ブルーマーメイド

= 王子様と人魚姫 =



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8 人魚姫に捧げる恋歌





 咽せ返るような薔薇の香り。
────────ココハ?
 重苦しい、身体。
───────  アタマ、イタイー……。
 節々が痛む。
───────  アア、ワタシ、ドウシタノ?

 きつく匂う薔薇の香りに、不吉な既視感を感じる。あかねは恐怖に背を圧されるように、唐突な覚醒を迎えた。
「バラッ?!」
 何でそんな物が! と、あかねは勢い良く起き上がった。
 赤い花びらが身体からハラハラ…と、落ちる。
 見知らぬベッドに横になっていたあかねだが、その光景に、あかねの背筋に冷たい汗が落ちた。
(コレ………?)
 考えるまでもない。
(こんなことするの……………)
 あかねの知る知己の中で、たった一人しかいない。
 あかねが眠っていた寝台に、一面に敷き詰められている真っ赤なバラの花弁。そして、天蓋から流れる薄絹と、天鵞絨。
 そして、己の耳を疑う件の人物の声が響く。
「……目が覚めたか?、ミューズ」
 紗を払って、マンゾーニがあかねの側に近付いた。
「動いた気配がしたから、もしや……と思ったのだ」
 マンゾーニがあかねの頬に触れようと腕を伸ばしてきたが、あかねはスッと身体を退いてその手を避けた。
「恐がらなくとも良いのだ。もう、おまえを傷つけたりなどしない」
「近づかないでっ!」
 もう一度、伸ばされようとしている腕を振り払う。
「何をそんなに怯える? 何もしないと言っているではないか……」
「帰るっ!」
 いつのまに、こんなところに来たのかは知らないが、あかねはマンゾーニに用はない。
(……何で?)
 確か、自分はシーニャとフィラーラのもとへ急いだはずだ。
 だが、少女の記憶にフィラーラの姿はない。
(……………えと、どういうこと?)
 使われたクスリの為にあかねの頭は混乱していた。
 頭を抱えて身体を折ったあかねを気づかって、マンゾーニは背中を擦る。
「大丈夫か? 苦しいのなら、眠りなさい」
「触らないでっ。どうして、あなたがここに居るの?」
 いや、なぜ自分がここにいるのだ?
 あかねは混乱しながらも、マンゾーニを拒絶する。
「あかね。どうして、私をそれほどまでに拒絶するのだ? おまえを可愛がってやろうと言っているのだ。従順になれ。そうすれば、私はおまえが望む全ての望みを叶えてやろう。欲しい物があればすぐにでも買い揃えてやる。気に入ったマーメイドの雄がいるのなら、おまえの為に買ってやろう。友雅のように心の狭いことは言わない。おまえに番いの子を産ませることを、私は許そう」
 マンゾーニの告白に、あかねはゾッとした。
 どうして、自分がマンゾーニに番いを買って貰わねばならない?
 どうして、子を産ませる許しを得なければならない? 自分の望みを全て叶える?
「ふざけないでっ」
 あかねはマンゾーニを押しやり、ベッドを抜け出す。そして、部屋の中で逃げ道を探して周囲を見た。
「もうおまえは私のものだ。大人しく従うのだ」
「わたしは、物じゃないわっ!」
 あかねは屈辱の余り涙が出てきた。
「番いを買ってやる? 子供を産ませていい? あなたに従え? わたしのことを何だと思ってるの!」
 あかねは怒りに身を震わせながら、マンゾーニを睨んだ。
「わたしの望みをすべて叶えてやるですって……?」
(だったら、叶えて貰うわ)
 あかねらしくなく、馬鹿にしたような笑みを口元に浮かべ、言い捨てる。
「わたしの望みは、ここから出て行くことよ! あなたになんて絶対屈服しないわ!」
 帰るのだ。大切な人のもとへ。
 帰るのだ。愛しい人のもとへ。
 あかねはベッドを蹴って飛び降り、扉へ駆けた。
 鍵の閉まっている頑丈な扉はビクともせず、あかねの前に立ち塞がる。
「開けてっ、ここを開けてーっっっ。帰る、帰るのよっ。友雅さんーっっっ」
 ダンダンッと、あかねは激しく扉を叩く。
 後ろからマンゾーニが、苛立たしげにあかねに問い掛ける。
「何故? どうして橘がよいのだ?」
 番わせることも、子を与えることも拒否したあの男のどこがいいのか? 寛容さのかけらもない男に、自分のどこが劣るのか?
「友雅さんとあなたじゃぜんぜん違うわ」
 比べたりなどしたら、友雅に怒られる。
「何処が違う」
 共にあかねを欲する男。マンゾーニは己が友雅に劣るとは思えない。だからこそ、理解できない。あかねは友雅を選び、自分を拒絶するのか?
(私があの男に何一つ劣らぬ!)
「言え! 言いなさいッ、あかね!」
 強かに誇りを傷つけられて、マンゾーニの声が荒げられた。
 そんなマンゾーニの怒気を恐れもせずに、あかねは静かに呟いた。
「友雅さんはわたしを飼うなんて、絶対に言わないわ……」
 決して、あかねを物として扱ったりしない。
 番わせることを拒否するのも、子供を作らせることを許さないのも、全て────────あかねへの想いゆえ。
 その想いの鎖は、あかねを優しくからめとる。その束縛を、少女は厭わない。むしろ、もっと強く絡めて欲しいと願っている。
 根本から、マンゾーニとは違うのだ。
「わたしは、友雅さんがいーの。友雅さんがスキ。あなたはいらない」
 愛しさが募る。会いたい、会いに行きたい。
 帰りたいのだ。彼の人の許へ─────  。
 あかねがもう一度扉を叩こうと手をふり上げた時、乾いた音が空間をなぎ払っていた。
 ヒュンッ、パシィッン!
 乾いた音と同時に、あかねの背中に激しい激痛が走った。
「まったく、困った子だ………」
 マンゾーニが頭を抱えて大げさにため息を吐いた。
 痛みの正体に混乱しながら、あかねはマンゾーニを振り返った。
「本当はこんなことをしたくはなかったのだが……」
 マンゾーニの手には、太くしなやかな鞭が握り締められている。
「?」
 あかねは初めて見るものに、なんの警戒も持っていなかった。
 それを持ってマンゾーニが歩み寄る。
 痛みがあかねに警告し、少女は扉を背中に当てて立つ。
「来ないでっ」
 どこまでも、マンゾーニだけに警戒を向けている。
 再び、マンゾーニの鞭が唸る。一瞬、何が起こったのかあかねには解らなかった。ただ、手の甲に刺すような痛みと赤いみみず腫れが残る。
「……な………」
「いけない子だね。私にこんな物を使わせて……」
 マンゾーニの口元に余裕の笑みが浮かぶ。
 そして、手にした黒い鞭をこれ見よがしにマンゾーニは鳴らした。
「私に慈悲を請うてももう遅い。聞き分けのない子供にはお仕置きが必要なようだ。けれど、ミューズ、おまえが反省して謝るのなら、私も寛大になろう……大人しく寝台に上がりなさい」
「イヤよっ。誰が、謝るものですかっ。わたしは悪いことなんてしてないわ! 悪いことをしているのは、あなたじゃないっ」
 悪いことはなにもしていない。そして、ベッドにも上がったりしない。
「伯爵なんて、大っ嫌い!」
「まだ言うかッ!」
 マンゾーニの鞭がうなる。
 あかねは容赦なく打ち据えられた。少女の甲高い悲鳴が、部屋の中に木霊する。
「きゃぁぁぁっっっ」
「謝りなさい、ミューズ!」
 いかな愛し子でも許さない。
 容赦無く何度もあかねを打ち据える。少女が痛みに耐えかねて床に蹲ったのを見てやっと手を止める。
「さあ、私の言うことを聞きなさい」
 マンゾーニの足元で、あかねが痛みに震えながら臥していた。だが、少女は決して膝を屈しない。
「きかないわっ」
 こんな痛みなどなんともない。心を傷つけられることに比べれば痛くない。
「強情なッ」
 思わず、カッと頭に血が上って、マンゾーニは力任せに何度も打ち据えた。
 あかねは最初に悲鳴を上げたのみで、それ以降は声を殺して悲鳴を堪えている。その姿がさらにマンゾーニを苛立たせ、行為に拍車をかけていた。
「……ぅっ…………」
「あかね、謝るのだ!」
 マンゾーニの命令にあかねは首を振ることで否定の意味を示す。
 絶対に、マンゾーニの言う通りにしてやるものか!
 鞭が振り下ろされる度に、何度も打ち据えられた肌は裂けていた。
 肌は膨れ上がり、血が滲み、いくつもの裂傷がそこかしこに出来ていた。
 動けなくなったあかねをマンゾーニはベッドに文字通り放り投げる。
 そこには、労わりも思いやりもない。
「…痛っ………」
 痛みにあかねの身体が小さく丸まる。
 そんなあかねをマンゾーニは見下ろして呟く。
「馬鹿な子だ………」
 何も、ここまで強情を張る事もないのに。けれど、この強い魂の在り方にマンゾーニはゾクゾクするほど快感を覚える。
 これだけ打ち据えられても悲鳴を上げず、自分の意志を曲げない誇り高い少女。
「あかね……」
 今までにない愛しさが込み上げてきた。
 血に濡れた背中にマンゾーニは恭しく口付けた。
 この時初めて、マンゾーニはあかねを愛玩物ではなく、人格ある一人の少女として意識した。
「こんなになって……可哀相に………」
 マンゾーニの指が、裂傷を負う少女の背中へと下りていく……………。



 *

 友雅たちは、エリュシオンの宙港官吏官の制服に身を包み、『インウィ』の出航検査をする一団に紛れ込んでいた。
 貨物倉庫の物品検査。宇宙船の質量増減の正否。航行宙域の確認。護衛艦の駐留宙域の確認。数え上げたらきりがないほどの項目を一々、チェックする。
「私の息がかかった者に入れてもらった方が簡単だったのではないの? これでは、伯爵を警戒させるのではないかね?」
「でも、宙港の警備の目が、全部こっちに集中してるぜ。おまえの船はがら空き」
「なるほど。こちらを『囮』にするのだね?」
「どさくさに紛れて、このまま逃げちまうんだろ? どうせ、ルゥークももう船に積んであるし。問題はねえだろ?」
 忘れ物ない。準備万端怠りはない。
 足りないものがあったとしても、必要にあわせて買い揃えていけばいい。エリュシオンからしか手に入らないものもあるが、そこは、蛇の道はヘビ。手はいくらでもある。
「しかし、こんな検査をすべての船にするのかい?」
「いーや。これは時々抜き打ちでする、鼠捕り」
 時折、きな臭い船を狙うために、わざわざ慣例化している大検査なのだ。
「これで時間は稼げる」
 これだけ大がかりな検査は時間がかかるだろう。
「オレたち以外にも潜り込んでいるパーティーはいるから、そいつ等よりも早くあかねを見付けねーとな」
「分かったよ」
 工具箱に入れておいた武器を取出しながら、それらを装備していく友雅を見上げて、天真は確認をする。
「おまえ、自分トコの船は?」
「出航準備を整えたまま待機しておくように言ってあるよ」
「なんだ。おまえだって、逃げる気だったんじゃねーか」
「臨機応変と言ってほしいねえ」
 天真と頼久は官吏官の作業服を脱いで、下に着込んであった『インウィ』の航海士の制服になる。その隣で、友雅はただの作業服に着がえた。
「さすがに、エリュシオンの制服のまんまじゃ、船の中は動けねーからな」
 天真は自分の姿を見下ろし、次いで、友雅の艶姿を見上げて苦笑した。
 顔のイイ男だから、どんな格好でも似合う。憎らしいほどだ。ただのツナギをこれほど上品に着こなす人間はいないだろう。
「ったく。何着ても絵になる男だよな……」
「何か、言ったかね?」
「なんも」
 わずかに不貞腐れながら、天真は持参した武器の最終調整をしていく。
「さて、行くかい?」
「おう…」
 あかねが閉じこめられている可能性が高いのは、『インウィ』の前頭部の第三隔壁の下にあるマンゾーニのプライベートエリア。
「多分、あかねは伯爵の側近くにいるだろう。やっこさん、筋金入りのお貴族様だからな。エリュシオンと言えども、無礼なことは出来ないと思ってるぜ」
 マンゾーニのプライベートエリアは言わば、治外法権。そこに隠せば、安全と信じて疑っていないだろう。
「でも、おかげで探しやすいけどな………」
 つまり、そこを探せば、あかねは見つかる。しかも、特定しやすい。
 そんな事を思っているなど、マンゾーニは思いつきもしないだろうが。
「あんたの手に入れた情報じゃ、ここの排気口からブルーのラインにそって進めば、プライベートエリアへ直行だそうだ」
 行きはよいよい帰りは恐い。
 通気孔はもう使えない。しかも、次はあかねを連れて逃げなければならない。
「逃走ルートはオレらが確保しておく」
 その為に、天真はこの船のメインコンピューターにアクセスしなければならない。頼久はこの船から脱出するための足を手に入れる。
「だから、あかねを見付けたら、Cポイントへ直行。おまえらが逃げやすいように、ここの隔壁に大穴空けといてやるよ」
 天真は地図に赤いペンで×印を入れて、友雅を見上げた。それに対して友雅は無言で頷く。
「ただし、時間は間違えるなよ!」
 今から、ジャスト二時間後に隔壁をふっ飛ばす。
「そん時に、そのヘンをうろついてたら知らねーぞ」
 天真はニヤッと笑い、友雅の前に時計を差し出して、時間を合わせさせた。
「失敗しないでおくれ?」
「おまえこそ、モタモタしてとっ捕まんなよ!」
 お互いここから、別行動になるのだ。
 もう、止められない。
 人魚姫を、取り返すまでは────────。
「あかねを、奪い返してこい!」
「当然だね」
 あかねは友雅のモノなのだ。
 そして、友雅もあかねのモノ。
 彼方で爆音が聞こえる。
「どーやら、鼠が焙られてるみたいだな」
 天真が不敵にニヤリと笑った。
「健闘を祈る!」
 友雅は頷くと、排気口の蓋を開いてその中へ潜り込んだ。
 天真もまた、この船のコンピューターのサブシステムの眠る、第二ブリッジへと向かった。



 *

 傷口を酒を染み込ませた布地で拭われる度に、火傷した痕のようにヒリヒリと痛む。
「…痛ッ………」
「ああ…、可哀想に……」
 自分で傷つけておいて可哀想に…も何もない。
 思わず、マンゾーニを罵りたくなったあかねだが、今は声を出すのも辛かった。
(友雅さん……助けにきて……………)
 痛い。痛くて背中が焼けそうだ。
 あかねは痛みに目が霞んできた。額にはいく筋もの脂汗が流れている。
(…友雅さん………)
 大切に、宝物のように、そして壊れ物のように育てられてきたあかねにとってこんな痛みは生まれて初めての経験だった。
 けれど、精神的に傷つけられるよりも、まだ耐えられる。
 こんな痛みに負けない。絶対に、負けない。あかねは呪文を呟くように自分を叱咤した。
 そんなあかねのいじらしさと我慢強さがマンゾーニの心を打つ。
「あかね、すぐにこんな傷は治して上げよう。そうだ、カウンセラーを呼んで来よう……」
 マンゾーニは気が動転していた為、今までそんな簡単なことさえ思いつかなかった。
 固く閉じられた扉の鍵をマンゾーニは躊躇わずに開く。あかねを助けるために。
「スカールッ! スカールッ! すぐに来てくれ」
 執事の名を声を大にして呼ぶ。
 けれど、応えに答えたのは執事の声ではなかった。
「こんばんは。伯爵」
 艶冶なバリトンがマンゾーニを迎える。
「あかねを返していただきに参上しました」
 そう言いながら、友雅が片付けたSPを床に転がす。すでに、彼の足元には三人もの巨漢たちが伸びていた。新たな四人目が転がり、その側でマンゾーニのスカールが腰を抜かしていた。
「お前は………」
「まったく、酷いことをするね。あの子は、頑固な意地っ張りだけど、同時に繊細な臆病者でもあるのだよ。あまり苛めて泣かさないでほしいのだがね」
 軽口を叩きながらも、友雅の視線はマンゾーニを獲物のように捉えていた。残酷な牙で今にも引き裂こうとしているように、獲物を品定めしている。
 友雅の声が聞こえたのだろう。部屋の奥、ベッドの中からあかねが飛び出してきた。
 一目散に恋人の胸に飛び込む。
「友雅さんっっっ」
 背中の痛みをこらえ、友雅の胸に飛び込む。そして、目の前にいる友雅の姿に、信じられない驚愕の思いと、泣くほどの喜びを感じていた。
「友雅さんっ。友雅さんっ……」
「あかね。遅くなってすま……」
 少女を抱きしめようとした男の手が止まる。いや、己の手についた真新しい血に、言葉を失った。
「あかね?!」
 友雅は恋人の姿を確かめる。
 打ち据えられたボロ布と化している衣装。特に背は酷くて、裂けた布から血濡れの肌が見えた。
「……なっ……」
 目の前が怒りで血色に染まる。
 これほどの激しい怒りを、友雅は感じたことがない。
「……私は、また君を守りきれなかったのだね?」
「そんなことないわっ」
 悲しみと後悔に蔭る友雅の表情。それを、少女は強く否定する。そして、あかねは喜色を浮かべて友雅の身体を抱きしめた。
「きてくれたのね……うれしい……………」
 喜びの涙が、笑みを浮かべる少女の頬をつたう。
「ずっと待ってたの」
 それは本当。そして、もう一つの真実は暗く哀しいもの。
「でも、来てくれないと思っていたの……………」
 いや、来られないと思っていた。
 もしマンゾーニに触れられていたなら、もう自分はこの心臓を動かすことができないほどの絶望を味わったろう。その先にあるのは、二度と友雅が許してくれないかもしれないという不安と、彼以外の番いにこの身を暴かれる嫌悪感。どれも、少女の心を凍りつかせるには十分なものだった。
「ごめんなさい。ちゃんと信じなくて」
 あかねは友雅の胸に頬をよせ、幸せを噛み締めていた。
「こんなのは守ったうちに入らないよ……………もっと早く助けにくれば良かった」
 あかねの血がついた指先に、友雅は口付ける。それは、許しを求める口付け。
 あかねの流した血。だが、少女がこれまでに流した血はこんなものではなかったろう。
 代われるものなら代わってやりたい。
「……………すまない、あかね」
 友雅はあかねを抱きしめた。
「…っつ………」
 少女は背中の痛みに身じろぐ。すぐさま友雅は抱擁を解いたが、少女はすぐさま異論を唱えた。
「ダメ。抱きしめていてっ」
「あかね……だが」
 今、少女を抱きしめるのは、背中の傷に負担をかけすぎる。
「イヤイヤッ。抱きしめてて。友雅さんがここにいるって安心させてっ」
 すがりつく人魚を、友雅は優しく両腕に包んだ。
「いっそ、私が人魚になって君を癒してあげたいよ」
「その言葉だけで十分です。友雅さんに抱きしめてもらっているだけで、わたしは癒されるもの」
 他に何もいらない。少女は男の腕だけを求める。
 労わりあい、慰めあい、力づけあう。互いに互いの心を癒しあい、二人はどちらともなく唇を寄せ合った。
 互いを与え合う優しい口付けが交わされる。
 それは、紛れもない恋人同士の口付け。彼らは、人でなく、人魚でなく。ただ、男と女だった。
 口付けをとき、見詰め合う。いくばくか落ち着いた少女の様子に、友雅は胸を撫で下ろす。だが、それだけでよしとするには、男の心は獣になりすぎていた。
「すまないが、ここで少しだけ待っていておくれ」
 不安そうなあかねの表情に、友雅は苦笑しながら少女の目元に口付ける。
「すぐ終わるから。そうそう、少しの間、目を閉じていておくれ。私がいいと言うまで開けてはいけないよ?」
 友雅の視線が、ゆっくりとマンゾーニへと向かった。男は、すでに、屈辱と敗北を察していた。嫉妬の視線を友雅に向けながらも、諦めを享受しようとしていた。
 そんな男を一瞥した後、友雅はゆっくりと動き出し、あるものの側で優雅に屈んでそれを手に取る。
「こんなものであの子を傷つけたのかい?」
 友雅が手にした鞭には、生々しい血の跡が残っている。
「獣を従わせるように?」
 軽く手首を回しただけの優雅な仕草。決して振り下ろしたわけでもないのに、長い鞭は明確な意思を表し獲物へと牙をむいた。
 研ぎ澄まされた乾いた風の音。マンゾーニの首に届いたとき、それは二重三重に巻きつく。
「なっ……」
「鞭を振り下ろされる気分はどうだね?」
 鞭の柄を手首で捻る。それだけで、マンゾーニの首が絞まった。
「ぐぅっ」
「醜い声を出すのではないよ。姫の耳が穢れるだろう。虫けらの命乞いだってしかねない優しい姫君だからね」
 あかねに命乞いをされれば、友雅はきかないわけにはいかなくなる。
「ああ。あかね、目を開けてはいけないよ。そして、耳も塞いでおいで。君は、何も見てはいけない。何も聞いてもいけない」
 甘い友雅の調べが、あかねの耳を擽る。けれど、少女の足は恐怖に震えていた。
「……………ともまさ、さん……」
「すぐに終わらせるから、ね? 今だけは耳を塞いでおいで。もちろん、目も閉じて……ね」
 マンゾーニにゆっくりと歩み寄った友雅が、鞭を操り男を床にねじ伏せる。そして、言葉を発するどころか、呼吸することさえ覚束無くなっている男の頭を足で踏みつけた。
「本当は、もっと痛めつけてやりたいのだがね。おまえの悲鳴なぞを聞きつけたら、あの子が怯えるからねえ。仕方ないから、優しくしてあげるよ」
 そう。優しく殺してやる。
 友雅がギリギリと足先に圧力をかけいく。鞭も巧みに操り、ゆっくりと獲物を追い落としていく。首への負荷が限界に近づき、マンゾーニの顔色はもはや土気色だった。
 最後の愉しみをじっくりと味わっていた友雅の手首を狙ってダーツの矢が飛来した。それを避わすため、友雅は鞭の柄を手放す。
 とたんにマンゾーニは激しく咳き込みながら呼吸を復活させた。文句を口にする余裕も、気概もない。彼は地に臥しながら息を繰り返す。
「殺すのはやめていただけませんか? それは、ボクのお客さまです」
「邪魔をしないでほしいのだがね?」
 剣呑な視線で、友雅は戸口を振り返った。変声期前の少年のような声の持ち主は、振り返って確かめるまでもない。
「エリアマスター、しばし待っていておくれ。すぐに終わらせてしまうよ」
「終わらせてもらっては困るんです。まあ、生かしておいて益になる男ではありませんが、それでも、ボクの手の内での殺人は許しません。だいたい、こいつが死にそうになったところで、困るのはうちのマーメイドたちですからね」
 蘇生作業にかかる人魚の負担を思えば、友雅に溜飲を下げてもらっては困るのだ。
「心配無用。完全に息の根を止めておいてあげるからね」
 冷え冷えとした友雅の台詞に、呼吸を取り戻すのに必死であった男が、怯えたまま詩紋のもとへ逃げていく。
 逃げたきたマンゾーニを、詩紋もまた冷たい視線で見下ろした。
「やりすぎですね、伯爵。あかねをこんなに傷つけて。まあ、ペナルティはあとで語り合いましょう」
「そんな機会は二度とないね」
 友雅が殺意満々にマンゾーニに近づこうとした。
 それと同時に、詩紋は襟元の通信機に、唐突な命令を告げる。
「宇宙港を閉鎖しなさい」
 この場には、なんの関係もない命令だった。だが、友雅には目の前の少年の姿をした老獪な男の意図を瞬時に悟ったのだ。
 通信機ごしに、管制室からの返答が届く。
『閉鎖完了まで、三時間かかります』
「ああ。それでいいよ」
 軽く相づちをうち、詩紋は自慢の天使の笑みを友雅に向けた。
「ということだよ、友雅さん」
 らしくなく、友雅が舌打ちをする。
「やってくれるねえ」
 マンゾーニに向かっていた殺意が、今度は詩紋へ向けられていた。けれど、少年は動じた風もなく、笑みさえ浮かべた唇でもって軽口を叩いてきた。
「こんなところでグズグズしている暇はないんじゃないかな?」
「まったく、憎らしいね」
 その落ち着きようが忌々しい。
「こんなに大盤振る舞いしているのに?」
 少年はコロコロと笑った。
「大盤振る舞いだって? 笑わせてくれる」
「ボクとのゲームに勝てば、あかねをあげると言っているんだもの。もともと、そのつもりだったんでしょう?」
 あかねを連れて逃げるのを見透かしている詩紋に、友雅は狼狽えもしなかった。
 もとより、これらの行動が見え透いているのは百も承知。狡猾な彼を騙せるとは思っていなかった。
「……三時間ね」
 三時間以内にエリュシオンを発てと、詩紋は言っているのだ。
 ここを脱出して、自分の宇宙船に戻り、さらに宙港が閉鎖するまでに船を出さなくてはならないのだ。
「もちろん、すんなりと道が開くとは思ってないよね?」
 ますます状況は厳しいらしい。
「警備隊には、君らの邪魔をたっぷりとするように命じてきてあるから。ここの役立たずどもよりは、手ごたえがあると思うよ」
 床に転げているSPを横目に、詩紋は悪戯っぽく笑った。
「勝者は誰かな?」
「私たちだよ」
 友雅はあかねを掬い上げるように抱いた。
 震える少女は、友雅の首に両腕を回してきた。
「幸運を祈るよ」
「白々しい」
 捨て台詞を残し、友雅は床を蹴った。
 まったくもって、エリュシオンの怪物は煮ても焼いても食えない男だ。



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