ブルーマーメイド

= 王子様と人魚姫 =



− 8-2(最終話) −

 *

 ふっ飛んだ隔壁の爆風からあかねを守りながら友雅は瓦礫の中をひた走った。
 途中、天真の破壊工作が行き過ぎたせいか、損傷甚だしい船から総員退艦命令が出たおかげで、邪魔者がめっきり少なくなっているのはありがたい。おかげで、あかねを抱えているにしては楽に逃げることが出来る。
 だが、やはりあかねを抱き抱えたままでは、炎の中に飛び込むのが躊躇われる。
「何してんだ、友雅っ!」
「天真?!」
 隔壁の向こうから、友雅は名前を呼ばれて目を懲らした。
「さっさとこっちへ来い!」
 天真は様子のおかしい友雅を訝しみながらも、急かした。
 時間はくどいようだが、無いのだ。
「天真。ここ以外の逃走ルートはないのかね?」
 友雅は天真に大声で怒鳴った。
「あんーッ? 逃走ルートッ?」
 天真は目を丸くしながら、炎の向こうの二人を見た。 煙と炎に邪魔をされた二人のシルエット。
 苛立つような友雅のセリフが天真に二人の状態を教える。
「あかねが動けないのだよ」
 抱き抱えたままで逃げるには、限界がある。
 ここから、天真の所まで僅か三十メートルにも及ばないのに、それが恐ろしく遠い。
 焼けただれた鋼。セラミック。シリコン。高温の熱風が、吹き抜けてくる。
 友雅は決意する。
 友雅は上着を脱ぐと中のTシャツを脱ぎ捨てた。次いで、靴を脱いで、引き裂いたTシャツを足に巻き付けて靴を履く。
「あかね……行くよ」
 絶対に助かる。絶対に逃げ切ってみせる。
 友雅はあかねを懐に隠すように抱き込む。一片の炎の刃も、通させぬように。
 そして、意を決して一歩、灼熱の鉄板の上に足を踏み入れた。
 瓦礫と化した装甲の上を歩くのは、思ったよりも労力の掛かるものだった。しかも、あかねを取り落とす訳にはいかず、バランス感覚がものを言った。
 そこここの瓦礫の間で足を取られそうになる。
「……くッ………」
 あかねの羽のように軽いはずの体重が、今は鉛よりも重く感じられる。
 一歩、一歩、友雅は慎重に進んだ。
「友雅、前方は床が溶けかけてる。斜め右に移動しろッ」
 時折、友雅をサポートするように天真が前方の足場の状況を教えてくれる。
 友雅は天真の言葉に従って、進路を右に避けて歩いた。ゆっくりと。慎重に。細心の注意をはらって一歩を辿る。
 だが、友雅の踏み込んだ足場の瓦礫に、友雅は足元を掬われた。
(しまった!)
 そう思った時には友雅は右手をパイプに伸ばして掴み、左手であかねを落とさないように抱え、転倒するのを防いだ。
 だが、炎で焼け爛れたパイプは容赦無く友雅の手を焦がした。
「グッ………」
 肉の焼ける嫌な匂いが立ち上る。
 けれど友雅は手を放さない。きちんとバランスを取り直し、足場を確保してからその熱パイプを放す。
 こびり付いた肉が削げ、友雅の右手から鮮血が流れ落ちる。
「……友雅………」
 天真はその様子を痛々しく見守るしかなかった。
 たとえ、自分があの場所に駆け付けたとしても、邪魔にこそなれ何の助けにもならない。
 それに、酷い言い方だが、わざわざ負傷する為に行くわけにもいかないのだ。
 もしもの時は天真だけでも戦えるようにしておかなければならない。
 時間が掛かりすぎている所為で、靴に掛かる負担が大きく出ていく。
 靴底は焼け落ち、足に巻いたTシャツ、靴下を通して熱は伝わり始める。
 もう、あと十メートルもない。
 あと少し。もう少し。ほんの少しだけ待って欲しい。
(くっ……限界か……)
 先程から、布地を通して伝わる足場の感触が少しずつ、固く熱いものに変化している。
 多分、シャツはすでに焼け落ちたかもしれない。
(それでもいい……)
 もう少しなのだ。あそこまでなら、保つ。保たせてみせる。
 たとえ、足が焦げようと、もう二度と歩けなくなっても、あそこまでは歩いてみせよう。
 ジリジリと足の裏を焼く鉄板を踏みしめて、友雅は天真の待つ終着点へと一歩、また一歩と足を進めていった。
 たどり着いた先で天真に抱きしめられる。
「よっしゃ、よくやった友雅! 見せてみろ……」
 天真はそう呟くと、靴を手早く脱がせ、皮膚に焼き付いた布を剥がしていく。
「………酷いな……」
 生憎、医療キットなど持ってきてはいない。
 けれど、友雅の火傷は見たとおりだ。このままでは、
(歩けなくなるな………)
 今だって、精神力で歩いてきたようなものだ。
 だが、このままなんの応急処置もしないまま歩かせれば、脚を切断しなければならなくなるかもしれない。
(このまま歩かせる訳にはいかねーな……)
 それに、歩けそうもなさそうに見える。
 実際、友雅はそうとう体力を消耗したのか、肩で息をしている状態なのだ。
 あかねもまた背中の痛みで朦朧とするなか、友雅の腕の中で身じろぐ。
 男のの足元に跪いて、その無残な傷跡を目の当たりにした。
 あかねの赤い舌が友雅の足の裏を舐める。
「あかね、やめなさいっ」
「いや。ナイスアイデアだ。あかね、頑張ってやってくれ」
「天真! やめさせなさい」
「二人も抱えて逃げられるか。せめて、自分で歩けるようになれ」
 友雅の怒りと驚愕を、天真は事もなげに流す。
「水もなければ、薬も無い。だが、天の采配で人魚がここにいるんだから」
 だからと言って、鉄板の上を歩いてきた友雅の足にはどんな毒物がついているか分かったものではないのだ。友雅は身を捩ってやめさせようとしたが、天真が上から押さえ込んでそれをあっけなく阻止する。
「オレが舐めて治るんなら、そーしてやってもいいが、如何せん、オレの唾液は生憎ただの消化液だかんな……」
 それに、友雅の危惧していることは大丈夫だ。
「あかねたちは滅多なことじゃ、毒物じゃ殺せねーんだな、これが………」
 細胞の一つ一つに治癒の力のあるマーメイドは、体内に毒物が入ってきても、それらの物を自然分解できるのだ。ただし、それでも限界はある。
「だから、オメーの足に付いてる鉱毒素もこいつの万能ファージでめでたく分解処理出来るってコトだな」
 少なくとも、これで友雅を動かせるようになる。
「それより、友雅。何があったか聞いていいか?」
 天真は友雅を見下ろしながらも、横目であかねを伺った。
「………………この背中の怪我はなんだ?」
「私の到着が遅れたのだよ」
「あの変態伯爵だな……。殺してきたんだろうな?」
 憎々しげに呟く天真の視線が、友雅へと向けられる。それは、獲物を見据える猛禽の眼差しに似ていた。
「残念ながら、エリアマスターに邪魔をされたよ」
 あのタヌキ……と、天真は小さく毒づく。
「次に会ったときに引導を渡してやればいいさ。エリュシオンを離れたところでやれば、問題ねーだろ?」
「まったくだ。次は絶対に生かしてなどおかない……………」
 あの程度の邪魔で、友雅は諦めたりしない。だが、今は逃げなければならない。優先順位に従い、今は命を預けておいてやるだけだ。
「……友雅さん、大丈夫?」
「それは私の台詞だよ。まったく、君の方が痛いだろうに」
 すでに血は止まり、新しい表皮が張りかけている。女神の癒しは完璧だった。
「立てるか?」
「走れるよ」
「上等! 行くぞ」
 友雅はあかねを抱き上げながら、立つ。
「ほら、これ履け」
 天真は自分の靴を脱いで、友雅に放り投げた。
「だが」
「治ったっつっても、まだ薄っぺらな表皮が再生しているだけにすぎねーんだよ」
 裸足で走るには無理がありすぎる。
「んじゃ、逃げるぞ」



 *

 外に、武装したエリュシオンの特務部隊の者達が集ってきた。
 その様子を頼久はイライラしながら、見ている。
(ったく、天真たちは何をしているのだ?!)
 第三隔壁が爆破されてから、随分時間が経過した。
 この騒ぎの為に、野次馬も含めて、頼久たちには有り難くない職種の男たちが集まってきているのだ。
 混乱と共に逃げ出すのはいい。だが、時間が経てば、秩序は回復していくものなのだ。いや、エリュシオンは、凍結という強制的な秩序回復の劇薬を飲もうとしている。
 これ以上遅れれば、逃げられないかもしれない。そんな考えが頼久の頭にフッと浮かび上がる。
(冗談ではない!)
 無事にエリュシオンを逃げ出して、あかねを幸せにしてやるのだ。
 絶対に、どんなことがあっても!
 頼久は、エアカーをインウィの貨物専門の大型ゲートの側に乗り捨てると、中へ入っていく。
 計画では、三人はここから出てくる筈なのだ。


 当初の計画より随分遅れが出ている。しかし、だからと言って、あかねを抱えた友雅にスピードを上げろとは、天真は言えない。
 友雅の足が、現在そこまで無理が出来る状態でないことを、当人よりも天真の方がよく知っている。
 だが、状況は刻々と深刻なものに変化している。
 出口に近付けば近付くほど、敵の数も増えていく。当然の因果律。
「さて、どーする、友雅?」
 ゲートを目前に、友雅たちは立往生していた。
「…………さて、どうしようか…」
 足と手の痛みで、脳が痺れそうだ。
「もうちっとってとこだな」
 天真はゲートの入り口に視線を落として、フゥッとため息を吐いた。
「ここまで来て捕まるのもマヌケだし、かと言って大荷物を二つも抱えたままあれを蹴散らすのは………人間業じゃできねーし」
「やれやれ」
 友雅は苦笑しながら天真を見た。
「私も荷物なのかい?」
 あかねが荷物なのは一目瞭然だ。だが、のこり一個は一体?
「他にいるかよ」
 怪我人の上に、大荷物を抱えた運搬人。天真が欲しいのは運搬員ではなく、戦闘員なのだ。
「考えていても仕方ない。突っ切ろう」
 そんな天真のボヤきに、友雅は立ち上がって言い切った。時間が経てば経つほど状況が悪くなる。
「おまえにしちゃ、かなり考え無しな力技だな」
「頭の悪い提案ついでに、適当にその辺のものを落としておくれ」
 天井に掛かっているクレーンやカタパルトを見上げ、友雅が指示を出す。
「不幸な事故だよ」
 幸か不幸か、駆動機器を扱う端末の手動操作盤が目の前にある。
「天真が操作して落としなさい。混乱に乗じて走り抜けよう」
「走り抜けるって、オマエ………」
「他に方法があるかね?」
「ねーな」
 もはや、手段を選んでいる時ではない。



 *

「あれ? 友雅さんたちは、まだ中にいるの?」
「エリアマスター。また何をしたのです?」
 鷹通が少年を批難しながら問う。
「ボクが意地悪をしたとでも?」
「でなければ、友雅殿と合流していらっしゃるあなたが、どうして彼らと出てこないのです?!」
 崩れゆく船から、乗組員たちは次々と脱出してきている。
 詩紋もまた、彼らのあとを追って船の中へ向かい、出てくるときにはマンゾーニを供に帰ってきた。
 マンゾーニは、激しい疲労のため立っていられず、さきほど医療センターへ運ばれた。
 崩れゆく巨大な宇宙船を前に、鷹通は不安な心を持て余していた。
 そんな鷹通の背中に、飄々とした声がかかる。
「ここから逃げることができたら、あかねをあげるって言ってきた」
「逃げる……って」
「ただ逃げられてもつまらないでしょ? だから、めい一杯嫌がらせするように警備隊の奴らには命じてきたから」
「だから遅れているのですか? 死んだらどうしますっ?!」
 頭から角を出す勢いで、鷹通は詩紋を怒鳴りつけた。
「ここで飼われるかぎり、死んでいるようなものだよ」
 無表情に嘯く詩紋が、部下の青年を振り返った。そのときには、少年はいつもの悪戯好きの愛らしい天使の表情に戻っている。
「ねえ、言ったことなかったっけ?」
 詩紋の問いかけに、鷹通が真剣に対峙する。
「マーメイドが人間から開放されるには、人間を滅ぼしつくすしかないって?」
「以前、一度だけ」
 不吉な未来図を聞き、不安に陥ったのは記憶に新しい。
「同感だと思わなかった?」
「……………」
 まるで今日の夕飯のメニューを聞くかのように、詩紋の質問の仕方は何気ない。
「でもね。マーメイドが自由になる方法って、もう一つだけあるんだ。しかも、ある意味、とても穏便な方法でもある」
「え? それは、どのような?」
 人魚と人間の命題をさらされ、鷹通は問いただす声に力が入る。
 どこまでいっても研究者な部下に、詩紋は薄く微笑む。だが、それは嘲笑のそれではなく、ヒヨコを見やる師の眼差しでもあった。
「人魚が自由になる方法はね」
「そ、それは?」
 ゴクリと鷹通の喉が鳴った。
「融合だよ」
「は?」
「人間と混じり合っていくんだ」
「それは、不可能です。人間と人魚とのあいだで、子供は作れません」
 人魚の子宮の中で、精子は生きていけない。浸透圧が低すぎて細胞が破壊されていく。そして、人魚の卵子は人間の精子を受け付けない。卵がそれを種と認識しないからだ。もちろん、人間の卵子も人魚の精子を受け付けない。
「不可能を可能にするのが、科学者だろ?」
 少年の口元は悪戯っぽい曲線を描く。
「どんなプログラムを組んだかは、秘密。でも、発想の転換をしただけで、そんなに難しいことはしてないよ。まあ、DNAを弄らなかったと言えば、嘘になるけどね」
 そのプログラムをほどこしたいくつもの卵の中で、孵化をしたのはあかねだけ。
「あの子はね、人間との生殖活動が可能なはずなんだよ」
 理論上では。臨床例はまだ一度もないが、ようやくその機会を得ようとしている。
「ですが、あかねは一度も受精はしたことはありません」
 詩紋の言うことは矛盾している。人間との生殖が可能であるのなら、一度ならず受精の発現はあったはずだ。鷹通の指摘に、詩紋は呆れたように肩を落とした。
「人魚の特性忘れたの? まったく、何年カウンセラーしてるんだよ?」
 エリュシオンのカウンセラーの質も、地に落ちたものだと、少年は嘯いた。そして、出来の悪い生徒に講習するように、基本の基本を説明する。
「人魚はただ一人しか、伴侶にしない」
 これだけは、どうマインドコントロールしようと変わらない、人魚の特性。
「どれほどあの子の身体を通り過ぎようと、人魚の愛に届かぬ男の精子など、彼女の卵には到達しないよ」
 人魚は伴侶を認めて、ようやくその身に卵を抱える。
「っていうか、人魚が自ら排卵するのは、相手の子供を産みたいと思ったときだけなんだよ」
 あかねはこれまで、排卵することがまったくなかったはず。彼女は、本当の意味で大人にはなりきっていなかったから。だが、友雅の出現で、少女は大人になろうとしている。
「今年のシーズンあたりに、初めての排卵が始まるんじゃないかな?」
 人間で言うところの初潮である。
「そんな……」
「別に不思議はないだろ? 自力で排卵する方が珍しいくらいだ」
 現在のエリュシオンでは、排卵誘発剤を投入し、強引に受精させている。でなければ、人魚の排卵率が恐ろしく低いのだ。しかも、人魚は一年に一度のシーズンしか発情期に入らないので、自然に任せたままにすると、受胎することはほとんどない。マインドコントロールするようになってからは、コンスタンスに卵子を手に入れることはできるようになったが、それでもまだまだその生態については研究段階だ。
「つまり、あの子は友雅殿の子を身籠ると?」
「ボクの研究が成功していればね」
 まだ結果はわからない。興味深いところではあるが、この研究は自分の手を離れていくだろう。
 成功すれば、頼久が継ぐことになるだろう。
「どうしてそのようなことをしようとしたのです?」
 鷹通の衝撃は強い。考え付きもしない、遠大な計画だ。
 詩紋が、崩れ行く船を見やる。それは、滅びゆく者の姿に似ている。
「人魚の未来を、ボクが考えてはいけない?」
 炎に照らされた詩紋の横顔が、遠い過去を回想しちえた。
「彼らに希望を与えてはいけない?」
 もう誰も知ることのない遠い記憶。遠い約束。それは、一人の人魚に誓った幼い決意。
 まだまだ希望というには小さすぎる灯火だ。あかねが成功したとしても、次なる階段へのステップは果てしなく遠い。
「もとより人間との交接を計画されていたなら、どうしてこのような面倒なことを? エリアマスターがさっさと友雅殿へあかねを託されていれば、いらぬ騒動も、犠牲も出なかったでしょう」
 鷹通の憤りは当然のものだ。だが、詩紋にも思うところがあるのだ。
「人魚のあかねと添いたいと思っても、現実は苦難と障害の連続だと思う。あの子が欲しいというのなら、そんな苦労をともに背負ってもらわないといけない」
 詩紋はあかねの番いの相手に求めたものは、ただあかねを愛すること。魂の奥底から求めること。
 面倒ごとを前に捨てられるような関係も、飽きられて捨てられるような関係も、詩紋は想定していない。
「本当に愛した相手でないと、守りたいと思わないだろう?」
 こんな障害、へとも思ってくれては困るのだ。
「あの子をしっかりと守ってもらわなければならないんだから。この程度の苦難も乗り越えられないような男にあげられないよ」
「エリアマスター……」
 それはあまりに高すぎるハードルではないだろうか? 人間の恋人たちにも、ここまで深く結びつく愛情は少ない。
「そう。恋愛をしてもらわないと困るんだよね。それには、普通の人魚じゃ、恋愛対象になんてならないし」
 この計画の前提条件は、二人がめくるめく恋に堕ちなくてはいけないのだ。
「マインドコントロールでギッチギチの人魚なんて、それこそお人形だ。そんなのと恋愛できる? できないだろ? あかねという個性があったからこそ、彼はあかねに恋をした。ただ、人魚っていうのは、あとからついてきた付録みたいなものさ」
 人魚とか、人間とか、小さなことにはこだわらないほどに愛し合っただけ。
 ふいに鷹通の脳裏に、嫌な符号がひらめいた。
「まさか……………」
「ん?」
 青年の思うところを察している詩紋は、どこか楽しくてたまらないといった風情で笑っていた。
「あなたは、我らにあかねをそう育てさせようと画策したのですか?」
 あかねをあかねらしく。ただあるがままに育てるようにと。
「ようやくわかったの? まったく、鈍いね」
 自分ではできないと悟ったからこそ、他者に大切な卵を託したのだ。
「あかねは、ボクが生み出した人魚だよ」
 研究テーマは人魚の未来。
 それは、遙かな友に誓った永遠の約束。



 *

 友雅は舞い上がった埃を味方につけて、人の目を盗んで出口を目指した。
 足の踏み場の悪い場所を歩くには、少々骨が折れたが、それももうすぐだと思う。
 ゲートの向こうの明かりが見える。
「もうすぐだよ、あかね」
 友雅は無意識に呟いていた。
「友雅さん……足、大丈夫?」
「大丈夫。さ、もっとしっかり掴まっておいで」
 やっと、この逃亡が終わる。終点は近い。
 勝利を目前にして、友雅の緊張感が緩んだ。だが、それは致命的なミスだった。
 周囲の気配を読まずに、友雅は落ちてきていた大型カタパルトの影から出る。
 いきなり飛んできた銃先を友雅は奇跡のような瞬発力で避けた。
 しかし、その時、あかねを取り落とす。
 拾い上げる隙は与えられない。間髪の入らない攻撃が友雅に向けられ、それをかわしていると少女から距離を取らされた。
「やれやれ。無粋な輩だね」
 銃をメイスのような打撃用の武器として扱いながら、その男は、友雅とあかねの間に割り込んだ。
「マーメイドを抱えてご逃亡かい、色男の旦那」
 あかねの容姿は見るからに、マーメイドのもの。薄紅色の髪も。輝く翡翠の瞳も。人間にはありえない色彩だった。
「どさくさに紛れて持ち出すたぁ、ふてえヤローだ」
 その男は、銃を振り上げて友雅に獣のように襲いかかった。
 怪我負った友雅の動きは、普段の半分ほどのスピードもなく、またパワーも無かった。その割りには、十分善戦していると言える。
 友雅のことをただのこそ泥だと誤解している男は、手加減せず友雅をいたぶって遊んでいる。
 エリュシオンにおいて、マーメイドを横領する罪以上に重い罪はない。
 発見者が理由の如何を問わずに、当事者を射殺してもなんの罪も問われない。それどころか、褒賞ものの手柄として扱われる。
 野太い腕がライフルを右に左になぎ払う。乱暴で雑な攻撃であったが、友雅の足がそれに取られ、男は床に大きく転んだ。すかさず、身体を回転させて立ち上がろうとしたが、激しく痛んだ両足が、友雅の行動を制限した。
 倒れ伏した友雅に男はライフルの照準を当てる。
「あばよ、色男………」
 これで、マーメイドを保護しセンターに送り届ければ、自分は一階級昇級。男は輝かしい未来を想像しながら、引き金を絞る。
 それからの光景は男の目にはスローモーションで入ってきた。
 小さなマーメイドが黒髪の男に目掛けて飛んでくる。そして、その小さなマーメイドを追って、もう一人。
 ライフルのレーザーが肉を焼く。
 しかし、その対象は的であった友雅ではなく、またそれを庇おうとしたあかねでもなく、ライフルを構える守備隊の官吏の肉だった。
 大男は悲鳴を上げながら、床に転がる。
「助かったよ、頼久」
「頼久さん……………」
 床に倒れている友雅の首根っこにあかねは掻き付きながら、首だけ振り返り、救いの主の姿を見た。
 男を始末した頼久は、エアカーを足で操作しながらライフルを扱うという離れ業を披露したところだった。
「遅い!」
 頼久の文句に、三人は安堵の笑みを浮かべながら頷く。
「ナイスタイミングだぜ、頼久」
「早く乗れ」
 頼久はぶっきらぼうに顎をしゃくって、後部座席を示す。
 天真は倒れている友雅に手を貸し、急いで車に飛び乗った。
 人魚は奪還した。ここに用はない。
 頼久はアクセルを踏んでエンジンを吹かした。いきなり掛かったGにあかねは後ろへ転げる。
「痛い……」
 転げたあかねを抱き寄せて、友雅は自身の膝に少女を乗せた。天真が頼久の隣に乗り込むと、ナビゲートシステムを起動させた。
「んじゃ、行くか?」
「ボロボロだが、無事でなによりです」
 頼久はそう言うと、アクセルを限界まで踏み込んだ。
「あとは、私にお任せを」
 前に立ち塞がる警備員たちを頼久は力ずくで蹴散らしていく。
 あかねたちの乗るエアカーの後を何台ものエリュシオンのエアカーが追い掛けてきたが、頼久の生と死の紙一重のドライビングに今一つ追い付けない。
 フルブーストを掛けたまま、頼久は友雅の宇宙船に突っ込んで行く。
「………頼久、そろそろスピード落とさねえ?」
 怖ず怖ずと、天真は頼久に尋ねながら、足元のアクセルを見下ろした。
 アクセルは、遊びがないほど踏み込まれたままだ。
(…………限界いっぱいいっぱい…かよ)
 これ以上、上げようがないスピードを更に上げるかの勢いで、頼久はアクセルを踏み続ける。
 激しい圧力がかかり、後部座席の少女は目をぱちくりさせている。友雅はそんな少女を取り落とさないように、優しい腕のベルトで守り続ける。が、自船の外壁が、目前に迫っているのを目の当たりにして、内心ではかなり狼狽えていたりした。
「頼久ーっっっ、止めろーっっっ!!」
 天真の悲鳴があがる。
 頼久は、同僚の悲鳴に眉根一つ動かさず、神業のごときドライビングテクニックを披露して、絶妙のタイミングで、わずかに開いた格納庫の中にエアカーを滑り込ませた
 エアカーのフックと、船のカタパルトが接合し、きしみをあげながらその急静道をかけた。乗組員たちが用意していた衝撃吸収剤の助けを借りて、無事四人はは命を取り留めた。
 生きているって、素晴らしい。
 友雅とあかねは二人は抱き合いながら、しみじみと己が幸運に感謝する。天真は自分で自分の身を抱いて、いまだに歯の根が合わずカタカタと震えていた。
 一呼吸のあと、友雅はエアカーから下りると、怒鳴るようにメインブリッジに向かって命令を出す。
「離陸しなさい!」
「離陸許可が出ておりませんが、如何いたします?」 船内放送を使って、ブリッジの船長から友雅に連絡が入る。
「伯爵の船の爆発に巻き込まれたら、困るからね。独自の判断で離陸すると伝えなさい」
「了解!」
 待ち構えていたように、船のメインエンジンが火を噴いた。


「あかね……おいで」
「友雅さん……」
 エアカーの中で、今にも泣きそうなあかねは、友雅の伸ばされた手を取った。
 格納庫からブリッジに皆で上がる。
 アクアウィータを目に焼き付けておきたいと呟いて、天真と頼久はそこに残った。
 友雅はそのままあかねを連れて、自室へと引き込んでいく。
「友雅さん……」
 目を真っ赤に腫らせて、あかねは涙を零す。
「あかね…、もう泣かなくていいのだよ。私たちは二度と離れることはない」
 それでも、少女の涙は止まらない。
「目がとけてしまうね……」
 何度、泣くなと口にしただろう。しかし、あかねの涙は尽きずに後から後から溢れてくる。
 胸にあかねを抱き寄せて、落ち着くように何度も髪や背中を撫でてやった。
 あかねも友雅の手に逆らいはせず、その身を友雅に預けたまま泣いた。
「友雅さん……わたし………」
 しゃくり上げながら、あかねは友雅を凝視める。
「知らないところへ連れていかれるのは怖い?」
 あかねは首を左右に振る。
「友雅さんと離れ離れになるほうが怖い」
「二度と、アクアウィータに戻れなくても?」
「アクアウィータより、友雅さんがいいの。あなたの居るところが、わたしのアクアウィータ………」
 二人は凝視め合い、どちらともなく口吻ける。
 何度も何度も、互いを確かめるように、離さないように。
 口吻けの合間に、あかねは呟く。
「泡にならない幸せな人魚姫の物語は、もう話してくれなくていい………」
「おや、どうしてだい?」
「だって、わたしのことなんだものっ」
 友雅の首に両腕を巻きつけ、甘い幸せな笑顔を浮かべている。
「そうだね。哀しい人魚姫の物語ではない、私たちの幸せな物語を綴ろうじゃないか。物語の数だけ、私は、この先、君のためだけに愛の歌を謳おう」
 花が綻ぶような幸せな笑みを浮かべた人魚は、愛しい王子の唇に己のそれを寄せる。
 口付けの軌跡は、愛しさを辿る。

 人魚の口付けは、未来永劫──────────愛しい恋人だけのもの。



≪END≫

++ postscript ++




展示室≫
Cream Pink /  狩谷桃子 様