ブルーマーメイド

= 王子様と人魚姫 =



− 3-1 −
3 広がりゆく波紋





 お転婆な人魚は、与えられたプールを抜け出し、すぐに外湖へと逃げ出してしまう。
 この日は、友雅も気紛れをおこして、あかねを出迎えに散歩がてら湖へと足を運んでいた。
 湖の中の島で、あかねとたおやかで成熟した人魚の姿を見つけた。
 抜けるような白い肌、艶やかな肢体、見事に流れる青灰色の長い髪。たわわな胸の膨らみは、どんな男の瞳も満足させる。腰のラインは、いかにも成熟した女の色香がにじみ出ている。
 昨今、子供しか見ていない友雅も、久々の目の保養にわずかに口元を緩めていた。
 友雅の姿に気付いたあかねは、元気よく手を振っている。そして、麗しい人魚姫は、友雅の姿に気付くとそのまま湖に飛び込み、浮かんでこない。彼女に続いてあかねも湖に飛び込んだが、こちらは勢いよく友雅に向かって泳いできた。
 友雅の立つ水際に、ぷかりとあかねの頭が浮かんできた。
「友雅さん、友雅さん、お散歩?」
「違うよ。君を迎えに来たのだよ。そろそろ夕食だからね」
 屈んで手を差し伸べると、小さなマーメイドは抱き上げてとばかりに友雅に両腕を差し伸べてきた。
 友雅は濡れるのを厭うことなく少女を抱き上げる。
 湖を泳ぐ人魚は、基本は裸体である。ちなみに、さきほどかいま見た大人の人魚は美しい体を惜しげなく曝していた。そして、あかねはと言うと、こちらは陸上でも湖の上でも同じ格好をしている。普通は、人魚も湖に入るときは、陸上で着ているものを脱いで入るのだが、少女は衝動のまま湖に飛び込んでしまうので服は着っぱなしである。ほとんどタンクトップとショートパンツしか着ていないので、水の中でも不自由を感じないのだろう。
「さきほどの人魚姫は、友達かい?」
「ういのこと? そうだよ。隣のセクションにいるの」
「ほう……」
 ということは、友雅と同じく長期療養をしている人間のパートナーなのだろう。
 ういの消えた中島のあたりに、友雅の視線が泳ぐ。
 その様子を見ていたあかねが、不思議そうに問う。
「友雅さんは、ういが好きなの?」
「おや。唐突な質問だね」
 友雅の視線が、あかねに落とされる。
「好きかどうかなどわからないよ。話もしたこともないしねえ。ただ、とても美しい人魚だとは思うよ」
 遠目にも、かなりな目の保養ができた。
 友雅のまんざらでもなさそうな自然な笑みに、あかねの口元がへの字に曲がっていた。
 その少女の様子に友雅はクスリと笑う。幼い嫉妬が可愛いやら、おかしいやら。小さくても女であるらしい。だが、友雅はわざとイジワルな質問をした。
「おや、どうしたのだい?」
「どうもしないっ」
「そう? 怒っているように見えるのだけど?」
「怒ってないわっ」
 その口調がすでに怒っている。しかも、不貞腐れた表情はさらに少女の勘気を表している。
「下りる」
 じたじたと友雅の腕の中で暴れ、あかねはもがく。
「はいはい」
 下ろされたあかねは、スタスタスタッと足早に前を行く。
 さきほど、ういからもリーダーである友雅がステキねと、羨ましがられたところだった。
 そのときは鼻が高くなったのに、今は胸がムカムカとする。どうして? と、あかねは胸を押さえながら小首を傾げた。
 あかねが振り返ると、友雅は苦笑を浮かべたまま後ろから付いてくる。その顔を見て、あかねの気分はますますムッとした。そして、ずんずんと足を前に出す。
「これこれ。待っておくれ」
「知らないっ」
 あかねの頑なな様子に、友雅の笑いのツボは刺激されているのか彼のしのび笑いが背中に届く。
 あかねはますます面白くない。むぅっと口をへの字に曲げて、小さく『友雅さんのバカ』と呟いていた。
 自覚がないままに、小さな恋の萌芽が種から顔を出そうとしている。



「あかね!」
 いつになく厳しい友雅の声が、リビングに響き渡る。
「ん?」
 今夜は何を読んでもらおうかと、あらすじを見て本を物色していたあかねが、リビングに乱入してきた男を振り返る。
「どうしたの? 友雅さん」
 珍しく厳しい表情をした友雅が、あかねを見やる。
「君、私宛の映像電話に出たね?」
 あかねは小首を傾げる。そんな記憶はない──────こともない。
「……………えーと」
 少女のお茶目な悪戯は一個や二個ではすまない。
「なんと言って出たのだい?」
 わずか数歩であかねの元まで近寄った男は、両腕を組んで厳しい表情で少女を見下ろしてきた。
「……………」
 少々悪戯が過ぎたらしい。友雅の怒り具合に、あかねは乾いた笑みを浮かべる。
「笑って誤魔化されるのは好かないねえ」
「そういうわけじゃないんだけど」
 どの電話のことを言っているのか、あかねは当たりをつけるのに忙しい。
 最近の記憶を拾えばこれになるだろう。
「娘ですって、出ちゃった。綺麗なおばさんだった。そういえば、少し…友雅さんに似てたかな?」
「母だよ」
 さきほど、その母からの電話があった。そのおかげで、あかねの悪戯が発覚したのだ。
「まったく、隠し子がいたのか? と、ずいぶんと長い間責められてしまったよ」
 まだ恋人と言ってくれていたなら、少女の悪戯はすぐに相手に伝わっただろう。
「孫がいたなら、どうして逢わせないのだと、怒られてしまったのだがね」
「恋人です、のが良かった?」
「そのほうが良かったかもね」
 悪びれない少女の態度に、頭痛がしてきた頭を友雅は押さえる。
「でも、そう言って出たことあるけど、笑い飛ばされちゃったよ?」
「なんだって?」
 頭痛を通り越し、脳内に電気ショックを与えられる。
「それじゃ一発でバレるから、今度は『娘』だと言いなさいって言われたの。だから、娘だって言ったのよ」
 友雅の抱えた頭がますます重くなる。だが、そんなことをする相手に心当たりはあった。
「その悪趣味なアドバイスをしたのは、私にそっくりな女だったろう?」
「なんで分かったの?」
 あかねは驚きながら、目を丸くする。
「そんなアドバイスをするような知り合いが、他にいなくてね」
 諸悪の根源は判明した。血を別けた自分の双子の片割れだ。
「どうりで、清香から送られてくる荷物にヘンなものが混じっていると思ったよ」
 秘書にロマンス小説を送ってくるのはやめるように支持は出した。だが、次の瞬間に違う場所からそれが入るようになっていた。
「君だね。清香にロマンス小説を送ってくるように言ったのは」
 あかねはてへっと笑った。
「だって、こっちじゃ手に入らないんだもーんっ」
 ある意味、マーメイドであるあかねには発禁ものの本である。少女が望んだところで手に入らないのだ。手持ちが尽きそうになったときに、次の本を友雅におねだりしたが、嫌がられてしまった。そんなおりに、清香からの交換条件が舞い込んできたので、あかねは飛びついてしまった。
「手に入らないんだもーんじゃないよ! この確信犯め!」
 だが、腑に落ちないことはもう一つ。
「……………清香が、何の見返りもなくこんなことをするとは思えないのだがね?」
 姉はケチなわけではない。金にも執着はない。だが、他人のおねだりを好意だけで叶えるお人よしでは決してない。友雅と同じく退屈に病んでいて、いつも楽しいことを探している。悪趣味なほど貪欲に。
「あかね、君は清香に何の見返りを渡したの?」
 そこまで見通されていた。あかねはどうしようと、手が口元に伸びる。
「あ・か・ね」
 有無を言わさぬ友雅の促しに、少女はしぶしぶ泥を吐く。
「ボイスメールだよ」
「ボイスメール?」
 怪訝な表情を浮かべ、もっと詳しくとばかりに内容を問うた。
「なんの?」
「シンデレラを朗読する友雅さんのボイスメール」
 電話で友雅の近況を尋ねられたときに、あかねは素直に自分たちの生活を話してきかせたのだ。清香は大いに興味をそそられたようで、それを送ってくれたら、あかねの欲しいものをなんでもくれると言ったのだ。
「それを送ったら、いっぱいロマンス小説送ってくれるって約束してくれたの」
 素直な人魚を手玉にとることなど、赤子の手を捻るようなもの。
 この場合、あかねを責めるべきではない。姉を責めるべきだろう。だが、やはり、これだけは言わずにはいられない。
「勝手に私宛ての電話に出ない!」
 友雅の雷が、あかねに落ちる。少女はきゃんっと鳴きながら頭を抱えた。
「えーんっ。もうしないよーっ」
「当たり前だ!」
 まったく、油断も隙もない。
「もう二度と、君にロマンス小説を読んであげない」
「えーっっっ! やだやだっ。それ、ヤダ!」
「ヤダじゃないよ。むしろ、それは私の台詞だけどね」
 言えるものなら、友雅も言いたかった。
 自分のボイスメールを聞いて、姉はさぞかし腹を抱えて笑っていることだろう。それを考えるだけで、友雅の気分は重い。
「ごめんね。ごめんね。もう二度としないからーっ」
 あかねは身を摺り寄せて友雅に許しを請う。子犬のようなあかねに、友雅は深くため息を吐き出す。果たして、少女はどこまで反省しているのやら? 実際、歩み寄ろうとしない友雅に、あかねの方が先に切れる。
「読んでくんなきゃ、他のボイスメールも清香さんに送っちゃうから!」
「えっ?!」
 あかねの爆弾発言に、友雅は驚愕の声を上げてしまった。だが、すぐに復活して、その甘い声に震え上がりそうなドスを込めて、少女に猫撫で声で問いかける。
「君、他にいくつ持っているんだい?」
 友雅は笑っている。だが、目は少しも笑っていない。幸か不幸か、あかねは俯いて指折り数え始めたので友雅の顔を見ずにすんだ。
「人魚姫でしょ。白雪姫でしょ。美女と野獣でしょ。あと、眠り姫っ」
 あのとき、録音できるだけ録音してしまったのだ。もちろん、自分のために。
「渡しなさい!」
「やだっ」
 あかねは首を振りながら、後退する。そんな少女に友雅は詰め寄るように一歩一歩近づいていく。
「渡さないと、読んであげないよ」
 一瞬、あかねはその取引きに逡巡した。だが、首を寂しそうに振る。
「……………ダメ。宝物だもんっ」
「…………………………」
「友雅さん、今だけしかいてくれないもんっ。いつか……………いなくなっちゃうもんっ」
 ヤダヤダと泣き始めた仔猫は、友雅の足元に蹲っている。
 友雅は、あかねの涙に本当に弱かった。
 頭を抱えていた友雅は、大きく息を吐き出して天井を仰ぐ。泣かれた時点で、友雅の負けは決まった。
 友雅は蹲るあかねの側に身を屈めた。
「あかね……泣かないで。わかったよ…」
 涙をたっぷりと湛えた翠の瞳が友雅を見上げる。
 その涙を指先で拭ってやり、友雅は頷く。
「君なら持っていてもいいよ。でも、君以外の者はダメだ。もう清香に渡すのではないよ?」
 あかねはうんうんと頷く。
「わたしだけのにするっ」
 ありがとうと、少女は友雅の首に抱きついた。その小さな背中を、男は抱きしめ返してやる。
「あともう一つ」
「ん?」
 さっき泣いたカラスが、もう笑っている。まさしくその風情の少女に、友雅は嘆息しながらも安堵する。
「童話の録音までは許可してあげるけど、ロマンス小説の朗読だけは勘弁しておくれ」
 あんなものが記録に残されると思うだけで身震いする。
「ホントっ?」
 破格な仲直りのオプションに、あかねは飛び上がって喜んだ。
「じゃあ、今夜は三匹のこぶたを読んで」
 泣いたカラスは、恐ろしく現金だった。
「……………録音付きで?」
「そう。録音付きで!」
 友雅がこのエリュシオンを出る頃、あかねの手元には、童話全集の友雅の朗読集が出来ていることだろう。
 いつものように、あかねが眠るまで友雅は物語を紡ぎ続ける。
 昼間、たっぷりと外で遊ぶ人魚は疲れているのか、眠るのにさほどの時間を要しない。むしろ、友雅の話を聞いていたいのか、こくりこくりと頭を落としながらも、頑張って起きようとする。その姿はあどけなく可愛らしい。友雅は何度も笑いたくなるのを堪えなければならなかった。
 とさりと、羽枕に少女の頭が落ちる。我慢の限界に達したようだった。薄く開いた唇から甘い寝息と幸せそうな笑みが零れている。
 パタム……。友雅は、本を閉じた。サイドテーブルにそれを退ける。
 傍らで眠る少女の前髪を指先で梳き上げながら、友雅も幸せそうに笑っていた。
 あかねがボイスメモリーの機器を抱きしめて眠っている。
 ルームライトに照らされた少女の寝顔を、友雅は肘をついて眺める。
 まるで、友雅の声を抱きしめて眠っているようだ。とても大切なものを抱きしめるように。胸の中にある宝物に微笑を浮かべている。
「まるで、私が抱きしめられているようだねえ」
 悪い気はしない。いや、違う。中々に良い気分だ。
「まったく、君はとんでもない悪戯者だね。こんなに手を焼いたのは生まれて初めてだよ」
 いつもの自分であるなら、それを厭って煩わしいと感じているだろうに。今の自分の気持ちはどうだろう? やりこめられた悔しさはある。だが、それ以上に愉快な気持ちが強いのだ。
「君のような人魚姫に出会えて、私は幸福者だね」
 いつか、この少女と別れなければならない日がくる。自分はそのとき、どうするのだろう?
 少女は別れを強く意識している。だからこそ、友雅の声を求めた。
 では、自分は?
 あかねほど強く意識しているわけではない。ただ、不可思議な胸騒ぎが胸の奥にある。
「さて、なんだろうねえ? この気持ちは……」
 くすぐったいような、痛いような。また、苦いような、甘いような。
 曖昧な気持ちが胸にわだかまる。友雅は、あまりその気持ちに頓着せず放っておいた。遠くない未来において、その気持ちに向き合っていればよかったと後悔する日がくることも知らずに。
 今はただ、目の前の優しい褥に身を横たえる。人魚のまどろむ夢の野は、さぞ心地の良い楽園であることだろう。少女に遅れて、男も夢の園へと旅立つ。


 男の睫が朝日を弾いて輝いている。長いそれが頬に影を落とす様子は、見惚れるほど美しい。起きているときは隙のない男なのに、寝顔はどこか無防備だ。こんな様子を見ると、ほんの少しだけ友雅が近しくなったような気分になる。
「…子供みたい。可愛い……」
 朝の光の中で、あかねは頬を染めながら擽ったげに笑った。
 躊躇いがちに少女の指先が、男の顔に伸びる。
 それが触れるか触れないかの微妙な距離に近づいたところで、友雅の睫が震えた。
 あかねの伸ばされた手が、友雅の手に握りこまれる。
「……………おはよう」
 寝起きの気だるげな微笑みが優しくて胸がいっぱいになる。それと同時に、掠れた声がセクシーで、耳朶に囁かれたわけでもないのに、あかねの背筋がぞくぞくと震えた。
 あかねの顔が我知らず真っ赤になり、かぁーっと沸騰した。
 少女はとっさに側にあった枕を友雅に投げつけ、弾ける豆のようにベッドから逃げていく。
 どきどきと脈打つ心臓の音おが、唇から零れそうなほど大きく鳴っている。
 まともに友雅の顔が見れない。
 なぜこんなにも、相手を見つめるだけで恥かしいのか? 友雅の瞳に自分が映っていると思うだけで恥かしいのか?
「んもぅっ。どうして? わたし、ヘンだよ……」
 どきどきが止まらない。鼓動は大太鼓のように鳴り響く。友雅の顔を思い出すと、それはますます激しくなる。
「わたし、病気なの……?」



 *

「おはようございます」
 あかねと友雅が生活するプライベートコテージに、鷹通は朝早くから訪れた。
 湖に面した庭で朝食を摂っていた二人のもとに、カルテを片手に顔を出す。
「鷹通さんっ、おはよう」
「おはよう、あかね。元気そうだね、良かった」
 いつになく元気なあかねに、青年は安堵する。が、ふいに友雅に視線を向けた少女が、慌てて顔を背けた。そして、顔が沸騰したように赤くなっている。
「…………………………」
 天真から回ってきた報告に、鷹通は頭を抱えていた。この二人は癒しを実行していないらしい。だから、友雅の怪我は治っていかないし、あかねはメンタル面が元気なままなのだ。
 かなり問題が大きい。こんな状況は、エリュシオンが開かれてから、一度もない。マーメイドに手を出さない客など、友雅が初めてなのだ。
 あかねが幼いから手を出せないと言ってきたそうだが、友雅からマーメイドの交代の申請も出てこない。望めば、妙齢のパートナーを選ぶこともできるのに、ならばなぜそうしないのか? 不可思議な行動をする客に疑問ばかりが増えていく。
 だが、この場面を見て、そんなことはどうでもいい気にもなる。もっとやっかいな問題が目の前で起こっているではないか。
 友雅を見て頬を染めるあかねに、鷹通は世界の終わるような気分になる。自分の一生の中でこれほどやっかいな問題はもう二度と起きないだろう。
「鷹通さんも、どうしたの?」
「…………………………いえ、なんでもありません」
 そう言う以外に言葉はない。
 わざわざ口に出して、火に油を注ぐような真似だけはするまい。
 眼鏡を抑えて動揺する鷹通の気持ちを知らない暢気な人魚姫は、にこやかに来客をもてなそうとしている。
「じゃあ、ごはん、一緒に食べよ?」
 そう言って、あかねは新たなカップに紅茶を注ぎ、友雅が自身の隣の椅子を引きながら鷹通を誘う。
「私はすませてきました。おかまいなく」
 椅子を引いて席に誘われるままに鷹通は座に着いた。丸テーブルなので、あかねとも隣り合う。
 用意されている朝食を友雅は黙々と食べ、あかねは美味しそうにニコニコと食べている。そして、ときどき友雅を見ては、もじもじと頬を染めている。
(……………ああ、神よ)
 恐るべきことが起こっている。鷹通は内心の動揺を隠し、平静を装う。
 あまりの唐突な変化に、信じられないものを見るが、これは現実だ。もはや自分には何もできないだろう。すでに、手遅れだ。鷹通にできることは、さざめく波から人魚を守るべく、小さくとも防波堤を築くだけ。運命という来客は、扉を開けないからといって帰ってくれる相手ではない。
 皿の上の物がほぼ片付き終わった頃、鷹通は話を切り出す。
「あかね……」
「ふぁに?」
 鷹通の何気ない呼び掛けに、あかねはパイナップルを頬張りながら顔を上げた。
「……口に物をいれたまましゃべるのは行儀が悪いですよ」
 …………モグモグ…。ゴックン。口元を押さえつつ良く噛んで飲み込み、もう一度返事をし直した。
「なに?」
 あかねの正しい返事に鷹通は首肯いて、そのまま紅茶を飲み、一呼吸置いて口にした。
「昼すぎに、センターから迎えが来ます。きちんと用意して待っていてください」
「!」
 あかねの表情が一瞬曇り、その後すぐに不機嫌に頬が膨らんだ。
「どーしても?」
「どうしてもです」
 あかねの捨て鉢な呟きに、鷹通は淡々と肯定をいれる。
「お仕事です……」
 これは決まっていたこと。
 その一言で、あかねの表情は凍り付き顔が俯く。
 あかねと鷹通の間で発生した緊張感に、友雅は顔を上げてあかねの様子を伺った。あかねは面白くなさそうに、プレートに残っているフルーツをつついている。
 友雅は、無意識にあかねを呼ぶ。
「あかね?」
 だが、あかねはそれに答えずに席を立った。
「ごちそーさまっ」
 と一言置いて、逃げ出すように庭を出て行く。
 普段、食事を残したりしないあかねが、多少なりとはいえ食事を残し、大好物のデザートに手を付けていない。
 友雅の視線が、もの問うように鷹通に向けられている。鷹通も友雅に何を問われているか理解していた。
 鷹通は、しばらくの間のあかねの不在と、それに追随する細かな指示を友雅に出していく。
「十日間、あかねをセンターが預かります。もう、お分かりでしょう?」
 友雅は小さくため息を吐いた。
「他のマーメイドに回せないのかい?」
「無理です」
 人魚の数は限られている。だが、客は無尽蔵にいると言っても過言ではない。
 普段は、優しい笑みを浮かべている鷹通だが、今は表情がなかった。
「ここが不自由なら、しばらく……あかねが居ない間だけでもパレスに移りますか? こちらで一人でいらっしゃるのはお退屈でしょう?」
 パレスは、エリュシオンのゲストたちが集う社交の場である。客たちは、そこでマーメイドの準備が整うのを待って、それぞれの湖に散っていく。
 ありとあらゆる設備がゲストの為に完備され、パレス自体がリゾートとして機能している。
 友雅は鷹通の申し出に首肯くでなく、なんの反応も見せない。
 カタリと鷹通が席を立つ。
「パレスにゆかれるのであれば、ご連絡をください。飛行艇を用意させます。それでは、私は準備がありますので」
 一人取り残された友雅の無表情な瞳が、広い湖に向かう。
 ここは、人の世の楽園。だが、薄い氷壁の下は地獄なのかもしれない。


 あかねは湖に下りていったのだろう。友雅は湖を目指し、足早に歩く。
 友雅の住む地球によく似た水と緑の一大パノラマ。
 この美しい水の惑星に住むのは、惑星の清しさを一身に集めた希有な存在たち。
 葦が茂る湖の岸辺に、あかねは佇んでいた。
(あかね……)
 桜色の髪が風に揺れてなびく。寂しげに両足を抱えて湖を見つめている。
 そっとあかねの後に近付いて声を掛けた。
「……あかね」
 涙を溜めながら、あかねが振り向く。烟る睫毛に縁取られた印象的な瞳が、哀れなほど潤んでいた。
 何が悲しい? かなど、愚問以外のなにものでもない。
「あかね」
 友雅はあかねの隣に座った。少女の視線はすでに湖の方へ戻っている。友雅はそんなあかねの横顔を凝視め、真摯に呟いた。
「あかね……行きたくないのなら、行かなくてもいいのだよ?」
「…………………」
「行く必要などない。私がなんとかしてあげよう」
 あかねは、友雅を見上げた。
 友雅の言葉通りに出来たらどれほどいいだろう。だが、それは友雅に無理を強いることだとあかねは知っている。
 あかねは寂しげに微笑む。
 生きたいと願うならば、行かなくてはならないだろう。それがマーメイドである自分の存在意義。仕事を放棄した人魚は、生きる価値なしとみなされ、廃棄処分にされるだけ。
 人間に生かされている現実を、人魚は魂に沁みこむほどに教え込まれている。
 今まで、こんなにもヒーリングを厭うことなんてなかった。
 ヒーリング自体も、リカバリーなんかよりよっぽど嫌いだ。けれど、それを厭って駄々を捏ねたことは一度もない。ヒーリングはあかねが生きて(生かされて)いくための術だから。
 なのに、何故?
 今、これほどの嫌悪が身を侵食するのか?
「……友雅さん……」
 あかねは隣に座す友雅を見上げる。
「あかね。大丈夫、私に任せておきなさい」
 あかねの身体がピクリと反応する。
 そうしたい。そうできれば、どれほど自分は救われるだろう?
「……………………できない、わ……」
 自分はマーメイドなのだ。人間ではない存在なのだ。
 自分は、このエリュシオン以外では生きられない生き物なのだ。
 エリュシオンに背くことは、死を意味する。
 俯きうちひしがれるあかねは、友雅の知っているあかねとはほど遠い。
「私を信じられない?」
 答えられない少女に、友雅は焦れていた。
 泣き笑いを浮かべたあかねは、力なく首を左右に振る。それは、絶望し諦めた者の瞳以外のなにものでもなく、友雅と出会ったときの少女が浮かべた瞳と似て非なるもの。
「………分かったよ……」
 少女の拒絶を、友雅は受け入れた。
 だが、それは拒絶ではなく、雁字搦めにされた諦めであった。本当は、心の奥底では助けて欲しいと血を吐きながら救助を求めている。それに気付けなかった男は、静かに少女の傍らから立ち上がった。
「友雅さんッ!」
 あかねが友雅の後ろ姿に追いすがった。
 だが、友雅は返事もせず、腕に手を掛けてきたあかねの手を降り払って振り向きもせずに去っていく。
「友雅さん………」
 友雅の後ろ姿を見つめているあかねの頬に、一筋の涙が落ち、唇を掠める。
 その涙は諦めと絶望が入り交じった味がした。
「…にが……」
 どうしてこんなに胸が苦しいのかあかねにはわからなかった。友雅を追い掛けて、いつもの顔で自分に『あかね』と囁いてくれたなら、この不安が取りのぞかれるのをあかねは本能的に知っていたが、再び拒絶されるのが恐ろしくて、彼を追い掛けることが出来なかった。



 *

「イヤっ。触らないで」
 組み敷かれた男の下で、あかねは身を捩って逃れようと藻掻いた。
「どうしたのだ、あかね?」
「お願いっ。触らないで……」
 気持ち悪い。吐き気がする。
 けれど、あかねを弄る男の手は尚も執拗にあかねを煽ろうと淫らにうごめいている。
「ヤだ…。もーやだぁ……」
「あかね……どうしたんだ? 今回の君は聞き分けが無さすぎる」
 アーヴィングの胸を突っ張って、あかねは自分に彼をこれ以上近付けないように抵抗する。
「あかね! いい加減にしなさい。これ以上、君のワガママを聞いていられない」
 昨夜も、その前も、アーヴィングはあかねを抱けなかった。
 あかねが余りにも嫌がるから、それ以上のことが出来なかったのだ。
 アーヴィングは仕方なくあかねの足を抱え上げ、あかねの花びらを眼前に曝した。
「やめっ……」
「君がいけないのだよ……。私もここまでしたくはなかったのだ」
 不自然な体勢で首を打ち振りながら、あかねは悪足掻いたが、しっかりとアーヴィングに体重を掛けられて逃げることは不可能に近かった。
「無駄なことを……」
 毒づきながら、アーヴィングはサイドテーブルから銀色の包みを取り上げる。その様子を横目に見たあかねが、さらに激しく暴れる。
「いやっ。酷いことしないでっ。それはイヤっ。それはイヤァっ」
「君が悪いのだ。君は少しも私の言うことを聞かないから」
 銀包を口に咥え、片手で破いて取り出す。乳白色の釣り鐘型の小さな試薬が、男の掌に零れた。
 本番のヒーリング中には一度も使ったことは無かったが、実験や試験などで似たような物を何度か使われたことがあった。
 だから、それの効力は知っている。
「やめてっ。ちゃんと相手をするわっ。だから……」
「あかね、これはイイ子にしていなかったお仕置きなのだ」
 あかねの足をアーヴィングは更に深く折り曲げた。
「やめてーッ」
「すぐに気持ち良くなる……」
 アーヴィングに耳元で甘く囁かれても、あかねには悪寒しか感じられない。
 冷たい固まりが花びらの奥に差し込まれ、その先端がゆうるりと埋め込まれた。
「いやぁぁぁっっっ!」
 少女の絶叫がほとばしる。
 即効性の薬剤は、人魚の身体をあっという間に蝕んだ。
 弛緩した身体は抵抗する力がなく、アーヴィングの思いのままに弄ばれる。
 今も、クスリで熱っぽく潤んだ瞳に涙を溜めたあかねを悦にいってアーヴィングは見下ろし、少女の身体を自分の都合のいいように動かしていた。
 あかねを俯せて両の足を膝をついて立たせ、あかねの秘められた花園を差し出させる格好を取らせた。
 そして、あかねの花びらに指を恭しく差し入れて秘肉の中を探る。
「……やぁ……」
「……あかね……君がいけないのだ。こんな非紳士的なことはしたくなかったのだがね」
 そう言いながらもアーヴィングの表情はどこか暗い悦びを映していた。男は、指を増やして内を丹念に解していく。
「……やめっ…」
 それが得も言われぬ悦をもたらし、あかねの身体は痙攣したように震えた。
「こんなことをされて悦んで……………いやらしい子だ」
 あかねのポイントを指の腹で擦り付けるように何度もしつこく撫で擦った。
「…ぅっ………」
 嗚咽をかみ殺した悲鳴がくぐもる。
「あかね。いつものように素直に鳴きなさい」
「…い…や…」
「強情だね。だが、たまにはそれもいい……」
 アーヴィングに尻を差し出す屈辱的なポーズを取らされたまま、あかねは自分の意志とは関係なく、秘められた花びらの奥に蜜をためていく。
 融けた花の蜜が内部を濡らす頃、下肢を割って男の欲望が乱暴に突き入れられた。
「あひぃっ!」
 慣れて、熟れた身体はアーヴィングが与える淫靡な熱を躱しきれず受けとめてしまう。
 もっと強く! もっと高みに! 自分を昇らせて欲しいと本能が叫ぶ。
「…ぁあっ……ん!」
 情けなくて、あかねは涙がでそうだった。
 これは、人魚の仕事だ。いつものことだ。ほんの少し我慢すれば終わる。
 なのに、なぜ? こんなにも心が痛いのだろう?
「……と……………」
 友雅さん……と、助けを求めそうになった唇を、両手で押さえ、あかねは言葉を飲み込んだ。
 イヤでも我慢した。我慢しなければ酷いことをされてしまうと知っていたからだ。あかねも強い恐怖の前に従順になっていた。けれど、どうしても心がそれに追いつかない。いつものように、癒しを求める男たちに足を開くことはできなかったのだ。
「くぅっ…ヤメ……」
「まさか、こんな格好の君を愛する日がくるなんて思ってもみなかったよ。ああ……でも、この体位も悪くない」
 脇腹を愛しげにアーヴィングはなぞり、手を下肢に滑らせる。
「大丈夫。うんと楽しませて上げよう……」
 今夜は放さない。
 そう告げるかのように、アーヴィングはあかねの身体を背後から強く抱き締めた。
 アーヴィングがセンターから与えられた蜜月は七夜。もうすでに三夜を無為に過ごしている。
「あかね。愛しているよ、私のマーメイド……」




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展示室≫
Cream Pink /  狩谷桃子 様