秋宵の灯りに響く音を君に

= 秋 =

−1−



「散歩に行きませんか?」

夏の昼間の陽射しはじりじりと容赦なくアスファルトを灼き、空気を熱く淀ませる。
その熱は陽が傾いたくらいでは到底冷めはしないのだが、陽が傾きはじめるととどこからともなく吹く風が、少しづつその淀みを払っていく。
夏休みも半ばを過ぎた頃から時折、友雅とあかねは日の暮れかけた住宅街の散歩を楽しむようになった。他愛のない話をしながら、二人でゆっくりと歩く。

友雅のマンションは市街の中心から少し離れた、山も川も比較的近い閑静な住宅地にある。
ゆったりとした敷地の多いこの近辺は、住宅地とは思えないほど緑が多い。
築地の上から顔を出す立派な樹々。庭の苔の緑が鮮やかな家々。個性的なガーデニングを楽しんでいる、よく手入れされた花々が可愛いらしい庭々。
路地をひとつ入るたびに、どこもあかねたちの目を楽しませてくれる。

あかねはきょろきょろと左右を見て、“今日のお散歩コース”を決めていく。

「今日はこっちの道を行きましょ?」

友雅は別にどの道でもいいのだが、あかねが瞳をきらきらさせながら自分の腕を軽く引いてくれるのが嬉しくて可愛らしくて。分かれ道の手前はいつも心持ち歩みを遅くしてしまう。

傾いた太陽は西の山の稜線近くの雲をばら色から金色に染めてゆく。その金色と空の青がせめぎ合いながら刻一刻と色を変え、やがて空全体を濃く深い色に染め替える。
陽が沈んでからの露草色の西の空の色も、一足はやく藍色に染まっていく東の空の色も何もかもが美しくて。見慣れたはずの街の景色も、なにもかもがいつもよりも鮮やかに感じられて。
友雅とふたり、並んでこんな風景の中を歩けることが、ただただ嬉しかった。


「陽が落ちるのが少し早くなりましたね。もうすぐ秋なのかな。昼間はまだあんなに暑いのに。
…なんだか寂しいかも―――」

「おや、暑いから早く秋になれとずっと言っていたのは誰だったかな?」


くすくすと、自分のすぐ傍で聞こえる柔らかで優しい声。蕩けそうな笑顔。

―――こんなに穏やかな日が過ごせるなんて

こちらに戻ってきてまだ半年も経たない。でも何度思ったか知れない、まろやかな温かい気持ち。
軽く肩に乗せられた手が温かくて、安心できて。すごくほっとするのに、そこから広がるどきどきが
どうしようもなく胸の奥を漣立たせる。でもそんな落ち着かない気分は、隣に立つ男の姿を見るだけで、すうっと凪いでいくのだ。



この春。あかねは友達と一緒に『京』という異世界に召喚され、命がけの戦いを強いられた。
そこで友雅と出会い、もうお互いに離れて生きることができないほどの激しく熱い恋に落ちて。
帰りたい、でも離れたくない、離れられない、という激しい葛藤の中、あかねは本当に縋るような気持ちで祈り、願った。

結果――。
最後の戦いの後、二人の想いに龍神が負けたのか、単に戦いに勝利したご褒美なのか。
龍神も友雅もどちらもあかねの切なる願いを叶えてくれた。

おまけに、あちらから友雅とともに戻ってきた時、いくつか心配していた問題は、驚いたことにほぼすべてクリアされていた。
あかねたちが京に呼ばれた時点から、こちらでの時はほぼ止まったままだったし、友雅にも新しく現代人としての『存在』が与えられたようで、京でのあかねたちとの記憶はそのままに、現代を生きる人としての知識も記憶も行動様式も、周囲の人間関係に至るまで。不審なところは何もない、といった具合だったのだ。

実際、龍神は友雅がこちらで暮らすために必要なものほぼ全てを、元の京の暮らしと同じ程度に用意してくれていた。
しかし友雅は、龍神から与えられた生計の手段としての仕事からは早々に手を引いた。
その代わり、与えられた現代の知識をフルに生かして様々な事を手掛けはじめた。
「今」の友雅の仕事は『文筆業』。エッセイのようなものをときどき書いている。時間が比較的自由になること、自宅でできることが気に入っているのだという。
その他にもいくつかいろいろな事をしているようだが、あかねには説明を聞いても難しくてよくわからない。とにかく今は『文筆業』が主な仕事だが、それもいつ“ 副業”になるかわからない、ということだろうか。

もうひとつ。なにより驚いたことが、友雅はすでにあかねの家族に交際を認められ、婚約者として認知されていたことだった。
これには友雅もかなり憮然としていた。曰く、

「私だけが語るべき私の君への思いを龍神が勝手に斟酌し、代弁したようなものだろう?余計なお世話だよ、まったく」






ともあれ。こうして普通の恋人同士として自分の生まれた世界を歩けるこの幸せを噛みしめずにはいられない。
今の。この一瞬一瞬が嬉しい。隣を見ればいつも友雅がいる。手を伸ばせばいつもその温もりを感じられる。そして包み込むように微笑んでいてくれる―――

あの京での戦いの日々は、この「普通」と思える時間やなんでもないコトが、どんなものにも代えがたい幸せなのだと痛いほど教えてくれた。
もう離れて生きるなんて考えられない大好きな人は、自分のすべてを捨てて私とここへ来てくれた。
………すべて、を捨てて―――。


―――――――私は捨てられなかったのに。





陽も山の稜線に落ちてしばらく経つ。辺りが薄く宵の色に染まり、街灯や家々の門灯にあかりが灯りはじめた。表で遊ぶ子供も姿を消し、家の中で笑う声が聞こえてくる。
空気の匂いも昼間のそれと変わってきた。打ち水の、地面に水を打った匂い、夕ご飯の匂い、お風呂を使ってる匂い、仕事から帰ってきたのだろう、家の前に残る車の匂い。花の匂い、木の匂い。
少しツンとくるこの匂いはきっと花火―――どれもがどこか胸の奥をくすぐるような、暮れ時の匂い。

「あ、ピアノ…」

ふと、どこからか聞こえてきた可愛らしい曲。
子供が練習しているのだろう、同じメロディーを何度も何度も繰り返して、大きな間違いもなく、弾むように流れてくるその心地よい音。


「なんだか懐かしい―――昔私もすこーしだけやってたんだぁ…こんなにうまくなる前にやめちゃったけど」

「うん…なかなか上手に弾けているね」


友雅もその軽やかな音に耳を傾けながら蕩けそうな微笑をあかねに向けた。


「―――うふ、なんか思い出しちゃった」

「ん?」

「琵琶。友雅さん、いつかちゃんと、しかも望むだけ弾いてくれるっていったのに、結局一回しか聞けなかったなぁ、って」

「ああ、そうだったね。本当に申し訳ない」

「ううん、全然いいの。だってこうして一緒にいられるなんて、あの時には思いもできなかったもの。
こっちにこうしていられる方がずっといい」

「あかね…」


そうして友雅の腕に両腕を絡め、甘えるように身体をすり寄せていく。
あかねの甘やかな香りが友雅の鼻腔をくすぐる。
思わず残る手をあかねの頬に添えて唇を寄せようとしたその時、

―――くすくすくす

「――――――――今度は何を思い出したのかな?」

「うん。あのね、ほら、友雅さんが忙しくて来られない、って連絡があったときのこと。永泉さんが笛を吹いてくれたの。―――本当に素敵だったぁ。で、きれいな音色ですね、って言ったら、そのときに友雅さんの琵琶もそれはもう見事ですよ、って。それまで琵琶の音なんて聞いたことなかったから、どんな音なんだろう、ってもう興味津々で。
そしたら鷹通さんが友雅さんは内裏の中では一番の名手ですから友雅さんに弾いてもらうのが良いでしょう、って言うんです。でもどんな音がするかくらいは知りたいじゃないですか。
で、とりあえず藤姫が琵琶を貸してくれて鷹通さんが一曲弾いてくれて……。
でね、すごく上手だったのに『恥ずかしい』っていうんですよ?そのときの顔がもう真っ赤でね、なんだかすごく可愛かったっていうか―――。
それにね、その後、天真くんが琵琶をベースみたいに弾いちゃったものだから、おかしくって。藤姫なんかもう目が点になっちゃってたんですよ。
みんなで呆れるやら大笑いするやらで。すっごく面白かったなぁ………」

「そう―――」

軽く返事をしたものの、非常に面白くない、と思っているのはその顔を見ていれば一目瞭然、なのだが。あいにくあかねは気が付かなかった。

―――面白くない、まったく以って。
彼らのことをそんなに嬉しそうな顔で。頬を紅潮させてまで語るなんて不愉快ですらある。
しかし。そんなことを考えているとは露ほども思い浮かばないだろうあかねのために、綺麗過ぎる笑顔を刷いて甘い声で話しかける。

「じゃあ、その後かな?私に琵琶を弾いて欲しいとかわいいおねだりを始めたのは」

「そう。だって、みんな友雅さんはすごいって言うんですよ?これはもう絶対聞かなきゃ、って思って…。だから何度もお願いしてたでしょう?
そしたらその度にタイミングが悪くって。もう聞けないかなぁ、って諦めかけてた頃に左大臣さんの宴の後に私のところまで来てくれて。
嬉しかったなぁ。突然すぎてすっごくびっくりしたけど、すっごく嬉しかった。
あの時聞いた曲、本当にきれいだったぁ… 」

そう語るあかねはうっとりとした瞳であの夜を見つめている。

おなじ琵琶の音なのに、鷹通の弾いた響きとは印象がずいぶん違っていた。
美しくてとても惹きつけられる調べの中に時折、切なくて胸を締め付けられるような、ぎゅっと心臓を握り込まれるような、そんな痛みが走る響きが混ざる。
しかし嫋々とした響きの中に、いつの間にかその音を見失ってしまう。
残された余韻の中にはしっとりとした艶やかな空気が漂うばかり―――
あのとき。友雅の弾く琵琶の音は、彼そのものだと思った。


―――あの頃の友雅さん。いつも笑顔を浮かべてるのに、どこか冷めた寂しそうな瞳をしてた。
今は……?今は、幸せ?
私は友雅さんを幸せにしてあげられてる……?
何もかも私のために置いてきてしまって………無理、ばっかり、してない―――?

―――幸せすぎて、怖いよ。

怖…い。

「怖い」と思うのは。―――そう、きっと自分の幸せを優先させてしまっているから……。
大好きな彼に甘えて甘えて。なのにきっといっぱいいっぱい傷つけているから。
そんな自分が……怖い。それでも―――この幸せを手離すことはできない、きっと。

友雅に絡めた腕にきゅっと力がこもる。

『きれいだった』と呟くあかね。けれど、その後の言葉が続かない―――。

またか、と思わずにはいられないほど、友雅の心はきしりと軋む。

今思い出しているのは、語られていることは他ならぬ二人の思い出。
それでも、どこか寂しげな、遠くを見るような潤んだ瞳は、決して目の前の友雅を映してはいない。
今、隣に立つ自分をその瞳に映していないことがどうしようもなく不快で、腹立たしくさえ思えてくる。

京の話はあまりしたくない、と思うのはこういうときだ。
京に囚われているのは、自分よりあかねの方だ。京で過ごした日々に。あちらに残る八葉や藤姫に。そして思い出に。未だ囚われ続けている。彼女自身は気付かないままに―――

友雅は自分から京の話はほとんどしない。いつもあかねの思い出し笑いがきっかけだ。
だが、最初は楽しげに話していても、いつの間にかこんな風になってしまう。
忘れられない日々。忘れてはいけない日々。
けれど、思い出に囚われて過ごすなど看過できようはずもない。
その笑顔は、瞳は、心は。私と、私との未来だけに向けられるべきものだ。

だが、あかねにそんな身勝手な思いを気取られることだけはしたくない。
甘い微笑の裏で、つい細く長い溜息を吐いてしまう。

「―――あかね?どうしたの?」

「う、ううん、え…と、―――ほら。あの時ってさ、結構遅い時間だったから、頼久さんに怒られたなぁ、って。でも聞き終わるまで待っててくれたのが頼久さんらしい、っていうか。
それに次の朝には二人とも怒られたじゃないですか、藤姫に。そんなこと思い出しちゃった。」

あはは、とバツの悪そうな笑い声を立てながら。
次の話題を探しているのだろうか、笑顔が痛々しいことに彼女は自分では気付かない。
そうしているうちにも、次々とあちらのことを思い出したのだろう。
次第に俯き加減になり、ついには歩みまで止まってしまった。

「そ…だ、もう―――友雅さん、琵琶、弾けないんだね……。琵琶だけじゃない。できなくなっちゃったこと……、いっぱい―――」

――――みんなどうしてるかな。

――――私だけこんなに幸せでいいのかな。
――――ごめんね、友雅さん。ごめんなさい………

言葉は声にならなかったはずなのに。
友雅は強張る身体をゆっくりと引き寄せながら、あかねの心を見透かしたように穏やかに口をひらく。

「――――きっとみんな元気に暮らしているよ。
それにね、皆、君の幸せを一番に望んでいた。君が幸せならみんな幸せなはずだよ?
でも一番幸せなのは私だね。君が隣に居てくれる。いつでも声が聞ける――――」

「――――友雅さん」

眦に薄く浮かんでいた涙が一筋こぼれた。
髪を梳いていた手が、そっと頬へと下りてきて。親指が優しく唇をなぞる。
甘く掠れた声が耳を打つ。

「――――こうして私の名を呼んでくれる」

「そしていつでも――――君に触れられる…… ね?」

優しく唇が降りてきた。羽が触れるように、優しく。唇から全身に痺れが走る。見つめてくれるその瞳がとても優しくて温かくて。
あかねはそのまま友雅の胸に顔を埋めて小さく頷いた。
優しい手の温もり。背を優しく撫でてくれる手が、ゆっくりと強張った身体を解してくれた。

「ふむ――――ではね、いつかの約束を果たさなくてはいけないようだし。
今年の中秋の名月はうちで二人で管弦の宴なんてどうだい?そのくらい時間があれば気に入った琵琶(もの)も手にはいるだろう。どうかな、姫君?」

「――――はい。……じゃあ、楽しみにしてますね」
「ああ、私も楽しみにしているよ。―――さあ、もう笑って?」

ん、と軽く頷きながら涙の跡を擦ろうとしたあかねの右手を友雅の手が掬い取った。
再び落ちてきた唇は眦を掠め唇に至る。今度はゆっくりと深く、あかね自身を捕らえるために口付ける。甘く長い、深い口付け―――
全身が甘く痺れて、膝の力が抜ける。それでもなんとか友雅にしがみつくようにして身体を支えて、大きく息を吐いた。

「さて、ではそろそろ戻ろうか。食事の予約に遅れてしまわないように」

こくんと頷くものの、まだ少しぼうっとしたままのあかねを、友雅は満足そうにその腰を捕らえながら、ゆっくりと大きく歩き出す。


街灯の白い灯りが眩しく感じられるほど辺りは暗くなっていた。
すっかり陽の落ちた街には、まだ昼間の熱気が蹲っている。
青鈍色の空には星が明るく煌めく。
墨色の山の懐にも家々の灯りだろう、星のようにまばらに灯りはじめた。

星の光よりも強く温かい光だと、ぼんやりと思った―――





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katura様