ブルーマーメイド

= 王子様と人魚姫 =



− 7-1 −
7 ペテン師たちの盤上遊戯





「ほら。臆病な姫君。いつも、私の側にくっついていてもいけないよ」
 コテージから湖に臨むテラスに出て、水際の階段を下りていく。
 水辺にはルゥークがあかねを迎えに来ていた。
「湖に行っておいで」
 友雅があかねを湖に下ろそうとすると、少女は嫌がって男の身体によじ登っていく。
「これこれ」
 これでは幼い子供と同じだ。友雅は苦笑しながら少女を抱えなおし、その瞳を覗き込む。
「大丈夫。あそこは、人間が手を出せる場所ではないよ」
「でも……」
 あかねは気乗りしないようだ。だが、湖を見て水の香りを胸に吸い込むと、すでに心は湖へと飛び立とうとしている。
「ルゥークと遊んでおいで」
 ルゥークが友雅の言葉に同意して、キュイッと高く鳴いた。
「ルゥークが遊んで欲しがっているよ?」
 あかねは迷いながら、友雅と水獣を交互に見た。
「ほら。それに、彼らも」
 友雅の視線が湖の中央を促す。男の視線に釣られて、あかねもそちらに眼差しを向ける。
「君も友達と遊びたいのではないのかね?」
 友雅がいるので顔こそ出さないが、数頭の水獣と、彼らの影に人魚の姿が見える。
「蘭……それに、フィラーラ姉様まで」
 あかねを心配して、ここまで出てきたのだろう。巣である湖から出たがらない人魚には珍しいことだ。
「行きたい?」
 友雅がそう尋ねると、現金な少女はすぐに頷いた。その様子に、男はくすぐったげに笑う。
「迎えに来ているのが男なら許さないが、姫君たちのお迎えを無碍にできないからねえ」
 あかねの身体を階段へと下ろす。
 指先が水に濡れ、少女の表情に喜色が浮かぶ。
 友雅の手を離れると、少女はその身を湖の中へと躍らせた。すぐさまルゥークがその後を追う。
 水際から少し離れたところで、あかねとルゥークの頭が浮かんだ。
「行ってきます、友雅さんっ」
 振り返ったあかねは大きく手を振って、ふたたび水の中へもぐっていく。
「付いていきたいのだが、さすがにねえ」
 友雅は水段に腰をかけ、打ち寄せる波の水を手のひらにすくう。
「私も泳げるようにならないものかねえ?」
 一度、あかねと思う存分に水の中で戯れてみたい。水中で彼女にかなうとは思わない。ただ、自由に泳ぎまわる姿をこの目で見たいのだ。
 カウンセラーの二人に頼んだら、研究してもらえるだろうか?
「寝言を言うなと怒られそうだね」
 そう言いながら、友雅は湖の中央で合流しあう人魚たちを視界に入れていた。
 人魚たちにとっては外海になるらしいこの湖では、彼女たちは遊ばないだろう。巣である湖まで足を伸ばす。心配がないわけでない。いっそ、ついていきたいとも思うが、こればかりはどうしようもない。
 センターとしても、手持ちの人魚を傷つけたりはしないはず。
 件のマンゾーニ伯爵も、人魚に湖へ出られては手が出せないのは友雅と同じだ。
「やれやれ。なるべく、早く帰ってきておくれ」
 だが、たっぷりと遊んできてほしいとも思う。
 尽きない悩みに胸を焦がし、友雅は愛しの人魚を見送った。


 中の島に集いお気に入りの岩場に座り、温かな日差しを全身に受ける人魚たち。
 太陽の光を受けた色とりどりの髪が水に浮かび流れ輝く。湖は錦の水面のごとくに色鮮やかに染まる。
 彼女たちの集う岩場の周りでは水獣たちが群れて泳ぎ、豪快なジャンプを競って遊んでいた。
 そして、人魚たちも人の子の少女たちのごとく、噂話に盛り上がる。
「ねえ、あかね」
「なに?」
 蘭に迫るように話しかけられ、あかねは逃げ腰に答えた。
「あんた、見合いするってホント? 次のシーズンは結婚するの?!」
 蘭のしなやかな裸体が、あかねの裸体に寄せられる。
 唐突な話題に、あかねの表情は驚きにかたまり、むしろ、それを問うてきた蘭に迫るように問い直す。
「なななな、なんで? どういうこと?」
「ううん。うちのカウンセラーがあかねもそろそろ〜なんてことを言っていたから」
 いぶかしげに、蘭があかねの顔を覗きこむ。嘘を看破しつくすほどの真剣さである。
「そんなこと、言われてないよ」
 蘭の瞳があかねのそれを食い入るように見る。供の瞳の中に嘘はない。そこでようやく、黒髪の人魚姫が安堵の吐息を零した。
「そうよね! あかねが結婚して、わたしが結婚しないわけがない! 同じ巡年なのに。しかも、わたしより、てんで幼稚なあかねがありえないわ!」
「ちょっと、幼稚ってどういうことよ」
「言葉どおりよ」
 年頃の乙女は、一日も早く大人に、そして花嫁になることを夢見る。それは、エリュシオンが人魚たちに強いたマインドコントロールの鎖の一つ。
「んもうっ、怒るわよ、蘭!」
「だって、抜け駆けなんて許せないわ」
 ころころと笑いながら、蘭はあかねの悋気をさけて湖へ飛び込む。それを追いかけて、あかねも湖にもぐった。
 二人の人魚が絡み合うように、追いかけっこを繰り返す。それぞれの共生たちも人魚のお遊びに加わっていく。
「ルゥーク、蘭を捕まえて」
「ヴョルンッ、逃げるわよ!」
 少女たちの華やかな歓声が、湖にこだまする。
 あかねたちの追いかけっこを、年嵩の人魚たちは微笑ましく見守り、年の近い人魚たちは、我先にと加わっていく。
 エリュシオンの平和な昼下がり。
 そこには、彼女たちのかけがえのない日常と幸せがあった。
「フィラーラ姉様っ。蘭になんとか言って!」
 なかなか掴まらない蘭に業を煮やして、あかねがフィラーラに助けを求める。蘭はあかねから少し離れたところに顔を出して、舌をぺろりと出していた。茶目っ気のある彼女は、あかねをからかうことを一番のお遊びとしている。
 そして、単純一途な少女はその表情にすぐに反応した。
「ううーっ」
 口をへの字にして、あかねは『蘭!』と叫びながらまた水へもぐろうとした。
「ねえ、あかね」
 フィラーラに声をかけられて、あかねがもぐるのをやめて振り仰ぐ。
「なあに?」
「うちのシーニャがあなたのことをとても心配していたの。顔を出して、彼女を安心させてあげてくれないかしら?」
「シーニャが?」
 シーニャは、フィラーラのカウンセラーで、あかねとも面識があった。
「うん。いいわよ」
「よかった」
 フィラーラは、優しい笑顔を浮かべた。そして、あかねの背後からは、すっかり忘れられた蘭が拗ねて怒ったように少女を呼ぶ。
「あかね!」
「あ」
 あかねは蘭を振り返る。ふと、流れるようにかいま見たフィラーラの笑顔がどこか泣きそうな感じを受けた。
 あかねはもう一度フィラーラを振り返った。だが、そこにあったのはいつものフィラーラの笑顔。
「どうかして?」
「ううん。なんでもない」
 違和感はすでにない。あかねは再び蘭に視線を向けて、今度は彼女を追いかけて水にもぐった。
 アクアウィータの水は、人魚を決して拒まない。けれど、人の悪意を完全に阻むことも決してできない。



 *

「へー。詩紋にしちゃ、えらく簡単にこんだけ譲ってくれたな。しかも、市場価格よりちと安い。あの守銭奴らしくねーな」
 友雅から受け取った明細を確認しながら天真が呟いた。
「色々と手酷くいたぶられたからね。その侘びのようだよ」
「へえ。友雅でも、あの妖怪と渡り合うのは難しいのか?」
「あかねのためでなければ、あまりお近づきになりたい人物ではないねえ……」
 こりごりだと言わんばかりに、友雅が両手を軽くあげてみせる。
「ところで、頼久はどうしたのだね?」
「ああ。ピンチヒッターに借り出されたんだよ。カウンセラーに欠員ができたから、次の担当者の選考があるらしい」
「頼久はここに残るのかい?」
「まさか。文字通り、ただのピンチヒッターさ。カウンセラーの交代って、人魚にかなり負担をかけるのさ。ストレスがたまるんだよ。なんか、捨てられると思っちまうんだろうな」
「で?」
「次のカウンセラーが決まるまで、時間がかかんだよ。決まったとしても、リカバリー他のケアが多くなるだろ。それの諸準備のために呼ばれている」
「君は?」
「オレは忙しいから断った。つか、オレが断ったから、頼久が断れなくなったんだ」
 頼久も、あかねの秘密の引越しの準備でかなり忙しいのだが、どうにも、センターの仕事を蔑ろにしすぎて不審がられるのも面倒なので、結局、天真と頼久はじゃんけんをして、天真が勝っただけなのだ。
「ほう。捨てられた……ということは、カウンセラーを降りたのかね?」
「いちいち人の言葉尻を読む奴だな」
 パーソナルカウンセラーは終身制である。辞職はできないとされているが、やはり、抜け道はあるのだ。
「そーさ。ったく、フィラーラも可哀想だよな。シーニャの奴、何を考えてんだか」
「君らが借り出されるということは、南のカウンセラーかい?」
「それもアタリ」
「彼女が受け持っていたマーメイドは、あかねの友達かね?」
「あかねの友達でないマーメイドなんて、ここにはいないさ」
 天真爛漫な少女は、どのマーメイドにも愛されている。そして、あかねも皆を愛している。
「フィラーラは、あかねの姉貴分みたいなもんだ。オレも、こっちが忙しくなけりゃ断ってねーよ」
 天真の視線は資料にあてられたままだったが、次の友雅の台詞で男に向けられた。
「ならば、帰ってきたらたっぷりと慰めてあげないとね」
 友雅が艶冶に微笑むと、天真のツッコミが入る。
「おい。どんな方法でだよ」
 男の不埒な表情に、不審なものを感じたのだ。
「そんなことは、君が知る必要はないことだよ。まあ、知りたいと言うなら、君と私の仲だ。教えてあげないこともないねえ」
「一生知らなくていい」
 自分の娘に不埒なことをされ、その様子を事細かに知らされたいものか。再び資料に視線を戻し、天真は頷く。
「よーしよし。ルゥークを輸送する名目で入港してるな。これなら、湖まで運べる」
 友雅所有の大型宇宙船が、買い上げたフィリッパーを輸送する目的でアクアウィータの主宇宙港へと到着した。
「すぐに、南の港へ移動させとけよ」
「もう指示は出してあるよ」
「んじゃ。明日にでも作業を開始すっか」
「ルゥークを捕らえなくても大丈夫なのかい? 以前は、ずいぶんと手を焼いたみたいだが」
「仕事終わったら、船をもとの宙港にもどさないとダメだろ。全部終わるまで、作業中にしとくから大丈夫。手際が悪いふりしとけばいいんだよ」
「悪いふりではなく、これは手際が悪いように思えるのだがね?」
 いきあたりばったりの計画書に、友雅は呆れていた。
「頼久がいないって言い訳もあるし、実際、この前の追走劇のおかげで、ルゥークは警備隊を見ると湖の底に潜っちまうからな」
「それで回収ができるのかい?」
「あかねに呼ばせれば一発だ」
「あの子に知らせるのは早いのではないかね?」
「でも、もう出発するし。それに、あの単純タマゴを丸めこむのは難しいこっちゃねーしな」
 いくらでも適当な嘘で誤魔化すことはできる。すでに、友雅たちの駆け落ちも秒読み段階に入っているので、そろそろ少女にバレても支障はない。
「本当は、あかねを外に出すのは反対だったんだろ? でも、湖に放してくれて感謝してるぜ」
 天真は友雅の気持ちを汲んでいた。
「最後の思い出になるかもしれねえからな」
 二度と会うことはないだろう仲間たち。
 少女はそれを知らずに別れを告げなければならないのだ。
「船はセカンドドックに入れておけ。そこからなら、おまえのプールから近いからな」
 搬入作業はそこですればいい。ルゥークをセンターにあるプールに誘うのは、もはや不可能だ。
「さて。そろそろあかねが戻ってくるかな?」
 天真のラボの窓から、薔薇色の夕焼けが零れてくる。
 二人はどちらともなく、その幻想的な空を見上げていた。
「この夕焼けも見納めか」
「忘れられない光景だね」
 初めてあかねと出会った空の色だ。
 友雅も感慨深く外を見やる。
「そろそろ帰るよ。出迎えがなければ、あかねは寂しがるだろうからね」



 *

 まっすぐにコテージに戻ろうと思っていた友雅であったが、パレスに忘れ物をしていたことを思い出し、艇を飛ばして取りに戻る。
 友雅的にはどうでもいいものだったが、あかねが忘れてきたことをとても残念がっていたものなので、致し方なく取りにきた。
「まあ、あの子の喜ぶ顔が見れると思えば安いものだね」
 あかねが残念がっていたもの。それはもちろん、姉から届いた荷物だ。その中にあるロマンス小説の数々。
「やれやれ。私がこんなことをするようになるとはね」
 これを持ち帰れば、間違いなく枕辺のお供となり、友雅はひたすら恥かしい小説を朗読させられることになるのに。
 以前の自分なら、こんなものは放置していただろう。いや、廃棄処分するように命じていたかもしれない。だが、そんなことをすれば、少女の辛そうな顔が思い浮かんでしまう。それは、友雅に恐ろしいほどの罪悪感を湧き起こさせる。
「せめて、お礼のキスくらいはしてもらいたいねえ」
 喜ぶあかねの笑顔を思い浮かべ、友雅は荷物にそれらを詰め込んだ。
 目当てのものを手にした今、用のなくなった場所に長いの必要はない。煩わしい知り合いに掴まる前に、とっとと立ち去るべく身を翻す。
 パレス内には、大運河が流れている。
 十字の運河を軸にして、東西南北に大檣楼が立ち、その側には宮殿のごときホテルが立ち並ぶ。それぞれに最高値のクリアランスのホテルが運営され、訪れた客に最上のサービスを提供している。
 水の惑星に相応しく、優雅に豪奢に。地球にあった水の古都を模してデザインされている。が、道が入り組んでいて歩きにくい。
 合理性のない無駄な空間が、友雅は嫌いではないが、今は煩わしい。一分一秒でも早くあかねのもとへ戻りたかった。
 水上飛行艇の発着ポートへと急ぐため、ホテルの大回廊を横切る。水上庭園を通り抜ければ、時間短縮ができるとばかりに、友雅は園内へと飛び込んだ。
 湖へと伸びた水上庭園は、景観が良いので紳士淑女たちの社交の場となっていた。扇状に広がる広大な庭園内を通り抜けていると、色とりどりの花々の中に談笑の声が混じる。
「やあ、ごきげんよう。友雅さん。そんなに急いでどこへ行くの?」
 ふいに友雅の頭の上から声がかかった。
 人の気配を避けていたはずなのに。失敗したと、友雅は内心で舌打ちしながらも、顔には笑みを浮かべて振り返る。
「やあ。エリアマスター。君こそ、こんなところでどうしたのかね?」
「どうしたもこうしたも、営業活動はエリアマスターの大切な仕事ですからね。本日も、皆さまへご機嫌伺いにきてるんですよ。友雅さんもどうです?」
 上階のテラスから、詩紋は友雅に話しかけてきていた。
「いや。私は急いでいるので」
 そう言って立ち去ろうとする友雅を、詩紋はなおも引き止める。
「そう言わずに。マンゾーニ伯爵が紹介してくれとうるさいのですよ」
 ピタリと友雅の足が止まった。その様子に、詩紋がにっこりと微笑む。
「エリアマスター。それでは、私がすべて悪いようではないか」
 件の人物の登場に、詩紋が振り返る。
「おや。失礼を」
 甘い天使の笑顔が振舞われるが、それはただの営業スマイル。彼が似ても焼いても食えない人物であることを知らない人間はいない。
 螺旋階段を下りて、詩紋は友雅を迎えに行く。そして、一人の人魚を争う男たちを、それぞれに恭しく紹介をした。
「本当はご紹介するまでもないと思うのですが……」
 二人を見比べながら詩紋は語る。だが、その仕草はどこか芝居じみていた。
「伯爵。あなたがお会いしたがっていた、橘氏です。彼ほどの人物をご存じないとは言わせませんよ。なにしろ、銀河の至宝と言わしめる歌声の持ち主ですからね」
「名前だけならな」
 伯爵の値踏みするような視線を、友雅は艶冶な笑みで受け流す。
「光栄です」
 白々と礼をのべる友雅に、マンゾーニも儀礼的な握手を求めた。
「橘友雅です」
「橘財閥の縁の者か…?」
 面白くなさそうなマンゾーニの表情に、見え隠れする嫉妬がある。
「御曹司ですよ」
 次期総帥なのに、知らなかったんですか? と、詩紋は呟く。
「生憎、平民の成金に知り合いはいなくてね」
「ああ。でも、橘財閥は知っていると。それに、友雅さんの家が平民だとか、成金だとか、よく知っていますねぇ……」
 感心するような詩紋の呟きに、マンゾーニはグッと詰まった。
「でも、一言訂正を入れさせていただければ、橘は古い家系ですよ。軽く二千年は溯れる名家です。それに、今は平民ですけど、二百年前はれっきとした貴族ですからね」
 どうしてこの男は一言多いのか! と、マンゾーニは詩紋を睨む。
「ふんっ。東洋のロートルな血統を主張されてもね」
「そうですか。まあ、でも、友雅さん自身、それとは関係のないところでも、十分に有名人ですけどね。オペラとか行かれたことがないんですか?」
 詩紋の慇懃無礼な嫌味は、軽やかに滑っていく。
「私は超一流の芸術家の舞台でないと、見る気がしないのでね」
「おや。あんなこと言われてますよ、友雅さん」
「いや。彼の言うとおり、私などまだまだだよ」
 他人の誹謗は、友雅にとって痛くも痒くもない仕儀である。無表情な笑顔を浮かべている男に、嫌味など虚しいだけだろう。
「そうですか? でも、あかねはあなたの歌に夢中ですね」
「嬉しいことにね」
 友雅の表情は、まさしく輝くようだった。無表情だった笑みが、あきらかに温かなものへと変化する。
「なるほど。あかねも趣味が悪くなったものだ。あの子には、もっと素晴らしい音楽を与えてあげなければならないようだね」
 自分の言葉には顔色一つ変えなかった友雅が忌々しい。まるで、自分が軽視されているようで、マンゾーニは面白くなかった。
 一拍の空白。友雅と詩紋は完全に、一瞬だがマンゾーニの存在を忘れていた。
 それを誤魔化すように、詩紋がマンゾーニをあらためて紹介する。
「で、友雅さん。こちらが」
「いや、いいよ。知らなくても」
 詩紋に負けない笑顔を浮かべて、友雅は真正面からマンゾーニを無視した。
「大人げないですよ」
「そうかね?」
 友雅を苛立たせたのは、マンゾーニの一言だった。彼が、まるで自分のもののように『あかね』の名を口にしたから。それだけで、友雅の胸のうちに激しい怒りがうねる。笑顔の内にその怒りをひた隠し、友雅はマンゾーニを一瞥する。
 友雅と視線が交差する。フッと微笑む伯爵のその笑みは、傲慢さを湛えた不敵なもの。
「君に名乗って貰ったのだ。礼儀としてこちらも名乗っておこう。私の名は、アレッサンドロ・ブッツァーティ・カルヴィーノ・マンゾーニだ」
 一度ではとりあえず覚えられそうもない名前に、友雅は視線を泳がせる。とりあえず、あかねがこの男の名前を覚えることはなさそうだ。
(なにしろ、小説の主人公でも、長ったらしい名前はショートカットさせるからねえ)
 勝手に愛称をつけてそれを友雅に使わせるほど。少女はあまり記憶力がよくなかったりする。ただし、自分に都合のよいことに関しては、非情に記憶力がよろしい。実に現金な人魚なのだ。
「なにかね?」
 気もそぞろな友雅に、マンゾーニが訝しげに問う。
「いえ。ずいぶん、長い名前だと思っただけです」
 こちらも慇懃無礼なほど丁寧に答え、だが、友雅の嫌味は相手に伝わらない。自身の血筋に絶対の誇りを持っているマンゾーニは、友雅の評釈を羨望だと受け止めたのだ。
「長い歴史の現れだからね、当然だよ……」
 さりげなく、自分の血統の良さを誇示するマンゾーニ。
(…………………)
 マンゾーニの勘違いに、友雅は内心呆れていた。そして、笑いそうになるのを必死で堪え、小さな咳払いで誤魔化した。
 一頻り紹介してもらって満足したのか、マンゾーニは友雅を無視して、詩紋に以前より願い出ていたあかねの譲渡の話を切り出した。
「エリアマスター。あの話だがね、そろそろ色良い返事が頂きたい」
「伯爵」
「あかねの為に必要な物はすべて揃えた。今回、帰る時にはあかねも供に連れ帰りたいと思っているのだよ」
「またその話ですか?」
 詩紋は大仰に肩を竦める。
「何度も言いますが、お断わりします」
 大きく拒否の意を表すが、相手は退かない。それどころか、さらに言葉を重ねようとしたマンゾーニの口を遮って、友雅が一歩先んじた。
「エリアマスター。その話でしたら、私にこそお願いしたい。あなたにとっても、私にとっても悪い話ではないでしょう?」
 ことあかねに関しては、友雅も退かない。
「そちらもお断りしたはずです」
 友雅の方を向いて、詩紋はこれまた淡々と断る。
 あかねをくれてやる意志は、現在のところ中央には無い。
「あの条件を呑むなら、考えてさしあげてもいいですよ」
 取引きの天秤は、今のところ友雅に向いていると示唆する。さりげなく、エリュシオンが持つ交渉カードの強さを、詩紋は二人に見せつける。
 どちらも、互いを意識し、交渉を有利にするために、さらなる条件の提示を余儀なくされたのだ。
「何だね、その条件と言うのは? 私は飲むぞ!」
 マンゾーニの方はそんな話は入ってきていない。
「イヤです。あかねを大事にしない人には譲りません」
「大切にしている。これ以上ないほどに」
「さて、どうでしょう?」
 まるで、マンゾーニの胸の内を見透かすような詩紋の視線に、男は後ろめたさを誘発される。
 マンゾーニは誤魔化すように小さく咳払いをした。
「では、この男は私よりも大事にするとでも言うのか?」
「貴方よりは、少なくとも………非人道的には扱わないでしょうね、無体はしても……」
 ジト…と、詩紋は友雅を見た。
 しかし、そんな詩紋の非難がましい視線を、友雅は涼しげに受け止めている。
「あ、反省の色がない………やっぱ、条件を飲んでもあげないでおこーかなー」
 からかうように嘯く少年に、友雅は淡々と告げる。
「エリアマスター。私に選択の余地がないように、あなたにもそれが残されていないことを、そろそろご自覚いただきたいねえ」
 三竦みを模していて、本当の戦いは友雅と詩紋の間にある。
「まったく。友雅さんは、他人を脅すのが上手いよ。この勝負は痛み分けだね」
「まあ、君がそう言うのならそうなのだろうねえ」
 明らかに、勝負は六分、四分。友雅に分がある。負け越している分を、詩紋はマンゾーニをぶつけてくることで相殺しようとしている。
「さて。姫が待っているのでね。このあたりで失礼したいのだが」
 詩紋とマンゾーニをそれぞれに一瞥し、友雅は謝辞する。
「伯爵。ごきげんよう。機会があれば……また。エリアマスター、私は諦めるつもりは毛頭ないよ。早く、君が諦めなさい」
 艶麗なる微笑を残し、友雅は二人に背を向けた。
 消化不良しか起こさない男たちとの会話はこれまで。愛しい人魚の待つ巣へ、友雅は急いで帰っていく。



NEXT≫




展示室≫
Cream Pink /  狩谷桃子 様