ブルーマーメイド

= 王子様と人魚姫 =



− 2-3 −

 *

「なにしてるの? 友雅さん」
 暇つぶしの延長で、株の資産配分をプログラミングしていた友雅の背中に、あかねが飛びついてくる。
「プールで遊んでいたのではなかったの?」
「ルゥークは、狭いところが嫌いなの。湖に帰っちゃったわ」
「あかねは、狭いプールは嫌いじゃないのかい?」
「好きじゃないよ、もちろん」
 あかねも広い湖で泳ぐ方を好む。だが、
「でも、ここには友雅さんがいるから」
「おや。嬉しいことを言ってくれるね」
 たとえ、ヒーリング中のマーメイドが主人の側を離れることができない約束ごとがあるにしても、そう言ってもらえれば悪い気はしない。
「ねえ、友雅さん」
「ん?」
 数値を入力しながら、生返事をする。少女はそんな友雅の前に回り、強引に友雅の視界と端末の画面の間に一冊の本をねじ入れた。
「今度、これ」
 少女のおねだりは、小憎らしいほどに図々しい。だが、可愛いのも事実で友雅は断れた例がない。
「やれやれ。君も文字は読めるのだろう?」
「友雅さんに読んでほしいの」
 手にした本を渡し、男の膝の上に少女は図々しく回り込み、ちょこんと座った。そして、振り仰ぎながら少女は期待に満ちた瞳で男を見上げた。
「まったく、困った子だね」
 ロマンス小説を夜になく、昼になく読まされるようになるとは思ってもみなかった。
 少女が大人しく童話で満足していたのは、最初の数日だけ。送られてくる本の中に、どうしてか紛れて入っていたロマンス小説に、少女は夢中になってしまった。
「ね。ね。早く、早くっ」
 仕事どころではない。いや、もともと友雅はここに療養に来ているのだから、仕事をする必要はない。
 だから、時間だけはたっぷりとある。
 今度もおねだりは功を奏し、あかねは悩ましいほど甘い声で、ロマンス小説を読んでもらうことに成功した。少女はうっとりと聞き惚れ、さらに、物語に夢中になっていく。
 友雅が息継ぎする間ももどかしげに、声が止まるたびに、男の膝をぱしぱしと叩いて催促をする。
「はいはい。えーと、エイミーはマディソンに……」
 架空の人物の恋物語。それも、意味不明な諍いごとのシーンに辟易しながらも、友雅は語り続ける。ロマンスの主人公たちのありえないほど自分に酔い痴れた誤解の嵐に、友雅は頭痛を感じる。こんな暑苦しい恋愛をしたことは一度もない。それにしても、世の女性陣は本当にこんな恋をしたいのだろうか? 疑問を強く感じるが、世界中で愛読されているということは、つまりそうなのだろう。初めて知る異性たちの夢の恋愛劇の凄まじさに、友雅は読んでいるだけで脱力してしまう。
「あかね、こんな話のどこが良いのだね?」
 もうたくさん。そろそろ許してくれと、友雅の声が懇願している。
「最後は、みんな幸せになるところだよ。二人の愛が通じ合ったときなんてステキじゃない。誤解の解けるシーンなんて感動だよね?」
「状況認識能力が足りないとしか思えないね。もう少し、冷静になってみれば、こんな馬鹿らしい誤解も生まれないと思うのだが。私なら、このような短絡な嫉妬などしないよ。まったく、脳みそがどれだけ沸騰すればこれだけの愚か者になれるのか?」
 友雅は物語の登場人物たちに異議アリなのだ。どうしてそんな誤解にたどり着くのか? まったくもって、彼らは好んで諍っているとしか思えない。
「設定では、冷静沈着な企業家と、彼の有能な秘書のはずなのだがねえ」
 友雅には、登場人物たちは、頭の悪い男と頭の悪い女なのだ。
「だいたい……二人が誤解を解いて、互いの愛に気付くのなんて、最後の数ページじゃないか」
 それまではくだらないとしか言いようがないほどの誤解と曲解のドラマが繰り広げられている。
「童話の方が、まだ解りやすくていい」
 もっと言ってしまえば、内容が短いので朗読するにも適している。
「んもーっ、いらないことは言わなくていいから。次っ、つぎっ」
 あかねの手が、友雅の太ももをぺしぺしと叩いた。
「そういうこと言われたら、面白くなくなっちゃうじゃない!」
 あかねの文句に、友雅も憮然と言い返す。
「だが、それを読ませているのは、君だよ? いっそ、開放してほしいのだがね?」
「ダメ。まだ、ダメなの」
 さあ読んでと、少女の嬉々とした瞳が友雅を見上げてきている。
 まだ勘弁されないらしい自分の状況にため息しながら、友雅は続きを読もうとしたところで来客の知らせが入り、男は苦行から一時的に解放されるのだった。
 二人への来客は、メディカルセンターからの使いで、全権を委託された天真が二人の前に立つ。
「天真くん。どうしたの? なにしに来たの?」
「迎えに来たんだよ」
「迎え?」
 きょとんと、あかねが友雅の膝に座ったまま、天真を見上げた。
「やれやれ。また検査かね? 少し回数が多いのではないかな?」
 すでに、友雅は天真たちとも顔見知りになっている。あかねのリーダーということもあり、天真と頼久は友雅のメディカルカウンセラーを兼任しているのだ。それは、このたびの、あかねにとっての初の試みである長期の治療に関するデータを集めるためでもあった。
「こういうことは微調整が色々と必要なんだよ。それは、最初から注意してただろ。だが、今日はあんたを迎えに来たわけじゃない」
 天真は気が進まなさそうにしている。
「今日、迎えに来たのはあかねだ。センターから、回復措置(リカバリー)の命令が出た」
 天真の爆弾発言に、あかねが友雅の膝の上で硬直しながら飛び上がった。そして、次の瞬間に否を唱える。
「ヤダ!」
 リカバリー────────。
 それは、普通の生活で摂取しきれない、マーメイドには必要な高栄養素を補給させる為の処置行為。もしくは、措置施設の総称である。
「嫌だ、クソもねーんだよ。これはセンターからの特別な指示なんだってば!」
 天真はあかねを引き摺ってでも連れていくべく、少女に近づく。だが、連れていかれまいと、あかねは友雅の胸にすがり付いていた。
「これこれ。こんなところでムタイな真似はやめておくれ」
「はっきり言って、誤解だ。ムタイな真似をされるのは、オレたちだからな」
「だが、どう見ても、悪人は君のようだがね?」
「今はまだな。いざ、そうなってみろ。殴る蹴る、引っかかれるの暴行を受けるのは、オレだ!」
 今にも天真に噛み付きかねない少女が、友雅の腕の中で唸っている。
「こんなに嫌がっているのだから、今回は勘弁してやっておくれ」
「そうしてやりたいのは山々だが、リカバリーはあかねの身体には必要な回復プログラムなんだよ」
「あかねは、体調を崩しているのかい?」
 そうは見えない。少女は毎日元気に遊んでいる。友雅はあかねを見下ろす。あかねは天真を威嚇しながら、友雅の懐に逃げ込んでいる。
 友雅の懸念に、天真は軽く首を左右に振る。
「体調はまだ崩してない。ただ、ポテンシャルが低すぎるんだ」
「ポテンシャルが低い?」
「二週間も、あんたと一緒にいるのに、まったく癒しの効果がないだろ。ほら、来い、あかね」
「ヤダっっっ」
 手を出す天真に、あかねは行くものかと、友雅の胸にしがみついていた。
「素直にしてくれよ。すぐ済ませてやるからさぁ。今なら、ハーフプログラムで終わらせてやるぞ?」
 ツーンとあかねがそっぽを向く。
「あんまり駄々を捏ねてると、オレたちじゃなくて、センターの医務官にリカバリーをされるぞ〜」
 情け容赦のない回復プログラムは、あかねが最も忌避するもの。泣きそうな顔で、少女は天真を睨んできた。
「な? 今なら、オレたちがやってやれるんだから。しかも、ハーフだぞ。半分だぞ」
 天真はあかねを納得させるべく、飴と鞭を交互に見せびらかしながら口説き落とそうとする。
「イ・ヤ! イヤったら、イヤーなの!」
 でも、やっぱり、聞けないものはきけない。あかねは首を横に振り続ける。
「………………」
(どうしてやろうか……このクソガキ!)
 こうゆう時は、さすがの天真もあかねに殺意が覚える。可愛さあまって、憎さ百倍。天真としても、嫌がることはさせたくはない。だが、リカバリーはマーメイドの健康に関係する大切なプログラムなのだ。
 必要と判断したら、どんなことをしても施さねばならない。これは、あかねのためでもあるのだ。それなのに、ワガママな子供は少しも言うことをきかない。
「イヤだっつってもやるの!」
「ヤダ!」
「あかねー……」
 駄目だ、こりゃ。天真は投げたくなってきた。
「こないだ受けたばっかりじゃないの……」
 あかねは唇を尖らせて自己主張をする。リカバリーの基本は半年に一度のプログラム。
「まあ、そうなんだけどよ……」
 事実、長期の仕事が入る前に、一度、ハーフだがリカバリーはほどこした。定期検査であ、少女のポテンシャルの数値は下がっていなかったが、結果を出せないのだから、やりなおしは必然だ。
「半年たたないとヤッ」
「半年って……………」
 半年に一度のリカバリーはマーメイドにとって義務。しかも、半年はただの目安に過ぎないのだ。ヒーリング能力の低下を防ぐために、三、四ヶ月に一回受けるマーメイドも少なくない。
「まだ五ヶ月はあるじゃないっ!」
 だから、それまでは絶対に受けないの! と、あかねは主張する。
「やれやれ……」
 困り果てる天真に、半ば、部外者と化していた友雅が口を挟んだ。
「ところで、そのポテンシャルとやらが低いと問題があるのかね?」
「ああん?」
 すっかりこの男の存在を忘れていた天真が、思い出したように友雅に視線を向けた。
「普通に生活する限りは、今のところは問題ねーな」
「ならば、こんなに嫌がっているなら、今回は勘弁してやってもいいのではないかね?」
「それが、あんたを癒すには問題ありだ」
「私が関係するのかい?」
 友雅の驚いたように、目がわずかに見開く。
「マーメイドの癒しを受けにきてるんだろ? 寝言言うなよ」
 あかねの能力が低下することは、癒しの恩恵も低下するということだ。
「回数こなすより、マーメイドの至然力の影響の方が治療には大きな効果を表すんだぜ。実際、あんた、ちっとも快癒してねーんだから」
 これほど効果の薄い相手も珍しい。いぶかしみながら、天真は二人を見つめた。
 そんな天真を余所に、友雅は苦笑した。
「なるほど。そんなことか」
 皮肉げな笑みを口元に湛えながら、嘆息するように呟く。
「ならば、問題ないよ。このままでもね」
「は?」
「リカバリーとやらは必要ないと言ったのだよ」
 そう言って、友雅はあかねをあやす。
「ほら。もう大丈夫。あかねの嫌がることはしないよ」
 背中を撫で叩き、少女を安心させるように微笑む。
 でも、あかねは疑り深く天真を見上げている。
「ああ。そんな表情で睨むのではないよ。可愛い顔が台無しだ。私がいいと言うのだから、必要ないだろう?」
 最後の質問は天真に向けている。
「いや、そう言われても……」
 よもや、患者である友雅があかねの味方になろうとは、思いもよらない。
 目の前の男は、ここに何をしに来ているのか、自覚があるのだろうか?
 冷静に、天真は友雅を見つめる。そこで、あることに気付く。そう言えば、あかねと友雅が共に居る姿を始めて見た。天真は、少し、いやだいぶ驚く。
「どうしたのだね? 何か驚くようなことでも?」
 天真の戸惑いに気付いた友雅が、ぽかんと口を開けて突っ立っている青年に声をかける。
「いや……驚くっつーか。そういや、あかねが誰かの膝に乗ってるなんてとこ、かなり久しぶりに見た」
「おや? そうなのかい?」
 少女は隙を見せれば、すぐに友雅を敷物にしてくる。いや、マットかなにかと勘違いされているのかと思うほどだ。膝は当たり前に座ってくるし、寝転がっていると、背中にも乗ってくる。
「昔は、オレの膝にだって乗ってくれてたんだぜ」
「今は?」
「成人したときから、まったく………なし」
 小さな頃のあかねの姿が、瞼に浮かぶ。あの頃のあかねは可愛かったと、天真は我知らず呟いていた。
 天真の呟きを聞いたあかねは、むっとしたように唇を尖らせた。その変化に、友雅は苦笑を噛み殺しながら横目で少女を見ている。
 驚きが大きいせいか、天真はあかねの変化に気付いてなかった。
「そーいや、リーダーの男に自分からくっついてくるのも初めて見るな」
 あかねは、自分のパートナーとなるリーダーを慕うことはしない。むしろ、厭っているきざしすらある。
 だが、友雅にはどうだろう? 自分から近寄るだけでなく、懐いているようにすら見える。
「あんた、あかねになにしたんだ?」
 奇跡だ。魔法だ。天真は純粋な好奇心で友雅に尋ねる。
「毎日、本を読んであげているだけだよ。こうやってね」
 砂を噛みたくなるようなロマンス小説を音読させられているだけ。と言っても、友雅にとっては、なかなかに試練の苦行であったりする。
「それだけ?」
「それだけだよ」
 唖然と質問してくる天真に、友雅は端的に答えていた。
「あんた、なにしに来てるわけ?」
「さて? 子守だろうか?」
 友雅の腕の中で、安心しきったマーメイドは身体を預けている。そして、天真をつぶらな瞳で見上げている。
「病気を治したくないのかよ?」
「まあ、ねえ……」
 ここに来たのは、外野のおせっかい。友雅は望んで訪れたわけではない。だが、それは天真たちは知らなくてもいいことだ。
「それに、こんな幼気な子供に、なにをしろと言うのだね?」
 友雅の守備範囲に、あかねは入らない。
「悪趣味なのにもほどがあるよ」
「自分の趣味はおいても、病気を治したい、長生きしたい、若返りたいってヤツはいるからな」
 あかねが幼いことなど、なんの障害にもなっていない。事実、少女は十三のときから大人として扱われている。世の中はそういうものだ。
 現実というものを友雅も知っているつもりだ。天真の言う言葉は、確かに現実だろう。人間はいくらでも浅ましくなれる。友雅も必要に迫られればどんな風に己が豹変するかわからないと思っている。
「……欲望は尽きないということかな?」
 友雅の表情が渋くなる。
「あんただって悠長にここで滞在しているだけじゃ意味ねーだろ? 第一、タダじゃねーんだし」
 天文学的な滞在費用を請求されているはずである。
「あかねに手を出せねーんなら、他の人魚にするって手段もあるんだぜ」
 友雅のヒーリングが進んでない理由が判明した。
 天真は馬鹿らしくて肩を落とす。確かに、今、あかねのリカバリーを急いでする必要はなくなった。
「この子で間に合っているので、他の人魚はいいよ」
「……いや、ちっとも間に合ってねーんじゃねーの?」
 人魚を人魚として扱えていないのでは意味がないのだ。だが、目の前にいる人物はそんなことなど我関せずとばかりに、手元のロマンス小説を開き、少女に続きを語り聞かせる。
 すでに、あかねの意識は天真ではなく、友雅の唇から零れる物語に向かっている。
 少女の意識が完璧に天真から離れたのを確認してから、友雅は天真に目配せする。それは、もう出て行けという合図でもあった。
 すでに、その空間に天真の居場所はなかった。



 *

「やれやれ。やっぱり、まだ寝ていないのだね」
 寝室の扉口で、友雅は嘆息を吐く。
 彼の目の前には、寝台の上で寝る準備を整えてちょこんと待ち構えている小さなマーメイドがいる。瞳は期待にらんらんと輝いていて、友雅の登場を今か今かと待ちきれずにいたようで、男の登場にさらなる笑顔が深くなる。
「はやく。はやくっ」
 男の手には、少女の大好きなロマンス小説がある。
「私がこんなに律儀だったとはね。初めて知ったよ」
 そう言いながら、友雅はベッドに近づき、その大きな身体を少女の傍らに滑り込ませる。
「さて、どこからだったかな?」
「エイミーが、マディソンのもとを離れたところからよ」
 友雅の身体に擦りより、男の手の中の本を取ってぱらぱらとめくる。
「あ。ここから」
 はい、と、少女は男に本を返す。
 肩肘をついて顎をのせ、友雅は続きから語っていく。
 甘い物語は、佳境へ進展している。
「君もこんな恋がしてみたいの?」
 なにげなく問うた言葉は、深い意味はなかった。あまりにも、少女がこの世界を好むので、世間話のように口にした一言だった。
 あかねは、きょとんと友雅を見上げる。
 その瞳は、考えたこともなかったと訴えている。
「……………わたしは、人間じゃないもの」
 考えても意味はない。
「でも、ステキだね。こんな風に誰かを想ってみたいね」
 そう言って、あかねは枕に頬をうずめて甘い笑顔を浮かべる。
 少女は笑みを浮かべているが、友雅は己の失態を心の奥で歯噛んだ。心無い質問だったと今さら悔いても遅い。少女にそんな夢を見せることは、残酷なだけ。だが、あかねは友雅を責めず、自然体のまま諦めを口にする。
「わたしはできないけど、友雅さんはこんな恋をしているの?」
「………いや、私は……………」
 少女の質問返しに、友雅がわずかに狼狽える。
「どんな恋だったの?」
 友雅の反応を見て、あかねは興味を深めたようだった。
「ねえ、ねえ、教えてっ」
「教えてと言われてもねえ。話して聞かせるようなものではないよ」
 がばりと状態を起こして、少女は男に詰め寄る。
「友雅さんも、マディソンみたく、こんな風にイロイロとイジワルしちゃうの?」
「……………こんな馬鹿なことはしないよ」
 一緒にしないでほしいと、友雅は苦虫を潰した表情を浮かべた。
「バカ? マディソンがしていることってバカなの?」
「よくまあ、こんな馬鹿馬鹿しい誤解ができるものだと思うよ。しかも、その誤解を盾に、相手を追い詰めて言うことをきかせるなんて恥かしくて、私はできないよ」
「違うよ。エミリーは、ついて行きたいから条件をのんだんだよ? マディソンは言うことをムリヤリ聞かせたんじゃないわ。ちゃんと、エミリーに選択させてあげたじゃない」
「これを選択と言うならね。まあ、あかねの言うとおり、エミリーは付いていきたがっていたからね。条件をのむのはやぶさかじゃないくせに、この男の提案をのむときの彼女の言い訳というか、葛藤というか、どうしてそこまで前置きをしなければ付いていけないのか理解に苦しむよ」
「んもぅっ。友雅さんって、ちっともロマンティックじゃないのね! 恋人いないでしょう?」
「どういう意味だい?」
 わずかに友雅がムッとした。
「失礼だね。恋人くらい……」
「いるの?! どんな人!」
 あかねの好奇心は全開となって男に向かう。
「ねえねえ、どんな恋してるの? 彼女にどんなこと言ってあげてるの?」
 嬉々として詰め寄るあかねの勢いに、友雅は呑まれかける。
「自分の恋など、人に語るものではないのだよ」
「大丈夫。わたし、人間じゃないもーん。人魚だから、ねっ?」
 友雅の腹に圧し掛からん勢いで、少女は男の身体を揺すってくる。
「ね? ではないよ」
「ケチケチケチーっっっ」
「それで?」
 ケチと言われたところで、痛くも痒くもない。友雅は知らんぷりを決めこむ。
「話してーっ。話してーっ。話してくれるまでこうしちゃうからっ」
あかねは最終手段にでて、友雅のわき腹を擽りだす。だが、筋肉質の男はその程度の刺激などなんともない。
「あまりお悪戯が過ぎると、本を読んであげないよ」
「ズルイっ!」
 あかねはすぐに悪戯をやめたが、諦めてはいないようで、唇を尖らせて上目遣いに友雅を見上げてきた。
「まったく……………」
 友雅は額に手を置く。
「君は私を操縦するのが上手いねえ」
 この瞳を向けられると、どうも弱い。観念した男は嘆息しながら白状する。
「いないよ、今はね」
「どうして?」
「別れたのだよ。私はどうも、他人と付き合い続けることが苦手なようでね」
 どの恋人とも長続きしない。
「ずっと一緒にいるものじゃないの?」
 ロマンス小説のエンディングしか知ることのない少女は、『別れ』の概念がないのだ。
「皆ね、私が冷たいと言って、離れていってしまうのだよ」
「友雅さんが、冷たい?」
 あかねは信じられなかった。
「こんなに優しいのに」
「私が優しいのは、君だけだよ」
「恋人には優しくしないの?」
 あかねの疑問に、友雅は曖昧な笑みで誤魔化した。が、そんなもので少女は誤魔化されない。
「ねえ、どうして?」
「さて、ね」
 この少女は、どうしてか突き放せない。側にずっと居ることも苦痛じゃない。まるで、息を吸うように優しくできる。しかし、そんなことは語る必要のないことだ。友雅はのらりくらりと、あかねの追求をかわしていたが、ゴホッと、突然むせた。
 しばらくの間、男は咳き込み、少女は驚きながら男の背中をなでる。
「だいじょうぶ?」
「ああ。大丈夫だよ」
 口元を押さえたまま、友雅はありがとうと感謝する。
「お風邪?」
「……………まあ、そんなところかな? ごほっ…」
「ダメだよ。ちゃんと、寝てないと」
 あかねは友雅を枕に押し付ける。そして、毛布を胸まで引き上げた。
「ゴメンね。体調良くないのに、いっぱいお話させちゃったね」
 ぱふぱふっと枕を整え、友雅の肩に合うように調節してやる。
「でも、ちゃんと言ってくんなきゃわかんないよ」
 あかねは、友雅の首元にそっと手を伸ばし、優しく撫でさすった。
「わたしの唾液、のむ?」
「…………………………あかね、なんだかその言い方は美しくはないのだがね」
 あかねは、きょとんと目を丸くした。少女にとって、自分の体液を分け与えるのは当たり前のことなのだ。
「おクスリだよ?」
 万能薬だ。多くの人間たちが、あかねのそれを欲している。
「せめて、キスをしようか? と、誘ってほしかったねえ」
「じゃあ、キスする?」
 色気もそっけもない誘いに、友雅はがっくりと肩を落とす。
「いいよ」
 拒まれた少女は、小首を傾げた。
「……………友雅さん、お病気治らなくてもいいの?」
「このくらいなら、自分で治せるよ」
 本当は風邪などではないが、あかねがそう誤解してくれるならそれでいい。友雅は、心配しなくていいから休みなさいと、あかねもベッドに横たわるように促した。
「どうしてここに来てるの? 病気を治しにきてるんでしょ?」
「さて、ね」
 友雅は薄い笑みを浮かべつつ、自分の胸元に懐いたままの少女の頭を優しく撫でた。
「君が本当に、私を癒したいと思ったときでいいよ」
「友雅さんなら治してあげてもいいよ?」
 自分から誰かを治してあげたいと思ったのは初めてだったが、あかねはそのことに気付いてなかった。
「それは嬉しいね」
 そう言いながら、枕辺の電源を操作して部屋の明かりを消してしまう。友雅の浮かべていた哀しげな笑みは、暗闇に隠されてしまった。
「だが、君のご好意はまた今度ね。こんなのは一晩眠ればよくなるさ」
「ホント?」
「ああ。明日は一日大人しく寝ているさ。まあ、君にお話はして上げられないかもしれないけどね」
「わたし、頼久さんに風邪のお薬、いっぱいもらってくるね」
「では、お言葉に甘えよう」
「まかせて!」
「さ。もう眠ろう……」
 友雅はあかねの身体を抱きしめ、眠りなさいと頭を撫でた。甘ったれの人魚は、そんな男の手に懐くように頭を預ける。そして、自身の両腕を伸ばして男の首に巻きつけ、優しく首を撫でる。
「明日は痛くありませんよーに」
「……………ありがとう」
 友雅は少女の優しい指に首を委ねて、瞼を閉じた。




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Cream Pink /  狩谷桃子 様