秋宵の灯りに響く音を君に

= 秋 =

−2−

9月。
新学期が始まり、あかねの通う高校では来月に迫った文化祭の準備に日々忙しさを増していく。
あかね自身も放課後はクラスの友人と一緒のことが多くなり、なかなか友雅とゆっくり過ごす時間が取れない日々が続いていた。

けれど。とにかく。今日は朝からやたら意気込んでいた。
天気もばっちり。準備もばっちり。
もう後は、引き止める友達も振り切って、終業のチャイムとほぼ同時に教室を飛び出して。
転がるような勢いで真っ直ぐに家路についた。

急いで着替えてから、足取りも軽く友雅のマンションに向かう。手には早起きして準備していた小さな風呂敷包みと小さな花束を抱えて―――


ピンポーン、と来訪を知らせるボタンを押す。聞き慣れた電子音なのに、不思議といつもよりももっと軽やかに聞こえる。

「こんにちは、あかねです」

「やあ、あがっておいで」

懐かしい声と同時にエントランスのロックが開錠されると、そのまま足早にエレベーターに乗り込み最上階へ、友雅の部屋へと向かう。

「いらっしゃい、待ちかねたよ姫君。さあ、早く入って?」

「――こんにちは。お邪魔しまぁす」

ここしばらく散々お預けを食らっていた友雅は、もう待ちきれないとばかりに待ち構えていたのだが。予想外にあかねの荷物が多かったために少々出鼻を挫かれた感は否めない。
それでもにっこりとした笑顔を浮かべて、あかねを迎え入れる。

「おや、尾花に竜胆、吾亦紅、女郎花―――秋の花だね。……その手にあるのは何かな?」

「おばな?あ、すすきですね?うふ。お月見ですからね〜、やっぱりすすきとお団子はないとさびしいでしょ?頑張って作ってきたんですよ〜。こっちがお供え用。こっちが今日のデザートの分で、こしあんとつぶあんの二種類です♪」

嬉々として包みを広げ、手ずからこしらえた可愛らしい団子を披露してくれたのだが…。
―――なんだって?


「――――…ねぇ、あかね。今日は………お月見なのかい?」
「え、だって…。15日でしょう?中秋の名月。だから今夜一緒にお月見したいなぁ、って思ったんですけど。それに前に約束しましたよね、一緒に月を愛でようって…それに―――」

ここまで話して、はっと不安げな顔になるあかね。

「ひょっとして。忘れてました?」

珍妙な顔つきになってしまった友雅の顔をおそるおそる覗き込む。

「いや、忘れてはいないのだけど――――……。
中秋の名月は―――来月だよ?今年は10月の初めのはずだから…」


「―――え。」


「10月」



「―――――。  ぇええええーーーっ?!だ、だって去年は9月でしたよね?!中秋の名月って、旧暦の8月15日って、9月の15日じゃ―――」

「旧暦は必ず1ヶ月遅れ、って訳じゃないからね。ちゃんと暦を見なかったようだね、あわてんぼうさん?」

―――――確かに。見なかった。見てなかった。もうひとつ言えば、ここのところ忙しかったり天気も悪かったりで夜空も月も見ていなかった。

呆然と、目も口も大きく開きっぱなしになって、青かった顔色が見る見るうちに耳や首まで真っ赤に染まっていく。

「ぅ―――や…だ……も………ぅうーーゎ〜〜ん、失敗〜〜」

全身を真っ赤に染めて、どんどん小さくなっていくあかね。

嬉しくなるくらいに愛らしいその姿。

ついつい苛めてしまいたくなるのはこんなときなのだよねぇ、と内心ニヤリとして、更にあかねを奈落の底に突き落とすひと言を言い放った。


「それにねぇ。大変言いにくいのだが……今夜月が昇るのは夜中だよ。君がここにいる間は見られなのではないかな」


「う、そ…月、全然出ない、の?―――――――、も、やだぁ〜〜、ぅわ〜〜〜〜んどうしよ、恥ずかし………っ」


ますます赤くなって頭まで抱え込み、ついにはへたり込んでしまったあかねの顔を、満足げな顔で覗き込んだところでついに噴き出した。


「ぷぷっ……さてさて。とにかくまずはお茶でもいかがかな?喉が乾いたろう?」


友雅は盛大に笑いたいのを堪えて、両肩を抱いてリビングのソファに座るように促す。
そして喉の奥でくつくつと笑いを噛み殺しながら、がっくりと落ち込んだままのあかねのためにアイスティーを淹れにキッチンへ向った。

時折後ろからくすくすと聞こえる忍び笑いがあかねを更に落ち込ませたが、それでも薫り高いアイスティーと友雅との楽しいおしゃべりが、だんだんと気分を立ち直らせていってくれた。




夕焼けがいつもより長い間空を赤く染めていた。やがてそれもようようと藍から濃紺の帳へと掛けかわっていく。
昼間の熱い空気が涼やかな夜気を刷く秋の空気へと少しづつ変化していき、家々からは温かい光が洩れはじめる。
星明かりは澄んだ空気に一層光を強くして煌めき、夜空を彩る―――

―――が、残念ながら月の影はちらりとも気配を感じることができなかった。

それでも食事を済ませたあとは、いつものリビングに「星」見の用意を整えた。
東側のベランダの大きな窓を開け放し、その前に持ってきた秋の花とお団子を飾る。
フットライトと小さめのフロアランプ以外の照明を落として。
友雅にはお酒、自分のためにはミルクティーを淹れて。
薄明かりの中で、ベランダの大きな窓に向けて置きなおしたソファにゆったりと並んで腰掛ける。

他愛ない話もやがて途切れた。そして訪れたのは静かな時間。




静かな、静かな時間―――。

友雅は肩をもたせかけて座るあかねを軽く抱き寄せる。
お互いの吐息や鼓動を感じられることが幸せで。傍らにある温もりがこんなにもうれしい、愛しい。
細く、軽やかな髪からあかねの甘い香りがする。手を差し入れると柔らかく滑らかな髪が、さらさらと心地よく指の間をすり抜ける。
すぐ傍らから伝わる温もりも、香りも、髪と一緒に指の間からすり抜ける僅かな空気の流れでさえ愛しくて愛しくて。
その感触を飽かず楽しんでしまう。

優しく髪を梳いてくれる友雅の温かで大きな手。
その柔らかな手つきがうっとりとあかねの目を閉じさせる。

―――この人がくれる優しい眼差しも、手の温もりも、包み込んでくれる大きな胸も。
すべてが、切ないくらい愛しくて。ずっとずっと傍にあって欲しかった。
こんな幸せをどうしたら伝えられるのだろう。

友雅さんは?―――友雅さんは幸せ?

私だけ…こんなに幸せでいいのかな?

友雅さん、…私のためにつらい思いをしていない?

京を離れて。失ったものを思って。本当に後悔していない?


幸せすぎて涙が浮かんで。
思わず、髪を梳いてくれている手を取って口付けていた。


「―――あかね」


優しく甘く名を呼ばれ顔を上げると、友雅の両手に包まれて眦に、頬に、額に、鼻に、そして唇に、小さく軽いキスが降ってきた。

友雅が少し離れるとあかねの両手は友雅の首に伸ばされ、離さないとばかりにぎゅっと強く強く抱き寄せる。

離れないで。怖いの、幸せすぎて怖い―――そんな思いが抱きしめる力を一層強くする。


いつになく強く、友雅を求める気持ちが高まる。ホンの少しでも二人の間に隙間ができるのが厭わしくて、強く強く友雅に身体を寄せる、抱きしめる。

友雅もそんなあかねを包み込むように抱きしめる。大きく、ふわりと、優しく―――

心地良くてうっとりと目を閉じれば、目蓋に、眦に、頬に、友雅の唇が触れてくる。髪に、耳元に、首筋にゆっくりとキスが降ってきて。促されるままに顔を上げると蕩けそうな笑顔が向けられていた。

もう一度、友雅を求めようと目を閉じ、身体を寄せた。

友雅の、深いキスが降ってくる―――と、思っていた。


しかし。


やんわりと離れていこうとする友雅に、驚きに、目を閉じることができなかった。


「―――あかね。 ね、少しいいかな?」

「?」

額を軽くあわせ、少しいたずらな瞳でそう言うと、すっと立ち上がりリビングから出て行った。




訳が分からなかった。
いつもなら、こんな雰囲気を自ら作る男が。そしてこんな空気が流れ出したら最後、何があっても絶対にそちらを優先させてきた男が自ら、あかねを置いて別の部屋へと出ていった。

不審感や寂しさが一瞬過ったが、それ以上何か余計な考えが浮かぶ前に、書斎から黒い大きな何かのケースとスタンドのようなものを持って友雅が戻ってきた。
驚く間もなくダイニングからは椅子を持ってきて、程よい距離を置いてあかねの正面にそれらを置く。
ばくん、と、ケースを開けると、そこには―――

「な…に、これ―――チェ……ロ?」

「そう、よく分かったね。」


にこやかに中身を次々と取り出し、エンドピンを取りつけてスタンドに立てる。


「な…んで、―――どうしたんですか、これ?」

「うん?ほら、琵琶を探していたろう?なかなか気に入ったものが見当たらなくて―――」


ゆったりと微笑みながら弓の毛を張り、整えてから何やら塗りつける。松脂だよ、と教えてくれた。


「そんなときにこれが目に入ってね。まぁ、まだ手にしてひと月も経っていないからね。姫のお気に召すものが弾けるかどうか心配ではあるのだが―――」


そういいながら、調弦する姿はものすごく様になっていて、どきどきと鼓動が止まらない。
大きな飴色に光る胴の部分を引き寄せ、真っ直ぐに伸ばされた背筋。
弓を握る姿も、弦を押さえる長い指も。
梳き流していたうねる髪を片方に寄せ、露になった肩にチェロを引き当てる動きも。
そこに軽く耳を寄せるような仕草まで。
些細な動きのひとつひとつが艶めいていて目が離せない。

胸の鼓動が収まらないままにソファに座るように促され、あかねに優しい視線と微笑を投げた後、友雅が深く息を吸い込む音が小さく聞こえた。


「―――では」


そう、ひと言。

そして静かに弓が、指が―――音が、滑り出した。
深く、少し低いよく響く音。真っ直ぐに伸びる音に、揺れるように震えるように広がる音。
それらが奏ではじめたものは、あかねがよくキッチンなどで口ずさんでいたり、鼻歌交じりに歌っていた、ゆったりした曲調のJ-POPや童謡。それらが少しアレンジされて部屋中に響き渡る。

灯りの落とされた室内なのに、その僅かな光が友雅の姿と音とを浮かび上がらせる。

真近で奏でられるその音は、あかねが思っていたよりもずっと大きく、部屋のなか、そして自分の裡の隅々までを満たすように響きわたり、沁みわたっていった。

―――友雅の声に似ている、と思った。

深く優しい艶やかな音色、低い音はどこか官能的。時折響く高い音は、心の内側深くに柔らかく真っ直ぐ届くようで。
聞いているだけで全身を友雅に包み込まれるような。自分の中に入りこんだ音が、友雅が、全身に沁みわたるような。そんな心地よい不思議な感覚……。

打たれたように身体が動かない。

耳に届くのは友雅の奏でる音だけ。
視線も友雅から、友雅の指の動き、腕の動きから逸らされることはない。
肌に直接届くチェロの響きが心地よい。時に肌を這うような、ぞくりとした錯覚をも呼び起こす。
耳も、瞳も、触覚も。
あかねの感覚という感覚の何もかもが、友雅に、その紡ぎ出される調べに魅了され、
―――甘くきつく絡め取られるばかり。



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katura様