次回土曜遙か洋画劇場 八葉友雅とあかねの事件簿 異世界京ミステリー
「友雅の牛車の中で」猟奇誘拐事件

= リレーde次回予告 =



−2−



「どうしてだよ…っ」

その朝、あかねが重い瞼を押し上げたのは、苦しげな天真の叫びが聞こえたからだった。
ここ半月ばかり、夜も明けぬうちに起き出しては、失踪なのか誘拐なのか分からない事件を調査し、その傍らで怨霊を封印。それ以外にも、四方の札を取得したり四神を解放するために奔走したりと、休む時間もなかった彼女は、慢性的な疲労感に苛まれていた。
普段は八葉であり友人でもある詩紋や天真、土御門殿の女房達に起床を促されるまで、死んだように眠りについているのだが、ここ数日…正確には友雅が姿を消した日から、熟睡することもない。
霞が掛かるような頭を軽く振って起きあがったあかねは、単衣の上に袿を羽織って緩慢に立ち上がる。
フラフラと覚束ない脚を引き摺るようにして広庇の御簾を潜り抜けるとそこには、憤怒の形相で話しをする天真と、頼久。そして泰明の姿があった。
外はまだ夜が明けきっていないのか、東の空がうっすらと色づいている程度だ。

「…どうしたの?」
掠れる声で訊ねると、彼らは驚いたように顔を見合わせ、そして視線を逸らす。泰明だけはいつもと変わらない強い瞳であかねを見返していて、胸を刺されるような気がした。
「何か、あったの?」
声が震える。
嫌な予感がする。
こんな感覚は、ここ数日で何度も経験していた。
あかねは掻き寄せた袿の襟を、ぎゅっと強く握りしめた。
夜明け間近の空に、不吉な陰を背負った烏が啼きながら飛び去っていく。
「──詩紋が…」
呻くような天真の声。


「詩紋が…消えた」


まさか。
もう、あかねの唇からは悲鳴さえも漏れることはなかった。
あと何度、こんな思いをしたらいいのだろう。どれだけ耐えれば、解決できるのだろう。
どうすれば、彼らは戻ってくる?
どれだけ決意を新たにしようとも、どれほど身を削って奔走しようとも、大切な人たちさえ守ることが出来ない。

「どう、して…?」
ようやく口をついて出た言葉は、初夏の大気を僅かに震わせただけだった。
「夜中に、フラッと外に出て行ったらしい」
「なんで…」
「分からないのです。 詰めていた門番が危険だからと引き留めたそうなのですが、何も言わず、振り切るように出て行かれたようです。 報告を受け、すぐに私と天真で後を追ったのですが…」
「もうすぐ追いつく、って所で急に姿が見えなくなったんだ。 月が明るかったし、絶対に見失うはずなんてねぇのに!」
ふと顔を上げたが、もうすでに月の影は見あたらない。
東から次第に白み始める空に、千切れ雲がふたつ、儚く浮かんでいた。
「それに──」
「…何ですか?」
「友雅殿らしき人影を、見ました。 詩紋殿は、その人物を追っていたのではないでしょうか」
苦渋の決断のように放たれた言葉に、どこか納得してしまった自分を嫌悪する。
詩紋が追っていたのが友雅本人であるという真偽はどうでも、人々の失踪に彼が関与しているということはもう、違えようもなかった。
「そう、ですか…」

何故、詩紋は夜中に外出したのだろうか。
彼が友雅らしき人物を発見したのは偶然か、はたまた仕組まれた必然か。
何者かに呼び出されたのだとしたら、なぜそのことを誰にも言わずに一人で出掛けたのか。
その辺りを調べてみるしか、手段は無いのかもしれない。
あかねは、次第に追いつめられていく状況にもかかわらず、これまで以上に自分が冷静であることに気付く。
この繰り返される悲劇の輪を断ち切るためには、動揺していてはいけない。静慮し、正しい道を模索していくしか方法がないのだ。

「──そう言えば、泰明さんはどうしてここに?」
詩紋を追って行った二人ならばまだしも、彼がこのような時刻に土御門にいる理由を図りかねて尋ねると、泰明はつと双眸を細めてあかねを見返した。
「何者かが土御門の結界に触れたのを感じた。 結界の増強をはかっているところに、天真と頼久が戻ってきたのだ」
「んで、状況を話して気を探ってもらったんだけど──」
「詩紋の気は、すでにこの京からは消えている。 京から外に出たか、あるいは異界に引きずり込まれたか」
「取り急ぎ、他の八葉の方々には使いを出しましたので、追ってこちらに参られるはずです。 そこで、今後の対策を話し合われた方が宜しいかと」
「そうだな。 もし、敵の的が俺たちになったんなら、分散してるのは得策じゃねぇし。 ま、それならそれで、敵さんの懐に飛び込んで内側からどうにかするって手もあるけどなっ」
「ふん、次の狙いはお前かも知れぬぞ、天真。 これ以上八葉が欠ければ、神子を守る手が足りなくなる。 自重することだ」
「な…っ!キレたらなにすっかわかんねぇような、泰明おまえにだけは言われたくねぇよっ!」
怒鳴りつけた天真だが、その顔はうっすらと苦笑を湛えている。それを受けた泰明でさえ、琥珀色の瞳に好戦的な色を浮かべながら口端を歪めていた。
余裕、なのではない。
彼らもまた、体力的にも精神的にも、限界に近いのだと知る。
こうやって互いをそしりながら笑みを浮かべ、怒りを昇華しなければ無謀な行動を取ってしまいそうな程に追いつめられているのだ。


「どこにいるの、友雅さん…。詩紋くん…どうして──」


空の中程までを照らし出した太陽は、ようやく顔の端を現していた。
彼らの心中とは反して、今日も快晴だろう一日が始まる。




+++




たった二人の不在は、その実、酷くあかねの心を苛んだ。
広庇に全員が集まると、いつもは少々手狭なように感じていたのだが、今はぽっかりと穴が空いたように風が通り抜けていく。
早朝にも関わらず迅速に集合した彼らは、詩紋の失踪に言葉を無くした。
もしかしたら、何者かに呼び出されたか、操られたのかもしれないと考えた天真をはじめとする四人は、残りの八葉が集まる前にと、起き抜けで慌ただしい家人を片っ端から捕まえては聞き込んでいた。
だが、はかばかしい結果は得られていない。
詩紋の部屋に、手紙などの手がかりになるようなものは残されておらず。 夜具が乱れていないことから、夜中になるまで床にはつかなかったのだろうと言うことが分かっただけだ。
彼に言伝をした者もなく、手紙などを頼まれた者もない。
近くの房を使っていた天真も、不審な物音や声を聞いた記憶は無いと言う。
詩紋を引き留めようとした門番は、いつも朗らかな笑顔を絶やさない詩紋が、言葉を発することなく無表情に歩いていく姿に不安を覚えたと言うが、操られていたのではないかという疑念を残しただけで、解決の糸口となるような証言ではなかった。

「とにかく、友雅を捕まえようぜ! それが一番、手っ取り早いだろ!?」
遅々として進まない話し合いに、業を煮やした天真が声を荒げる。
「どこに現れるのか、何の手掛かりもないというのに、どうやって見つけるのだ」
「って、そんなこと言って、後手に回ってるから被害者だって増えんだろ!? 違うのかよ、頼久っ」
「何の考えも無しに、がむしゃらにやればどうにかなる問題でもない。 ただでさえこちらの人数は限られているのだし、神子殿の疲労も著しい。 このままでは最悪の事態にも成りかねんと言うことがわからんのか」
可愛がっている弟分の詩紋が、自分の目の前で消えてしまったという事実は、天真の心に重くのし掛かっている。
長男気質とでも言うのか、『自分が守ってやらなくては』と考えることの多い彼ならば、その焦燥と自責の念は計り知れない。
「二人ともお待ち下さい。 天真殿は特に、落ち着かなくてはいけません」
「鷹通てめぇ、頼久の肩を持つのかよっ!」
「そうではありません。 闇雲に動くことが最善では無いと、申し上げているのです。 探す場所も特定できない。 何者が関与しているのかも分からない。 どんな能力を持っているのかも、何もかもが分からないのですから」
「じゃあ…じゃあ、このまま何も出来ないって言うのか!?」
激昂して鷹通に掴みかからんばかりの天真を頼久が力ずくで押さえつけ、その耳元に何事か説得するようなことを囁くと、天真は鼻息を荒くしながらもようやくどっしりと座り込んだ。
胡座の膝を己の拳で強く打ち、懊悩を吐き出すように大きく息を吐く。
「もちろん、このまま手をこまねいている訳にはいきません。 ですから、優先順位をはっきりさせましょう」
「優先順位?」
「そうですイノリ。 状況は逼迫していますから、あれもこれもと必要な項目が目の前にちらつき、どれにも集中できていないのが現状です。 ですから、ひとつとして上手くいかない」
「では、何を優先に考えますか? わたくしには、どれも重要に思えて…選択することができないのですが…」
永泉の言葉に、ほんの一瞬考え込むようにした鷹通だが、皆を見回すとあかねに向かって口を開いた。
「やはり、友雅殿らしき人物というのを探すのが一番かと思いますが、神子殿はどう思われますか?」
あかねの元に視線が集まる。
将軍塚で発見されて以来、どんな時でも片時も離さずにいた友雅の蝙蝠をぎゅっと握りしめると、彼らの視線に向けて大きく首肯した。
「今、確かなことは…その人が現れた後、その近くで誰かが攫われるってことなんですから、やっぱりそれが一番だと思います。 でも、どうやって…」
「次はどの辺りに友雅殿…いえ、友雅殿らしき人物が現れるか…あたりをつけるのです」
鷹通は京と周辺を書き記した地図を広げ、蝙蝠でひとつひとつを指し示していく。
「まず、始めに噂があった将軍塚。 そして神楽岡、神泉苑、河原院…その人物を追い、詩紋殿が居なくなった一条戻り橋…。 どこもこの土御門殿から比較的近い場所です」
ざわり、と空気が揺れる。
「我々と言えど、友雅殿や詩紋殿が拐かされた事実から、一人で行動することは避けなくてはなりません。 ですから、全ての場所を同時に抑えることは出来ませんが、ひとつずつ可能性を潰していく…。 そして、その人物の行動範囲を狭めていく事が可能ならば、私たちにも勝機はあるのではないでしょうか」
この人数では、容易いことではない。
たったそれだけのことで何かが得られる確証などないが、穴のある人海戦術であっても、何もしないでいるよりは遙かにましだと思えた。
微かに見えた光明に、彼らの表情が明るくなっていく。
今はその作戦に賭けるしかないのだろう。

あかねはそっと双眸を閉じると、ひとつ、息を吐き出した。
「泰明さん」
澄んだ色違いの瞳が、まっすぐにあかねを捉える。
「泰明さんの式神さんたちを、それぞれの場所に配置して見張ってもらう事って出来ますか? 友雅さんらしき人を発見したら、私たちに知らせてもらうんです」
「ああ、不可能ではない。 だが、式神では限界もある」
「限界? どんな…」
「式神は容姿で人を判別することができない。 人に式神を送るには、その者の気に向かわせるからだ。 それ故、友雅本人であれば造作もないことだが、他者が奴に成りすましている場合は認識することが出来ぬ。 無論、その者が怨霊や鬼などの異形の者であれば問題ないが」
式神には、人間の風貌の相違を見分けるという力はないらしい。
そもそも、式神は己の意志で動いているわけではなく、泰明ら術者から与えられた条件を満たすようにしか行動出来ない物なのだという。
あかねたちには詳しいことは分からないが、彼がそう言うのならばそうなのだろうと納得するしかない。
ともかく、式神は万能ではないかもしれないが、猫の手も借りたいようなこの状況では、藁にも縋るしか方法がないのもまた事実だった。
「他に打つ手が無いんだから、しょーがねぇだろ?」
「そうだよね、イノリくん。 うん、泰明さん、それでお願いします。 私たちも、まずは友雅さんらしき人が現れた五カ所を。 それから、式神さん達に見張りを変わってもらって、まだ現れていない場所に範囲を広げていきましょう。 相手の移動手段もわからないですけど、街道筋を通るなら…どこかで発見できるかもしれないし」
あかねの指先が、地図の上をさっと滑る。
それを視線で追いながら、彼らは深く頷いた。
「では、皆さん、決して一人にならないで下さい。 必ず二人ひと組で行動し、深追いはしないこと。 宜しいですね?」

今度こそ、事態が好転することを祈って。いや、好転させることを誓って。
そんな彼らの傍ら、泰明の手から、数羽の白鷺が次々と青く澄んだ空に飛び立っていく。
残された者は、強い意志を湛えた瞳でその場を後にした。





+++




それから数日、友雅らしき人物の動きが、ピタリと止んだ。 目撃証言だけでなく、その噂さえも耳に届かなくなる。
式神までもを投入した人海戦術が功を奏したのかとも考えられるが、全く動きが無くなってしまえば、解決に導く道筋までも閉ざされてしまうことになる。
再び、大切な手掛かりを失い、彼らの焦燥と憔悴は一層酷くなっていくばかりだ。
なかでもあかねの気落ち加減は著しく、邸に戻ってもひとりでぼんやりと遠くを見つめる事が増えていた。
俯きがちで口数も少なくなってしまった彼女の様子を、八葉も藤姫も歯痒い気持ちで見守るしかできない。

ただただ、無為に過ぎていく日々。
変わらない現状。
重い足を引き摺りつつ、歩き回るしか方法がない。


だが停滞していた事態は、突如として巡り始めた──


その日、あかねは陽が暮れるより一刻ほども前に、土御門への帰還を果たしていた。
それは共に探索を続けていた頼久が、積もり積もった彼女の疲労を慮ってのことであり、八葉である二人でさえも歯牙に掛けることの容易い敵から身を守るためでもある。
彼女だけでなく、探索を続ける者全てが、日没前の帰邸を約束していた。
日没後は情報を交換し合い、そのまま土御門に留まって、また早朝に出掛ける。 それほど警戒をしていてもなお、詩紋のように消えてしまわないとも限らないのだ。

あかねは濯ぎの水を使った後、対屋の前庭に続く階の上に腰を下ろしたままぼんやりと風に吹かれていた。
靴下を脱いだ脚は、酷使しすぎてじんわりと熱を孕んでいる。
この京に来て以来、長距離を歩き続けてきた脚は、自分の物とも思えないほどに筋肉質になっていて、時間の経過を否応なしに感じさせられる。
所々にうっすらと残った傷跡を指でなぞりながら、その要因を思い出そうとすると、真っ先に浮かぶのは捉え所のない穏やかな笑みを湛える男の顔だった。

右膝の盛り上がった傷跡は、初めて怨霊と遭遇した時に出来た物だ。
龍神の神子として出来る限りのことをしよう。 そう決心したつもりだったけれど、実際に怨霊と対峙することになった時、恐怖に足が竦んだ。
友雅の背に守られ、泰明が調伏するのを震えながら見ているしかなかった。
目の前から醜悪な姿が消えた時、ホッと警戒心を解いてしまったのを見透かしてか、取り逃した穢れに襲われて怪我をした。 二人が身を挺して庇ってくれたおかげで、たったこれだけの傷で済んだのだ。
泣きじゃくるあかねを、友雅は大きな背中におぶって長い道のりを歩いてくれた。
安全が確認できるまで決して気を抜いてはいけないだの、お前は思慮深くないだのと小言を続ける泰明の隣で、背負った少女の脚を優しく叩いて慰めてくれた。
酷く、安心したのを覚えている。

左足のすねに、縦にできた切り傷は、彼を庇った時に出来た物だ。
怨霊の瘴気に当てられて膝をついてしまった友雅を狙ったかまいたちの前に、咄嗟に飛び出てしまった時。
同行していた頼久が、瞬時に術を放ってくれたおかげでたいした傷にならずに済んだ。
その後、初めて友雅が声を荒げた。「やめてくれ」と。 「どうか君を失わせないでくれ」と。
傷を診る彼の指先が小さく震えることを不思議に思いつつも、大切な人を守れたんだという充足感が心に満ちた。


「──友雅さん…」


この京にある記憶の全てが、彼の存在に繋がる。
胸を締め付ける想いを自覚したのは、この傷を刻み込んだすぐ後のこと。
この空のように、燃えるような夕焼けが美しい日だった。
この想いを言葉にしたことなどない。
生涯、伝えることは無いのかもしれない。
それは住む世界を異にする自分たちには、当然のことだろうと、抑えきれない気持ちを胸に抱きしめた。


「──友雅さん」


零れ出るその名は、酷く掠れていて誰にも聞かせられるようなものではない。
日が完全に暮れる前には、警護のために頼久が訪れるだろう。
真実、一人きりでいられるのは一日の内でこの時だけだった。 たった半刻ほどの時間を勝ち取るにも、大反対を唱える者たちを説き伏せる必要があって、疲れ果てたあかねにはそれさえも憂鬱ではある。
だが、京を襲う怪異も。 人々を震えさせる事件も。 次々と現れる怨霊も。
何もかもを忘れて、ただ無力な少女に戻れる時間が欲しかった。 ただ純粋に、愛する人の無事を祈れる時間が。

すでに空の中程までが闇に染まりつつある。
あかねは、まだもうすこし一人でいたくて、重い身体を引き摺るように立ち上がった。
御簾を潜り抜け、薄闇が忍び込んだ広庇を横切る。
もうすぐ日没を迎えるのだから、そのうち誰かが迎えに来るだろう。 それまで、房の中でゴロゴロしていよう。
そう考え、御簾の上げられた母屋に脚を踏み入れた。
と、あかねはハッと息を飲む。
視界を遮るように立つ几帳の向こうに、人の気配を感じたからだ。
「──誰?」
おそるおそる声を出す。
母屋の中は、広庇など比較にならないほど闇が濃くなっていた。
「誰、なの?」
土御門の家人は、この時刻にこの房に近づくことはない。 それは、主である藤姫からの厳命でもあるからだ。
完全に陽が落ち、灯りが必要になるまでは誰も立ち入ることは許されないはず。
あかねはそろりと脚を後退させる。
どんな急激な動きにも対応できるよう、視線を彷徨わせて退路を確認していた。
度重なる怨霊との死闘でつかみ取った、生きる術とも言えるその動きは、彼から教えられたものでもある。
「人を呼びますよ…っ」
動こうとしない影に、焦れて声を強めた。
と、その時──


「神子殿?」


息を、飲む。
まさか、と胸の内で悲鳴が上がった。


「神子殿…」


影が、立ち上がった。
涼やかな衣擦れの音を響かせて、一歩、また一歩と距離が縮まる。
ふたりを遮る几帳をそっと押し退け、上げられた御簾を潜り、そしてまだ微かに残り火を灯す夕日にその横顔が照らし出されていく。



と も ま さ さ ん



唇が、動く。
音のないその言葉に応えるように、彼は小さく首を傾げ、そして微笑んだ。
「──友雅さん…っ!!」
なぜ、どうして、と聞きたいことはたくさんあれど、唇を通る言葉はたったひとつ。
「友雅さんっ!! 友雅さん…ともまさ、さ…」
「神子殿」
あかねの眦から、ボロリと大粒の雫がこぼれ落ちた。
強く床を蹴って、直衣の胸に飛び込む。
何もかもが、もうどうだって良くなっていた。
ただ、彼がこうして戻ってきてくれた。 それだけは真実なのだから。
あかねは次々に零れる嗚咽を堪えることなく晒し、背中に回した手で直衣を強く掴み、そして顔を押しつける。
しゃくり上げた拍子に鼻孔を通る彼特有の香りに、これが夢でも偽りでもないことを確信した。
「神子殿」
宥めるように背を撫でる大きなてのひらは温かく。
押しつけた胸からは、穏やかで規則正しい鼓動が聞こえる。
「どうしたんだい、神子殿…?」
「…ううん。ううん…っ、なんでもないの。 帰ってきてくれたから、もう、いい…」
抱きしめる力が一層強くなる。 苦しいくらいのその感触さえも、心地良いと思えた。
彼の香りに。彼の鼓動に。
彼の存在に気を取られていたあかねはこの時、自身の嗚咽によってかき消された言葉に気付くことはなかった。
突如として動き始めた怪異を、自ら放った式神によって知ることの出来た唯一の男。



「やはり、ここにも現れたか──」



妻戸の影にひっそりと佇み、彼らの姿を見つめる人。 白皙の面に、一層の冷徹さを湛えた泰明の言葉を。



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