ブルーマーメイド

= 王子様と人魚姫 =



− 3-2 −

 *

「医療スタッフから聞いたことだが、ちい姫は薬を使われるそうだ……」
 ムッツリと顔を顰めた頼久が、不味そうにコーヒーをガブリと飲みながら隣で呑気に週刊誌なんぞを開いている同僚に八つ当り半分で告げる。
「へ? クスリ?!」
 頓狂な表情のまま天真は顔を上げて、
「なんの?」
 と、全然話が見えていなかったことをバラしてしまった。
「天真………」
「怒るなよ」
 つい、週刊誌の方に目を、関心を奪われてしまっただけなのだ。
「ちい姫のことだ! ちゃんと聞けッ」
「はい。聞かせて頂きます」
 恭しく天真は頭を下げて、もう一度頼久に説明を願った。
「だから」
 仕方なく頼久もことの経緯を最初から説明してやる。懇切丁寧に分かりやすく。話をすべて聞き終わった天真は、握り締めた拳が震えていた。
「嘘だろ……」
「嘘なものか!」
 医療管理局で調べてきたのだ。自分の権限をフルに使って。
「だって、今回の相手ってウィリアム・D・アーヴィングなんだろ」
 天真の確認に、頼久は首肯いた。
「そうだ」
 あかねの相手の中では、良識的で温和な常識的な紳士であったはず。
「使用した薬剤は?」
「エンジェルズ・アフェア」
「ゲッ……。媚薬じゃねーか」
「そう。媚薬。幸か不幸か、開発中の薬じゃない。常用性がなく、しかもコトが終わった後にはきちんと解毒処理が出来るものだが……」
「でも、確かアレって…」
 自然にクスリが切れるなんて生易しいクスリではなかったはずだ。外部から解毒処方をしてやらなければいつまでも盛ったままいなければならない筈。
 最近、許可が下りたばかりの新薬はかなりの劇薬だったはずだ。
 常用性はないが、使い続けたら被験者は気が狂う。そんな危険なクスリを、貴重な人魚にどうして? と、疑問がわく。
 その天真の疑問に答えるように頼久が口を開く。
「開発部の人間がゴリ押したんだ。どうしても臨床例が見たいらしくてな」
 せっかく開発したものの、実践結果が少なくて少しでも多くのサンプルを開発部は欲しがっているのだ。
「でも、なんであかねが」
 若く能力のある人魚に、危険なことをセンターがさせるはずもない。臨床例をとるとすれば、卒業間近な年寄りのマーメイドたちが対象となっていたはずだ。
「それが、今回に限って、ちい姫は駄々こねてスタッフの言うことをまったく聞かなかったそうだ」
 あの………バカ! と、天真は毒突きながら吐き捨てた。
「一度に二人というのが問題だったのだな」
 ちい姫は恐ろしく繊細なマーメイドだから……と、頼久がぼやくように呟く。
「それで今度の解除作業にお前は参加できるのか、頼久?」
「申請したが、突っぱねられた。関係者以外立入禁止だ」
「じゃあ、鷹通は?」
 彼は関係者なのだから、門前払いはくわないだろう。
「参加していらっしゃる。今頃、メディカルルームだと思う」
 ガタンッと、席を立って天真は頼久の手を引っ張った。
「おい、天真!」
 天真のいきなりの豹変ぶりに、頼久の方はついていけない。
「悪い。もう一回、行ってくれ。何だか、嫌な予感がするんだ………開発センターは、オレは入れないからな」


 深い海を映したような真っ青なシルクのカーテンが天蓋からカーペットに落ちるように流れる。
 深い真青の帳の中に隠された宝石が、ベッドの上で身動いだのにアーヴィングは気づいた。
 真珠のように真っ白なシーツの上にピンクダイヤのような桜色の髪を散らすマーメイドが気怠げに寝そべっていた。宝石は上体を重そうに起こし、吐息を吐く。
 一糸纏わぬ裸身。その若々しく瑞々しい姿態を惜し気もなくさらしている。
「おはよう……あかね」
 あかねの頭が緩慢にアーヴィングに向けられる。
「飲むかい?」
 赤いワインの入ったグラスを掲げてアーヴィングは微笑んだ。
 滑るようにあかねの側に近付いて口元にグラスを傾けてやる。
 あかねはそのグラスに口を付けて中の赤い液体をゴクリと嚥下した。
「ほら、上手にお飲み……」
 唇の端から零れる血のような滴り。
 渇いている。
 とても、強く。
 だが、それは喉じゃない。
 ベッドの端に腰掛けるアーヴィングの身体を押し倒すと、彼はバランスを崩してあかねと共に床に落ちた。
「あかね、痛いじゃないか……」
 軽くあかねを非難するアーヴィング。
 あかねを庇うようにアーヴィングは落ちたので、背中を強かに打った。だが、毛足の長い絨毯のおかげでことなきをえている。
 あかねはアーヴィングのローヴに手を掛ける。
 少女の手は止まらない。
 はだいたローヴを最後まで脱がせずに、あかねは前合わせだけ開くと、彼の下肢に手を伸ばして先程まで自分を悦ばせていた肉の棒に手を掛けた。
「…は…む……」
「あかね?」
 ためらいもせずにソレを口に導いたあかねに、アーヴィングはニヤリとほくそ笑む。
 あかねがこれほど淫猥な様子を見せるのは初めてだった。拙い愛戯で楽しませてくれるだけで、アーヴィングの牡は熱り立つ。肉の棒が熱棒に変わるのに、さほどの時間は必要としなかった。
 勃ち上がった灼熱の棒を見て、あかねの唇の端が淫靡に上がった。
 すでに、あかねはあかねであってあかねでない。
 アーヴィングの腰の上に跨がって、その熱い昂ぶりを花びらに押し当てる。
「ふふ……まだ満足していなかったのだね…」
 アーヴィングはあかねの腰を支え、少女の負担を軽減しようとバランスを取った。
「ぁあ………」
 確かな楔があかねの蜜壷に納まっていく。
 満足気な吐息を零しながら、あかねは目元を朱に染めてうっとりと悦に入り、その快美な波に身を委ねる。
「ぁんんっ……」
 自らが腰を上下に揺らし、激しく肉欲を貪る。
「あぁ……すばらしい。すばらしいね」
「あっ…ああっン」
 激しく上下運動を繰り返すあかねに、理性など残っていない。自らの意志から暴走したその行為の不自然さに、アーヴィングは気づかない。
 けれど、与えられる快楽は理解できる。快楽だけが全てであるかのごとく二人縺れ合った。
 アーヴィングは酔い痴れる。
 極上のワイン。極上の人魚。極上のSEXに。


 頼久が足を踏み入れた処置室の診療台の上で、彼が命よりも大事にしているマーメイドが鳴いていた。
 まるで、悪夢のようにその光景が頼久の心に突き刺さる。
「……………ちい…ひ…め…?」
 悲鳴を上げそうになった唇をとっさに両手で押える。だが、その衝撃は頼久の四肢に震えを起こさせ、彼は後の壁にフラフラと後退りながらぶつかった。
「…あはっ……ぁっぁっぁっ」
 浅く呼吸を繰り返しながら、あかねは腰を浮かせてさらなる快感を得ようと腰を揺らす。
 秘所に突き刺さっているのは熱棒ではなく、冷たい機械のオモチャの棒だった。
「…ヤだぁっ……もっとぉ……もっと強く!」
 オモチャの出力を最大にしておいても、あかねの飢えにそれは追い付くものではなかった。
 自分でどうにかしようにも、あかねの首と両手首は拘束具で戒められ、頭を打ち振る事も自慰することも叶わず、ひたすら足をばた付かせて下肢を動かし、周りのスタッフたちに哀願し続ける。
 小さくない診療台の上であかねが力一杯暴れるものだから、思うように処置が進まない。
「チッ!」
 主任医師が舌打ちして、ちょうど後から入ってきた頼久に向かって怒鳴る。
「おまえッ! このマーメイドをオモチャで遊んでやれ。こんなに動かれては処置が出来ん!」
 助っ人のスタッフが入ると聞いていたからその担当博士は深く考えずに頼久に指示を出した。
 が、頼久は何も考えずに、渾身の力で責任者らしき男を殴り飛ばした。
「ふざけるな!」
 床に倒れ付した男に唾を吐き捨てんばかりの勢いで、頼久は驚いている他の研究員たちを殺気立った視線で睨み付け、その責任者の男をゲシゲシと踏み付けながら怒鳴った。
「カルテと処方データ。臨床例、その他『エンジェル・アフェア』に関する資料全部持って来いッ。今すぐだ! それに、麻酔医師を呼べ!」
 先程まで騒然としていた部屋がシーンと静まりかえり、バイブレーターの音とその他の器材から聞こえる機械音のみがその場を支配した。
 我に返った研究員の一人が、非難するように頼久に意見する。
「何をするんだ。いきなりッ」
「とっとと言われた通りに行動しろ。でなければ、殺す」
 研究員は凄まれただけで、半分腰を抜かしかけていた。そして、逃げるように、頼久の命令に従って駆け出した。
「ちい姫! しっかりしてください。私です」
 あかねに向き直って彼の身体を揺さ振った。
 大事なマーメイドが! 大事な子供が! 大事なあかねが!
 心の奥底に眠っていた自我がほんの少しだけ、覗いた。
「…よ…り……ひさ、さん?」
「ああ。私です。頼久です。大丈夫、必ず元どおりにいたします!」
 悦楽に震えるあかねの身体を頼久は守るように強く抱き締める。
 だが、すぐに濡れた声であかねは雄を誘う。またも意識は闇に落ち、あかねは頼久を頼久だと認識していない。
「あかね………」
 研究員の一人が頼久の肩を掴んでムリヤリ二人を引き剥がした。
「君は一体何の権限があってこんなことを!」
 彼らにとって頼久は、いきなり他人を殴り付けて勝手な行動をとろうとする不届き者でしかない。
 しかも、貴重な研究データを横取りしようとする泥棒猫だった。
 そんな頼久に、研究員たちが言うことを聞く筈もない。あからさまな態度で、何故部外者などにと、言わんばかりに研究員の一人がが頼久の要請を却下する。
「お前たち全員査問会にかけて欲しくなければ、言う通りに動けッ!」
 頼久の一言にその場にいたスタッフたちがたじろいだ。
「査問にかけられるのは、部外者である君だ」
「それはどうかな」
 どう見ても、開発部があかねに使用した薬は、申請した薬ではないようだ。
 もし、頼久が査問会に訴えたとしたなら、たとえ処分が軽かったとしても、これは降格処分くらいではすむまい。
「中央に虚偽ある報告をし、剰えマーメイドを実験台にしたんだ。センターの許可無くな」
 まだ完成していない『新試薬』を『貴重なマーメイド』に使った罪は終身刑に値するだろう。悪ければ、死刑に処せられるかもしれない。と、頼久は可能性を仄めかしてスタッフたちを冷たく脅した。
「これは『エンジェル・アフェア』だ! 試薬ではない!」
「ほほぅ。だが、こんな後遺症があるなんて、報告は一行もなかったが」
 確かに解除処理をしなければならないのは報告書に載っていた。だが、それはあくまで抜けないクスリを中和させる為であって、後遺症は無いと注記されていた筈だ。
「まだ処置が終わっておらんからだ」
「エンジェルの処置は、注入器一本。エアガスなら、暴れる被験者でも問題ないはず。なのに、お前たちは何をしようとしていた? それに、鷹通殿がいらっしゃらないのはどういうわけだ? カウンセラーの立会いなく、マーメイドに処置をほどこすのは違法だぞ」
 おまけに常用していれば、発狂してしまうかもしれないと、可能性のあることは書かれてはいたが、限りなくその可能性は皆無に近い。と、報告書には記録されていた。
 初っ端から発狂寸前になるとは報告書になかった。それなのに、今のあかねは正気を失い、性に囚われ、このまま放置しておけば発狂してしまいかねない。
 しかも、中和処置をするのに、これほど手間がかかっているのはなんらかのトラブルがあった可能性も考えられる。
「言い訳は後で聞いてやる。お前たちと押問答している暇はない! さっさと言われたことに従え!」
 むしろ、時間がないことに感謝すればいい。でなければ、確実に痛め付けてやっただろう。
 そうでなければ、大事なあかねにこんなことをしでかした奴らなどを、どうして見逃してなどやるものか!
 頼久の目が怒りに燃え上がる。
 ああ、もっと早く、ここに助けに来られたら良かったのに。それだけが、頼久が深く後悔する。



 *

 明かりが煌々と点されたリビングの中で、友雅は落ち着きなく歩き回る。
 あかねが帰ってくるはずだったのに、少女はまだ帰らない。
 あかねを見送ったときの態度は、我ながら大人げなかったと思う。あかねが悪いわけでないのは百も承知だ。いわば、彼女らは被害者でしかない。自分たちのような存在こそが、彼女らを苦しめている。その加害者たる己が、何の権利があってあかねを責めることができる? 頭の中では理解している。けれど、理性が理解しない。自分の手を取らなかった少女が腹立たしくて仕方ない。
 この苛立たしさはなんだろう?
「…あの子は人魚だ………」
 自らに言い聞かせるように、友雅は呟く。
 あかねは人ではない。
 人間に奉仕する哀れな生物だ。
 友雅の苛立ちはただの理不尽な感情でしかない。
 少女が帰ってきたら、あのときの非礼はわびねばなるまい。
 だが、同時に理不尽だと思う。
 自分が手を出さなくとも、他の人間が手を出しているのだ。自分がどれほどあかねを大
切にしても、他の人間が踏みにじる。腹立たしい───────だが、それはあかねに対
してだろうか? それとも、あかねの肌を知る男たちに対するもの?
 身の内にわく怒りに、友雅は愕然とする。
 自分はあかねをどうこうしたいと思っているのか?
 己の中の荒々しい雄の感情の存在を、友雅は否定できなくなっていた。
 小さな子供だと思っていた。だが、あの子は、他の男の腕の中でどんな表情を見せるのだろう? そう思ったところで、友雅の表情が驚愕に凍る。
「馬鹿な……」
 自分らしくない心の流動。無様なほどだ。
 誰もいない空間でよかったと思う。心の中を、一度空っぽにする。気を落ち着かせながら、友雅はソファに座った。
 でも、次の瞬間に思い浮かぶのはあかねの顔。
 あの子は、今、どうしているのだろうか?
 自分以外の男の腕の中で、友雅にするように、甘えているのだろうか?
 ロマンス小説を読むのをねだっているのだろうか?
「…………………」
 自身の指先が組んだ二の腕に食い込む。
 己の怒りは理不尽なものだ。頭では理解している。だが、心は煮えたぎる嫉妬で満ちようとしている。
 投げやりに、友雅はソファの背もたれに背を預ける。
 このままでは駄目だ。平常心であかねに向き合えない。冷静にならなければと、男はますます焦っていく。
 早く帰ってくればいいのに。
 ああ、今帰ってこられては困る。
 埒もなく相反する感情を押さえ込み、友雅は落ち着かない夜を過ごしていく。


 友雅が悶々と思案していた頃、ようやくあかねも覚醒の兆しを見せ始めていた。
 あかねが目が覚めた途端に視界に入ってきたものは、泣き腫らした頼久の顔と、今にも泣きだしそうな天真の顔。そして、いつものように穏やかに笑う鷹通の顔。
「れ……? みんな、どうしたの?」
「ちい姫……良かった……」
 あかねは力一杯頼久に抱き締められた。
「頼久さん? 天真くん?」
 天真も泣き笑いしながらあかねの頭をガシガシ撫でている。
「ココ…ドコ?………」
 きょろりと辺りを見回したあかねの視界に入ってきた部屋は、薄いグリーンカラーのしっとりと落ち着いた病室だった。
「何で、わたし……こんなトコにいるの?」
 確か、ヒーリングをしていた筈。
 そう、アーヴィングのヒーリングを。思い出したところで、あかねの身体は恐怖に震え、同時に激しい頭痛に見舞われる。
「…いたッ……」
 深く考え込もうとしたら、頭が割れるように痛みだした。
「あかねっ」
 少女の名を叫びながらも、頼久と天真が同時に場を鷹通に譲るように引く。鷹通も一歩前に出てあかねの額に手を置いて、熱を図る。
 そして、ポンポンと肩を叩いてからしゃがみこんで、あかねの目線に合わせて話しだした。
「あかね。今は何も考えないで、ゆっくりおやすみ」
「鷹通さん……」
「大丈夫。すぐによくなる。眠るまでそばにいてあげるから、今はおやすみ…」
 目蓋を伏せて考え込む仕草をしながらも、あかねは頷いた。鷹通の言う通りにベッドに背を預けて横になる。
「そうそう。いい子だね」
 鷹通は、シーツをあかねの肩口まで掻き上げてやりながら、
「しばらくは、天真と頼久も側にいられるよ」
 と、ほほ笑みながらあかねにとってとても嬉しい事を報せてくれた。
「ホント?」
 あかねが嬉々として聞き返した質問には、鷹通の後に立っていた二人が同時に首肯いて答えてくれた。
「なんか得した気分」
「そう? それは良かった」
 嬉しそうにはにかんで笑うあかねの頭をポンポンと優しく叩いて、鷹通は簡易チェアを枕元に引っ張ってその椅子に深く座った。
「起きても、ここにいてくれる?」
 傍らにいる鷹通に、あかねはシーツの中から覗き込んで尋ねる。
「ええ、居ますよ。ずっとね……」
 目線を上げてあかねと視線を合わせるとあかねは恥ずかしげに微笑んだ。
「ヤクソクしてくれる?」
「ええ、約束します」
「ホント?」
「本当です」
 シーツを深く手繰って抱え込み、安心して目蓋を閉じた。
「………おやすみなさい…」
「いい夢を」
 せめて、夢の世界でくらいは安寧でいてほしい。



 *

 湖に向かう遊歩道をあかねは必死に駆けていた。
 道の脇々には色とりどりの花が植えられ、季節感を無視して年中花盛りに咲き誇っているこの惑星の気候をあかねは心から愛していた。
 気温は高め、少しばかり湿度が高いが気になる程ではない。温暖湿潤地帯の初夏の気候が一年中続く惑星。
 水香る風の匂いも、しっとりと肌にまとう大気も、むせ返るようなプルメリアの香りも、皆、皆、大好きなのだ。でも、その中でも一番好きなのは、湖。美しくて、優しくて、温かな場所。ここであかねはやっと人魚にもどることができるのだ。
 でも、今、自分の心を占めているのは、この大好きな湖でも、あの優しいカウンセラー達でもない。
 ようやく、友雅のもとへ帰れる。
 出かけるときの冷たい男の様子が気になる。友雅があんなにも不機嫌になったところは初めて見たのだ。帰ったら、きっと微笑みながら迎えてくれるはず。
 どうしてこんなにも気になるのか、あかねには分からない。でも、無意識に足は湖に向けて走っている。そして、あの美しい黒髪を探して視線が周りをさ迷うのだ。
 風になびく黒髪を見付けた時、あかねは反射的に叫んでいた。
「友雅さんっ」
 一目散でその男の許まで駆けてゆく。
 病み上がりで少し体力が落ちていたあかねは、これだけ走っただけで息を乱していたが、そんな些細なことはどうでもよかった。
 彼の人の側に近付いて、その寝顔を覗き込む。
 いつもと同じく、この男は眠っていた。この湖に面した風通しの良い丘で。あかねが湖から上がってくるのを待つように。
「…友雅さん……」
 知らずに、ホッとしたあかねがそこに居た。
 相変わらず端正なその顔を見ただけで、あかねはとても安心している自分を感じた。
 居た。見付けた。それだけで、嬉しい。
 友雅の傍らにしゃがみこんだあかねは、よく眠っている友雅の鼻先をチョンと突いた。
 途端、パチリと友雅の目が開いた。
 一瞬、恐ろしくビックリしたが、次の瞬間とても嬉しくなって友雅の瞳を覗き込むように覆い被さった。
 やっとここに帰ってきたという安心感からあかねは無防備なくらい無邪気だった。
「友雅さん! ただいまっ」
 感極まってあかねは、男の首にかじりつくように抱きついた。
 いつもは、苦笑しながら抱き返してくれる腕が、背中に回らない。
 あかねは不思議に思いながら、ゆっくりと抱きついた相手から身体を起こす。
 ようやく自由になれた。自然に喜びの笑みが浮かぶあかねは、微笑んだまま友雅を見下ろした。
 だが、そこにあったのは何も映さない瞳。目の前にあかねが居るというのに、友雅はあかねを飛び越して空を見ていた。
「…友雅さん…?」
 あかねの手を無造作に振りほどき、友雅はムクリと起き上がる。ついた埃を叩いて落とし、何事も無かったかのようにその場を立ち去ろうとした。
「友雅さんっ」
 とっさにあかねが友雅の二の腕を掴み捕らえる。
 だが、返ってきた反応はあかねを凍り付かせるに十分な言葉だった。
「私など必要ないのだろう?」
「えっ……?…」
 艶やかで優しく響いていた声が、まるで氷のように冷たい。
「かまわないでおくれ。煩わしいからね」
(私の心をこれ以上、踏み荒らすな─────────── )
 余裕をなくした男は、配慮の無い言葉をあかねにぶつけてしまった。だが、この時、友雅の心の中は押えきれない激情が荒れ狂っていた。
 飛びついてきた少女の鎖骨の下に、明らかな別の男の所有の印。ほのかに香ってくる少女の体臭の中に、薫るはずのない別の雄の匂いを感じた。
 怒りに全身が総毛立つ。
「他の男に触れられた身体で近寄らないでおくれ」
 目の前で、あかねが驚愕にゆれた表情を浮かべた。
 あかねが悪いわけではないことは、重々知っている。でも、理性で感情は割り切れない。しかし、それでも友雅は割り切ろうとしたのだ。
 それなのに、あかねは側に寄ってきて、あたかも何一つ悪気なく微笑むのだ。
 拳を握り締めた友雅の爪が己が手を傷つけている。
「……………すまない」
 搾り出すように、男は謝罪を吐き出す。
 心無い言葉を吐き出したいわけではない。あかねを傷つけたくはないのだ。だが、己が激情を抑えられもしない。
「……お願いだから、近寄らないでおくれ………」
 傷つけたくないのだ。心からそう思っている。だが、今は平静にしていられない。
「……帰るよ……」
 あかねから逃げるように友雅は踵を返した。今は、あかねの顔を見ていたくないし、見れない。
(………………)
 茫然とそんな友雅の後ろ姿を、あかねは見送る。そうすることしかできなかった。
 あかねの中で何かが凍りついた。
「……………と…………………………」
 言い訳の言葉一つ浮かばなかった。自分が悪い訳ではないといくらでも友雅に訴えることが出来た筈なのに。
 でも、あの綺麗な瞳に自分の姿が映らなくなった時から、あかねは何も言えなくなってしまったのだ。
 あの寂しげでいて、どこか温かな友雅の瞳が、自分を見ない。
 優しく差し伸べられていた手が、振り解かれてしまった。
 こんなに冷たくするなら、最初から手なんて差し出さないでほしい。
 あかねは俯く。
 声を殺しながら、静かに泣いた。─────────人間に、なにかを期待してはいけない。そんなことは幼い頃、苦しいほど学んだではないか。
 裏切られるのは慣れている。
 泣くほど辛いと思ったのは、子供の頃以来だ。
(……だいじょうぶ………わたしはだいじょうぶ)
 あかねは自らに言い聞かせるかのように叫ぶ。
 友雅など居なくても自分は変わらない。彼と知り合う前の自分に戻るだけ。いつもの日常に戻るだけ。
 それなのに……何でこんなに悲しいのだろう?
「バカ……バカ……冷たくするなら、最初から優しくなんてしないで…………」
 自分の心をこんなに引っ掻き回しておいて、ヒーリングが終われば帰ってしまうくせに!
 あかねの唇から嗚咽が零れ落ちた。
 あんまり近くなりすぎて、忘れていた事実を今更ながらにあかねは思い出して嘆く。
 ポッカリと空いた空虚な喪失感に、心が悲鳴を上げる。失ってしまったものの大きさに嘆き悲しむのだ。

 本人さえも気づいていない小さな恋心がその日、悲鳴を上げながら弾け飛んだ。
 あかねの心の中に、深く抉るような傷跡を残して……。

 この日から、あかねたちは別々の部屋で過ごすようになった。
 もう共に夜を過ごすことはない。
 その痛々しいあかねの様子を、鷹通も胸を痛めながら見守っていた。
 いつもと変わらない仕事だった筈なのに、支払った代償は大きく重かった。



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Cream Pink /  狩谷桃子 様