ブルーマーメイド |
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= 王子様と人魚姫 = |
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* 人間はマーメイドの稀有な能力を狩るために、自分たちが持ちうる武力を使ってこの惑星の生命体を侵し続けた。 元々、好戦的な知的生命体でなかったマーメイド達は人間たちのいいように蹂躙され、次第に数を減らしていき、絶滅寸前まで追い込まれた。 けれど、マーメイドが本当に絶滅して困るのは、彼らを狩っていた人間で、マーメイド達は戦うよりもすでに滅びを選んだ種族だったんだ…と、天真は静かに語った。 「優しすぎた……と言うよりは、すでに元から科学力に差が有りすぎたからな。彼らもそれは分かり切っていたみたいだ……」 「じゃあ、ご先祖サマは生きることをあきらめたの?」 あかねの素直な問い掛けに、天真は笑って否定する。 「冗談。そこまでマーメイドはお人好しじゃないよ。おまえと同じく、戦ったさ。ただし、殺し合いでなく、何度も話し合いをするために人間の前に姿を表したんだ。でも、その度に狩られていたみたいだけど」 「………………」 「人間からしてみれば、マーメイドは馬鹿みたいに素朴で素直で誰かを疑う事を知らない……純粋な生き物だったんだ。今のあかねみたくな」 「わたしが…バカで素直でお人好し?………何か、バカにされてるみたいなんだけど」 少女はむすっと頬を膨らませる。 「ちい姫、話が進みません。拗ねるのはあとにしてください」 頼久があかねを黙らせて天真に先を促せた。 「人間が、マーメイドを狩る方向から飼う方向へ意識が向いたのはこの頃だ……。種族の違うマーメイドを飼育するのは恐ろしく根気と手間と研究がかかった。ここまでは、頼久も知っているな?」 「ああ。だからこそ、マーメイドの為に身体と精神を守るべくそれぞれの分野のエキスパートが必要になったのだ。違うか?」 それはあくまで表向きの話だ。 マーメイドの誇り高いプライドは、狩られるよりも飼われることに著しい屈辱とストレスを感じたようだった。次々とノイローゼで死んでいくマーメイドと、後を断たない自害するマーメイド。 「どうしようもなくなった人間はな、マーメイドのプライドごとマインドコントロールにかけたのさ……」 「マインドコントロール?」 キョトンとするあかね。まったく、自覚がないらしい。そう、当たり前だ。もう、何百年もの昔から遺伝子に組み込むようにコントロールし続けてきたのだから。 「飼われることに疑問を持たないように。人間への奉仕に疑問を持たないように。自我を持たないように。人間に逆らわないように。そして、誰も愛さないように……」 天真は遠い目をして懺悔するように呟く。 「そう、友雅を好きになる前のおまえは、皆が好きで、実は誰も好きでなかったんだ……」 自分たちと別れが来ても、最終的には人間に逆らわないようにコントロールされていたマーメイド。あかねも例外じゃない。 でなければ、この情が深く諦めの悪いマーメイドが、自分たちといきなり会えなくなる理不尽なシステムに、どうして疑問を抱かなかったのか? 抱いたとしても、深くは考えないまま、受け入れるようにコントロールされていたはず。 言わば、アレが最初の登龍門。あのシステムに引っ掛かったマーメイド達の運命を天真は知らない。 何しろ、成人前のマーメイドの死亡率の高さは折り紙付きだ。それが自然死であるかどうかは別の話になる。 天真の勘が外れていなければ、そこで始末されるマーメイドは少なくない筈だ。いかに貴重な種とはいえ、異分子はこのエリュシオンに必要ない。 マーメイドの出生率は悪くないのに、どうしてか、成人するマーメイドの数が少ない。 マインドコントロールもさることながら、価格破壊もおこさないように、醜悪なほど陰湿に管理されていたのだろう。 これは、あかねには言う必要の無いこと。 そっとあかねの髪を撫でながら、天真は今さらながらに、目の前のマーメイドの運の強さに感謝した。 この仮定を叩きだした時、自分は自分を呪った。知らずに育ててきたとはいえ、もし、あかねが自我に目覚めればこの子供は殺されてしまうと。 自我に目覚めるな! いや、目覚めてくれ! 幾夜この二律背反に、天真は苛まれてきたか。 そして、とうとう運命の日はきたのだ。 ギュッとあかねを抱き締める天真に、あかねは頭を振る。 「ウソよ。わたしは天真くんも、頼久さんも大好きよ。もちろん、鷹通さんだって大好き!」 誰も好きでないなんてのは嘘だ。だって、自分はこんなにも皆が好きなのに! 「ああ、知ってる。あかねがオレたちを本当に好きなことは」 マインドコントロール内で許されるギリギリの好意を自分たちは受けていたのだ。 だから、決して自分たちはあかねから魂の底から愛されることはない。でも、それでも構わないのだ。 「天真………」 頼久の声が震えているのに天真は気づいた。 「ああ、おまえの聞きたいことも言いたいことも、今夜教えてやるし、聞いてやる。だが、その前に、今から言う話に協力しろ、共犯者!」 ニヤリと天真は不敵に笑って頼久を見据えた。 「あかね、よく聞け。そしてこれから言うことを必ず守れ、そうしねーと、おまえはこの忌まわしいエリュシオンの網に引っ掛かる」 「天真くん?」 「そうなると、俺や頼久、それに鷹通でもおまえを守りきれない」 「!ッ」 自分たちの前以外では、極力従順なマーメイドでいるように。そして、あかねが誰か一人に執着している事実を決して他の奴らに悟られないようにしなければならない。 「マーメイドは一生に伴侶はたった一人だ。お前が、友雅を選んだ以上、もう他のどんなマーメイドとも番うことはできない」 死によって別たれても、人魚は唯一の相手を恋い慕う。伴侶を定めた人魚は、他の相手を認めない。だからこそ、エリュシオンは人魚の恋を戒めたのだ。 「お前が、アーヴィングを受けいることができなかったのは、そういう理由もあるのさ」 天真はそう言いながら、頼久を見やった。 「だから、あかねはもう二度と客を取れない」 「……………それは」 蒼白になった頼久に、天真は頷く。 客を取れないマーメイド。そう、役に立たない人魚の行く末を、知らぬ彼らではないのだ。 「今はまだ誤魔化していられる。幸か不幸か初の試みのダブルブッキングでした仕事と、試薬の後始末のおかげで誰もがおまえの精神状態が普通でないと思っているからな。多少、疑わしい発言や行動を起しても大目に見てもらえるだろう。だが、これはそんなに長い間使える手じゃない」 天真が考え込んで顎に手を当てた。 「時間の問題……にならないか?」 頼久が心配げに指摘したことは、的を得ている。 「その通り。だから、その前に逃げねーとな」 じーっと考えこんで、天真は意を決した。時間は無い。だが、手段が無い訳じゃない。 「………友雅を使おう………」 「友雅殿? 何の為に?」 不思議そうに問う頼久に、天真はバツが悪そうに笑う。 「アイツの恋心をちょいと利用させてもらうのさ…」 ウチの大事なマーメイドをここまで泣かせたのだ。責任は取ってもらう。 「ヤツにあかねを受け入れて貰う」 橘家クラスの大財閥なら、出来るかもしれない。よしんば、出来なかったとしても、友雅自身もかなりの資産家であるし、彼の名声も武器になるだろう。 (駈け落ちでもなんでもかまわねーさ。友雅ン家くらい金が腐るほど余ってりゃ、あかねの為に湖の一個や二個、簡単に作れるだろーし) 橘のグループを味方につければ、あかねを守れるだろう。エリュシオンも、彼らを敵に回したくはないはず。エリュシオンの歴史の中で、マーメイドが売買されなかった前例がないわけでもないのだ。ただし、それは簡単なことではない。 「さしあたっては、あいつにコロニー一つ買ってもらうかな?」 湖を造ったところで、環境をアクアウィータと同じくするのは至難の業である。コロニーごとアクアウィータの環境に造る方が簡単だろう。 やっと泣き止んだのに、あかねはまた顔をクシャッと歪ませて泣きそうになる。 「そんなコト、友雅さんにしてもらってどうするの?」 話が極端から、極端に飛んであかねには付いていけない。 「……だって、わたし……友雅さんに嫌われているのよ。どーやって助けてもらうの……」 そう、もとはと言えば、友雅に無視され続けて、おまけに彼のパートナーも降ろされて、どうしようもなくなって二人のもとに慰めてもらうために逃げ込んできたのだ。それなのに、問題はとんでもないところへ飛び立とうとしている。あかねは不安と恐怖でまなじりに涙が浮かんでいた。 そんな少女を、天真は笑い飛ばす。 「おまえが友雅に嫌われてる?」 天真は目を丸くして大仰に驚いた表情を作った。そして、プッと吹き出して豪快に笑う。 「どうして何も想っていないマーメイド相手に、腹を立てる必要がある?」 腹を立てている理由なんて、一目瞭然ではないか。 「なるほど!」 頼久もポンと手を叩いて納得した。 そう、何も想っていなければ、腹など立つ訳が無い。腹いせに、シカトなんて決め込むのは気になって気になって仕方のない証拠に他ならない。 だが、あかねには天真の謎解きが分からない。 「でもっ、友雅さんってば、全然口もきいてくれないし、側に行ったら逃げるし、目が合っただけでプイッてそっぽを向くのよ………」 言っている内に、少女は悲しくなってきた。 「そりゃ、重傷だな。益々、脈がある」 「同感!」 天真の分析に頼久も同意を示す。 「どこがっ?」 話がやっぱり全然見えなくて、あかねは苛立ちのあまり、拳がブルブルと震える。 「まぁまぁ。分かんねーなら、構わねーさ。実際、こーゆーのは当事者の方がわからねえもんだし。あかねにも分かるよーに、オレ達が動いてやっから、おまえは大人しく待ってな。な、頼久?」 「そう。そう。ちい姫は大人しく待っていてください」 「ほら、おまえはもう帰れ。オレ達は忙しーの」 トントンとあかねの背中を押して、ラボを追い立てる。 「ちょっと、天真くんっ! 頼久さん?」 「あー、忙しい! 忙しい!」 くわえ煙草で天真がコンピューターにアクセスし始めた。その横で頼久もデータを拾い始める。 「……………」 あかねは唖然と二人の後ろ姿を眺めた。 はて? さて? 一体、自分はここに何をしに来たのだろう? すごすごとあかねは天真のラボを後にする。途中振り返ってもう一度先程のコトを考え直してみるがやっぱりよく分からない。天真たちの行動はもっと分からない。 大人のやることはよく分からない。人間の考えていることはちっとも分からない。 とにかく、 (……なんだか、泣くに泣けなくなっちゃった………) 気が付いたら、こうなってしまったのだ。 それが、良かったのか、悪かったのか? この時のあかねに、判断がつきかねたのは確かだった。 * 「あかね……今日は湖に出かけないのですか」 正確に言えば、今日も。窓辺に腰掛けて、湖を見つめるあかねに、鷹通は声をかけた。俯きがちの少女は顔を上げて、扉の前に立つ男を見上げた。 「鷹通さん……」 あかねは嘆息を一つ零す。それは、態度での返事のようなものだった。 気分じゃない。今は、何もしたくない。でも、そう伝えれば、この心配性のカウンセラーはとても心配するだろう。だが、カラ元気を浮かべるだけの気力さえない。 「来週から検査がたくさん入っています。今の内に行っておかないと、当分、湖へは遊びに行けなくなってしまいますよ? いいのですか?」 ゆっくりとあかねに近付いて、元気の無い丸まった背中をポンポンと叩いて励ましてやる。 「ほら、しゃんとしてください。とにかく、行っておいで」 「……あんまり行きたくないの。鷹通さん……」 「昨日、ルゥークが岸辺まで迎えに来ていたよ?」 ほら立って、立ってと、鷹通は急かしてあかねを立ち上がらせた。そして、玄関の外へあかねを追い出す。 「濡れてこないと、家には上げませんよ。さ、遊んでいらっしゃい!」 「…………………」 あかねの視線は頼りなげにさ迷った。 ここはあかねのフラットだ。すでに、来客用の友雅のコテージは辞した。 湖に出ても、友雅には逢えない。 彼のいる湖は、センターにほど近い人造湖。 その湖にはういがいる。今の友雅のパートナーだ。 (……会いたいよ…………) 友雅に逢いたかった。それと同時に会いたくなかった。自分を迎えに来ていたように、ういを迎えに来る友雅の姿など見たくない。 あかねらしからぬ後向きな思考は、友雅のコテージを出て行ってからずっとあかねを苛んでいる。 「あかね!」 珍しく鷹通に大声で呼ばれたので、あかねは直立不動の姿勢になった。その条件反射に鷹通は口元を少しだけ綻ばせ、すぐに真顔に戻る。 「いつまで逃げる心算なんですか! 君はいつからそんな弱虫になったの?」 コツンッと、軽く拳であかねの頭を小突く。 そして、静かで穏やかな視線であかねを優しく見つめる。 「失恋したくらいで負けないで」 「えっ、鷹通さんっ?」 何で、それを!? あかねは目を見開いて、驚きを顕にあたふたと狼狽えてしまう。 「一度や二度の失恋がなんです。人間だって初恋が実るなんてのは、珍しいんですよ。と言っても、君たち人魚には一生に一度の恋ですけどね……………」 「……………怒んないの?」 人魚が人間を好きになったのに。人魚の恋は、エリュシオンの禁忌のはず。 自分を励ます鷹通に、あかねは恐る恐る尋ねた。自分のこの感情がどんなにかエリュシオンにとっては忌むべきモノで、鷹通には厄介ごとの種でしか無いはずなのに。 「怒るもなにも……もう目覚めてしまったものは仕方ないですよ。それに、誰かを想うことは、自然なことです。それが、人であれ、人魚であれ……ね」 鷹通はあかねを安心させるように微笑む。 「それにね、親は子供の成長が嬉しいものなのですよ」 「…………………………」 「それにね、どこかでこうなることを望んでいたのかもしれません」 自嘲するように、自白する男は、どこか遠い目をしていた。 嵐のような引き金がなければ、まんじりと淀んだ沼の底で燻っていただろう。もはや、鷹通には動き出す選択しか残っていない。 「あかね」 そう言って、鷹通は己の掌を少女の目の前にかざした。 あかねは驚いて身を引く。そんな少女の眼前から、鷹通は改めて自分の掌を遠くにかざした。 「な、なに?」 驚いているあかねに、鷹通は小さく笑った。 「近くで見ると、わからないでしょう? そして、遠くにいったことで、これが私の掌だとわかる」 拳を握ったり、開いたりしながら、鷹通は語り続ける。 「近くにいるとわからないものもある。だが、遠く離れて初めて見えるものもある」 少女の視線が、鷹通の手から顔へと移動する。 「友雅殿と離れて、君は何が見えます?」 「わ、わたし………」 あかねは俯く。 少女は、悲しみと、寂しさと、愛しさ…………………そして絶望を知った。 「離すことで見えた私の手は、いつも同じ形をしていた? 手など、どうとでも動きます。そして、心もね……………」 距離と時間をおくことで、見えるものもある。 「友雅殿も、何か、見えているのかもしれませんね」 * バルコニーの床に直に座り膝を立てる。傍らに強い蒸留酒を手に届く場所に置いて、男は湖に向き合った。 友雅はいい加減うんざりしていた。 もう、随分経つというのに、頭に浮かぶのは桜色の髪のマーメイドのことばかり。 起きていても、眠っていても、あの淡い髪がちらつく。残像のように、あかねの影が瞳に焼き付いている。 (……………………) 新しいマーメイドのところへ移されてから、まともに眠っていない。いや、あの日、あかねが官吏に連れて行かれた日から眠っていない。 あかねの思い出のつまったコテージはどうも居心地が悪くて、友雅は新たなパートナーの住家へ転居して行ったのだが、あかねのことばかり思い出していたので意味はなかった。 病気になりそうだ。自分はいったいココへ何をしに来たのか? 考えていると段々馬鹿らしくなってくる。 たった一人のマーメイドに、振り回され乱される自分の姿は、己で言うのもなんだが滑稽以外の何ものでもない。 こんなこと簡単に忘れられると思っていた。自分の中から追い出せると信じていた。だが、実際はどうだ? 日毎、薔薇色の悪夢が自分を侵食し、眠れない夜を重ねていくのだ。 「……やれやれ。なんという体たらくだろうね………」 まるで呪いのように、あかねのことばかりを考えている。あの、絶望に歪む少女の表情が忘れられない。涙さえも零れぬほどに傷ついたあかねの顔。 瞼を閉じるたびに、鮮やかに繰り返される光景。友雅は眉根を苦痛に歪ませながら、こめかみを押さえた。 小さな針が、友雅の心を蝕むように刺していく。 慰めを求めて傍らの酒瓶を取り、グラスにも移さずそのまま煽る。だが、いくら飲んでも少しも酔えない。胸にわだかまる友雅の後悔を、酒は洗い流しはしなかった。 「……………」 あかねはマーメイドだ。その存在事由たる癒しを行うからと言って、彼女を責めるべきではない。責めるべき権利は友雅にはないのだ。 頭では理解している。けれど、移す行動が理性に追いつかない。 心にもないことを口にし、あかねを傷つけた。少女を罵りたかったわけじゃない。だが、胸に渦巻く毒素が唇から零れたとたん、それは呪詛のようにあかねを傷つける言葉として吐き出された。 愚かな行動と選択ばかりを繰り返し、相手を傷つける。まるで、少女に読み聞かせていたロマンス小説の愚かな男たちと同じではないか。いや、それよりももっと酷い。 あかねは、なにも悪くない。 忌避すべきは、人間の底を知らぬ欲望。友雅たち人間の不老不死への希求が、少女に地獄を見せるのに。 深いため息を友雅は吐き出す。 (救いようがないね……) いっそ、誤りにいけるだけの勇気があればと思う。今、友雅ができるのは、ただ……少女の住む島に繋がる湖を見つめるだけ。 エリュシオンは多島海である。海の中に、小さな島々がくっつきあうようにして点在していて、そこここの海が小さな湖のように、島の入り江を繋ぎあっている。だから、この湖も、どこかであかねの住む湖に繋がっているのだ。 我ながら女々しいことだ。 自嘲しながら、友雅は床にふてた。 見上げる空は、忌々しいまでに青い。 「まったく、私は何をしているのだろうねえ?」 先日まで、やけになっていた友雅を、新しいパートナーである『うい』が窺うように見ていたが、その視線も煩わしくなってしまい、友雅は彼女から逃れるように住処をパレスへと移した。 あかねの代わりに与えられたマーメイドは、友雅の眼中に入っていなかった。 「いっそのこと、もう帰ってしまおうか?」 もとより、自分の喉も、声もどうでもいい。 まるで逃げていくような己の思考に、友雅は自嘲と嘆息が入り混じった吐息をこぼしながら足を投げ出す。その拍子に、側に置いていた酒瓶が蹴倒され、琥珀色の液体がバルコニーのタイルを濡らしていく。 ボトルから零れる酒は、まるで、あのときに少女の瞳から零れなかった涙の代わりのように流れ落ちている。 罪悪感を促すそれから顔を背け、友雅は視線を横に流して湖を一望する。 あのたゆたう波間に少女は泳いでいるのだろうか? 無意識のうちに、友雅は湖に向かっていた。 あかねと初めて出会った場所へと。 どうせ、部屋の中でも腐るのならば、いっそ、少女の面影が鮮明に映る場所で悶々としようと覚悟してきた。 もはや、あかねを否定することは無意味だ。 なぜ、こんなにも少女に囚われているのだろう? いつのまに、この湖面の色をした翠の瞳に囚われていたのだろう? 「……初めて出会ったときからだろうね」 友雅は水際に腰を下ろし、湖を見つめた。 「ああ、そう言えば、人魚姫の王子も、愚かにも人魚姫の手を離してしまうのだったね」 そして、まったく関係のない女の手を取った。いや、人魚姫の代わりに、命の恩人と勘違いされた女だった。 愚か者の王子にも、頭の悪すぎるロマンスのヒーローたちにも、どうして自分はこれほど共通項があるのか? 持参した酒瓶を、友雅は自嘲しながら煽る。 「私も頭が悪いということなのだね」 否定はしない。というか、肯定してしまう。 「だが、まだロマンスの主人公なら救いはあるかな?」 かならずヒロインと結ばれることができる。最後の数ページの魔法のような展開。友雅的には驚きの三段論法が繰り広げられるが、自分が受け入れてもらえるなら、どんな三段論法が成り立ってもいいと思う。 どんなヒーローも愛しているから、誤解と曲解を重ねていくらしい。そして、愛しているから苦しめてしまうと。そして、恐ろしいことにヒロインたちは愛しているから、男たちのその酷い仕打ちを許すというのだ。 「どちらも、救いようのない馬鹿だな」 図々しいようでいて、とても臆病なあかね。警戒心の強い少女が、再び自分のもとへ訪れることはない。そして、彼女が人間を愛するわけがない。彼女を苦しめる存在を、どうして許せるだろう? 現実は、物語のようにはいかない。 「どんなに厭おうと、人間を見殺しにできないほどお人好しな姫君………もう一度、私は溺れれば、君は助けにきてくれるのだろうか?」 いっそ、確かめたい。 あかねが現れてくれぬのであれば、このままアクアウィータの湖に沈むもいいかもしれない。そうすれば、自分はずっと、湖の底から彼女を抱いていられる。 友雅はじっと湖の水面を睨む。 「もう一度、君を求めたら、君は私のもとへ帰ってきてくれるだろうか?」 あかねを呼び寄せることは可能だろう。友雅が求めれば、エリュシオンは便宜を図るはず。だが、強引に引き摺られる少女を見るのは怖い。二度と、自分を見てくれないような気がする。だが、いまだとてどれほどの違いがあるだろう? 少女に出会えなければ、二度と自分を見てくれる機会さえない。 「……………あかね」 友雅は湖に手を伸ばした。 冷たい水が指先に触れる。 ここは、初めてあかねを見付けた場所。湖の底に沈もうとする自分を引き上げてくれた場所。そして、水獣を従えて、空高く舞い上がったあかねを見とめた場所。 友雅はハッとして視線を凝らした。 波間を水獣が背びれで水を切って疾走し、力を蓄めて一際高くジャンプ───── 弧を描いて着水する 姿を見た。 そういえば、あかねと離れるまでは毎日見ていたフィリッパーも、彼女とともに姿を現さなくなった。 「そううまくはいかないか……」 あの背に、あかねが掴まっているのではないかと、友雅は一瞬期待してしまった。 「あれは、あの子の第一の騎士かねえ?」 買い与えた水獣は、あかねに会いに毎日のように友雅のコテージに姿を表したが、個体を見分けられるほどじっくり見ていたわけでもない。 フィリッパーを見つめる友雅の視線に羨望が混じる。あの水獣になれれば、あかねのいる湖に、友雅はすぐにも泳いでいくだろう。 今も、水獣の背中に乗るあかねの姿が瞼に浮かぶ。 じっと水獣を見ていた友雅の眉根がわずかに寄った。フィリッパーの動きがどことなくおかしい。何か、獲物でも追い立てて遊んでいるのだろうか? 彼らが狩りをするところを始めて見る。 水獣はゆっくりと入り江へと向かってくる。友雅はまんじりとその様子を見ていたが、次の瞬間に身体が凍りつく。 フィリッパーが追い立てているのは、あかねだった。 どうして、あかねがあの水獣に追い立てられているのか? いや、今はそんなことはどうでもいい。 友雅は立ち上がった。ああ、もどかしい。追いかけっこを待つのではなく、自分自身があかねを捕らえにゆきたい。いや、あかねのもとへ参じたい。 「ダメよ。ルゥークっ」 ルゥークはあかねにまとわり付きながら、少女を水門へと誘導していく。あかねが逃げても、先回りして、その大きな身体で進行方向を修正させていくが、必死の人魚はその追走を紙一重で逃げ続けた。 人魚とはいえ、フィリッパー相手に水中の主導権を握ることは無理だった。運動性に大きく開きがあるのだ。少女は、彼の追走から逃れることができない。 「……………どうして? どうして、ルゥーク?」 あかねは泣きながら追い立てられていた。 (あかね 泣ク ダメ あかね 泣カナイ) 「あの湖はダメなのっ。あそこはイヤっ」 友雅とういがいる湖なんて、今は行きたくない。 フィリッパーは逃げ道を塞いで少女の邪魔をした。が、あかねも必死だった。彼らが住んでいる湖の水門を逃れ、その先にあった中央湖への門をくぐり逃げてきた。 ルゥークはあかねを軌道修正させようと、少女を追い立てる。 (コノ湖 違ウ アッチ友雅イル あかね 泣カナイ 友雅? 友雅? あかね 泣イテル あかね 泣イテル) まるで、慰めろといわんばかりにルゥークは友雅を呼ぶ。 (友雅 友雅 あかね あかね ココイル 友雅!) 水獣は必死で友雅を呼んだ。 水中では高性能のソナーをもつ獣だが、水上の生物を探すには向いていない。ときおり、ジャンプしたり、顔を出して首を振り周囲を確認している。初めて友雅に出会ったとき、彼がここにいたことをルゥークは記憶していたのだ。 祈るようなルゥークの叫びが、神に通じたのかもしれない。 |
展示室≫ | ||
Cream Pink / 狩谷桃子 様 |