秋宵の灯りに響く音を君に |
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= 秋 = |
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やがて。弓の動きが止まり、部屋の中に静寂という余韻が広がって、あかねもようよう口を開いた。 「―――す、す…ごい、です。なんか、もう―――いつの間に、こんな…」 「君がよく歌っていた曲のつもりなのだが気に入って頂けたかな?」 「は…いっ、とっても……!」 「本当はもっとちゃんとした曲を弾けたら良かったのだけど、あの楽譜というものがどうもまだうまく読めなくてね。それでも君を驚かせるのには成功したようだし、よかったよ」 いたずらっぽい瞳で、蕩けそうな笑顔とともに吐き出された、とんでもないセリフ。 「―――楽譜なし、ですか。しかもあんな鼻歌聞いただけで…っ?!」 「うん?そうだね。弾き方を教わって音律がわかったら後は思い出しながら少しずつ、ね」 「ね、って。信じられない……!ちゃんと音を出すのも難しいんじゃないんですか? それにそんな簡単なはずないし―――――友雅さん、本当に人間?すごいよ、すごすぎ! 本当にもうびっくり― ――」 「ふふ…、なんだか酷いね?でも褒めてもらっているのだよね、それは?」 ひどく興奮気味のあかねの隣に、友雅が弓を置きながら戻ってきた。 「ねぇ、あかね。君はピアノが弾けるのだったよね?だから今度私に楽譜の読み方を教えてはくれないかい?そして一緒に弾いてみよう?きっと楽しいと思うのだけれど」 満面の、蕩けそうな笑みで誘いかける。 「ちょ、ぇええっ?なに言ってるんですか?無理ですっ!楽譜も!教えるだなんてそんな―――」 「ダメかい?楽しそうだと思わない?」 「え、だって…。それは……私も一緒に弾けたらどんなに素敵かって思いますけど――― 友雅さんが弾いているのを聞いてるだけでも…楽しいですよ?」 「私もまだまだだよ。それにね、一人で練習するより二人でするほうが楽しいと思わない?」 「そりゃ…そうです、けど……でも―――」 「じゃあ、決まりだ。一緒に練習しよう、ね?よし、そうと決まればピアノを買わなきゃね。」 「―――は?!」 「これを探していたときにね、実はいくつかピアノも見ていてね。なかなか良いと思うものがあったのだけど、君の好みや相性もあるからね。残念ながらその場では決められなかったのだよ。そう遠くないところだから明日にでも見にいこうね。早い方がいいだろう?うん、よかったよかった。 ああ、楽しみだねぇ。これからは毎日君と一緒に楽を楽しめるわけだ。」 「……は?―――え?!」 「うん?やはり練習は短時間でも毎日したほうがいいからね。ここなら部屋も余ってるし防音も効いているから、練習に何の差支えもない。だからこちらに通って練習する方がいいだろう?ああ、大丈夫。放課後は迎えに行くし、帰りもちゃんと送っていくから。そうだ、母君には私からちゃんと話をした方がいいかな。それから―――」 嬉々とした、極上の満面の笑顔で。 信じられないコトを次から次へと『決定事項』とばかりに、有無を言わさない口調は留まるところを知らない。 「ちょ、ちょっと待って下さいっ!買うって?練習って?それにそれに―――!」 「ああ、大丈夫だよ。私のチェロの先生、というか、知り合いなのだけどね。そこのご妻女がピアノがとても得意なのだそうだ。一緒に来てもらえるそうだから―――」 どんどんエスカレートしていきそうな話に目を回しそうになりながらも、なんとか叫び声を上げる。 「友雅さんっっ!!」 ―――ぷっ、ぁはははははっ 大きく肩で息をしながら青くなったあかねの顔に、しばし目を留めていた友雅は、してやったり、というような笑顔を刷きながら、大きな声で笑い出した。 もう何がなんだかわからないけれど、あかねは大きな目をぱちくりしながら、滅多に見られない友雅のそんな笑顔に目を奪われた。それでも、ようやく友雅のしゃべりが止まったことで、ゆるゆると肩の力が抜けてきた。 「――――冗談だよ。そんなに慌ててする必要はどこにもないからね」 「もうっ、からかったんですね!ひっどーい」 目に見えて力の抜けたあかねを掬うように抱き上げてから、ゆるゆると膝の上に抱え込む。横抱きにされた格好で、友雅の顔が一層近くになった。 片手はあかねの身体に回したままで、残る手はあかねの手を取ったまま、つい先ほどとは別人のような真摯な、切ない瞳であかねの顔を覗き込むように見つめた。 「半分はね。半分は本気だよ。―――どんな時でも、どんな理由をつけてでも、いつも君と一緒にいたいのは偽らざる本心だ。君が許してくれるなら本当に今すぐにでも君をこの腕の中に閉じ込めて二度と離さないし、どこにも行かせたくない。“結婚”という形式だって学校だって。今の私と君を隔てるものの何もかもを打ち払って、いつも二人きりでいたい―――いつだって、そう思っている」 「友雅さん………」 いつにも増して真摯な深い色の瞳が、私を射抜く。 切ない光が、一瞬で私を縛り上げるのがわかる。 この瞳の色に、光に絡め取られて、身体も、心も、視線でさえも動かせない。 がんじがらめにされて、どこにも逃げられない。 ぞくぞくするほどの、息苦しいまでの心地よさ――― でも。―――自分に都合のいい夢なんじゃないのかな、とも思う。 …夢?…現実?―――不安がじわじわと這い上がってくる。 思わず湧き上がった恐怖に、ぎゅっと目を閉じてしまった。 身体は強張り―――息が止まる。 「ねぇ、あかね。私から目を逸らさないで―――――お願いだから、私を見ておくれ」 思いもしなかったような苦しげな、切ない声に、細く目を開けて友雅を見る。 ――――なぜ?どうして? 「……そんな。私はいつでも友雅さんしか見てないです、よ?」 「そう?じゃあもっと、―――もっともっとだ。いつでも私だけを見ていておくれ」 そういう友雅の苦しげな顔は、見ているのが辛くなりそうなほど切ない色を浮かべている。 「―――君は今、幸せ?こんな男を選んで後悔していない?」 「!!幸せです!幸せすぎて怖いくらい」 「本当に?」 「……友雅さんこそ――――後悔、していないんですか?私なんかのために全部を置いてきてしまって。昔の、京のことを思い出すのにも私に遠慮してるじゃないですか。他にもいろんなこと我慢してるんでしょう?―――私が、我慢させちゃってるから―――」 これまで口に出せなかっただろう思いを、ひどく弱々しい声で吐き出すあかね。 「―――ねぇ、あかね。私はね、本当に君とここにいられることが幸せなのだよ?あのとき、君と別れて京に一人残っていたとしたら、きっと程なく儚くなっていただろう。 こちらに来て、戸惑いがなかったといえば嘘になる。けれど、些細なことだよ。 君といれば退屈だってしない。琵琶のことだって君に言われるまで気にもならなかったぐらいだ。 ほかの楽しみだっていくらでもある。 京で私が持っていたものもね。私が自分の才覚で築き上げたものじゃない。単に先祖から引き継いだもので、こちらに来て龍神から与えられたものと何一つ変わらない。どれもあっても無くても変わらないようなものばかりだ。 けれど、あかね。私が自分で手に入れたいと望んだのは、離したくないと願ったのは。 君だけだ。君だけが傍に居てくれれば、それだけで私は幸せなのだよ。君さえいれば、京もこちらも私にとっては何一つ変わらない、桃源郷そのものなのだよ―――」 「―――……友雅さん」 「嘘だと思うかい?無理をしていると。 君はいつでも、誰も、私ですら気付かなかった私を見つけて、見つめてくれていただろう? だからね、今度もしっかり私を見ておくれ。私だけを見つめて、そして確かめて。 私は無理をしてここで暮らしていると思うかい?京を恋しがっていると思うかい? あちらで君と過ごした日々を懐かしく思うことはあっても、君のいない京のことを思い出すことはないよ。そんな京に帰ろうとは思わないし、帰りたいとも思わない。―――この気持ちに嘘が見えるのだろうか?」 どこまでも熱く、真摯な瞳。身動きができないほどに捕らえられてしまう、友雅の瞳。 私を求めてくれる手、想い、声、心――― 「―――ううん、ううん、そんなこと、な…い。いい、んですよね?このままで…… 私と、一緒の…っ、このままで― ――」 「君が不安になることなんかなにひとつないのに。君が望む以上に、私はいつも君だけを――――」 大きな温かい手のひらが頬を包む。唇が、友雅が、降りてきて―――重なる。 「欲している―――」 離れがたそうに彷徨った唇が耳元で熱く囁く ――――もう私以外、見ないでおくれ。たとえそれが思い出でも、過去の私でも、目の前の私以外、何も、誰も見ないで―――― ――――……うん 茫洋とした表情で見つめ返すあかねの頬をいとおしげにひと撫でする。 やがて、気が付けば友雅の温かい手のひらが、あかねを包み込んでいた。身体の浮き上がる感覚が、リビングを後にしていることを僅かに伝える。 いつの間にか友雅の首に回していた腕。揺れる黒髪、温かな吐息――確かな存在が腕の中にある。身体中から友雅が伝わってくる。 もうそのまま、耳も、眼も。皮膚に、髪に感じる吐息でさえも、友雅以外を感じない―― その後。 門限の迫ったあかねを送って行く車の中で。ポツリと 「―――友雅さん。私ね、ピアノ、練習してみようかな」 「そう?いいね―――」 極上の笑みを浮かべる友雅。 「ん…。待ってて下さいね、私が一緒に弾けるようになるまで」 「ああ、楽しみに待っているよ」 一層声が艶やかさを増したように聞こえた、―――その直後。 「明日からでも蘭ちゃんのところで教えてもらいます」 「―――――は?!」 「どういう…こと?」 間の抜けた顔と音が、今までの艶やかさや余裕というものを一切吹き飛ばした。 「え、だって蘭ちゃんも本当にうまいんですよ?それに今の私じゃまだまだ先生を頼んで教えてもらうのも恥ずかしいし、何より友雅さんに迷惑かけないでいいでしょう?」 「迷惑なんてとんでもな―――」 「ダメ!ダメダメダメっ、ダメですっ。私がずーっといたら、友雅さん絶っ対お仕事にならないですから。お仕事の邪魔はしたくないんです、絶対っっ!」 「そん―――」 「それにしばらくは文化祭の準備もあるし、蘭ちゃんと一緒だとそっちもはかどりそうでしょう?」 絶句した友雅に悪いと思ったのか、一応、ひと言付け足した。 「あ、でも蘭ちゃんに聞いてからですね。もし、蘭ちゃんがダメって言ったらそのときはもう一度考えます。だから、……いいでしょ?」 「――――――――――――――――――――――――そうだね。」 あまりの展開に呆然としながらも、ともかく笑顔で別れ、あかねが玄関をくぐり、家の扉の内に消えるまで見送った。静かに車を滑り出させたものの、内心の動揺は大きく、どうやって運転してきたものかも曖昧なまま、気がついたら自分の家に戻っていた。 先ほどまであかねと腰掛けていたソファにどっかりと身を沈め、大きく息を吸い込むとようやく少し落ち着いてきた。 我がことながら、こんな情けない様相に思わず噴き出してしまった。 「やられたねぇ、まったく―――」 ひとりごちて、目の前のテーブルに残されていた酒器に手を伸ばす。 フットランプ以外の灯りは落ちたままの室内。 友雅の前には少し早い秋の花々に、蒼い切子の酒器と杯。 開け放された窓の外には月のない空。 ホンの少し前にはそれらにすらいとおしげな眼差しを投げていたはずなのに、今は何の感慨も沸かない。 今ここに。傍らにあかねがいないという事実だけが、揺れるカーテンと共に静かに吹き込んでくるばかり。 ―――――本当に、いつになったら君を送り届けないでいい日がくるのだろう かさり、とすすきが。吾亦紅と竜胆が――――揺れた。 瑞々しい竜胆の花弁に吾亦紅の影がそっと撫でるかのように触れている。 薄い室内の灯りにそのシルエットも大きく揺れた。 ――――詰めが甘かった、かな。 杯を口元に運びながら、ふぅと息を吐く。 あの蘭殿があかねの『お願い』を断ることは99.9%ないだろう。 まんまと京への回想を封じ込めたというのに。 京の回想はあかねにとっては友雅との思い出だけではない。藤姫や自分以外の八葉とも大事な思い出がたくさんある。所詮思い出ではあるけれど、思い出だけの彼らに自分とあかねとの時間を邪魔されるのは片腹痛い。 京への回想のきっかけが友雅自身への気遣いや後ろめたさだというならば、それを逆手に取るくらいなんということもない。 そして思うとおりになったはず、なのに。 なのに―――やられた。 ―――――まいった あれを言い放った時のあかねの無邪気な顔を思い出して。 その時の自分の間の抜けた顔を想像して。 もう、なんともいえない可笑しさが込み上げてくるばかり ―――――ほらね、君といるとそうそう退屈なんてしてられないだろう? 残っていた酒を一気にあおり、かつん、と杯を置く。 ふと、気付くと山の端に月の影。 ―――そろそろ君への夢路を辿ろうか………おやすみ、私の白雪。よい夢を、ね――― ―――……次は蘭殿だね。さて、どうしようか。 取り合えず、明日はピアノでも見に行こうかな―――蘭殿も一緒に、ね。 楽しみじゃないか―――――ねぇ、あかね? 伸び上がるように立ち上がり、そうして楽しげな、どこか不敵な笑みを残してリビングを後にする。 開け放たれたままの窓から吹き込む夜風が、カーテンや花々を優しく揺らしている。 墨色の山の稜線からようやく下弦の月がその姿を現した。 薄い月の光はこれからこの藍紺色の空を照らしはじめる――― 了 |
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katura様 |