次回土曜遙か洋画劇場 八葉友雅とあかねの事件簿 異世界京ミステリー
「友雅の牛車の中で」猟奇誘拐事件

= リレーde次回予告 =



−3−



その時、あかねの対屋の異常に気付いたのは、やはりと言うべきか…彼女の警護を任とする頼久だった。
日没を間近に控え、薄暗くなった前庭に篝火を焚くと、未だ火入れの済んでいない房内の様子を窺う。
それは毎日繰り返される行動だが、今日は何故か胸騒ぎのようなものを覚えたのだ。
何がそれほど焦燥感を掻き立てるのか分からず、主であるあかねが嫌がることも承知で、気配を殺したまま階を登る。
その脚がはたと止まったのは、闇に支配され始めた簀の子縁に佇む泰明の存在に気付いたからだ。
彼は室内を凝視していた色違いの双眸で頼久を捉えると、無言のまま視線を戻した。その仕草が、中の様子を窺ってみろと言っているように感じて、無礼を承知で耳目を懲らす。
すると薄暗い御簾うの内から、啜り泣く声に被るような男の話し声が聞こえてきたのだった。
まだ帰邸していないはずの八葉の誰かが訪れているのだろうか。そんな考えが脳裏を過ぎったが、すぐにそれを否定する。
ここに来る直前に門番に確認した時には、未だ誰も帰ってきてはいなかったからであり、八葉では泰明が警戒している理由が通らなくなるからだ。
主は紛うことなく泣いている。そこに拒絶や恐怖の音色はない。狼藉者が侵入したわけではなさそうだが、放っておくわけに行かないことも明らかだった。
頼久は気配と足音を消したまま刀に手を掛け、御簾の端を引いて中の様子を窺う。
そしてそこで、再び息を飲んだ。

奥へと夜の帳を濃くしつつある広庇には、座り込んだ男女の姿があった。
一人は言わずもがな、彼の主である。
そしてもう一人は、ここ十数日前に姿を消した、仲間であった。
尋常ではない失踪の仕方をした男。 周囲を封じるように囲まれた牛車から、忽然と消え去った地の白虎。
彼は、主の細い身体を抱きかかえるように腕を回し、そしてしゃくり上げる小さな背を慰撫するように撫で上げている。
と、口元に微笑を刻んだ顔がこちらを捉えた。
抱きしめる手の人差し指を立てて左右に振り、同時に息を吹くように唇を僅かに突き出した。
「声を出すな」と言うことなのだろう。
頼久もまた、主の狼狽ぶりからその方が良いだろうと判断したが、果たして何の前触れもなく突然戻ってきたこの男と、二人きりにしてしまって良いものかと迷う。
だが、男が主に危害を加えようと考えているならば、自分が訪れる前にどうとでもすることが出来たに違いない。少なくとも今この時、彼女をどうこうする意志はないのだろう。
ひとまず泰明とも相談し、他の仲間を集めて事の次第を報告するのが先決だと判断し、御簾から身を離した。



「お前、本当に『本物』の友雅なのか?」
不穏な声音が響いたのは、頼久が房を離れて半刻も経たない内のことだった。
次々と戻ってきた八葉達と二人の元に戻った彼らの中で、友雅に対する不審も露わな天真が口火を切った。
「おや、おかしなことを言うねえ。私が私でなかったら、誰だと言うのだい?天真」
疑念を晴らしきれない仲間の眼差しを受けて、友雅は含んだような笑いを漏らしながら返した。
あかねは、もう二度と彼が消えてしまわないようにとでも言いたげに、友雅の隣から離れることはない。
その様子を、他の八葉達が窺うように見つめていた。
「誰って…そりゃ、こっちが聞きたいぜ」
「そうは言ってもねぇ、私は『私』なのだから、他に言いようもないのだが。何と言ったら君は満足してくれるのかな?」
ふふ、とからかい混じりに笑いながら蝙蝠で口元を隠す仕草などは、失踪前の彼と何ら変わることはない。
だが、どことなく漂う違和感のような物に、二人のやりとりを見守る彼らは不安を抱いていた。

喧々囂々…とは言っても、一方的に天真が食ってかかる状況を引き締めたのは、泰明の玲瓏な声音だった。
「友雅、これまでどこでどうしていたのだ。なぜここにいる」
「なぜと聞かれてもねぇ…」
いつにも増して食えない微笑で首を傾げる様子に、あかねは苦笑を漏らしたが、他の者達は笑えるような心境ではない。
ぴしりと固まった空気を、一層冷えさせる応酬が始まる。
「では、どうやって姿を消した」
「どうと聞かれてもねぇ…」
すでに会話に飽きたような仕草で己の髪を嬲り、そして不安そうな眼差しで成り行きを見守るあかねに微笑んでみせる。
「お前…っ、いつまでものらりくらりとかわしてんじゃねぇ!」
ついに激昂し、ダンッと激しく床を殴りつけるイノリに苦い笑みを送った友雅は、ほんの僅かに表情を引き締め、そして大仰に溜息をついて見せた。
「本当に何も覚えていないのだよ。気がついた時には、神子殿の声が聞こえて──辺りを見回して初めて、自分がいる場所が土御門なのだと知った。それまで、どこでどうしていたかも一切覚えていない」
「では、それ以前の記憶はどうなのです?ご自分が穢れを受けて昏倒したことは覚えているのですか?」
鷹通の質問に、記憶を探るように双眸を細めた彼だが、やがてゆったりと左右に首を振る。
「神子殿と頼久と、探索に出たことは覚えているよ。だが…そう、午時に神子殿の脚を川の水で冷やして差し上げたのだが、その辺りから記憶があやふやでね」
あかねは頼久と顔を見合わせ、確かにそんなことがあったと確認し合う。
「では『蝶』の事も、覚えていないのですね?」
「蝶?人が消えた現場に残されていた、アレのことかい?それが何か…?」
自身が襲われたはずの妖かしを言われても、きょとんとしているその様子は嘘をついているようには見えない。
質問の意図をはかりきれずにいる友雅を安心させるように、あかねは隣を流れる直衣の袖をそっと引いて握りしめた。
彼はその手を取り上げ、小さなてのひらを包むように握り返してくれる。
慰めようとした所作が、かえって自分を落ち着かせる効果になって、あかねはホッと安堵の微笑を漏らす。
その様子に、未だ疑いを晴らしきることの出来ない男達は、複雑な思いを抱いたまま表情を曇らせるしかなかった。
「こうして視ても、お前は『兌』の八卦と『友雅』の気を持つことは確かだ」
泰明の言葉に、ぎこちなさを孕んでいた空気が僅かに緩む。
だが、それはほんの一瞬のことだった。
「ならば、他の場所に現れた『友雅』は何者だ」
「──ほかの…場所…?」
「や、泰明殿、それはどういう事なのですか?わたくしにはさっぱり…」
「日没前の同時刻。将軍塚、神楽岡、神泉苑、河原院、一条戻り橋、そして糺の森に『友雅』が現れた。私も式神を通してその者らを視たが、やはりお前と同じく『兌』の八卦と『友雅』の気を持っていた」
「そん、な…」
あかねの指先は、ようやく戻ってきたぬくもりを離すまいと、一層強く大きな手を握りしめる。


「お前は、誰だ。『友雅』」


シン、と静寂に包まれる。
誰もが身動ぎひとつすることなく、あかねの手を握る男を凝視していた。
本来なら、即刻二人を引き離さなくてはならないのだと思いつつも、そうできないでいるのは…この男が本物だと心のどこかで信じているからだった。
友雅ならば、あかねを傷つけるはずはないと。
『友雅』は静かに返答を待つ彼らを見渡すと、困ったように謔笑を刻む。

「私は、私だよ。橘 友雅、他の誰でもない」

審判を待つように双眸を閉じたその姿は、どこか凄然とした潔さがあった。
仲間からの疑いをその身に受け、抗うことも弁明することもなく、ただ泰然としている。
それは、彼が本物であることの証明のような気がして、あかねは再び彼の手を握る指に力を込めた。

「友雅さん、だよ」
ポツリと零れた言葉は、その細い音量に反して決然としている。
「あかね…っ」
「だって、偽物だって言うなら宝珠はどう説明するの? 誰かが成りすましたり変化へんげしたりしても、宝珠は絶対に現れないよ? 宝珠の気配は、私にだってわかるもん」
「だけど…」
「八葉同士だって、近くにいれば感じられるでしょ?宝珠から流れてくる気配さえも疑うの?だとしたら私は、私が龍神の神子だって事の方が疑わしいと思うよ!」
「神子殿っ!?貴方以外の龍神の神子などあり得ません!それは、私たちが一番存じていることです」
「なら頼久さん、友雅さんだってそうだよ。どんなに変化が上手で、姿形を変えられる術者だとしたって…内から出る友雅さん本人の気配は真似できないもん。絶対どこかでボロが出るはずだよ。今、みんなが躊躇しているって事は、『絶対に本人じゃない』って言い切れないからでしょう?」
「仮にお前の言う通りであったとして、ならば他の場所に現れた『友雅』は何なのだ」
「それはっ──わからない、けど…」
立ち上がらんばかりの勢いで説得を続けていたあかねだが、さすがにその問いには答えられるはずもない。
風船が萎むように座り込んでしまった彼女の手を、友雅は宥めるようにポンポンと叩いた。
あかねにとってはそんな仕草さえ、やはりこの男が友雅なのだと確信する要素になるのだが、他の者にはそうはならないのだろうか。
結束していたはずの仲間の絆が脆くも崩れようとしていることに、ショックを隠しきれずにいた。
「それでも、友雅さんは…友雅さんだよ。それだけは、間違いない」
俯いてしまうしかない自分の無力さにも、ほとほと愛想が尽きてくる。

「化けてるんじゃなくて…こいつに、怨霊とか何かが取り憑いているって可能性は?」
沈黙に焦れ、新たな可能性を示唆したのは天真だった。
「わからぬ。その気配はない、としか言い様がない」
「なんだそりゃ。お前にもわかんねぇ事なんかあんのかよ」
「無論だ。もとより怨霊はその身を偽る物。力が強ければ強いほど、能力の幅も広く深いものだ。気配を完全に消すことのできる物もあるやもしれぬ」
色違いの澄んだ瞳に射抜かれて、たじろいだ天真はがっくりとうなだれると、情けない声を漏らした。
「お前の言ってることは、よくわかんねぇよ…」
「そらそうだ。天真の頭じゃ、理解できないだろうな」
「何だとイノリ!それじゃ、お前には分かるのかよ!?」
「いや、わかんねぇ。けど、怨霊にとって俺たちは邪魔者だろ?ってことはだ、気配を消してのうのうと隠れてねぇで、さっさと攻撃してくるなり、拐かしていくなりすんのが普通じゃねぇのか?」
「なるほど。それをしてこないと言うことは、取り憑かれている訳ではないと──」
「そうそう、鷹通、わかってんじゃん」
「それに、現れた経緯はどうあれ…泰明殿とわたくしの結界に何の反応もないとなると…やはり、何も憑いていないと考えるのが妥当かもしれませんね」
「永泉!お前もかよ…」
「ですが天真殿、わたくしには、この方が友雅殿ではないと考える方が難しいのです…」
睨み付けられて言葉尻を窄めた永泉は、ボソボソと言い訳を口にする。
消去法のようですっきりと納得することは出来ないが、それでも友雅の存在を信じるように変化しつつある空気に、あかねの肩の力が緩み始めた。
やはりどう考えても、その身に光る宝珠の輝きに勝る真実はないように思える。
「私には、他の『友雅さん』が何なのかわからないけど──やっぱり、ここにいる友雅さんは友雅さんだと思います。ううん、信じます」
高らかに掲げられた宣言は、躊躇いながらも皆を納得させるに到ったようだ。
天真も不承不承ながらも頷き、辺りに穏やかな笑みが満ちる。

「良かった。友雅さんが帰ってきてくれて、本当に…」

ホロリと零れたあかねの涙。それを指先で掬い上げる友雅の頬には、慈しむような微笑が浮かんでいる。
「神子殿。信じてくれて、ありがとう」
そう囁く息が耳朶を擽り、あかねはくすぐったそうに、そして嬉しそうに身を捩った。


だがこの時、友雅の身の内で芽吹こうとしている禍々しい気配に、誰も気付くことはない。
無事の帰還を、笑顔で言祝ぎ始めた仲間たちに囲まれた友雅の口端が、妖しく引き上げられていた──




+++




翌、日没後。
もう、何度このような打ち合わせの場を設えただろうか。
あかねは額を寄せ合い議論を交わす仲間たちを眺めながら、思わず零れそうになった溜息を飲み込んでいた。

今日の探索は、玄武の二人とあかねが事件の聞き込みを行いつつ怨霊の封印を。そして友雅と未だ戻らない詩紋を除いた他の八葉達は、詩紋の捜索と数多の失踪事件の原因究明を。
その結果を持ち合い、そして対策を練る彼らを失意に陥れる報告は後を絶たない。

土御門以外の『友雅』が現れた場所では、軒並み一人ずつの行方不明者が出ていた。
これでもう、被害者は両手両足の指で数えても足らなくなった。
遠からず『友雅』と事件の関連性に気付く者も現れるだろう。
だが、それと同時に喜ぶべき報告も寄せられている。
失踪していた者の全てとは言えないが、そのうちの数名が、友雅と同じようにひょっこりと戻ってきたのだった。
もちろん、その間の記憶を全て失ったままで。
まるで、神隠しのようだ。
誰かがそう、呟いた。いや、多くの者はそう思っているだろう。
戻ってきた彼らは、その記憶を失っていただけで、まったくの無傷であり疲労の痕跡さえもないのだから。


被害者が戻ってきたにもかかわらず、根本的には大した進展もない状況にはうんざりだが、明日は手分けして帰還者たちに覚えていることや気付いたことなどを聞き込みに行こうと確認し合い、その場は解散した。
気遣わしげに視線を投げながら、土御門に用意されたそれぞれの房に戻っていく彼らの背を見送り、ひとり残った友雅に向き直る。
あかねは、今日だけでも何度繰り返したか分からない問いを、もう一度彼に向かって放った。
「ほんっとうに、何も覚えていないんですか?」
詰め寄るその様子に、友雅は記憶を探るように視線を天井に向け、う〜ん…とひとつ唸る。そして、手にしていた蝙蝠をパチリと閉じた。
「それがねぇ…『ほんっとうに』何も全く覚えていないのだよ」
あかねの口調を真似、悪びれもなく微笑む姿に、がっくりと肩を落とす。
「もうっ…」
そう不満を上げつつも、その声色には戻ってきてくれた安堵感が滲んでいた。

どういう理由で人が消えて行くのかはわからない。誰かが攫っているのか、何かもっと他の現象なのか。
前者ならば、その目的は何なのか。なぜ急に解放する気になったのか…。
わからないことだらけで、まだまだ解決に至るまでには時間がかかりそうだ、と言うことだけがはっきりとしている。
正直なことを言えば、こんな不可解で気味の悪い事件からは手を引いてしまいたい。
様々な情報を統合して考えても、被害者らの失踪に到る経緯から、生活環境、身分。時間、状況、人数…何もかもに共通点がないのだ。
ほとんどあり得ない話しだが、これが自然現象であるならば諦めもつこう。
だがあかねは、これが人為的、もしくは怨霊と呼ばれるこの世ならざる者達の仕業だと確信していた。
それは、限られた証拠などから導き出された答えではなく、彼女の『勘』でしかないのが難点だが、おそらく違えてはないだろうと思う。
これほど多くの人々を、証拠ひとつ残すことなく拐かした犯人。
そして、戻ってきた者達の記憶を奪い、だが衰弱ひとつさせることなく解放できた能力。
どれを取っても、あかねに太刀打ち出来るような相手ではないだろう。
彼女の心の裡で、嫌な思いがむくむくと頭をもたげてきていた。
京を守り、京人を救うべく『龍神の神子』にあるまじき、それ。

「──詩紋くんさえ、戻ってきてくれたら…」

彼さえ無事ならば、もうそれで…。
他の人たちも助け出せれば、それに越したことはないだろう。だが、もしそれが叶わないならば、詩紋だけでもいい。
友雅のように無事に戻ってきた者がいるにも関わらず、なぜ詩紋は解放されないのだろう。
小さく呟いた言葉は、その余韻を響かせることなく友雅の胸に消えた。
あかねの呟きが零れるやいなや、彼に腕を取られてそのまま強く引き寄せられたからだった。
突然のことにバランスを崩した彼女は、友雅の胸になだれ込んだまま驚きに身を竦ませる。

「神子殿…」

少しかすれた声。耳朶をくすぐるような吐息。
あかねは、なぜ友雅に抱きしめられているのか理解できず、無意識に肩を震わせた。

「──神子殿…」

繰り返される名。
静かに、ただ囁かれるそれは、いつもの友雅らしからぬ熱を孕んだものだった。
やがて彼の腕は、骨が軋むほどに強くなる。あかねが言いしれぬ恐怖を感じて、逃れるように身動げば…戒めは一層強くなるばかりだ。
「と、ともまさ…さん。くる、し…」
唯一自由になる左手で彼の背を叩き、離してくれるように懇願する。
と、友雅はビクリと強く身体を震わせ、そしておもむろに腕を解いた。
突き放すようなその所作に尻餅をついたあかねが呆然としていると、「すまなかった」とただ一言、吐息のように儚く呟く。
「どう、したんですか?」
伏せた友雅の顔を覗き込むように、恐る恐る手を伸ばしてみたが、指先は彼に触れることはなかった。小刻みに震えるような肩の動きに気付いたからでもあったが、それ以上に触れてはいけない、そんな気がした。
友雅はあかねのその動きを拒絶と取ったのか、恐怖と取ったのか。
微かに上げた顔に、傷ついたような色を浮かべて苦しげに呻いた。
「何でもない。何でも、ないんだ。忘れてくれ…」
「どこか具合でも悪いんですか?」
声もなくただ首を左右に振る。色を失った表情は、決して「何でもない」ようには見えないのだが、いくら訊ねても彼は答えようとはしない。
邸に帰ると言って立ち上がった背中には、苦悩の影が揺れているような気がして思わず呼び止めた。
だが彼は、あかねの顔を見ようとはしない。微かに垣間見えた横顔には、自嘲するような歪んだ笑みが浮かんでいる。


「君だけは──どうか、気をつけて」


たったそれだけを呟くと、薄闇の中を音もなく去っていった。




夕餉も湯浴みも済ませ、一人になったあかねはぼんやりと時間を過ごしていた。
何をしていても、去り際の友雅の背中が脳裏に浮かぶ。
茵に横臥していた身体を、何度も動かして寝返りを打っていたあかねの頭上で、油を切らせた灯台が細い煙を上げて消えた。
突如訪れた闇。
上げられた蔀戸からは、淡い月明かりが滲んでいる。
耳を澄ませば、内裏の方角から犬の遠吠えが微かに届いてきた。

京に飛ばされた直後には「恐ろしい」と感じていたこの静寂を、心地良いと感じられるようになったのは、いつ頃からだろうか。
一人きりで心細く寂しいと。 重く辛い責務に苦しいと。 逃げ出したいと感じていた時、傍にいてくれたのはいつだって、友雅だった。
何を話すわけでもなく、ただ隣に座り、穏やかに微笑んでくれた人。
その彼に恋をするようになったのは、必然だったのだろう。
彼がいてくれさえすれば、どんな辛い運命にも立ち向かえる。 どんな迷宮に迷い込んでしまっても、決して諦めることなどない。
そう、思っていたのに。
言い知れない恐怖と、焦燥が身を包む。
それは違えることなく、戻ってきてくれて嬉しいはずの『友雅』に対する不安だった。

ゴロゴロと何度も寝返りを繰り返して乱れた髪もそのままに、あかねは勢いをつけて起き上がった。
どれほど考えても、何の光明も見いだせない。
このまま横臥していたところで、余計に疲労が増すだけだ。 きっと今夜も、頼久が宿直を勤めているだろうから、少しの間だけ、他愛もない会話に付き合ってもらおう。そうしているうちに、眠くなるかも知れない。
そう判断すると、月明かりを頼りに簀の子縁に歩み出た。

「神子殿…?」
予想通り、階の影に立って周囲を警戒していた頼久が、驚いたようにあかねを見上げる。
「──眠れないのですか?」
「…うん。少しだけ、お話ししても良いですか?」
肩に羽織った袿の襟を掻き寄せ、彼の傍に腰を下ろす。すると頼久は、気遣わしげな視線を困惑に変えて了承を示した。
「お寒くはありませんか?」
「大丈夫。何だか、目が冴えちゃって──」
「この所、多くのことがありましたから…お疲れなのかもしれませんね」
「そう、なのかな…」
高欄に頭を預け、そっと溜息を吐く。
頼久はあかねのそんな様子を静かに見つめていたが、ハッと緊張を漲らせると、鋭い視線を周囲に投げながら警戒を露わにした。
「頼久さん?」
何者か、侵入者の気配でもあるのだろうか。
あかねも腰を上げ、緊急事態への対応が出来るように身を引き締める。
「──誰だっ!!」
頼久がスラリと刀を抜く。
庭を覆う深い闇の向こうから、ざくり、と砂利を踏みしめる音が響いた。
双眸を細めるようにして窺っていると、篝火の明かりが届くところまで近づいてきた影の、足元が露わになる。
躊躇うことなく…だが、ゆっくりと近づいてくるそれ。
やがて全身を現した影が、脚を止めた。

「あかね…ちゃん?」

茫洋とした声音で呟かれた名。
この京で、そんな風にあかねを呼ぶ人間は、たった一人だ。
「詩紋くんっ!?」
勢いよく立ち上がり、裸足のまま階を駆け下りる。
「あかねちゃんっ!!」
闇に浮き上がる金色が目に飛び込む。そして篝火に照らされた相貌は、数日前に姿を消した詩紋、その人だった。
「詩紋くん!!」
悲鳴にも似た叫びを上げて、二人は飛びつくように抱きしめ合った。
「──詩紋殿…」
頼久もまた、息をついて刀を鞘に戻すと、安堵の笑みを浮かべる。
「どうしたの?どうやって戻って──」
「あかねちゃん!大丈夫? 何にもされてない?」
互いの存在を確かめ合っていた彼らは、同時に身体を離すと重ねるように質問をぶつけ合った。
だが、詩紋の問いの意味を図りかねたあかねは、困惑に瞳を揺らす。
「え…誰に?」
「友雅さんだよ!戻ってきてるでしょ!?」
薄闇の中に浮き上がる、白く冷えた友雅の自嘲的な笑みを思い出し、ドキリと心臓が跳ねた。
詩紋が何をもって訊ねたのか分からないが、その真剣な相貌からただ事ではないと気付いたあかねは、安心させるように強く首を振る。
「…だ、大丈夫だよ。それより詩紋くんこそ怪我とかない?」
細く息をついた彼は微かに笑みを浮かべたが、すぐに憂いを帯びた表情に変えた。

詩紋は頼久をその場に残し、あかねを室内に連れて行くと、おもむろに切り出す。
「あかねちゃん…最近の誘拐騒動はね、鬼の仕業だよ。僕のことはイクティダールさんが逃がしてくれたんだ」
視線を逸らすように伏せられた詩紋の双眸は、苦しげに歪められた。
「だけど、友雅さんは……」
「友雅さん…は?」
声が震える。
その先は聞きたくない。聞いてしまったら、何もかもが崩れてしまうような恐怖に襲われた。
だが、確かめなければならないのもまた事実で。あかねは深呼吸をひとつ、そして詩紋の曇らせた瞳を見返す。
「あかねちゃん、落ち着いて聞いてね」
「う、うん…」
「イクティダールさんは僕に言ったんだ。『彼のことは助けてあげられなかった。気をつけろ』って」
目の前がすぅっと、暗くなる。
「…助けて、あげられなかった…」
あかねは反芻するように呟いてみる。 だが、現実味は帯びてこなかった。

心が、言葉を理解することを拒絶する。
いつもと様子が違っていた彼。
そう言えばなぜ、詩紋がいないことに何も触れなかったのか?ふと思う。
本来ならば八葉が集まっている時点で、詩紋の所在を訊ねることくらいあって然るべきなのに。
まるで、そこに彼がいないことを、予め知っていたかのようで──
それでも、信じたい。
──そう思っているのに、嫌な予感は震える心に浸食していく。
その予感は、詩紋が放った一言で確実のものとなった。


「友雅さんはね、怨霊と同化させられてるはずだよ」




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