ブルーマーメイド

= 王子様と人魚姫 =



− 4-3 −


 高くジャンプしたルゥークが、着水するときに歓喜の叫びを上げていた。
 一際甲高いルゥークの鳴き声が湖に響いた。
 彼は、友雅を見つけたと叫んだ。
 あかねがビクリと身体を強張らせる。
 そして、湖の入り江に、少女の視線は自然に流れていた。
 向かい風に艶やかな黒髪をなぶらせた、見知った長身のシルエットが瞳に入り込んだ。
「!っ」
 均整のとれた逞しい長身。風になびく髪は波打つ黒。そして、間違えようのないあの華やかなまでの存在感を持った男なんて、あかねはあの男しか知らない。
 あかねはとっさに逃げようとした。ルゥークももちろん追いかける。
 少女が逃げようとする姿を、友雅は見た。
 絶望に心が凍りつきそうになる。だが、凍りつくよりも早く、男の唇から、恋歌が零れる。それは、無意識の行動だった。
 優しく、強く、激しく、恋うる気持ちが旋律に乗る。
 湖面に響き渡る友雅の声。
 それは、古い地球の恋歌だった。
 水中の人魚の耳にも届く、男の歌声。
 少女は足を止め、湖面を見上げた。
 湖水の中で躊躇い泳ぎ、落ち着きなく周囲を見てしまう。フィリッパーは、さっさと湖面に顔を出し、友雅の声に聞きいっている。その姿に恨みがましい視線を向けていたあかねであったが、友雅の歌声に誘われるままに、彼女もまた湖面に顔を出す。

さまよう舟で 夜明けを待つ
ただ 僕は月を見ている
潮風に身をまかせ くるくると舟はまわる
暗闇の中 近くで腕を振る音が聞こえる
波間に落とした指輪を
人魚よ海の底から いつか僕に届けておくれ

今夜だけは 素直でいたい
月を美しいと想い 神秘の世界に驚き
水平線のおぼろげな光の中
目を閉じ 息を吸って 漂っていたい
ただそれだけでいい
さまよう舟で 夜明けを迎えて
君が訪れるのを待つ

 声量の限界を越えて、声帯に軋むような痛みが走った。声が唐突に詰まり、次に唇から零れたのは声ではなく、大量の鮮血。友雅が口に当てた指の隙間から、血が滴り落ちていく。
「……………もう、君に歌を届けることさえできないようだね……………」
 笑うしかない。本当に歌を届けたい相手に歌いかけたいたときに、歌えない。
 誰かに歌いたいと思ったことは初めてだったのに。
 己の無様な姿に、友雅は笑う。
 だが、笑えばさらに激しく喉が痛む。湖岸に蹲り、咳き込みながら血を流し続ける。
 もうどうでもいいと思った瞬間、友雅は強く引き寄せられた。濡れた腕が首に回り、引き寄せられると同時に唇が塞がれる。
 膝をつく男に、人魚が覆いかぶさりながら唇を奪い、舌を絡ませて深い口付けをしかけてきた。
 何も考えられず、友雅はあかねの身体に腕を回し、自らも少女を引き寄せながら、深く口付けを重ねた。
 少女の濡れた髪が、友雅の頬に水滴を落としていく。
 一陣の風が湖面を渡り終えるまでの短くないひとときを経て、互いの呼吸を奪うほどの長い口付けが解かれた。
 男の手は無意識に喉に当てられ、それと同時に、友雅は己の喉の痛みが和らいだことに気付く。
「……………なるほど」
 自嘲の笑みを浮かべながら、小さく首を振る。自分は癒されたのだ。苦しむ己の姿に、心優しい人魚は駆けつけてきたのだ。あの日のように。
 少女に再会できた喜び。それと同時に失望をも味わう。
 あかねが再び友雅に口付けようとしてきた。それを友雅は押し留める。
「……………駄目だ。あかね」
「……………ご、ごめんなさい。でも……」
 まだ友雅は苦しそうで、あかねはためらいがちだが、自らにもう一度男の唇を近づけようとした。
「私を癒したいと思っているだけなら、私に触れないでおくれ」
 哀しげな友雅の表情を、自分への嫌悪と受け取り、あかねは俯く。
「……………そんなに、わたしに触れられるのがイヤ?」
 それでもいい。あかねは今だけは退くまいと、顔を上げた。
「……………あと少しだけ我慢してください」
 泣きそうにゆがむ少女の顔。だが、それ以上に、友雅の表情が哀惜に満ちていた。
「違う」
 友雅は力強く頭を振り、あかねの誤解を否定する。そして、意を決して自らの思いを言葉にしていく。
「……………ごめん」
 そうささやきながら、友雅はあかねを掻き抱く。腕の中の少女は、目を見張って身体を硬くした。
「すまなかった。とても酷いことを言ってしまった……………許されることではないが、許してほしいと思っている」
 友雅は心から謝罪した。
「責めはいくらでも受けるよ。お願いだから、今は逃げないでおくれ」
 驚いたあかねが顔を上げて友雅の顔を見た。
「だって、わたしに触れられたくないほど怒っているのに……」
「怒ってなどいない。怒っていたとしても、それは君にではなく、自分自身にだ」
 友雅が、素直に弱みを見せるのは、あかねにだけだろう。
「正直なところ、私はあかねにもっと触れてほしいと思っているよ」
 あかねの頬に指を滑らせ、切なげに想いを伝える。
「ただ、君が私を愛したいと思っていないのなら、触れられるのは辛いのだがね」
 それくらいなら、いっそ触れられたくない。愛されないなら、癒されたくもない。
「私が欲しいのは、君の慈悲じゃない」
 情熱が友雅の背中を後押しする。その衝動のままに、男は少女に希う。
「私は、君の愛がほしいのだよ」
 少女の小さな手を恭しく手にとり、その甲に口付ける。そして、罪人は、請うるように少女の裁可を待つ。
 驚くなんて生易しいものではなかった。あかねはあんぐりと口を開いたまま、友雅を見上げている。
「……………だ、だって……」
 今も、あのときの冷たい友雅の眼差しを覚えている。思い出しただけで身が竦むような瞳をしていた。
「……………うそ、よ」
「嘘じゃない。君が信じられないのもわかるよ」
 吐き出した言霊はかえることはない。自分の言葉が、少女を恐ろしく傷つけていたことを、腕の中のあかねの体温が、わずかに下がったことで、友雅はまざまざと感じる。
「……………それに、わたし……人魚だし……………」
 養殖されている魚と変わりない。ただ、それよりも希少価値があるだけの、人間に従属する生物。
「あかねだよ。……ただの、あかねだ」
 人間でもなく、人魚でもない。友雅は少女のあるがままを示す。
 驚きで見開かれた少女の瞳が、わずかに喜色を浮かべていた。だが、すぐにその色は曇ってしまう。強いマインドコントロールの呪縛は簡単に解けない。
「意地っ張りで、頑固で、寂しがりや。そして、臆病で傷つきやすい、普通の女の子だよ」
「わたし、ズルイよ。そんないい子じゃないっ」
「普通に狡いだけだと思うがね。狡くない者など、人間にも、人魚にもいないと思うよ。少なくとも、私は君の百倍くらい狡猾で、残酷だったりするのだが、そんな男はやはり君に想いを伝える資格はないのかねえ?」
「違うっ。友雅さんは優しいわ。それに、わたし以外の人魚は狡くなんてない」
「ふーん。でも、私は狡いあかねがいいのだけど? 色んな感情を持っている君を愛しいと思っているよ。それに、私が優しいのは君にだけだ」
 しかも、その優しさは諸刃の剣。
「だが、優しさの分だけ残酷だったろう?」
 それは、鋭い刃となってあかねを引き裂いた。ぱっくりと開いた傷は、今も生々しく少女の傷口から血を流し続けている。
「…………………………」
「あんな風に突き放すのなら、優しくされない方が良かったと思わなかった?」
 あかねの戸惑い揺れる瞳の中に、友雅は己の言葉が図星をついたことを察した。
「ごめん。私の手を離す君が、愛しさを重ねた分だけ憎かった。自分のものにならないなら、その綺麗な心に、ずたずたに引き裂いた傷を作ってやりたいほど君を憎んだ」
 こんなに妬心の強い人間とは、友雅も思ったことはなかった。だが、誰かを想い慕う心は強い執着を生む。情熱など、カケラもないと想っていた自分の心にまで。
「だが、こんな言い訳が、君を傷つけた免罪符になるわけでもないがね」
 むしろ、許されない方が、友雅は気が楽だとも思う。少女が傷ついた分だけ、己も傷つけたいのだ。あかねに受け入れられない現実は、友雅を地獄に突き落とすほどの苦しみを与えてくれる。
「あかね……私は弱く、愚かな男だ」
 友雅は目を閉じ、己の愚かな行動の数々を心の中で反芻する。消えない罪。消えない罰。
 友雅の手のあかねの手を握る力が、ぎゅっとこもる。そして、真摯な視線が少女へと向けられた。
「そんな男だが、君の側にいたい。いや、いさせてほしい」
 図々しいことは百も承知だ。だが、もはや、あかねと離れて生きてはいけない。
 愛を得ることが適わないのなら、もはやこの身にどんな癒しも必要はないのだ。いっそ、引導を渡してほしい。
 裁可をあおぐ男を、少女は食い入るように見つめた。
「……………わたしが、嫌いじゃないの?」
 恐ず怖ずと少女が問う。
「君が嫌い? とんでもない」
 友雅は頭を振る。
「……………愛しているのだよ」
 もはや、自分のこの姿が無様だとは思わない。友雅は胸を張って、あかねに愛を語る。
「人魚でも?」
 無意識にあかねの手が、友雅のシャツを握り締めていた。男の腕に爪が食い込むほどの強い力で。
「あかねを、愛している」
 友雅の愛の言葉が唇から開放された瞬間、あかねの腕が男の首に伸び、強い力で抱きついてきた。友雅はあかねの身体をきつく抱きしめる。
 もう、離しはしない─────────。
 スッと友雅の指が動き、おとがいを取られ顎が上げられた。
 友雅の翠の双眸があかねを捕らえる。少女はそれだけで動けない。
(……友雅さん……)
 明けの明星に目を奪われたあかねは、抵抗することを忘れて友雅に魅入った。そして、しっとりと重ねられる友雅の熱。優しくて羽のような口吻け。閉じた目蓋の奥には、輝く恒星が流れ落ちていた。


 やっと捕らえたマーメイドを、友雅は抱き上げて湖から引き上げる。
 口付けた時はあんなに大人しかったあかねも、我に返ると恥かしがって、腕の中でじたじたと暴れている。
 その反応は、友雅にとっては、嬉しいような残念なような。
(あかね……)
 やっぱり嬉しいと、友雅はあかねの頬からキスを掠め取った。
「と、友雅さんッ!」
 焦って暴れるあかねに、友雅は当然だと呟いた。
「君が可愛いからだよ」
 ボッと火が付きそうなセリフを友雅は臆面もなく口にする。
「……………っ」
 臆面のないささやきに、あかねは顔を真っ赤にして俯く。
 そして、居たたまれない気持ちのままに、言葉にしていた。
「降ろして……友雅さん…」
「嫌だね」
 簡素な速答がかえる。
「ど、どーして?」
「君に湖の中に逃げられたら、捕まえるのは至難の業だからね。まあ、ルゥークが味方についてくれているみたいだから、捕らえられないことはないみたいだけど」
 逃げられないように陸に上げてしまうのは当然だ。友雅の言い訳に、あかねは頬を染めながら小さくなっている。
 足元でルゥークがキュイキュイと鳴いている。友雅には何を言っているのかわからないが、あかねには理解できるのだろう。少女の顔色がますます赤くなっているのを見れば、一目瞭然だ。
「ふふ。ルゥークはどうやら、私の味方のようだね?」
「ちっ、違うわ!」
「おや、そう? さしあたり、私のところへあかねを連れてくることができて、任務完了とか言っているのではないのかな? ついでに、キスしてるとでもはやしているのかな?」
「どうしてわかるのっ?!」
 あかねの驚愕は言葉になっていた。
 素直な少女の反応に、友雅は声を出して笑った。
「ルゥークには感謝しているけれど、私は恋人の可愛い姿を平気で曝せるほど、心広くはないのだよ」
 あかねの可愛い姿は、自分だけが見てもいいのだ。友雅の足がゆっくりと水段を上っていく。
「ど、どこへ行くの?」
「君が逃げられない場所へ」
 逃げても、友雅が追いかけられる場所へ。
「やっ。ヤダ……」
 とっさに友雅の腕から逃れようともがいたあかねは、男に強く抱きしめられて、その逃亡を阻まれた。
「ダメだよ。あかね、逃がさない」
「逃げないから下ろして」
「それも却下」
 せっぱ詰まれば人間は自分のホームグランドに逃げ込むもの。あかねを抱き締めたまま腕は、当然のように少女を捕らえ続ける。その腕の鎖は、温かな戒めであった。
「ホントよ。もう逃げないわ。というか、逃げられない。逃げたら、友雅さんは、湖の中に飛び込んでくるでしょ?」
「当たり前だ。泳げなくても、追いかけるに決まってる」
「ダメ!」
 そんなこと、させられない。
「友雅さんが死ぬのはイヤ。会えなくてもいーから、生きてて欲しいわ」
 友雅が湖に沈みゆく想像をしただけで、心臓が止まりそうになる。それに、友雅が血を吐いた記憶は、今も生々しい。
 嫌われることより、失うことの方が恐ろしいと、あのときに理解した。
「わたしに、友雅さんを癒させてくれる?」
 唇を寄せようとする少女に、友雅は愛を請う。
「ありがたい話だがね、私は君の癒したい気持ちではなく、愛する気持ちがほしい」
「大好きっ……愛しているから、癒させてほしいの…。この喜びを、誰にも渡したくない」
 友雅の背に腕を回してあかねも友雅を抱き締める。
「あかね………」
 しっかりと互いの背に腕を回しあって二人は抱き合った。そして、どちらともなく顔を上げ合い、見つめ合う。
「愛している………」
「わたしも……わたしも、好き。友雅さんが好きっ」
 自然に出てくる偽りの無い言葉。
 あかねの告白を飲み込むように、友雅はあかねに口付けた。やっと手に入れた存在を確かめようと、狂おしいまでに激しく。
「……んんっ………」
 激しい友雅のキスに翻弄されて、あかねはくぐもった喘ぎを洩らす。
 何度も何度も口付けてきた友雅が、やっと唇を放したかと思えば、苦しいくらいにきつく抱き締められる。
「あかね。もう一度、もう一度言っておくれ」
 今度は好きじゃなくて、愛しているがいい。と、友雅の要求は段々肥大していく。
「……………なんだか、何度も言うと恥かしいんだけど」
 だんだん我に返ってきたあかねは顔を茹でダコのように真っ赤にして、口をパクパクと動かしている。
「聞こえないね」
 要求を引っ込めようとはしない友雅は、当然の権利のようにあかねに強要する。
「で、でででも……」
「愛している、あかね」
 あかねが告げてくれない代わりに、友雅はさら告白を重ねる。
 ついでにあかねの真っ赤に熟れた頬にチュッと音が出るくらいのキスを付け加えた。
「まだ足りない? もっと言おうか?」
 期待に満ちた目であかねからの告白を待ち構える。
「……………」
 嬉々として待ち構えられても、あかねは困る。
 そんなさっくりと言えるようなセリフじゃないのだ。
「…あ………………」
 真っ赤になりながらも、それでもあかねは必死で言葉を綴ろうと努力していた。その素直な姿勢は友雅の目から見れば、愛しく、また可愛らしく映る。
 思わず、助け船を出してやりたくなるくらいに。
「言葉がダメなら、態度でもいいよ?」
 そう言って友雅は、目を瞑って唇を差し出してみる。
「……………」
 ここまで据え膳用意されても、あかねは踏ん切りがつかない。
 たかが、キス。
 されど、キス。
 想いのカケラを託してする初めての口付け。
 そおっと、友雅の端正な顔に両手を添えて、顔を傾けて瞳を閉じる。
 でも、そこから先へ進めない。
 どうしてか、恥ずかしいのだ。
「…あかね………さっきは自分からしてくれようとしたじゃないか」
 いつまでたっても降りてこないあかねの唇に痺れを切らした友雅が、目を開いた時に待ち受けていたものは、伏せた睫を震わせてそれでも果敢に口吻けにチャレンジしようとするあかねのドアップ。
(可愛いねえ……)
 このまま気長に待っていれば、きっと口吻けは貰えるだろう。
 友雅の唇が自然と笑みの形を形どる。
 でも、自分はこんな可愛いあかねの顔を見せられては、我慢できそうにない。
「……あかね……」
 右手をスッとあかねの後頭部に手を回して、左手はあかねの腰に置き、そっと引き寄せて口付けた。
「ぁん………」
 何度も羽のように口吻けながら、何度も何度も繰り返した。
「ともっ……」
「黙ってなさい。気分がいいのだよ……」
 そのままあかねを下生えに押し倒し、自らも折り重なった。

 今、言葉はいらない────────。
 ただ、キミが欲しい───────  。



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