ブルーマーメイド

= 王子様と人魚姫 =



− 4-1 −
4 湖に降り溜まりし涙





「ちい姫のご様子が、この頃おかしいのだ。気付いていたか、天真?」
 ボソッと洩らすように頼久が呟いた。
「あー、そりゃ、恋煩いしてたらな………」
 新聞を読みながら、こともなげに天真が答える。
「は?」
 頓狂な顔をして頼久は勢い良く天真の方を向く。
「ちい姫が恋煩いっっっ?」
 頼久は目を丸くして、その情報を提供してきた同僚に向かい勢い良く詰め寄るが、天真は親切に現実だと念を押したが、相手に通じるかどうかは別だった。
「発情期か?!」
 シーズンに入るには、リカバリーを受けるか、年に一度の冬至にかかる七日前後を迎える他はありえない。
 生憎、今は常夏の国の真夏の真っ盛り。しかも、ここ最近リカバリーをした記憶もない。
 頼久はまだ、にわかには信じていなかった。それがありありと解る天真は、真実を言っていいものか、悪いものか判断が付きかねて困ってしまう。
「どこのマーメイドにだ?! よもや、フィリッパーに? いや、種族的にありえんな。だが、精神的なものなら……私たちよりも、彼らに近い生命体であるし……だが、ちい姫はそろそろ第二次成長期。恋煩いに陥ってもおかしくはない……でも相手は……??? イノリか??? だが、あれはまだ成長しきってないから、オスの役割は果たせんし……」
 頼久はぶつぶつと呟く。
(ったく、白黒つくまで退かねーだろーな……。しかも相手が人間だって分かったら、どんな反応しやがるかな?)
 それにしても、育てたマーメイドの思春期を素直に受けとめる頼久も、ある意味素直な青年だ。考え方が異様にノーマルである。
 ちなみに、イノリと言うのはあかねの番いの相手(あくまでもセンターが勝手に決めた)で、いずれ二人の間に出来る予定(これまたあくまで予定)の二世のパーソナルカウンセラーになるのが頼久の夢だったりした。
 感慨深げにウットリとした表情で未来予想図を夢見る頼久は、すっかりイッちゃっている。
「頼久………夢を壊して悪いと思うが、あかねの恋煩いの相手はイノリじゃねーぞ」
 からかうように笑いながら天真は訂正を入れてやる。頼久の狼狽えぶりを完全に楽しんでいるふしがある。
「え? イノリじゃない? だったら誰だ…?」
 知っている限りのマーメイド(雄)の名前を指折り数えて頼久は口にしていく。
「あかねの初恋の相手は、マーメイドじゃねーんだよ」
「えッ? マーメイドじゃない? まさか、相手はルゥークか?! こないだの騒ぎは、駆け落ちだったのか?!」
「フィリッパーでもねーよ」
「じゃあ、誰だ?!」
「だから………………だ…」
「聞こえんぞ、まったく」
 肝心な所がまったく聞こえない。耳を天真の口元へ向けて頼久はもう一度尋ね直す。
「……つまり…………」
「つまり?」
 けれど、やはり声が小さい。
「なぜ、大きい声で言わん? ハッキリしろ!」
「阿呆! タブーだから小さい声にしてんだろうが!」
 ガシンッと、天真は頼久の頭を殴った。そして、耳元に小さくだが、はっきりと告げてやる。
「友雅の野郎だよ」
「え?」
 頼久の目は、どんぐりのように大きくなっていた。ぱちくりと見開かれたまま、瞬き一つしない。
 頼久の長すぎる硬直が解けた頃、ようやく声が絞り出される。
「………うそ…だ…ろう………」
 と、呟き。次いで、絞りだすような声を出して、誰か嘘だと言ってくれ…と、絶叫するように叫ぶのだった。
 まさしく、晴天の霹靂。
「客に恋をしたのか?!」
「らしーな。でも、なんであんないけ好かない野郎が……まあ、他の客たちに比べればマシな方であることは認めるけど、それでも……もっとこう」
 検査のたびに、からかわれる対象であった天真は友雅が苦手だった。いや、嫌いだと言っても過言ではない。だが、それでもあかねには優しいパートナーであるようだったので、自分への無礼には目を瞑ってやっていた。が、それもこれも過去の話だ。あかねを傷つける人間を、天真は許さない。
「……あの野郎。ふざけたことしやがると、生きて帰さねえからな……」
 よもや、こんな落し穴に落ちようとは。
「だが、人間だぞ」
「まあな」
 どちらにしろ、悲恋であることには変わりない。二人は結ばれることはないだろう。
 瓢箪から駒を出すような話題で、寒くなっている頼久と天真の許に、その時、ラボの扉を叩く音がトントンッと遠慮がちに響いた。


 温かいココアがあかねの前に用意された。両手で包むようにカップを持ち、そのチョコレート色の飲み物をあかねは見下ろした。
 あかねの大好物なココア。
 天真たちに勧められるまま、あかねはココアを口に含んだ。でも、いつもと味が違う。何だか、今日のココアは少しばかり塩っぱいようにあかねには感じられた。
「あかね、いきなりどーしたんだ?」
 天真はあかねの頭をポンポンと撫でながら、彼の目線に合わせて尋ねた。
「天真くん……」
 じんわりと涙が浮かぶ。
「わたし、…わたし、友雅さんのパートナーを降ろされたの…」
「え?!」
 天真は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして驚いた。
 頼久は、それが泣くほどの事なのだろうか? と、首を捻っている。
(ちい姫は、基本的にヒーリングはお嫌いだったはずだが)
 頼久の記憶が正しければ、好きではなかった筈だ。降ろされたくらいで泣くほど好きだったとは初耳である。
「……それで、どーして泣くのですか? ちい姫」
 さっぱり分からない頼久の純粋な質問に、天真は頭を抱えた。
(ったく! さっきまで何の話をしてたんだよッ!)
 粋狂や冗談で教えてやった訳じゃないのだ。同じあかねのパパSの一人として教えてやったのだ。
(ま、鷹通のヤツは気づいているみたいだけどな……)
 少女の心の機微に、あれほど聡い男もいない。
「頼久、オメー黙ってろ……」
「何だとっ!」
「いーから!」
 不本意げに唇を尖らせる頼久を押えて、天真はあかねに向き直った。
「あかね……泣くほど友雅が好きか?」
 零れ落ちた涙を親指で拭い、天真があかねの瞳を覗き込みながら問い掛けてきた。
 驚くほどその言葉は違和感なくあかねの身体に、そして思考に溶け込んできた。
 友雅ガ好キカ───────?
 あかねは目をパチクリと瞬きしながら、天真の言葉を何度も反芻する。
「天真っっっ!」
「黙ってろ!」
 ビシッと頼久の鼻先に人差し指を押しつけて、いつになく天真は凄んだ。今、大事なトコロなのだ。
「……………」
「そーそー。大人しく聞いててちょーだいね、頼久センセイ」
 頼久はグッと言葉に詰まりながらも、あかねを横目に盗み見た。思い詰めて青い顔をしていた筈のあかねが、天真からポンッと落とされた切っ掛けで、今まで思いつきもしなかった何かに気づかされたらしい。
 その様子に頼久は二重の意味で黙るしかなくなってしまった。今は、天真に預けるしかないらしい。
「あかね、よく考えろ。そして、自分で答えを出せ!」
 あかね相手に、ちんたらまだるっこしい質問をしていては埒があかない。カマを掛けるのはもっと阿呆らしい。あかねを育ててきた天真は、誰よりもそのことを理解している。もちろん、頼久もであるが、コトがコトなだけにどう切り出せばいいかわからなかった。彼は常識人なので常識の範疇内でしか想像力が働かないのだ。
「天真くん……わたし、わかんないよ……」
「ちゃんと考えろ、あかね。大事なことなんだぞ」
「そんなこと、言ったって……」
 分からないものは、分からないのだ。少女は現実から逃げ出すように、俯いた。
「じゃあ、なぜ泣く? 泣く必要なんてねーだろ。お前はヒーリング嫌いだし、友雅も好きじゃないんだろ? だったら願ったり叶ったりじゃねーか」
「……………………」
 そう言われて黙りこくったあかねの頭をポンポンとあやすように叩いた。
「仕事を下ろされて嬉しくないんだろ? だったら、その嬉しくない理由を考えてみろ」
 いつもなら、諸手を上げて喜びそうな状況になっている。大嫌いなヒーリングをしなくてもいいのに、どうして悲しむ必要があるのか?
 あかねの喉はうくんっと詰まった。そして、泣きながら天真に吐き出していく。
「わかんないよっ。でも、側にいたいのっ! ただ、側にいたいの……………」
 それは、偽らざる少女の気持ちだった。
「……………優しく抱きしめていてほしいの……」
 膝に抱いて、お話をしてほしい。
「わたしが、マーメイドじゃなくっても、側にいてほしいの……」
 あかねに近寄るのは、皆、少女がマーメイドだから。命の精霊だから。
「マーメイドとしてじゃなくて、ただのあかねとして側にいさせてくれたのに……………」
 少女の翡翠色の瞳に涙が溢れてくる。
「やっぱり、マーメイドとしてしか側にいられないの?」
 それならそれでもいい。
「……………お仕事するわ。ちゃんと、お仕事するから……側にいて……側にいてよ、友雅さん………友雅さん、他の人みたいに若返りにきたの? だったら、いっぱいいっぱい若返らせてあげるっ」
「まあ。それなりにオヤジだが、そこまで年を食ってるわけじゃねーな。ここに来るにはまだ早い」
「じゃあ、どうして?」
「自分で聞いてみろよ。それが一番いい」
 天真が話すことはどこまでも推測でしかない。あかねが知りたがっているのは、友雅のことだ。本人に聞くのが一番だろう。
「お前が聞けば話してくれるんじゃねーの?」
「ダメっ。友雅さん、わたしと口もきいてくれないっ。もう側に寄るなって言われたわ……………」
「……ったく、年甲斐もなく大人げねえヤツ……」
 天真が小さく毒ずく。友雅の気持ちもわからないでもないが、それでも度量が小さすぎる。
「わたしが友雅さんを癒しもしないで、他の人を癒しちゃったから?」
「ボケ! アイツが、自分からいらねーっつってたんだ。あかねが遠慮する必要がどこにある」
 白々しくも、幼すぎて手を出せないと言ったのだ。
「あのロリコン野郎……」
 しっかり幼女に欲情していたのではないか。我慢しただけ、嫉妬の炎もさぞかし激しいものになっているのだろう。
「……………わたし、こども…だって。う…い……が綺麗だって……………」
 あかねは喉を鳴らして泣きじゃくる。
「……………わたしじゃないマーメイドに癒してもらうんだ。ういに若返らせてもらうんだーっっっ」
 子供の癇癪は凄まじい。いや、女の嫉妬は凄まじい。
 大人の階段を登っていく少女に、天真は面白くないものを感じる。父親とはこんな感傷をもつものなのだろうと、自分に言い聞かせながら、目の前で鼻水混じりの恋の涙を流す少女を見下ろす。
「わたしだって、若返らせてあげることができるのにーっっっ。ういになんか、触っちゃいやーっっっ。抱っこしちゃいやーっっっ」
 恋の涙というよりは、ただの子供の地団駄。まったくもって、手を焼かされる。
「友雅は、若返りにきたわけじゃねーよ。ったく、本人に聞けっつってるのに」
 少女の地団駄はいつものこと。動じた風もなく、天真は自分の知っている情報の一部を少女に明け渡す。
「あいつは、喉の機能がイカれてんだよ。まあ、普通の生活にゃ支障はねえがな」
 ひくんっと、あかねが喉を鳴らしながら、天真を見やった。
「……………友雅さん、お声でるよ? たまに、お風邪をひいたけど……」
 確かに、風邪をよくひく男だった。だが、一晩寝ればたいてい治るくらいの軽度のそれ。友雅自身も気にしてなかったし、あかねも気にしなかった。エリュシオンの気候に合わない人間は、実は多かったから。
「普通の生活にゃ、支障はねーって言ったろ。あいつの職業に問題があるのさ」
「職業? 友雅さん、お部屋でもお仕事してたけど、別にお声を使うような仕事はしてなかったけど」
「アイツの本業知ってる?」
 あかねは小首を傾げる。
「アイツ、歌手なんだよ。それこそ、世界的な作詞家であり、作曲家。そして、歌い手でもあるんだ。実は、オレも、頼久もファンだったりするんだぜ」
 天真は友雅に、人格と歌は関係ないことを教えてもらった。
 彼のことは嫌いだが、彼の作った曲、歌う詩は今でも好きだ。
「聞いてみるか?」
 自分の耳につけていたイヤーピースを少女の耳にかけてやる。そして、首に引っ掛けてあるウォークマンを操作して、友雅の曲を引っ張り出す。
 あかねの耳に鮮やかに響いてくるのは、艶やかで張りのある友雅の声。明らかに自分が聞いてきたそれとは違うが、間違いなく友雅の声だった。
 湖の底にさえ響いてくるほどの力強さと、さざ波のように触れてくる軽やかさ。高く、低く。甘く、せつなく。少女の心へ声が寄せてくる。
 あかねの瞳から知らずに涙が零れ落ちる。
「……………きれい……」
「そうだな」
 誰しもが、この男の声に魅了される。そして、その詩に、その旋律に感動をするのだ。
 内なる力が爆発するように、張りのある声が旋律を支配する。
 研磨された宝石のような声に、あかねは身体が固まるほどの衝撃を受けていた。
 一曲、聴き終えたところで、あかねがため息混じりに天真に問う。
「……もう歌わないの? 友雅さん……」
 ともに生活した日々の中、友雅は歌を口ずさむことさえしなかった。
「この声を出すには、それ相応の喉の強さが必要なんだよ。今、これだけの声を出そうとしたら、あいつ、血を吐くぜ」
「じゃあ、もう歌えない?」
 あかねの瞳が、またうるうると涙を貯めた。そんな少女に、天真は首を左右に軽く振ってみせる。
「治れば歌える。ま、ヤツの喉を治すのは、普通の医者じゃ無理だが、人魚になら可能だったっつーことだな」
 だからこそ、友雅はエリュシオンへ現れたのだ。そう、あかねの前へ。
「……………わたし、何もしてあげなかったんだ」
「あのバカが望んだことだ」
 やせ我慢したのは友雅。あかねが気に病む必要はない。
「いまさら、もう遅いかもしれないけど……………わたしが治してあげたかったな」
 心からそう思う。
 少女は自分に染みこんでくる友雅の声に身を委ねていた。
「……………友雅さんが歌っているところが見たい」
 いや。実際に見なくてもいい。ただ、再び、歌ってほしい。
 あかねは己の愚かしさを悔やむ。ああ、こんなにもあの男は傷ついていたのだ。自分は何一つ気付いてやれなかった。気付こうともしなかった。
 なんと酷い人魚だろう。なんと傲慢な人魚だろう。人間を癒すために存在するのに、大事な人を癒せない。
「もう一度、歌わせてあげたい……。ううん、歌ってほしい……」
 はらり……と、涙が零れ落ちる。
「わたし、ダメな人魚だなぁ。出来損ないなのにもほどがあるわ。こんなにもやりがいのあるお仕事だったのに……………」
 何時になく弱気なあかねの言葉に、頼久が異様に反応を示した。
「そんなことはありません! ちい姫は立派なマーメイドです」
 愛情こめて育ててきたのだ。そんじょそこらのマーメイドになんて負けやしない。
「だったらなぜ? わたしは友雅さんのマーメイドを降ろされたの? どうして友雅さんは、わたしに触れようとしなかったの?」
 共に肌を合わさなくては、ヒーリングは出来ない。
 友雅は身体を治しに来たのに、どうして自分に触れない?
「友雅さんは優しいから、嫌がっているわたしに気付いて触れなかった。そして、わたしはそんな友雅さんの優しさに漬け込んで仕事を放棄していた……」
 あげくに、友雅との仕事は放棄して他の男を癒していたのだ。
「……友雅さんが呆れてもしょうがないよね」
 少女は小さく自嘲する。
「マーメイドでよかったなんて思ったことは一度もないっ」
 人間になりたい。人間であったらと、何度思っただろう?
「……友雅さんを癒したいよ……………」
 心の底からそう思う。
「そしたら、わたしはマーメイドであることに誇りをもてる。マーメイドでよかったって思えるのに」
 大切な人を癒せるならば、人魚の生も悪くない。
「あの人を癒せないなら、わたしはこんな能力いらないっ。でも、その機会を失ったのは、わたしがバカだったから………」
 大切な人を癒してあげられる機会を永遠に失った。
 それ以外の生き方を与えられていないのに。
「何で、こんなに苦しいの………」
 知らない。こんな感情。
 知らない。こんな想い。
 知らなかった。こんな切なさは……………。
 誰も、教えてはくれなかった。
「苦しいよぉ、天真くん。頼久さんー……」
 せめて、最後まで友雅の面倒を看ることが出来たなら、こんなに苦しまずにすんだろう。
 何も出来ない自分が唯一出来ること。もう一度、友雅に声という翼を与えてやりたかった。
 泣きじゃくるあかねの身体を抱き締めて、天真は穏やかに笑った。
「…良かったな……あかね」
「?」
 何が良いと言うのだ! 他人がこんなに苦しい思いをしていると言うのに!
 あかねは非難がましく天真を睨み付ける。だが、天真は嬉しそうに笑うだけだ。そして、謎解きをするように呟く。
「良かったな。泣けるほどの恋が出来て………」
 マーメイドに許されない禁忌の感情。
 でも、それを勝ち得たあかねを天真はとても誇らしく思う。
「………コイ?」
 あかねは天真の訳の分からない呟きに、首を傾げた。
「はは。まだ分かんねーか……」
 そんな感情など持たないように、細心の注意を払って育てられるマーメイド。
 自分たちは遮りはしなかったけれど、あえて教えてもやらなかった。否、やれなかった。
 与えた番の相手を厭わぬように、擬似恋愛的な憧憬の要素を、人間は人魚に植え込む。将来、子供をエリュシオンの都合よく作らせる為に、恋をしてのめり込まない程度にコントロールしながら、憧憬と言う名の毒で恋心を殺してしまうのだ。
 頼久はこのことを知らない。当然だ。彼は、マーメイドの生体研究者であり、マーメイドの身体を守る医者なのだから。でも、自分は違う。
 天真は精神分析医なのだ。マーメイドの繊細で誇り高い精神を守る存在であり、同時にコントロールし騙し偽り続けなければならない忌まわしい存在なのだ。
 番う相手すら選べないマーメイド。恋すら許されていない可哀想な生き物。
 そんなモノに天真はあかねをしたくなかった。
(ほんと、マインドカウンセラー失格だよなぁ…)
「あかね、やっぱおまえは最高だぜ!」
 だが、天真のあかねはエリュシオンの呪縛に打ち勝った。確かに、天真があかねにかけたプロテクトは些か甘いものがあったが、それでも天真はあかねに最低限のマインドコントロールは施していたのだ。
「…天真くん?」
 訳が分からないとばかりにあかねは天真の顔を覗き込む。
 大切な大切な子供。
 ずっと慈しみ守り愛し、育ててきたのだ。
 誰が不完全な生き物に育てたいものか!
 育てたことを誇りに思うような、愛すべきマーメイドに育てたかったのだ。
 天真の予想以上にあかねは立派に育ってくれている。
 オヤの手を離れて、独り立ちするのを見送る感慨に似ているような気がする。今のこの感情は。
「あ、なんか感動」
 ぎゅむむむ………。あかねを抱く手に力を込めて天真は喜びに浸った。
「一人感動するのはいいが、私たちは、さっぱり訳が分かってないぞ」
 頼久の言葉に、コクコクとあかねも泣くのを忘れて頷いた。
「はは。悪ぃー、悪ぃー」
 嬉しすぎて出てきた涙を拭き取りながら、天真がやっとあかねの身体を放した。
「さて、どこから話してやればいいかな………」
 どうやら、長い話になりそうだ。



 *

 詩紋の執務室に入ってくるなり、南エリュシオン一の女傑は開口一番、二人の男たちを容赦なく怒鳴り付けた。
「まったく、あなた方は、いったいわたくしたちに何度尻拭いをさせれば気が済むのですか!」
『うい』のパーソナルカウンセラーの藤は、もの凄い剣幕で詩紋と鷹通に詰め寄った。
「まぁまぁまぁ、藤くん。落ち着いて。落ち着いて」
 詩紋は藤を鎮めようと、腕を前に出してどうどうと動かした。それが、藤にはカチンッときてしまう。
「何の真似ですの? 詩紋殿」
 冷ややかに視線を投げ付ける今日の藤は、取り付くしまがない。
「本当に悪いと思ってるんだよ。でも、まあ、今回のことはどうしようもないんだ」
「確か、前にも似たようなことを言っていましたわ……」
 舌の根も乾かないウチに、またこんな戯言を言う男をどうして信用できよう。
「…ははは……。よく、覚えているねぇ……」
「半年前のことを忘れるのは難しいですわね」
「埋合わせはするからさぁ……」
「前回の埋め合わせも、まだしていただいておりませんのに?」
 藤の言葉の節々には研ぎ澄まされた刺がいくつも飛び出ている。
「そこをなんとかッ!」
 両手を擦り合わせて詩紋が頭を下げて、殊勝にお願いに入った。
「…………………」
 両腕を腰において、見る人が見れば仁王立ちにも見えるそのポーズで藤は詩紋を無言で威圧する。
 詩紋の応援をする訳ではないが、鷹通も藤の説得に乗り出した。
「私からもお願いします、藤姫」
「鷹通殿……ですが……」
 ヒーリングが終わったばかりのマーメイドにムリはさせたくない。藤の表情には痛いくらいにそう言っている。
「貴女の言い分もわかります。同じパーソナルカウンセラーとして、たいへん申し訳なく思います」
「でしたら………」
 今度ばかりは絶対に断るつもりでいる藤の言い分を遮って、鷹通が言い募った。
「あかねの身体は、今とてもヒーリングが行なえるような状態ではありません。カウンセラーとして情けないのですが、守ってあげることができませんでした」
「あの事件のことは聞いていますわ………」
 同じカウンセラーとして、先日の投薬ミスの事件は他人ごとではない。もし、自分のマーメイドだったらと思うとゾッとする。
「二ヵ月後には『伯爵』の来訪も控えています。このままあかねに無理をさせ続けたら死んでしまう……」
「…鷹通殿………」
「すべて私の不徳のいたすところです。あの子が不器用なマーメイドだと知っていた筈なのに、一度に二人も受け持たせた私の失策です。いくらでも責めてくださって構いません。これ以上無理をさせたら、あかねが死んでしまう。後生ですから、今回のリーダーを引き取ってはくださいませんか……?」
 鷹通は深く深く頭を下げた。
 同じマーメイドを預かるカウンセラーとして、自分のマーメイドに負担をかける事ほど嫌なことはない。鷹通だとて仕事が終わったばかりのあかねに間髪いれずに仕事なんて入れさせたくない。いや、入れさせない。藤の気持ちは身に染みて分かっている。
「なんだったら、伯爵でもいいけど」
 横から詩紋が口を出す。
「絶対に、お断りですわ!」
 藤は詩紋を威嚇する。そして、ひたすら頭を下げ続ける鷹通に、深いため息を落とした。
「…………仕方ございませんわね……」
「藤姫?」
「………ま、他ならぬ、あかねの為に一肌脱ぎましょう。でも、これっきりですわよ」
「藤姫ッ! 感謝します」
「感謝なら、ういにしてくださいな」
 藤は恭しく鷹通に頷いた。
「そうそう、詩紋殿!」
 鷹通に払う敬意は持っていても、エリアマスターである詩紋に払う敬意は持っていない藤が当然の事のように以下の条件を付け足した。
 この仕事が終わり次第、向こう半年間の特別休暇を与えること。そして、リカバリー用カプセルを新機種に取り替えること。この仕事にかかるマーメイドの負担を考えて補助カウンセラーを付けること。最後に、
「わたくしに対しての慰謝料の意味も込めて、ボーナスアップを要求いたしますわ!」
 と、当然だとばかりに言い切った。
「女性って本当に図々しいよね………」
「あら、お断りしてかまいませんの?」
 艶やかに藤は微笑む。断れないのを知っているから、藤は詩紋の足元を見ているのだ。
 彼女の要求は恐ろしく破格なもので、一マーメイドにかける予算をはるかに超えている。おまけに図々しくも、自分のボーナスまで要求してきているから、しまり屋の詩紋としては大きな痛手だった。だが、もはや選択の余地はない。
「はい。飲みます。飲ませて頂きます!」
 と、自棄になって了承した。
 話が纏まったところで、鷹通が友雅の個人データを藤に手渡した。
「……ずいぶんと手回しがよろしいこと」
「……断られたらどうしようかと思っていましたが」
 藤が一通りそのデータを読み終わり、パシンッと指でカルテを弾いた。
「問題のリーダーって、友雅殿のことでしたの?」
「ご存知ですか?」
「わたくしも、彼の歌くらいは存じております。本当に素晴らしい声と歌ですもの」
 友雅のデータを見て藤はほぅっとため息を吐いた。そして、友雅の写真を見ながら苦笑する。
「彼のパートナーになったら、わたくしのういは舞い上がってしまいますわね」
 美形好きのういなら、喜ぶかもしれない。
「本当に、綺麗な方ね。もしかしたら、ういったら、一目惚れしちゃうかもしれませんわ」
 チロリと鷹通を見て、藤はプッと吹き出した。
「有り得ませんわね」
 人間が恋するならともかく、マーメイドが恋する筈はない。
 ころころと笑う藤を前に、鷹通は乾いた笑いを口元に浮かべるのみ。
 まさか、その綺麗なのにウチのマーメイドが一目惚れして恋煩いになっているだなんて、口が裂けても言えない。
 今、あかねはそのお綺麗な友雅に無視されて、半病人になっているのだ。
 いかに色恋に疎い鷹通でも、それくらいは解る。
 あかねの体調不全はおおきく投薬ミスが原因だが、回復の兆しを見せないのは友雅に関係があるのだ。
(……こんなこと、誰にも言えません……)
 詩紋は少しばかり気づいているみたいだが、中央には報告しないだろう。彼流の洒落か何かか、面白がっている節があるのだ。
 鷹通はあかねのパーソナルカウンセラーとして、『あかねの恋』に、気づかない振りをしていなければならない。
 もし、中央に知られれば────── そう考えただけで、一瞬で鷹通の背筋が凍り付いた。
 それだけは、阻止しなければならない。
 それに、どうしたって実る恋ではない。
(……どうせ、最後に泣くのはあかねなんだ…)
 傷は浅いほうがいい。辛いのは今だけだ。今の内に引き離しておいた方がきっといいに違いない。
「どうしましたの、鷹通殿? お顔の色が悪いですわ……」
 心配して腕に手を掛けてきた藤と、目が合う。
「ああ。いえ、大丈夫。それより、くれぐれも友雅殿のことは頼みます」
「ええ、お任せください」
 とにかく、この件は今より鷹通の手を離れるのだ。それは、あかねの手からも離れたことを意味している。



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Cream Pink /  狩谷桃子 様