ふわり、舞い降りる

=友雅なのに下僕体質!?=

-2-



「まったく、お前はちっとも変わってないな」
「なぁに、久しぶりに会った幼馴染に言う言葉にしては、少し失礼じゃない?」
「そうか?十分に褒めたつもりだけどな」
「どこが?」
気心の知れた天真と話しをするのは、嫌いではない。
彼は頻繁に屋敷を抜け出して街を遊び歩いているため、その話しを聞くのはとても楽しい。逢うたびに街の話しを聞き、領民の生活を知る。
貧困に喘いでいるわけではないが、決して裕福ではないその生活。
だが、彼らには自由がある。それは人にとって、何にも代えられない宝ではないかと思っていた。
そして、金台にビロードの椅子に座って執務をこなすより、直接的に彼らの生活の役に立てることを想像するのが好きだった。現実になることはないと知りながらも。

金糸銀糸の刺繍で飾り立てられたドレスなんかいらない。
レースのペチコートも。
宝石の埋められたチェス盤も。
柔らかい羽の枕も。
大好きなガス灯が瞬く広い庭も。
何もいらないから。

小さな家に、薄汚れた窓。
質素な服に、飾り気の無いエプロン。
冷たい水に手を浸しながら、家事をする一日。
そんな生活でも、大好きな人と一緒にいられるなら、きっと天にも昇る心地に違いない。

だが、本当は知っていた。
そんな生活に堕ちたとき、自分は何の取り柄も無い、ただの子供になってしまう。
気位と理想ばかり高く、何の役にも立たないただの厄介者だ。
そんな自分を見て、彼は何と言うだろうかと思うと、思い切って家を出奔することさえ出来ない、意気地なし。

「失礼いたします」
視界の端でティーポットを操っていた友雅が、音も立てずにそっとカップをふたりの前に置いた。
普段ならパーラーメイドの仕事だが、今日はなぜか彼が給仕をしていることを不思議に思いつつ、差し出されたカップをじっと見つめる。立ち上る湯気と共に芳醇な茶葉の香りが漂うが、それが大好きな人の仄かな存在を消してしまうようで、少しだけ疎ましかった。
「それにしても、急な話しだったよな。まぁ、お前が生まれたときから、いつかはって言われてたらしいけどよ」
「──え?」
天真に水を向けられて、思考の淵に沈んでいた意識を取り戻す。
「お前も知らなかったよな。オレもこの話しが決まってから聞いたんだ。ガキの頃から一緒に遊んでた幼馴染と、ってのは…なんとなくこっ恥ずかしいけど。まぁ、何というか…オレは、お前でよかったと思ってんだ」
「──え、何が?何のこと?今日、天真くんが来たのと関係があるの?」
ぼんやりと聞き流していた彼の言葉に、ふと引っかかりを覚えて尋ねた。
悪い予感からか、我知らず声が震える。
まさか、と次々に湧き上がる不安を隠すことはできなかった。
「は?だから、オレたちの婚約の話し…って、まさかお前、聞いてないのか?」
小刻みに震える指が、持ち上げたティーカップを取り落とした。
カツンとソーサーの淵を掠めたカップは、萌黄色のドレスの膝上を跳ね、スローモーションのように転がっていった。
臙脂の絨毯に濃い染みを作り上げるさまを、ただ呆然と見つめる。
「おい、あ── …」
「お嬢様!!」
驚いた天真が声を上げるよりも先に、友雅が駆け寄ってくる。
淹れたばかりの紅茶はまだ熱く、ドレスを通したとは言っても、まともに掛けてしまった足は悲鳴を上げていることだろう。
だが、慌てた様子の友雅の顔をぼんやりと視界に納めたあかねには、熱さも痛みも感じることは無い。
「失礼いたします」
そう律儀に声を掛けると、両手で掬い上げるようにあかねの身体を抱き上げる。
「な…に…」
「火傷を負っているかもしれません。ともかく手当てを致しませんと。──天真様、少々席を外させて頂きますご無礼を、お許しください」
「いや、オレも行くぜ」
「いえ、結構でございます。お客様にその様なことはお願いできませんので。どうぞこちらでお寛ぎくださいませ」
丁寧ではあるが、有無を言わせぬ強い調子に、天真は黙って小さく頷いた。


部屋に運ばれたあかねは、籐の長椅子にゆっくりと下ろされる。
濡れた裾を慎重に脚から剥がしながら、大した火傷ではないことを確認した彼はホッと小さく息をついた。
「友雅──」
彼はそれに答えることなく、メイドに持ってこさせた冷えた井戸水に布を浸し、スカートの下から覗く赤くなった脛に置いた。
冷やりとする感触に身をすくませるが、あっという間に温くなった布を再び桶で泳がし、脛を冷やす。
「友雅っ」
苛立たしげに声を荒げると、どこか虚ろげな昏い瞳があかねを捉える。
「──はい、何でしょう」
主に火傷を負わせたという自責の念からか、艶やかな常の声音とは違う、微かに掠れた音に驚きながらも問いを口にした。
「知って、いたの?」
「── …」
「知っていたの、婚約のこと…」
「──はい、存じておりました」
ふい、と視線をあかねの脛に戻し、温んだ布を再び冷水に浸した。
その答えに、愕然とする。
昨夜の様子から、何かあるとは思っていた。それに、天真が訪れる理由も彼は知っているだろうと。
だがこんな理由だとは。そして、それを知っていてもなお、友雅は薦めるような言動をとっていたという事実に、絶望を感じずにはいられなかった。
「どう、して…」
「昨夜も申し上げました。貴方はこの家を継ぐお方。婿取りをされるのは…当然かと。それが、旦那様の親しくされているご友人のご子息と言うのは、至極もっともな事ではないかと存じますが」
「そんなこと聞いてるんじゃないわ。どうして私の気持ちを知っていながら、そんなことが言えるのかって聞いてるの!」
苦しさと切なさに、喉が詰まる。
「──何を、仰っているのか…私にはわかりかねます、が…」
それでも逃げようとする言葉と視線を留めるため、あかねは友雅の肩を強く掴んだ。
「嘘よ!私は──」
「いけません。それ以上の言葉を紡いでは、なりません。お嬢様…」
そっとその手を取り上げ、あかねに押し返す。
長い間温め続けてきた想いの全てを拒絶されたように感じて、涙が込み上げてくるのをぐっと堪えた。
「違う、違う!私は『あかね』よ!お嬢様なんかじゃない。貴方にお嬢様なんて言われたくない!」
激昂した彼女に対し、彼は冷静に手を動かしたまま淡々と答える。
「いいえ。私にとって、貴方は──仕える主人の一人娘。我が…主です」

主。確かにそうなのかもしれない。
いや、まごうことなくそうなのだろう。
だが、あかねの中には彼を従者として扱う気持ちなど微塵も無かった。
あかねにとって友雅は、後にも先にも愛を告げるべき男。恋い慕う相手。

張っていた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
「──私が、天真くんと結婚しても…いいの?」
「旦那様が、お決めになったことです」
「私の婿が、この屋敷に入っても…平気なの?」
「そうでなければ、この家は廃れてしまいます」
「私を、攫っては…くれないの?」
脛に触れる指先が、ピクリと揺れたのは何故なのだろう。
彼は声を潜ませるようにして、話し出した。
「──できません。もしそのようなことをしたところで、領主の娘として大切に育てられてきた貴方に、暗く貧しい逃避行は耐えられないでしょう。追っ手に翻弄され、納屋の茅の中や、屋根の無いような場所での暮らしに、貴方が耐えられるはずも無いのです。この屋敷で、天真様とお暮らしなさい。それが…貴方の幸せというものでしょう」

やはり彼も同じように思っていたのだ。
あかねに、貧困に喘ぐような生活はできないと。
そのような気骨はないだろうと。
だが、その言葉を認めるわけにはいかなかった。
この機会を逃せば、きっと彼はこの屋敷を去るだろう。
部屋の扉の外には、父の息が掛かった使用人がいるはずだ。この会話は、父に筒抜けとなる。
総領娘と使用人の恋など、認められるはずも無かった。
彼は、愛する男は、父が戻って早々に暇を出されるはずだ。

「──私の幸せを、勝手に決めないでよ。愛する人が一緒にいてくれるならどんな極貧だって、その中に幸せがあるとは思わないの?…ええ、私は大切に育てられてきたわ。外の世界も見られず、汚いものも見せてもらえず、綺麗なもの…美しいものばかりを見て育ったのよ。でもそれ以上に、貴方のことばかりを見てきた。いいえ、貴方のことしか見ていなかった。それなのに…これからは貴方じゃない男性を見つめなくてはならないの?それこそが──私の地獄なのに…」
貧しい生活に耐えられるかはわからない。
だが、耐えてみせる。彼と共に生きられるならば、どんな極限の生活にだって、耐えられる。
言葉に出してしまえば、きっと何とかなるだろうと思えた。
お嬢様育ちの楽観的な考えと言われるかもしれない。だが、彼のいない人生、そして愛することの出来ない夫に身を任せる恥辱と絶望を考えれば、他のことなどどうにでもできると信じられた。

「では、はっきり申し上げましょう。貴方は、牢獄だと仰るこの場所から、救って欲しいだけでしょう。それが私でなくとも構わなかった。──私は貴方を、娘や妹のように思っても…女性として見たことはありません。これまでも、そしてこれからも貴方は私の主。私は貴方の…下僕なのですから」
震える指先で、彼の腕を掴む。
縋るように、懇願するように、白くなるほど握り締めた指を、彼はそっと手に取り…そして、外した。
友雅だけに向けられていた16年間の想いが、断ち切られた瞬間だった。

「もう…行って。天真くんには、気分が優れないからと帰ってもらって」
「いいえ、天真様は3日後のパーティーまでこちらにお泊りになります。それからは…ここが天真様のお屋敷となりますので」
「なに、それ…。パーティーは、お父様の帰還祝いでしょう?──まさか…」
「その場で、おふたりの婚約と次期当主の披露も行うこととなっております」
「そんな── …」

もうそれからのことは覚えていない。
ただ、魂が抜けたように座り込んでいるしか出来なかった。

もう、この牢獄から出ることはないのだ。
これまで以上に枷をつけられ、まるで拷問のようにじわりじわりと精神を蝕んでいくしか。
彼が、天真のことが嫌いなわけではない。
友雅のことさえ想っていなければ、彼以上にこの家に、そしてあかねに相応しい男はいないだろう。
だがあかねは、友雅を愛してしまっていた。
この想いが受け入れられないだけならまだしも、他の男をこの身に受け入れることなどできはしない。
もう、壊れていくしかない。



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さくらのさざめき / 麻桜 様