次回土曜遙か洋画劇場 八葉友雅とあかねの事件簿 異世界京ミステリー 「友雅の牛車の中で」猟奇誘拐事件 |
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= リレーde次回予告 = |
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京の町は、表面上穏やかに時を刻んでいる。 神隠しのような誘拐騒動。だが戻ってきた被害者達が、記憶を失っているとはいえ無傷だったことから、単なる不可思議な現象として処理され始めていた。未だ戻らない者もあったが、そのほとんどが無宿人や身寄りのない者だったため、これ以上の騒動となることはなさそうだ。 あかねは、詩紋から聞かされた『真実』のことを誰にも言えず、また彼にも口止めをしている。 八葉が全員揃ってからまだ二・三日と言ったところだが、彼らに隠し事をしている手前、どことなくぎこちない遣り取りが続いていた。 それでも、全てを話してしまった後、友雅がどういう立場に追いやられてしまうのか、彼らの間に今以上の確執を生むのではないか。それを考えると、何も言い出せずにいる。 友雅の様子が明らかに怪しければ対処のしようもあるが、すでに探索に加わったその様子ではどこも不穏な所など無かった。だからこそ、詩紋の言葉を完全に信じることができないでいたのだが。 日課となっている探索を終え、未だ戻ってこない仲間達を待つ間のこと。詩紋が帰還を果たしてから、二人でどれだけ相談を繰り返し、毎度平行線を辿る結果になってきたか分からない言葉をささめく。 あかねは夕映えに染まる背を丸め、そっと息を漏らすと、背中合って座っていた詩紋が身動いだ。 「やっぱり、信じられないよ。 だって、帰ってきた友雅さんはいつもの友雅さんだったんだよ? 怨霊と同化なんて…そんな…」 「信じられない気持ちはわかるけど、ボク達だけじゃどうにもならないよ。 やっぱりみんなに相談しよう? もしも間違いなら、その方がいいんだし。 泰明さんとかなら、確かめる術があるかもしれないよ?」 「──だけど…」 友雅は享楽的に生き、怠惰なように見える。 だが、その実とても意志の強い男だ。 そんな彼が、怨霊と同化させられているなど、信じられるはずもない。 ただ、あかねの心の裡に巣くう不安の種は、あの日、抱きすくめられた時の彼の横顔であった。 「私が、なんだって?」 ほわりと温かい甘葛をすすり上げると同時に掛けられた声は、まだ幼い二人の息を止めるほどに驚かせた。 「と、友雅さんっ!?」 「どうして、ここに…」 「おや、私も八葉の一人だと思っていたのだが…。いけなかったかい?」 くすくすと笑いを漏らす口元を蝙蝠で隠し、彼はそこに佇んでいた。 驚愕の眼差しを向ける姉弟のような二人に、友雅は双眸を細めてゆったりと近づいてくる。 あかねは沸き上がる不安よりも、身体が震えるほどの恐怖を彼に感じていた。 微笑を浮かべているはずの双眸は、なぜか刺すように冷たく感じる。近づいてはいけない。彼に触れてはいけない。そう、神子としての力が警鐘を鳴らしているような気がした。 後じさる二人の背中が、追いつめられて塗籠の扉に当たる。 ガタリと重い音を響かせた背後に気付いた詩紋の指先が、あかねの指を手繰り寄せて握った。 その仕草に眉を不愉快げに寄せた友雅は、嘲弄の笑みを漏らした。 そして、おもむろに彼の指先が伸びできて頬に触れようとする。 あかねの背に戦慄が走り、息を飲んだ。 「ともまささ、ん…。そで…袖についてる…まさか、血…?」 動揺を隠しきれない、震える声。 気怠げな様子の友雅は、蝙蝠で袖をすぃ…と持ち上げ、己の直衣を辿った視線をあかねに戻すと、唇を妖しげに引き上げた。 「おや…」 困ったねぇ、と常のごとく含んだ笑みを零す。 袖口を染め上げた血を見て、楽しげに双眸を細めて微笑むその様子は、あかねと詩紋にとっては異様としか映らない。 思わず引いた踵が塗籠の扉に当たり、鈍い音が響いた。もう、逃げ場はない。 どうすればいいのか。彼の何が、これほどに恐ろしいのか。 混乱を極めたまま、詩紋の手を握り返し、時間を稼ぐことしか出来なかった。 「と、友雅さんが怪我をしちゃってる…とかじゃ、ないんです…よね?」 そんなはずは無かろうと確信を抱きつつも、意識を逸らすように軽い調子で話しかける。 無駄な努力を、と嗤いを湛える彼は、獲物を狙うような獰猛な瞳であかねを見つめていた。 「ああ、大丈夫だよ。 こんな私を心配をしてくれるのかい? 神子殿は本当に優しい姫だ…」 うっとりとした表情に反して、射竦める視線に慄然とする。 「じゃ、じゃあ、ソレ…その袖の血、どうしたんですか?」 極度の恐怖と緊張に、心臓が早鐘のように音を立て、手にはじっとりと汗をかいていた。 「これかい? ふふ…私のではないよ」 「友雅さんじゃないって── 他の人の…っ?」 兢々と訊きかけた詩紋の言葉を遮るようにして、友雅は独り言のように呟いた。 「返り血は、浴びないように気をつけていたのにねぇ…」 あかねと詩紋は驚愕に目を見開いた。 ある程度確信していたとはいえ、本人の口から他人を傷つけた真実が明かされれば、否が応でも信じなくてはならない。 「と、友雅さん?」 友雅の眼差しが愉快そうな色を滲ませた。 「殺してきたんだ…」 そう言って蝙蝠で隠された友雅の口元は、血のように紅く濡れているのではないかと思えた。 何を、と訊ねるまでもない。 信じたいと思ってはいたが、彼のこんな酷薄な笑みの前には、どんな言葉を上げ連ねても無意味でさえあった。 「──ど、して…」 与えられた真実に愕然としつつ、乾ききって張り付いた喉は、風のような音を絞り出すことしかできない。 互いの手を握り支え合うあかねと詩紋は、指先を襲う震えがどちらの物なのか、わからなくなっていた。 友雅は二人を、蔑むような嘲笑の籠もった瞳で見下ろしている。 終ぞ見たことのないそんな眼差しは、彼が正気ではないことを示しているよのだが、そんな言い訳が何の役に立つのか。 仲間であり、愛する人でもあるその男の姿を持つ者相手に、術を行使して逃げ出すことも出来ず、かといって素手で敵う相手ではない。 「"どうして"? 面白いことを訊く子だね、君は。 憎きを滅し葬り去るは、人の性というものだろう。 この指が仇の首を手折る時、この瞳に苦悶の顔を映す時、この耳に断末の悲鳴を受ける時。 私の心は至福で満たされる。 血を啜り、骨を断ち、肉を貪る時、抑えきれぬ悦楽に胸が震えるものさ。 わからないかい、"神子殿"?」 くつくつと笑い、引き上げられる唇。 捉えて放すことのない、楽しげな眼差し。 あかねは気を失いそうなほどに表情から色をなくし、激しく震えていた。 「さあ、おいで。私と共に、行こう」 「あかねちゃん!」 差し出された指があかねに触れる寸前、詩紋は彼女を抱きかかえるようにして横飛びに倒れ込んだ。 低い呻きを漏らした細い身体を抱え起こし、立ち上がるように促す詩紋を鋭く睨みつけた友雅は、抵抗を示す金色の存在を無視したまま、再度あかねに手を伸ばす。 が、その腕を掴み上げるやいなや、激しい衝撃音が響き、友雅が弾かれたように手を引く。 彼の指先から薄い煙が立ち上り、微かに肉を灼いたような匂いが漂った。 「──っつ…。 姑息な真似を…。 懐に何を入れている。 呪いか、それとも護符かい?そのようなもの、この私にどれほど効くと思っているのか」 怒りに満ちた友雅の声が、深閑とした房内に響いた。 あかねが戦慄く指で水干の懐を探ると、将軍塚で落ちているのを見つけ、友雅に返しそびれていた蝙蝠が収まっていた。 彼女には知るよしもなかったが、それは普通の蝙蝠ではなく、桃の木で作られた特殊な骨子の物だった。 元来、桃の木には破魔の力があるとされる。その木で作られた蝙蝠の骨子がひび割れ、もはや原型を留めてはいないということは、それだけ強力な穢れに触れたと言うことだろう。 意志を持つように妖しく揺れる、滑らかな翠黒の髪。 冷たさを一層増した瞳は次第に平素の色を無くし、血のように紅く染まっていった。 「来い、龍神の神子。我が元へ」 ボロリ、あかねの手中で蝙蝠が崩れる。 霊力があるとされる桃の木の加護も、もうあてには出来そうもない。 「逃げて詩紋くん!」 あかねは力の限り詩紋を突き飛ばしたが、その方向へ視線を走らせ、追う素振りを見せた友雅の背にしがみ付く。 煩わしげに身体を捩る男の動きを、羽交い絞めするようにして抑えた。 一瞬、詩紋は躊躇したように見えたが、すぐに転がるようにして走り出す。 「待ってて、あかねちゃん! すぐに助けを呼んでくるからね!」 ギリ…と友雅が歯軋りするような音が、その広い背から響いて聞こえた。 「娘、邪魔だ」 凍えてしまいそうな冷徹な声を放って、友雅は勢いをつけてその半身をひねった。 引き剥がされ、蔀戸に叩きつけられたあかねは、衝撃に鈍い悲鳴を上げて床に転がる。 彼女の知る友雅ならば、自分にこんな仕打ちは決してしないだろう。 そう思うと途端に目頭が熱くなりはじめた。 友雅を見上げる瞳が、涙で滲む。 痛くて泣いているのか。 悲しいから泣いているのか。 それすらももう、あかねにはわからなかった。 「…ともまさ…さ、ん……」 こみ上げてくる嗚咽に、声が詰まる。 ほろりほろりと頬を零れ落ち始めた涙は、まるで止まる術を知らぬように、次々と溢れ出した。 「…友雅さんは…もう、友雅さんじゃないの?」 想い通わせ合ったわけでも、将来の約束を交わした訳でもない。 言葉にしたことなどなかったけれど、全てが終わってからも京に留まる事が出来ればいいと思っていた。 もし彼が望んでくれるならば、一緒に故郷への扉を潜るのでもいい。 ただ、一緒にいたい。共に、歩んでいくことができるのなら── それが、無理難題であったとしても。それが、叶わぬ夢であったとしても。 密かに望むくらいのことは、許されるのではないかと。 「私の…私の好きな友雅さんじゃ、なくなっちゃったの…っ?」 息も絶え絶えにそう問う。 初めて吐き出した想いを受け、禍々しい血色をしていた友雅の双眸が僅かに細められた。 血に濡れたような紅がくすみ、明滅するかのように翠黒の瞳が現れる。 苦しげな呻きをくぐもらせた喉が痙攣し、やがて血走ってはいるものの、平素の色を取り戻した双眸が瞬きを繰り返した。 「…み、こ…殿……私の…つき…の…」 絞り出された声。 友雅はその顔を歪めると、自らの頭を両手で押さえ、苦痛を吐き出すかのように激しい呻き声を上げた。 「友雅さん…っ!!」 あかねの言葉に応えようとするかのように、友雅の周囲を漂う禍々しい気と、彼本来の穏やかな気が鬩ぎ合う。 頭を抱えて膝を折った彼を支えようと咄嗟に伸ばした指先は、激しい痙攣を繰り返す彼自身の声と、放出される穢れの重圧によって弾かれた。 「──くっ…来るな!来ては、いけなっ…い。逃げ、なさい…神子ど…ぐ、うぅぅ…っ」 「でもっ!友雅さんを置いていけない!」 「はや…く。これを、抑えて…いられる、うちに…」 振り乱した髪。 額を、そして首筋を伝う脂汗。 白皙の面を、かつて無い苦悶が覆う。 どれほど言っても逃げようとしないあかねから、少しでも離れようと立ち上がった友雅は、灼熱の痛みに胸を押さえて蹲った。 友雅の忠告にもかかわらず、助け起こそうと伸ばした手は、驚愕に見開いた双眸と共に宙を漂う。 脂汗が浮かぶ額の両端が僅かに隆起し、妖しげに蠢いていたのだ。 まるで、鬼の角が生えるように。 あかねは息を飲むと、悲嘆と恐慌に震える両手を叱咤しながら、まき散らす穢れをも包み込むように彼の身体に腕を回した。 身を焼くような熱さと、四肢を引き裂かれるような痛みに苦痛の声を漏らすが、逃げるまいと一層力を込めて彼を抱きしめた。 「みこ、ど…の…」 苦悶の中に、ほっと短い息をつく気配が混じる。 こうすることで、ほんの少しでも彼が楽になるのならば、どれほどの痛みを受けても耐えてみせる。 「お願い。もう、友雅さんを…苦しめないで。自分の恨みのために、関係ない人を巻き込まないで…。私の大切な人を、これ以上傷つけないで!お願い。お願いだから!!」 友雅の裡に在る物は、ともすれば弾き飛ばされてしまいそうな程の力を有していた。だが、あかねも負けじと友雅への想いを、両の腕から注ぎ込む。彼の全身に、心に染み渡るように。 強引に怨霊を封印すれば、同化してしまった友雅も無事では済まないだろう。彼を傷つけず、そして同化を解くためには、友雅の意識を引き戻すしかないと思った。 彼の額を突き破ろうとする、陰の力が具現化する前に。 ほんの少しでも良い。怨霊の力を弱め、友雅の意志を強めることができれば── 「友雅さん、大好きなの!お願いだから…戻ってきて!負けないで!私を、抱きしめて!!」 苦悶に歪む唇に、己のそれをぶつけるようにしてくちづけた。 触れる唇から伝わってくるのは、友雅と同化した怨霊の嘆きや苦しみ。 この怨霊は生きていた頃は鬼の血をひく者だったらしい。 あかねの意識に、人から迫害を受け、ただ逃げて逃げて…怯えて身を潜めながら逃げるだけの生だったことへの悲憤慷慨が流れ込んでくる。 ただ、静かに生きていきたかったその鬼は、人を憎みたかったわけではない。追われ、脅かされ、傷つき、飢え…そうするうちに少しずつ憎しみが縒り固まり、怨嗟を生んだようだ。 最愛の者を殺され、自分自身にも討伐の命を受けた京の役人の刃が向けられた時、その憎悪は確かなものになり、人を恨んで憎んだまま、絶命した。その念が残り、怨霊と化し、そして鬼の首領アクラムに利用され―― ごめんね… つらかったよね…苦しかったよね… こうして受け止めてあげることしか、あかねには出来ない。 鬼と人との戦いは、はじめはきっと先住民である鬼を追い出した京の民が悪かったのだろう。だからといって鬼が、自分達の世界を作ろうと、この京に穢れや怨霊を撒き散らし、人々を苦しめて良いわけではない。呪詛で日照りも続き、京の都では死者も大勢出ている。 早く終わらせなくてはならない、この戦いを。そして憎しみの連鎖を止めなくては。 その為にも―― 「戻ってきて…」 唇を離し、そう祈りにも似た願いを呟いて、自分よりも大きな身体をもう一度強く抱きしめる。 「…み…こ…どの……」 「…友雅さん苦しい?」 幾分か清浄な気を注ぎ込まれたからか、今にも突き破らんとしていた額の隆起は、友雅の自我が戻ってきたこともあり、かろうじて静止を保っていた。 だが、友雅と同化させられた怨霊の恨みは恐ろしく深い。まるでそれを物語るかの如く、菌糸の根を張るように友雅の体内にしっかりと根付いてしまっていて、同化が解ける気配はない。 このままでは、それが浄化でも封印でも、友雅の身を危険にさらすことになってしまうだろう。 「今の、うちに…封印…しなさい」 ヒューヒューと喉を苦しげに風切らせ、友雅が言う。だがあかねは、躊躇うことなく首を左右に振った。 「出来ません。そんなことをしたら友雅さんが…!」 初めて心を添わした人。初めて強く想った人。初めて、愛しいと── 震える指先で、苦痛に強ばる頬を辿る。紙のように白くなる肌。青ざめていく唇。 残された時間は、もう長くはないのだろう。どれほど清浄な気を注ぎ込もうとも、血肉に重なり合った穢れを浄化することはできない。 おそらく京の町には、友雅と同じような状況の人間が何人もいるのだ。怨霊と同化してしまった、民が。 第二、第三の犠牲者を出す前に、彼らの身の内に巣くう怨霊を浄化しなければならない。 友雅一人でさえ、これほど手に余るというのに、どうやって── 「神子!」 「あかねちゃん、大丈夫!?」 御簾をはね除けて進入してきた二人に、友雅を抱きしめる腕もそのままに、虚ろな視線を向けた。 「──やすあきさん…しもんくん…?」 「遅くなった、済まない。詩紋、すぐに取りかかるぞ!」 「はいっ!」 詩紋は担いできた台を広げ、泰明はそれに榊や鏡などを手早く並べていく。 「なに…何をするの?友雅さんをどうするつもりなの!?」 一息に調伏しようというのか。 そんなことをしたら、友雅には二度と触れることも叶わなくなる。 友雅を抱きしめている腕が大きく震えた。強引に事を構えれば、間違いなくその身もろとも消失することになるだろう。 それだけは、それだけは許せなかった。 「問題ない。形代と友雅を同化させる」 「…かた、しろ…?」 「そうだ。その後で、形代に怨霊を定着させ、それごと器から抜き取る」 慌ただしく準備を整える端で、泰明は四方の床に榊を刺した。友雅の周囲に結界を張ろうというのだろうか。 あかねはその様子を、どこかぼんやりと見つめていた。 「そんなことが、できるの…?」 「分からぬが、やってみるしかない。早急に打てる手段はそれしかないのだ。事は一刻を争う。いいな、神子」 腕の中に視線を落とすと、友雅はすでに意識を失い掛けていた。 ほんの一刻も経たない内に、色艶を無くし、打ち乱れてしまったかの人。 身の内で暴れ続ける怨霊を抑え、鬼への変化を食い止めているのだから、その疲労と苦痛はどれほどのものだろうか。もう、猶予はないのだ。 「それが成功すれば、怨霊に支配された町の人たちも助かるんですか?」 「おそらく。少なくとも、神子の力で浄化することが可能となるだろう」 泰明の言葉に力を得ると、あかねは意を決して泰明に向き直った。 「──お願いします。友雅さんを…みんなを、助けて!」 小さな木板で作られた形代が、白い光の鱗粉を放ちながら友雅の身体の中へと沈んでゆく。 無事にそれを友雅と同化させ、形代の方へ怨霊を定着させることができるのだろうか。 あかねはほとんど気を失ってしまっている友雅を励ますように、抱きしめる腕にそっと力を込めた。 「頑張って…友雅さん…」 そう呟くや、形代はその姿を完全に消した。 直後、友雅の身体が大きく跳ね上がり、その瞳が苦しげにカッと見開かる。最前まで、不安定ながらも彼本来の色を取り戻していた瞳は、今はまた不吉な紅に染まっている。 「う…ぐぅぅぅああぁあああああ…っ!!」 まるで断末魔のような叫びがあがる。 それは消滅の予感に抗う怨霊の悲鳴なのか、同化していた異物を身から引き剥がされる苦痛による友雅のものなのか。 あかねはただ、抱きしめた友雅の肩に顔を埋めて、無事であるように祈るしかなかった。 腕の中の男は、激しく身体を震わせながら獣のごとき咆哮を上げ続け、術による禁縛から逃れようとのたうつ。それを詩紋と共に押さえつけながら、その姿から視線を外さないよう、弱い心を叱咤していた。 彼はまだ、戦っている。自分だけ逃げるわけにはいかない。 荒れる房内に、玲瓏な泰明の真言が朗々と響く。 神水に浸した榊を振るうたび、飛沫を受けた友雅の身体から瘴気の煙が立ち上っていた。 言葉にならない悲鳴が耳を襲うが、あかねは何度も何度も、彼の名を呼び続ける。 やがて、異様な臭気を漂わせた辺りが静まる。 友雅も限界に達しているのか、ぐったりと身体を横臥したまま荒く呼吸を繰り返すのみ。 「──くっ…」 泰明の忌々しげな声に、あかねは虚ろな顔をあげた。 友雅の胸から、怨霊を定着させた形代がゆっくりと浮かび出てくる。 光彩を放っていたはずの形代は、定着がうまくいったのか、今は禍々しい瘴気に包まれていた。闇にも似た暗黒の触手を方々に伸ばし、贄を探すように蠢いている。 このままこの形代を浄化すれば、友雅は助かるはずだ。しかし、術を施している泰明の表情は優れない。 不安に苛まれたあかねは、どうしたのかと訊ねようとして…愕然と息を飲んだ。 怨霊を定着させ、友雅の胸から完全に姿を現した形代から、暗色に伸びる瘴気の糸がその体内に繋がっているたのだ。 それは身体から怨霊を完全に引き剥がし、形代にすべてを定着させることができなかったと言うことだろう。 それほどまでに強力で膨大な悪意を携えていたのか。 「泰明さん…」 「神子。封印を」 「だけど!」 「怨霊の威力は削がれた。今、封印せねば奴は勢いを取り戻し、形代ごと友雅を呑み込むぞ」 冷厳な物言いの中に、苦渋の色が見えた。 常に泰然としているはずの泰明ではあるが、力及ばず、友雅を危険に晒さなくてはならないことに抵抗を感じているのだろう。 ここで、封印をしないわけにはいかない。 今、怨霊を封じなければ、いずれ神子であっても太刀打ちの出来ない"敵"となって現れるだろう。 その時は、数多の都人を失い、八葉でさえも斃れるかもしれない。 ましてや、怨霊の器となった友雅は、二度と戻ることはないだろう。 「おまえの八葉である友雅を信じろ」 その言葉に、ひとつ、瞬きをする。 ゆっくりと双眸を開いたあかねは、静かに頷いた。 友雅を支配下に置いたそれは、危機を感じたのだろうか。 それまでぐったりと弛緩していた身体が跳ねるように起き上がり、まさしく鬼の形相であかねの喉に左手をかけた。 双眸を吊り上げ、力の限りに締め付けるそれから、あかねを奪い返そうと飛びかかる詩紋は、向けられた覇気だけで床に叩きつけられる。 全ての者を射殺さんと見据えるその瞳は、憎しみに染まった血の色をしていた。 「う…ぐぅ…っ」 酸素を求め、喉が鳴る。 締め上げるこの腕力では、酸欠よりも先に首の骨が折れてしまうだろう。 咳き込むことも出来ず、掻きむしるように友雅の手の甲を傷つける。 と、その力が僅かに緩んだ。逃れることは叶わないが、まるで怨霊と友雅が鬩ぎ合っているかのように、強弱を繰り返している。 「調伏する。神子、じっとしていろ」 「やめ、て…っ!」 絞り出した声に、泰明が手印を止めた。 手が緩んだ隙にゴフリと咳き込み、そして苦悶を浮かべる男の頬に指を伸ばす。 蒼白の頬は冷え切っていて、人の温もりを感じることは出来なかった。だが、もう一度、この頬に穏やかな笑みを取り戻してみせる。 「だいじょ、ぅぶ……わたしに…まか、せて…」 もうほとんど体力も気力も失ってしまっているだろうに、まだ友雅も頑張ってくれているのだと思うと胸が熱くなってくる。 あかねは強引に息を吸い込むと、瞼を閉じた。 この身の内にある龍神は、小さな自分が吹き消されてしまうのではないかと思うほど強大な力を有していて。その力を借りることが、怖くないと言えば嘘になる。でも今は―― …力を貸して 友雅さんを助けたい 友雅さんを傷つけたくない だから お願い! その祈りに応えるように、あかねから溢れ出た清光がふたりを包んだ。 |
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