※この作品はコミックベースのお話しです
※年齢制限を設けています。18歳未満(高校生含)の方は閲覧を控えてください
汝、とらわれしもの

= Happy Birthday!! =



−2−

執らわれしもの








 一  薫

 先日、京に朱雀が現れた。しかしそれは護り手としてではなく、鬼に使役された荒ぶる神の姿として。それを目の当たりにしたあかねは決意を新たにした。戦わなければ。鬼と――――――アクラムと。すでに恋心こそ失ったものの、完全なる敵として憎む気にはなれずにいるのも事実だ。それは詩紋とセフルのことが原因だった。そんな日のことである。
 「藤姫ちゃん。なにしてるの?」
「あ、神子様」
 藤姫の部屋にはたくさんの衣が広げてあり、いい香りが漂っている。
「うわぁ。いい匂い」
「香を焚き染めているのですわ」
「あ、知ってる。着物に香りを移して着るんだよね」
 あかねは授業で習ったことを思い出した。確か、この時代はこれがお洒落だったと教わった。
 「藤姫ちゃん、いっつもいい匂いするもんね〜」
「ありがとうございます。それよりも神子様、御身体の具合はよろしいんですの?」
「うん、大丈夫」
 今日は物忌みの日。藤姫が気遣っているのはその所為だ。先日のような件の後では、穢れは確実に増していると考えるのが普通である。つまりその分あかねへの負担も大きかろうと藤姫は考えた。その時、女房がひとり衣擦れの音と共に告げた。
 「橘の少将様、おみえでございます」
「わかりました。さ、神子様」
 八葉が傍に付いていれば穢れを寄せ付けぬという。これで一安心だ。藤姫はあかねをいつもの塗籠へと急き立てた。

 狭い塗籠を紙燭が灯されている。幾分慣れたとはいえ、ネオンや蛍光灯が常にある世界にいたあかねにとってこの時代の暗さは堪える。しかも窓のない塗籠は尚のこと暗い。そこで藤姫は出来る限り明るくしつらえてくれるのであった。
 「それではくれぐれもお願いしますわね、友雅殿」
そう言って藤姫は塗籠の戸を閉めた。今日の供は友雅。彼は先日最後の八葉として宝珠を得たばかりだ。その際の一件でしばらく静養していたがようやく参内もかなうようになった為、今日の任は彼に任されたのである。
 「ごめんなさい」
「何がだい?」
 居心地が悪いのか、部屋の隅で膝を抱えながら上目遣いに謝ったのを友雅は笑顔で返した。あかねの言わんとすることは判っていた。八葉の内、鷹通は現在大怪我を負って臥せっている。詩紋もセフルの件で落ち込みが激しく少し体調を崩してしまっていたし、他の面々もそれぞれに忙しい。かくて病み上がりの友雅を呼ばざるを得なかった。仕方がないと言えばそれで済むのに、それを気に病むのは彼女の性分であり良さでもあった。
 相変わらず小さくなっているあかねに、友雅は優しく声を掛けた。
「そんなに心配しないでくれまいか?姫君」
「でも…」
「もう大丈夫だよ。安心したまえ」
「…本当に?」
「本当だとも」
 ようやく張り詰めた空気が和らいだ。あかねの顔にも安堵の笑みが浮かぶ。
「それよりも」
と、愛用の扇をぱちんと鳴らして悪戯っぽく微笑む。
「そんなに遠くにいては顔がよく見えないのだが。もっと近くにおいで」
 あかねの苦労の種はここにもあった。部屋が暗いのも確かに怖い。だが問題はそれだけではない。塗籠はかなり狭いのだ。暗くて狭い部屋に八葉、つまり男と二人でいなくてはいけない。詩紋やイノリならまだしも今日は最大の難敵が相手である。免疫のないあかねには大変心臓に悪い状況なのだ。
 どう言い訳しようかと考えあぐねているあかねの鼻先を薄い香りが掠めた。
「あ」
途端に今までの逡巡を放り捨ててその香りの元を辿ると、友雅の扇に行き着いた。子猫のようなその姿を見た彼は、思わず出そうになった声を微苦笑に押し留めてしばらく眺めた後、穏やかに口を開いた。
 「これがどうかしたかね?」
見上げれば避けていたはずの相手。あかねは急に顔が赤くなるのを感じた。しどろもどろになりながら、彼が来るまでの藤姫とのやり取りやかつて教わったこちらの風習のことを話した。
 「だからいい匂いだなーって。何ていう香りなんですか?」
「侍従の香というのだよ。控えめな香りが気に入っていてね」
あかねはもう一度深く香りを吸い込んだ。
「うん。いい香り。これが友雅さんの香りなんですね」
「気に入ったかね?」
「はい。今度ちょっと分けてくれますか?」
 控えめで優しげな香り。ゆったりした感じが10歳以上も年の離れた友雅を思わせて安心できる。きっと眠る前に焚いたらラベンダーのような効果があるかもしれない。
「私たちの世界にも『アロマテラピー』って言ってお香や香りの付いたロウソクを楽しむ習慣があるんですよ」
「ほう」
 香がそのまま人物を指すということをあかねは知らない。つまり今彼女が友雅の香を欲してそれを楽しむと言うことは、恋人の香りを偲ぶ、ひいてはその移り香で彼を偲ぶということになるのだ。無論あかねはそんなつもりで口にしたわけではない。
「本当に気に入ったのかい?」
「本当ですよぅ」
 両手を腰に当て、ぷうっと頬を膨らませて反論する。もはや二人の間にほとんど距離はなく、抱いていたはずの苦手意識は頭の片隅にもなくなっていた。
「では今すぐにでも分けて差し上げよう」
と言って、友雅はふわりとあかねを抱きかかえ座りなおした。抵抗する間もあらばこそ。侍従の焚き染められた衣の中で逞しい腕に包まれてはどうすることもできない。ただ熱に浮かされたような、顔が火照る感覚だけが確かに感じられた。
(え?何これ?どうなってんのーっ!?)
 あまりの展開に言葉を失ってしまい思考もまとまらない。すぐ上には友雅の満面の笑顔。
(あぁでも)
 だんだんと落ち着いてくる。控えめな香りと力強い鼓動、衣越しの温もり。暖かで安らいだ空気。あかねは小さい時のことを思い出した。父の膝に抱かれた感触に似ている。その胸に頭を預け、もう一度深呼吸した。
「いかがかな?」
「大人の男の人だなーって」
あかねは微笑みながらそう答えた。怒る気はもう失せていた。



 二  触

 何事もない昼下がり。いつものように『物忌み』で参内しなかった友雅は土御門殿へと足を向けていた。以前からよく出入りしていたものの、今となってはその意味も頻度も格段に変化していた。
「やれやれ。仕事熱心は鷹通に任せたいのだがね」
「まぁ、友雅殿。八葉の勤めは各々にあるもの。どなたかに任せきりと言うわけにはまいりませんわ」
優雅に扇を玩びながら嘯く彼を僅か十歳の藤姫がたしなめるのはもはや日常風景になりつつある。どんなに軽口をたたいていても結果的にはちゃんと役目を果たしてくれる彼を信頼している。だからこそのやり取りでもあった。
「では藤姫。後は神子殿にお会いして帰るといたしますよ」

 一方、その頃あかねは自室で奮闘中であった。といっても怨霊相手ではない。藤姫に針と糸を借りての繕い物の途中だったのだ。
 「やっぱジャージぐらい持ってなきゃダメだったなぁ」
あかねは盛大に溜息をついた。ここへ来てからどれほど経つのか。カレンダーのない生活では曜日感覚はおろか日付もよく判らなくなる。それでも毎日着ている制服のシャツのボタンがとれかかるということは、おそらくかなりの回数脱ぎ着している証拠だろう。
登校途中に攫われて来たのだから当然持ち物は限られている。鞄に教科書、筆記用具と携帯電話ぐらいだ。ここだとて櫛やタオル代わりの布などもあるし、着替えだって藤姫がここぞとばかりに用意してくれた。が、全て着物なのだ。当然と言えば当然だが、着慣れない上に重ねて着るのが常識の女房装束は暑い。
「天真くんがうらやましーい」
同じく制服姿でこちらへやってきた天真も同じく着物姿だが、彼はもろ肌脱いで上半身はタンクトップなのだ。いくらなんでもあかねにそれは無理なので、今も袿に着替えているが邪魔になるのと暑いのとで袖は肘まで捲り上げられている。いっそのこと袴も膝丈にしてみるかと手をかけた瞬間のことだった。
「これはこれは。麗しい艶姿だね」
急に掛けられた声に慌てて振り返るとそこには満面の笑みをたたえた友雅が立っていた。悲鳴こそ上げなかったが、みっともない姿を晒してしまったようでばつが悪い。友雅はまださも可笑しげに笑っていたが、ゆったりとした動作で近くに腰を下ろし、おもむろに扇を揺らし始めた。
 侍従の香りの風が涼しく通り過ぎてゆく。あかねは目を閉じてしばらく風を楽しんだ。
「ありがとうございます、友雅さん。おかげでちょっと涼しくなりました」
「それはよかった。で、今日は姫君自ら縫い物かね?」
「はい。制服のボタンがとれかかっちゃって」
 と、再び手元の針を動かし始める。わりと家庭的なところのあるあかねは料理も掃除も裁縫も好きだ。こちらでも詩紋と一緒にお菓子作りをするし、雑巾がけをして藤姫に嘆かれたこともある。だからボタン付けなんて造作もないこと…のはずだった。その視線さえなければ。
 (やだなぁ。緊張しちゃうよ〜)
こんな風に見つめられることなど初めてのことで、どう対処していいのか困ってしまう。大体、友雅はいつもこんな調子なのだ。いつも余裕綽綽でからかってきて、こちらの反応を楽しむのだからたちが悪い。
(そりゃあ友雅さんは『大人』だけど)
ちらりと目線を動かすと、向こうは楽しげに目を細めて風を送り続けてくれている。あかねだってもう16だ。いつだって完全に子供扱いされるのはちょっと癪に障る。かといって相手は百戦錬磨の強者。簡単に太刀打ちできるはずもない。
(う〜。悔しいなぁ)
 眉間に深いシワを刻みながら考え事に気をとられている時だった。ちくり、と指先に痛みが走った。
 「痛っ」
シャツを放すと、みるみるうちに赤い膨らみが出来てゆくのが見えた。その時、風がやんで代わりに指先を温かいものが包んだ。
 (えっ?)
何が起こったのか、急には理解できなかった。扇は放り捨てられて、代わりにもっと強い香りを放つ衣が傍にある。そしてその人物は自分の指を口に含んでおり―――――。
 指先にはさっきとは違う熱。あかねは自分の鼓動が早くなるのを感じた。初めての感触。でも振り払えない。痛みとは違うなにか。
 どれだけそうしていたのか、はっと我に返ってあかねは手を引っ込めた。
「あ………もう大丈夫ですから…ありがとう、ございました」
気まずい沈黙を打ち破る為に口を開いてみたが、気の効いた言葉ひとつ浮かばない。やはり自分は子供だと思った。さっきから動悸が治まらない。このままでは彼に聞こえてしまうのではないか。そうしたらまたからかわれてしまう。そんなあかねの心配をよそに、友雅は先程の位置に戻って扇を拾い上げるとまた風を送り始めた。
 「いやなかなか。神子殿の血は甘かったよ」
敵は余裕の表情でウィンクさえしながら甘い言葉をさらりと投げる。
「友雅さん!そんな、きゅ、吸血鬼みたいなこと」
 言わないでください、と続けるつもりが最後は口ごもってしまって声にならない。
「吸血鬼、とは?」
「あ…えっと。私たちの世界の怨霊っていうか、お化けみたいなもので」
 あかねはまくしたてた。少なくとも話を逸らせれば誤魔化せる。
「ほう。どんな悪事を働くのかな?」
「夜になると現れて、首筋に牙をたてて綺麗な女の人の血を吸うんです」
 ひとしきり、知っている知識を並べ立てて喋った。彼は時折相槌を打ちながら興味深げに聞いてくれた。いつだってそうだ。私の話を真剣な眼差しで受け止めてくれる。深い、優しい瞳。先程までの激しさは収まったが、心の底ではまだ小さな拍動が続いていた。もっと話していたい、もう少し一緒に居たい。もう少しだけこの時間が続きますように。
 「そうか。それは是非なってみたいものだねぇ。神子殿の血は美味しそうだ」
「友雅さんっ!」
 やはりこの人には敵わない。だけどからかわれても嫌じゃない。だから今日はもう少し話をしていよう。あかねはそう心に決めた。



 三  在

 (………眠れない)
もう幾度寝返りをうっただろう。羊も数えてみたが効果は無かった。正確には考え事の方が頭の中を占めてしまったので途中で諦めたのだった。疲れていないわけでもない。今日だって昼間は怨霊退治で走り回ったし、食事も風呂も済ませた。解っている。原因はその考え事だ。あかねは眠るのを諦めて、夜具の上に半身を起こした。
 (どうしよう…)
あの笑顔が離れない。でも彼は友達の、蘭の好きな人で。天真や鷹通にも想いを告げられていて、それに今はアクラムとの決戦前で。
(集中しなきゃ)
あと少し。こちらにいるのはおそらくあと僅かの時間だ。そんな世界の人物に恋をしてどうする?だが考えれば考えるだけ混乱が増し動悸が治まらなくなる。その時、下ろした御簾の隙間からしなやかな体つきの子猫が入り込んできた。
 《神子》
声は泰明だった。以前も鼠に乗り移って来た事があった。だから今度も藤姫の飼っているこの猫に乗り移ってきたのだろう。
《神子の気が乱れた。どうした?》
「いいえ。なんでもありません。」
《そうか》
「泰明さんはお仕事ですか?」
《そうだ。今日は陰陽寮にいる。何かあったら呼べ》
 素っ気なくそう告げて猫は出て行った。今来てくれた彼もまた、あかねを好きだと言ってくれた。自分の動揺は八葉に伝わる。それが嫌だったこともあった。だが今はこの想いが伝わればいいと思う。そして誰か知らない女性ひとじゃなくて、今すぐここへ来て私の傍にいて欲しい。
 「―――――――っふ…」
 ひとつ、ふたつ。小さな丸い染みが広がる。もう押さえられない。堰を切ったように涙が溢れた。奥歯をきつく噛み締めて、あかねは涙を流した。そうしなければきっと歯止めが利かなくなる。
 「神子殿。如何なさいましたか」
外からは闇にまぎれた頼久の声。宝珠の所為か気配を察したか、心配してくれているのは判ったが応えることはできなかった。





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いろは 様