、まずい。どんどん熱が上がりそう。 そう思っているのに、なぜか腕は、繰り返し友雅の背を拭っていて。同じ処を往復するばかり・・。 「・・・・・・愛しているよ・・・・・。」 あかねのするがままに身を任せていた友雅が囁く。 「君だけが、私に光を・・・・・・情熱を与えてくれる・・・・・。この世の全ての輝きが、君と共にある・・・・・。 君に会う前の私は、とうに生きる屍だったのだよ?だから・・・・・・今ここで、こうして生きている私の熱は、全て君のものだ・・・・・・。」 愛している、君だけを・・・・・。 静かに、繰り返されるその言葉は。 まるで降り注ぐ雫のように、あかねに染みこんでいく。 駐車場の隅にぽつんと立つ外灯の白い灯りに照らされて、雨が銀色に変わる。 絶え間なく降り注ぐその音を聞いていると、なんだか自分たちが水の底にいるようだった。 ふと、あかねは陶芸教室で友雅が説明した焼き物の手順を思い出した。 陶器を作るのに欠かせない、粘土。良い粘土を作ることで作品の出来は半分決まる。 原土を砕いて、水の底に沈めて。掻き混ぜて上澄みと、底に沈んだ小さな石や不純物を取り除く。水を取り替えて、また、繰り返す。 繊細なその作業で、ゴミや不純物が少しずつ取り除かれ、良い土になっていく。その土を丁寧に練り込んで、初めて粘土が出来るのだ。 二人っきりのこの水の底で、友雅はあかねに愛という水を注ぐ。 あかねの中にある世間体とか、戸惑いとか、恐れとか。それらの不純物を少しずつ洗い流そうとして。 繰り返し、繰り返し。 あかねの心がすっかり綺麗な土のようになった時。その時には・・・。 まだ、形にならない。 けれど「その時」が来るのを待っている自分を、あかねはぼんやりと自覚した。 「元宮あかね」という原土が、稀代の陶芸家・橘友雅によって、この世でたった一つの作品に作り替えられる、その時を・・・・。 雨が、降る。 |
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夢見たい / koko様 |