ブルーマーメイド |
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= 王子様と人魚姫 = |
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2 想いの蕾 あかねが一人前のマーメイドになって、三年の月日が流れていた。 あかねが成人してから変わった日常と言えば、天真と頼久がいなくなったこと。住む場所が変わったこと。そして、一人前のマーメイドとして、定期的にリーダーを受け入れなくてはならなくなったこと。 傷つきながらも、柔軟なあかねの心は強かにそれらの運命を受け入れ、自分の心を殺すこと無く、仕事を果たしていた。 日々フィリッパーたちと湖に遊び、ときおりマーメイドとしての仕事もこなす。そして、湖を抜け出しては、天真や頼久と会って遊んでもらう。 二人ともあかねのカウンセラーを解かれた後は、他のマーメイドのカウンセラーにならずに、あかねの為の支援スタッフとして研究室に残っている。 そして、鷹通は、生来の人の良さの中に、侮れない人の悪さを隠し持ち、それらをあかねの為だけに発揮して、センター泣かせのカウンセラーと化していた。 嫌なリーダーはとことん断るし、あかねの体調が芳しくなければすぐさまキャンセルなどなど。 あかねも鷹通の言うことには従順に従い、彼が望めば、ちょっと嫌なリーダーくらいは我慢するようになった。 だが、子供の頃のまま、甘ったれなワガママ人魚であることは変わらない。いや、成長してからの方が侮れないほどに、手強くなってしまった。 無類のリカバリー嫌いは治ってないし、検査を抜け出すなんて日常茶飯事。好奇心が強くて、エリア外の湖に冒険に行くことも多々あるし、悪戯好きで、センターをてんてこまいにさせたことも数知れずある。 何よりも困ることは、パートナーたちからの苦情が一番多いこと。気に入らないことがあると、すぐに拗ねて怒って、リーダーたちの言うことをきかなくなるのだ。 ふくれっ面のマーメイドは、エリュシオン一表情豊かなマーメイドだった。怒りもすれば、笑いもする。拗ねたり、泣いたり、喜んだり。そんな生き生きとした反応を好むリーダーたちも少なくなく、そのせいか、妙に客受けするあかねは、苦情が多い一方で、顧客が増えて仕事は減らない売れっ子ぶり。 少女の機嫌を損ねると仕事をしてもらえなくなるので、センターのスタッフたちはあかねのご機嫌取りに忙しい。 まったくもって手のかかるマーメイドに育ってしまったのだった。 別段、それ以外にはなにも問題はなく、日々は優しくかつ無為に過ぎていった。 * 「だからぁ、悪いとは思ってるけど、今、あかねくらいしか居ないんだよ。頼むから、今度来るVIPのパートナーになってよ」 詩紋は情けなさそうに鷹通に頭を下げる。 「お断りします。得てしてそうゆう無理を通そうとするリーダーに限って、変態行為をする輩が多いですからね」 そんな無茶な横入りをするような輩に、あかねは預けられない。しかも、今、あかねは久しぶりの長期療養期間に入ったばかりなのだ。 「悪いのですが、他を当たってください。エリアマスター」 VIPであればあるほど変態であるというのは、今までの経験で鷹通は嫌というほど教え込まされた。もちろん、こんな話を振ってきた馬鹿は、ツーンッとあしらってやる。 だがそれくらいのことでは、詩紋は退かない。 「今、スケジュール的に空いているのはあかねしかいないんだよ。他に適当なマーメイドもいなくて」 マーメイド不足はどのエリアも持っている悩み。客は沸くように増えてくるのに、マーメイドは計画通りに増えていかない。需要に供給が追いついてないのだ。 両手を合わせて詩紋は、鷹通に『お願い』をする。 自分一人で済むことならとっくの昔に引き受けているが、あかねに関係していることなので、そう簡単に引き受けられるものではない。鷹通の答えは決まり切っている。 「お断りします。それに、適当なマーメイドとはなんですか! おまけにくらいですって?! あかねを物扱いするような輩に、この子を預けることはできませんね」 「ゴメン、ゴメン」 やぶ蛇をつついたことを後悔しつつも、詩紋は鷹通の剣幕に少々呆れてしまう。 「いつも鷹通さんのところのワガママを聞いているでしょ。今回くらい聞いてくれても………」 「ええ。ワガママは聞いて貰っています。ありがたいと思ってますよ。でも、それと同じくらいそちらの無理難題にもこたえてきたつもりです」 キッパリと鷹通は言い切って、詩紋をその場に残し、自分の研究室へ戻ろうと足を向ける。 「ちょっと、待って! んもう、鷹通さんたら、短気なんだから」 「短気で申し訳ありません。エリアマスター相手に愛想をふりまく余裕がなくって」 前々回のヒーリングリーダーの質の悪いことといったら、筆舌に尽くし難かった。おかげで、あかねの体調が元に戻るのに十日も要したし、まだリカバリーには早いというのに、すでにそれを施さなければ平均メンタル値を保っていられなくなっているのだ。 (まったく。もう少し人選はしっかりしていただきたいものです) あのワガママなマーメイドにリカバリーを受けさせるのは、並みの苦労じゃおさまらないのだ。 「ね、鷹通さぁぁん……」 「私はあかねのリカバリー準備で忙しいのでこれで失礼します」 「そんなつれないこと、言わないで♪」 シカトする鷹通の背中に向けて、詩紋は最後の切札を出してきた。 「そろそろ、ラナ・サーシュも年だし、ユーグの相手をさせるのは体力的になぁ……。ローライデ公も『あかね』を指名していることだしぃ。どうしようっかなぁ」 この際と、続けようとする詩紋の口を、鷹通は己の手で塞いだ。 思わず、この野郎! と、睨まずにはいられない。確かに、あれ以来ユーグに当たることはなかった。もう、全身全霊でもって避けてきたのだ。 だが、ラナ・サーシュの引退ともなればそうもいかなくなるのは必然。誰かが、あの男の相手をしなければならないのだから。 「変態リーダーだったら、すぐに追い出しますからね!」 「うんっ、うん!」 「もちろん、ラナ・サーシュの後継の話も無しですよ!」 「うんうん。他の人魚に頑張ってもらう事にするよ」 詩紋は嬉しそうに答え、ホッと胸を撫で下ろしていた。 普段、詩紋は焦っていても、それを表面に出すことはない。これほど切羽詰っているところを見るのは本当に珍しいのだ。今度の相手が相当のコネクションを持った『大物』であるらしい。 大物イコール変態の図式が当てはまらないケースは珍しいのだ。 大変なことになったなぁと、鷹通は大きくため息を吐いた。 悩み込んだ鷹通を横目に、詩紋は今思い出したかのように付け加える。 「あっ、そーだ。今回のお客さん、ヒール・アップ(完全快癒)だからね」 「ひーる・あっぷですってぇぇぇ!」 ちょっと待て! と、鷹通が逃げようとした詩紋の襟首を掴んだ。 あかねは短期専門のマーメイドだ。長期治療はストレスが大きくなるので、専門のマーメイドが対応している。彼らは特に従順に訓練された人魚たちだ。長期治療は、とても、ワガママで短気なあかねが対応できるプログラムではない。 「本気であかねにさせるつもりですか?」 「だって、他の人魚じゃポテンシャルが届いてないからね」 人魚であれば、誰でも何でも癒せるというわけではない。幸か不幸かあかねはとても高いスキルを持った人魚であった。 「今度のお客さん、ただの若返りが目的じゃないから」 「専門のマーメイドはどうしました?」 「『シーリアン』は、病気療養中」 長期専門のマーメイドの持病。自律神経失調症だ。 「『うい』は?」 「ただいま、お仕事中………」 「『蘭』は?」 「同じく、お仕事中………」 要するに、手持ちの長期のカードは全部出払っているのだ。 「終了する予定はッ?」 「最短でも二ヵ月先………」 終わってすぐ新しい客をとらせるのは殺戮行為に等しい。『うい』がもうすぐ上がってくる予定だが、さすがに一ヵ月は余裕をみておきたい。 「それを先に言ってくださいっっっ!」 ショートと違ってロングは恐ろしく難しいのだ。 「ロングが入ってくるってことは、今現在入っているあかねの仕事はどうなるのです?」 長期の癒しになると、半年のスパンなど当たり前。あかねのように売れ筋のマーメイドのスケジュールは殺人的なほど埋め尽くされている。ここ半年ほどの予定を思い浮かべ、鷹通は途方にくれてしまう。 「出来れば……」 「なんでしょう、エリアマスター」 慇懃無礼に、鷹通が応える。 「一緒にこなして欲しいかなーって♪」 バッチーン! と、エリアマスターのマホガニー製のデスクが強かに鷹通の拳で打たれる。 鷹通でなくても拳が出ただろう。しかも、机にではなく、詩紋の頬あたりに。 「割れてない?」 「割れるわけがないでしょう!」 鷹通ごときの非力な力で割れるような安物が、この部屋にあるはずもない。 「でも、すごい音がしたよ?」 「割れていたとしても、それくらいなんです!」 鷹通はイラつきながら、詩紋に怒鳴る。 「無理です。ヒーリングを二件も同時進行なんて不可能です!」 「うーん。そうだよねえ」 それは詩紋も分かっている。だが、 「でも、あかねの次のシーズンの予定さぁ、『伯爵』が入ってるんだよね」 それ以外のお仕事はなんとか他に回すことが出来るだろうけど、それはちょっと……と、詩紋が頭を掻いた。 「………『伯爵』…」 確かに、そうだったと、鷹通も頭を掻いた。彼は他のマーメイドでは納得するまい。 「一応、ボクなりに予定を組みなおしてみたんだけど、どうしても二件ほどそちらに仕事が回ってしまうんだよね」 詩紋なりに、かなり難しい調整をしたのだろう。 「……二件ですか」 それに関しては、鷹通も頷かざるを得ない。 「それ以外の予定は、他のマーメイドに振り分けた。でも、『伯爵』だけはどうしても無理。っていうか、こっちの言い分をちっとも聞いてくれなくてさ」 一応、詩紋も打診はしたのだ。だが、彼はまったく聞き入れてくれなかった。 「これだから帝国貴族ってのは手に負えないよね」 ため息混じりに、詩紋は交換条件を提示した。 「この無理を聞いてくれたら、半年間のお休みをあげるからさあ。ねっ?」 「二つ同時にこなすのは、苦しいと思いませんか?」 「もちろん、そっちの仕事が入っている間はもう一人の客にあかねに手を出すなと始めから注釈しておく。それを前提条件でこっちも受けるからさぁ……」 この辺りで手を打つのが妥当だろう。不安は多々残るが仕方ない。 「もし、あかねにロングが向かないようだったら、ロングのマーメイドの調整が付き次第、リーダーを引き取っていただけるのでしょうね? もちろん、その上でも半年間の休暇はいただきますが」 「………………うーん、ぼったくるなぁ……」 「何か、問題でも?」 「しょうがない。それで手を打つよ」 問題がないわけではないが、商談成立。 二人は握手をして、その場を別れる。詩紋は何だか割りが合わないかのように苦虫を噛み潰したような表情でラボへと向かう鷹通の後ろ姿を見送るのだった。 * 数日後、天真と頼久のラボ。 「それ、本当か? あかね」 「今度のリーダーはヒーリング・アップするって言ってたわ」 あかねは、渡されたオレンジジュースをストローで吸い上げながら、今度のリーダーの事を天真と頼久に報告していた。 「ゲーッ、本気でロング・アップーッ?!」 天真と頼久は目を剥いてあかねに詰め寄る。 「冗談でなく?」 少女は頷いた。 「もうすぐ来るって鷹通さんが言ってたけど」 天下太平なマーメイドは、己の上に降り掛かった災難の重さにまだ気づいていない。 「何だって、あかねがまた、そんな長期の仕事を……。専門のマーメイドはどーしたんだよッ!」 天真は頭を抱えてウキーッと吠えた。 「また、詩紋の馬鹿があかねに面倒な仕事を持ってきやがったんだなーっっっ! 鷹通はなんで断らねーんだよっっっ?」 エキサイトする天真を横目にあかねは、用意してくれていたマドレーヌを一個取った。 「鷹通さんは悪くないわ」 パクン。モグモグ……。と、お菓子を食べながら鷹通を弁護する。でも、ちょっと首を傾げて、詩紋はちょっと悪いかもしれないと思った。だって、皆にこんな心配事を持ってきて、おまけに自分の仕事を増やしたのだから、やっぱり詩紋が一番悪い。と、あかねは思うのだ。 「あかね殿。なんとお優しい……」 頼久がほろりと目頭を押さえる。 「甘い! あかね、おまえは甘い! 鷹通が悪い。エリアマスターが悪い。すーべて奴らが悪いんだ!」 「違うの、天真くん! 詩紋くんは悪いかもしんないけど、鷹通さんは悪くないの!」 「どうしてッ?」 二人は同時にハモって異を唱えた。こうなってしまった以上、責任はやはり鷹通にもあると二人は思う。けれど、あかねは違うらしい。いきどおる二人に、少女なりの思うところを吐露する。 「だって、わたしって、すっごく他のマーメイドに比べてワガママ言ってるし、それを聞いてもらってるのよ」 うんうん。そんなの当然じゃんと、二人は頷き合う。だって、自分たちの大事なマーメイドなのだから、優遇されて当たり前くらいに、二人は思っている。 「わたし、他のショートの仲間に比べても仕事が少ないんだよ。それも、全部、鷹通さんが調整してくれてるから……。それで、皆に皺寄せがいってるけど……」 でも、他のマーメイドたちは自分を責めない。何時だって、自分だけが嫌だ嫌だと言っているだけ。 蘭も、シーリアンも、ういも、セーシェも、瑠璃も皆、文句一つ言わないのにと、あかねはうな垂れる。 「あかね………」 それは、違うと天真も頼久も言いたかった。あかねが他のマーメイドに比べて異様にヒーリングを厭うのは自分たちの所為だ。いらぬ知識を、自意識を、自我を与えてしまった自分たちの責任なのだ。他のマーメイドたちはヒーリングを厭う感情を与えられなかった。いや、意識してそれらを排除されて育てられた。至上の行為として彼らはヒーリングを受けとめている筈だから。 「ちい姫……、そんなに落ち込まないでください。貴女の所為ではありません」 「ありがとう。頼久さん。でも、いーの。たまにはエリュシオンの言うことも聞いてあげないとね。それと、わたし、もうちい姫じゃないわ。大人よ」 あかねは子供扱いされるのをとても嫌う。 「申し訳ございません。あかね殿」 頼久は慌ててあかねを呼びなおした。 思春期の子供は扱い辛いのは、人間も人魚も同じだった。 「それに、鷹通さんがまた苛められるのはヤダから……」 鷹通は、あかねの許容範囲以上の仕事を決して持ってこない。引く手数多のマーメイドがこれほど暇なのも珍しいと気づいたのは、他の官吏たちの心ない中傷を受け、仲間の仕事がどれほどハードなのかを知ったあの日。そして、そのことで鷹通が同僚たちから爪弾きにされているのも知ったのだ。 「あかね殿。いいのですよ、貴女はそのままで。どんなワガママを言ってもいいのです。私たちは貴女のワガママが大好きです。もちろん、鷹通殿もね」 「頼久さん……」 「そーそー。オレたちが好きでやってるの。おまえがそんな風に気にする必要はない。それより、もう少し大人しやかにリカバリーを受けてくれる方が何倍も嬉しい」 「えっ?! リカバリー……?」 あかねはいやーな表情を浮かべる。それに同意する頼久は楽しげに天真の背をバンバンと叩きながら彼を誉めた。 「いい事を言うな、天真」 「だしょ」 「リカバリーは嫌いーっっっ」 「知ってる。けど、予定が入ってるから、逃げるなよ。逃げたらフルコースのリカバリーにするからな」 リカバリーは人魚たちの体調を整わせるために行う医療メニューの一つで、あかねはことのほか、このプログラムを嫌っている。 「うっ……」 逃げる気満々の少女は、先に忠告されて気まずげに視線を泳がせる。 「逃げる気、満々ってところだな。こりゃ、前日から捕まえておかなきゃならねーぞ、頼久」 「そうだな」 しんみりしていた空気がいっぺんで拭き飛んだ。あかねの頬は不満たっぷりに膨れていたが、その様子を、二人のカウンセラーは楽しげに見つめている。 「それより、そのリーダーだけど、誰が来るかもう知っているのか、あかね?」 「うん」 コックン頷くあかねに、二人は身を乗り出した。 「で、誰?」 「えーっと、確か……タチバナトモマサって言ってたかしら?」 「橘友雅ーっっっ!」 天真は声を引っ繰り返して叫んでしまった。 「それ、ホントか、あかね?」 「うっ、うん………」 天真の剣幕が少し恐い。あかねは思わず後に仰け反ってしまう。 「知ってるの、天真くん?」 あかねはおっかなびっくりで天真に尋ねる。 「ああ、当然! 世界的、いや、宇宙的なアーティストだ! すっごい歌手なんだぜ。いや、歌手だけでおさまらねえ! 作詞作曲もしてのけるし、どんな楽器もプロ級で使いこなすんだっ。オレ、あいつの作った曲、全部好き。すっげーファンなんだよ」 「ふーん……」 はしゃぐ天真を見てあかねはちょっぴり面白くない。 「確か、怪我をして活動休止しているんだよな。復帰できるか出来ないかで揉めてたらしいけど、ここに来るってことは、復帰するつもりなんだろうなぁ……」 天真は遠い目をして、憧れのスターアーティストのことを目蓋に思い浮べグルグルと回っていた。 「……へー、天真くんそんなに好きなんだ……」 あかねは興味なさそうに呟いているが、すっかりどこかへ飛んでいってしまった天真を不服そうに眺めていた。身体は大きくなっても、中身はまだまだ子供。自分の好きな人が、自分以外の誰かに意識を向けられるのは、面白くないのだ。 「頼久さんは?」 「私も大ファンです。彼の歌は、こう魂に響いてくると言うか……」 頼久もうっとりと、気に入りの歌のフレーズを口ずさみ始めてしまう。 どちらともなく、天真と頼久の会話は橘友雅談議になる。 自然とあかねの表情はブーたれたものになり、まだ見たこともない橘友雅という男に、あかねは少なからず嫉妬を覚えるのだった。 (わたしが来てるのにっ、相手してくれないってどういうこと?!) プリプリと怒りながら、あかねはせめて出して貰ったお菓子は食べて帰ろうと、食べることに専念し始める。 エリュシオンの昼下がり。これは、あかねの他愛無い日常。 * 薔薇色に染まる空が、湖に鮮やかに映る。 どちらともなく溶け合い、交わり、境界すらわからなくなっている。空と湖が愛を交わすかのごとくに、それは融合していた。 幻想的な湖の側で、橘友雅は長い間その光景を見つめていた。だが、彼の心には、感動もなければ、感嘆もない。美しいのは理解できる。けれど、それ以上の感情が浮かばないのだ。 軽い失望が、友雅の唇からため息を零させた。 ここは、至上の楽園。いや、欲望の楽園。 望んで訪れることのできる場所ではない。ここは閉ざされた場所。固く閉じられた扉を開かせるには、相応の対価が必要だった。 楽園への切符を手に入れた男は、その幸運を余所に皮肉な笑みを浮かべていた。 水辺に映る自分の顔を、友雅は見つめる。 失望を浮かべるその表情が、男に失笑を浮かばせる。 己の境遇に失望しているのではない。何も感じてないことに失望しているのだ。自嘲を滲ませた笑みを浮かべ、友雅は自分が映る水に石を投げ入れた。柔らかな波紋が、醜いものを隠してくれる。 「私は、何のためにここにいるのだろうね?」 その目的を思って、ため息を吐く。 数ヶ月前、不幸な事故で負傷したおりに、声帯の一部を損傷してしまった。命に関わる傷ではなかったが、歌手としての男には致命的なもので、現代の医学ではそれを治すことは不可能だった。 もう二度と歌えないことに、何も感じない。ここで絶望を感じるほどに、歌への情熱があったならばと思う。 友雅は声を取り戻したいとは思っていなかった。 普通に会話はできる。ただ、プロの歌い手としての生命を断たれただけ。 自分が歌わなくとも、作詞も作曲もできる。それに、これを機に家業に就くのも悪くないとも思う。 べつに継ぎたいわけではないが、やりたいと思う仕事もないのだ。 漠然と無為に日々を過ごしていた友雅を、周囲は都合よく誤解していった。 歌えなくなったことに失望して、生きる気力をなくしてしまったと。 お節介な周囲にお膳立てされるがままに、友雅は楽園を訪れた。 その声を取り戻すために。だが、肝心の友雅は、それを取り戻したいとは思っていなかった。 あまりに見事な薔薇色の湖。まるで、湖の水さえももとから薔薇色をしているかのようだった。 友雅は立ち上がり、ゆっくりと突き出た桟橋を歩いていった。おもむろに、屈みこんで手を差し伸べた。が、ふいに濡れた水辺に足を取られバランスを崩し、体勢を取り戻す暇もなく、男は湖に落ちる。 自然の湖ではないので、緩急などない。突然に深く落ちるのだ。 友雅は慌てなかった。泳げるのだから、慌てる必要などないはずだった。だが、友雅を捕らえた水は、彼が知る性質の水ではなかった。 人魚の住む湖の水は、アクアウィータ特有の弱水。人間はその水に浮くことができないのだ。ゆっくりと友雅の身体は沈みゆく。どれほど足掻こうと、人間はアクアウィータの水を掴むことができないのだ。 当然のごとく、息はできない。アクアウィータについてなんの知識もない友雅は、驚きと焦りの中でもがいた。 息が苦しくなってくる。助けを求めることさえできぬまま、友雅の身体は底へと沈んでゆく。朦朧とする意識の中で空を仰ぐと、薔薇色の日差しがオーロラのごとく、水中に差し込んでいる。 美しいと見惚れながら、友雅は意識を手放そうとしていた。 瞼を閉じ、身体を湖に預ける。 意識と身体が沈みゆくのに委ねる。 唐突に、友雅は身体を温かいもので包まれた。そして、唇に息が吹き込まれる。男は薄く目を開けようとしたが、水流が起きて視界が流された。 水の流れの中、ぐんぐんと身体が上昇していくのを感じる。 水面に躍り出ると同時に、友雅はむせ返りながら呼吸を繰り返す。激しく何度も咳を吐き、むさぼるように酸素を求める。 いつのまにか岸辺へと身体を運ばれていて、湖へと伸びた水段の上に身体が下ろされた。 「大丈夫?」 鈴を転がす少女の声が、友雅の耳に届いた。 友雅は呼気を落ち着かせながら、顔を上げる。 鮮やかな薔薇色の髪から、雫が落ちていくのが印象的だった。涙に似たその滴り。一瞬、少女の涙かと思い、はっとしながら相手の瞳を見た。 濡れた翡翠色の大きな瞳が友雅を見上げている。零れ落ちたのは少女の涙ではなかった。 息を整え、友雅は柔らかく少女へ微笑んだ。少女の頬は、薔薇色の湖にも負けないほど鮮やかに染まり、もじもじと俯く。心配そうに友雅に伸ばされかけていた少女の手は、戸惑いながら引っ込められた。 初々しい反応に、友雅の口元は自然に柔らかな笑みを浮かべていた。 「光栄だね。人魚姫に助けられたというわけかな?」 友雅は濡れた前髪をかきあげながら、軽口を叩く。死にかけた人間とは思えない余裕のありようだった。 「少々年寄りだが、私は王子と自惚れてもいいのだろうか?」 くすくすと友雅は喉を鳴らす。 「王子様?」 少女はきょとんと友雅を見上げてきた。 「人魚姫が助けるのは、王子と相場が決まっているだろう?」 地球の古い童話に習い、出会いを例える。 けれど、少女はその物語を知らないようだった。きょとんとした瞳はますます丸く大きく開かれ、好奇心に輝く。 「なあに、それ?」 「おや? ご存じないのかい?」 少女は素直に頷いてきた。 「さて。語り部になどなったことはないが、命の恩人の姫君のご所望だ。無碍にはできないねえ」 幼子に語り聞かせるように、友雅は古い物語を声に乗せた。 甘く低い声で綴られる物語に、少女はすぐさま引き込まれ、真剣に聞き入る。 あまりにも少女が真剣に聞いているので、友雅は丁寧に物語を綴ることになる。しかも、深く抑揚のある男の声が物語に臨場感を与え、ラストの泡になってしまうくだりを聞きながら、少女の瞳からぽろぽろと真珠色の涙が零れていた。 「ああ。泣かないでおくれ……」 泣かせるために語り聞かせたわけではない。だが、人魚姫のラストシーンを考えれば、人魚に語るのは軽率だったかもしれない。わずかな後悔に逡巡する友雅の指が、少女の頬に流れる涙を拭う。 涙を拭われながら、少女は泣き笑いを浮かべた。 「ステキなお話ね。だれも、こんな物語をしてくれなかった」 「それはそうだろうねえ」 友雅としては、自分は軽率なことをしてしまったかもしれないと思い始めている。己の配慮の足りなさに、自嘲しながら少女に問う。 「人魚姫が可哀想だと思う?」 少女は静かに頷く。だが、彼女の想いはそれだけに止まらなかった。 「可哀想だけど、人魚姫は不幸せではなかったはずだわ。泡になっても、本望だったと思うの」 自らの想いを貫くことができたのだ。 「両想いになることはできなくても、わたしは人魚姫が羨ましい」 少女の瞳が夢見るように遠くへと流れる。そこには、物語の中の仲間への羨望が見え隠れしていた。 「……………羨ましい? どうして?」 友雅は衝撃を受けながら、問い質した。 「……………だれかをそこまで好きになってるって、どんな気持ちなのかなぁ……?」 ぽろりと零れる少女の想い。それは、叶えられない夢物語。少女は口を滑らせすぎたと思ったのだろう。寂しげに笑って湖へ飛び込む。 「待ちなさい」 友雅は少女を呼び止めた。 男の声を聞き、少女は振り返る。 「この湖は、人間は泳げないのよ。今度は気をつけてね」 人魚は大きく友雅に手を振った。そして、深く水の中へもぐりこむ。 「待っておくれっ。まだ名前も聞いてない……」 薔薇色の残像が、暮れなずむ湖に消えていく。鮮やかな色彩は、深い同色の湖に取り込まれるように隠れてしまった。 楽園に住まう人魚は、物語の中の泡になってしまった人魚を羨む。 楽園に迷い込んだ人間の男は、求めるものを知っている楽園の人魚を羨む。 * 瞼を閉じると、無意識に鮮やかな薔薇色の人魚姫の残像を追いかけている。 ソファの背もたれに深く背中を預け、友雅は深いため息を吐き出した。 無垢なほどに幼い瞳。だが、同時に憂いを知る女の横顔を見せる。 稚い人魚姫。彼女が、どうしてこんなにも気になるのだろう? センターに依頼をかければ、パートナーであるマーメイドのリクエストはできる。だが、それをするにはかなりの時間がかかると聞いている。指定するマーメイドのスケジュールに空きができるまで待たなければならないのだ。 またそれ以前の問題もある。友雅は、薔薇色の人魚姫の名前を知らないのだ。 友雅も、人魚の素性を調べてもらおうとした。 だが、エリュシオンは人魚の情報の公開を一切しておらず、友雅の申し出はまったく受け付けられることがなかった。 友雅は自分の人差し指をじっと見つめる。 人魚姫の真珠色の涙を拭った指。今も、その熱さと冷たさを思い出せる。 「ねえ、小さな姫君。君の名はなんというのだい?」 友雅が溺れたのは中央湖。その湖は、東西南北に別たれたエリアのどこにも属さず、また、全てに属する場所。 どこの人魚も中央湖に訪れることができる。だが、基本的に人魚は人間に姿を曝すことはほとんどないらしく、自分たちの住む湖から出ないとも聞いた。 「やんちゃな姫君のようだねえ……」 姿かたちも年若くあった。いや、友雅も他の人魚を知らぬ以上、人魚の老若を測ることなどできない。幼く見えて、実際の年齢は重なっているのかもしれない。けれど、少女の中にいとけなげな仕草を見た。 「十中八九、子供の人魚だろうね」 子供の人魚だからこそ、自らの縄張りを抜け出すような冒険ができたはず。 人魚は、神経質で繊細で臆病な生物だと注釈されたのは、今朝のこと。彼らと接触するにあたって、友雅は色々なレクチャーをカウンセラーから受けている。人魚を無為に傷つけて、人類の至宝を損なってしまう危険から避けるために、いくつものカリキュラムをこなさなければならないのだ。 友雅は膝においた資料に視線を落とした。 透明のプラスチックボードはモバイルの端末でもある。暗証番号を入力し、欲しい情報の提示を求めると、プログラムが起動し、友雅の周りで新たなパネルが開き始める。 それは、人魚の歴史や、生態、習性、種族などなど、多岐にわたる資料が提示されていく。 人間にも人種の違いがあるように、人魚にも個々の種族の違いがあるようだった。 薔薇色の髪。象牙色の肌。宝石に似た翠の瞳。彼女はどの種族にあたるのだろう? 自分らしくないと思いながらも、友雅は熱心に調べていた。 友雅の周囲の空間で、新たなページが開いては消え、消えては開く。 どれほどの時間が過ぎただろう? 友雅しか居なかった空間に、一人の青年が入室していきた。そして、しばらくの間、友雅の様子を静かに見つめていたが、ゆっくりと彼に近づいていく。 友雅は顔を上げることなく、声をかけた。 「ドクター。ようこそ」 「貴方ほど熱心な患者は初めてです」 友雅に招来された客は、鷹通であった。柔らかな物腰の青年は、友雅の周囲に開かれた資料を確かめるように見回した。 「ここを訪れる方々が、貴方のように真面目に人魚に向き合ってくださったらと思います」 「さて。それはどうでしょう……」 別に友雅は真面目に人魚に向き合っているわけではない。ただ、名も知らぬ人魚姫のことが知りたいだけなのだ。 「人魚の種族に興味がおありですか?」 「幻想的な生物ですね。とても美しい」 資料として提示されている人魚たちの容姿は、言葉に尽くせぬほどに美しく、臈長けていた。 「この人魚は藤色の髪をしているのですね」 ホログラムに映る人魚を見つめ、友雅は呟いた。 残念ながら、資料にある人魚たちの中に薔薇色の髪をしている種族はいなかった。友雅の出会った人魚姫に一番近しさを感じたのが、この藤色の髪の人魚だったのだ。 「だが、私としては、もっと親近感のある人魚姫がいい。冒険心の強いやんちゃな子で、瞳が大きくて、鼻ペチャだと申し分ないね」 友雅は嘯きながら、自分の鼻を潰してみせる。 「ずいぶんと具体的ですね」 鷹通はくすくすと笑った。 「人魚たちにも、性格の違いや、嗜好はあるのですか?」 「もちろんです」 友雅の質問に鷹通は大きく頷く。 「人魚は、基本的に臆病で大人しい生物ですが、稀にやんちゃで悪戯好きの者もいますよ」 「ほう。それは微笑ましい」 「悪戯を何度もしかけられて、同じことを言えればたいしたものです」 鷹通は小さく肩を竦める。 「おやおや。そんな頼もしい人魚もいるのですか? 資料には、人間には絶対の服従をしているとありますが……」 悪戯を何度もしかければ人間に注意をされてしまうだろう。それは、彼らには強制力となりはしないのかと、友雅はいぶかしむ。 「命じれば服従します。ですが、彼らの意思を強引に封じてほしくはありません。それは強いストレスのもととなりますので」 「なるほど」 友雅は鷹揚に頷いた。そして、考え込みながら、たおやかな人魚が投影されている空間を見つめる。 「貴方のパートナーとなる人魚は、やんちゃで悪戯好きですよ」 友雅の視線が、ゆっくりと鷹通に向けられた。 「少し頑固で扱い辛いところもありますが、とてもいい子です」 「鼻ペチャかい?」 口元に薄い笑みを浮かべて友雅が問う。 「ええ。奥ゆかしい鼻が、顔の中央にあります」 「アクアウィータの夕暮れのような薔薇色の髪をしている?」 ずいぶん具体的な友雅の人魚像に、鷹通は小首を傾げる。まるで、どこかで出会ったことがあるかのような物言いでもある。 「あかねは、桜色の髪をしています」 「そう……」 軽い失望が友雅の心に満ちる。それを隠し、男は吐息した。 やはり、簡単に再会することは難しいらしい。いや、再び逢うことはないのかもしれない。 「私のパートナーは、あかねと言うのだね」 「はい」 「可愛らしい名前だ」 「そういえば、地球では暮れなずむ夕焼けの色を茜とも言うそうですね」 人類発祥の惑星は、人に郷愁を誘う。 「ああ。あれも一種の薔薇色だねえ」 うつむいた人魚姫の憂いた様子は、一輪の朱鷺色の薔薇のようだった。 「いつ会えるのだろう?」 友雅の問いに、鷹通は姿勢を正した。 「近いうちに。ただ……」 「ただ?」 思案する鷹通の呟きに、友雅がようやく顔を上げて相手を見た。友雅の視線を受けて、鷹通がはっきりと注釈する。 「貴方のパートナーになるマーメイドは、長期の癒しを今回初めて挑戦することになっています。ロング・アップ・プログラムを、これまで組んだことがありません」 「それで?」 「エリアマスターから聞いていると思うのですが、貴方のヒーリングプログラムが入ってきたのはイレギュラーです。あの子は貴方の相手をしている間、貴方以外の仕事が二つ入っている。その間は、絶対に手を出さないでください。一度に、二人もの人間を治癒できるほどあの子は器用じゃない。それから、どうしてもあの子が気にいらなければ、センターの方へマーメイド交替の申請を出してください。こちらも、貴方が気に入らなければ、遠慮せずに叩きだします」 友雅の唇から苦笑が零れた。 「どこまでも礼儀正しいドクターだと思っていたが、言うところは言うのだね」 相手を叩きだすなどと、普通、エリュシオンの官吏が客に言うべき言葉ではない。それでも、悪怯れた風もなく当然のように鷹通は友雅に釘を刺す。それに対して友雅もまた気にした風もない。 「それで結構だよ」 友雅は端的にそれを了承した。人好きする笑みを浮かべながらも、どこかその笑みは他者を拒絶するような印象があった。 「明日にでも、こちらにあかねを連れてきます」 「仲良くやれるといいのだがね」 「それも、貴方次第でしょう」 |
展示室≫ | ||
Cream Pink / 狩谷桃子 様 |