ふわり、舞い降りる |
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=友雅なのに下僕体質!?= |
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「皆に支えられて、このような良き日を迎えることができた。今一度、次期当主である我が娘と、娘婿を祝福してやって欲しい。そして、これからもこの若いふたりを、どうか支えてやってもらいたい」 わっと湧き上がった歓声と拍手の渦。 それがこれほどまでに、苦痛を伴うものになろうとは。 あかねは貼り付けた微かな笑みを佩いたまま、小さく会釈を返す。 その隣で不審げに眉を寄せる幼馴染の天真のことさえ、省みている余裕は無かった。 今、夫となるべく彼と言葉を交わそうものならば、悪し様に罵ってしまいそうでその顔を見ることさえ出来ない。 いや、視界には入っていても、誰のことも認識することなど無くなっていた。 愛する者のいない世界。 色褪せた、灰のような景色。 恋したものに捨てられた生。 遙か古に、戦乱で焼け爛れたこの地を救い給うたと言われる龍神でさえ、その末裔の次期当主たる少女の心と操を守ることができないのだ。 もう、この世に神などいない。 あかねはそう、呟いていた。 昨夜遅く、友雅はこの屋敷を出て行ったらしい。 主であるあかねの父に、暇乞いをし、5代に渡って仕えてきたこの屋敷を後にしたのだ。 彼は父に暇を言い渡される前に、自らその任を降りたのだと聞いた。だがもう、どうでもいいことだった。 ただ、あかねが知らないうちに。あかねに声をかけることもなく、彼は消えた。 それほど迷惑だったのだろうか。 ほんの少し、彼も密かに愛してくれているのではないかと思ったこともあったのに。 全ては都合の良い夢でしかなかったのか。 それとも、身分の違いはどうすることも出来なかったのか… どれほど待っても訪ねてくることの無い男を待って、夜を明かしたと言うのに。 「風邪を召しますよ」そう言って、優しく微笑んでくれた彼は、もういない。 次から次へと言祝ぎに来る者たちを振り切って、バルコニーに走り出た。 大きく開いた緋色のドレスの胸元に、元宮家秘蔵の『逆鱗』がチャラリと跳ねる。次期当主であることを示す、それ。 かつては憧れもしたが、今では忌々しく思えて仕方が無かった。 「…くっ、う…」 唇から漏れ落ちる嗚咽を殺すには丁度いいワルツが、大きな窓から聞こえてくる。 頭上には十六夜の月。 これから次第に欠けていく月は、あかねの心を表しているようだった。 心も、想いも満たすこと適わず、そして己の身を削ることでしか生きていけない存在。 いつか闇に溶ける時が来るだろう。そのとき、心を占める彼なしに、どうやって生きていけばいいのか── 「だれか、わたしを──」 血を吐くような嗚咽に混じった言葉は、たったひとりに向けられたもの。ここにはいない、ただひとりに。 と、ふわり、風が舞い降りた。 「お呼びですか?お嬢様」 耳に届いたのは、憎らしいほどに愛しい人の声。 まさか、という思いで視線を彷徨わせたバルコニーの隅に、白いタキシードに白いマント。白い仮面で顔を隠した男が、口元に妖しくも艶やかな笑みを刻んで佇んでいた。 「と も ま さ 」 音にならなかった言葉は、眦を熱くする涙と共に、石造りの床に落ちていく。 カツリ、カツリと響く靴音は、毎夜のごとく部屋へと訪れていた彼のものと寸分も違わなかった。 次第に縮められていくはずの距離に反して、その時間が酷く長く感じる。 高い靴音を響かせて立ち止まった男は、長いマントを風に翻して膝をつくと、涙に濡れたあかねの指先をそっと取り上げた。 「お迎えに上がりました。私の小さな姫君よ」 仮面の下から穏やかに輝く瞳で見上げると、その指先にゆったりとくちづける。 ちゅ、と音を立てて触れられた場所は、仄かに温かく…そして痺れるように震えていた。 「ど…して…」 「貴方はご存知のはずだ。私が今日、こうして忍び込んできた理由を」 「な、に…?」 「我が名は『白虎』。世間では『龍の四神』と呼ばれる怪盗のひとり、と申し上げればお分かりか?」 「まさか…月夜に現れるという…?」 彼は仮面の下で片笑む。そんな不敵な笑みは、これまで見たことが無かった。 もしや、よく似た別人ではないかとさえ思う。彼を恋するあまり、幻影を見ているのではないかと。 実直で、誠心誠意、父やあかねに尽くしてくれていた彼が、怪盗などと称して現れるなど思っても見なかったことだ。その理由さえわからない。 「なぜ…」 「我らは、真の龍の末裔。我が祖先の遺品を、そしてそれに纏わる品々をこの手に取り戻すのが目的。今宵はこの逆鱗も…そして貴方も、頂いて参りたいのですが?」 何を言っている?彼が、『龍の四神』? あかねは混乱していた。 昨夜、人知れず去っていった友雅が今、こうしてここに舞い戻っては逆鱗を取り戻したいと言う。そして、あかねのことも。 置き去りにされたはずの自分。なのに、彼は── 友雅はふと立ち上がり、あかねの胸元で輝く逆鱗をそっと持ち上げ、そしてくちづけた。 「これで我らの目的が完結する…」 月明かりに照らされた仮面の下で、慈しむように双眸が細められる。 だがその表情はあかねに向けられたものでなく、かつて斃れた龍神の喉元から剥がれ落ちたと伝えられる宝物を、手に入れる喜びに満ちていた。 「これが欲しくて、この家に近づいたというの?」 心から信頼していた男に、裏切られたような気がして心なしか口調が強くなる。 だが彼は、視線をあかねに移しただけで何も答えようとしなかった。 「この逆鱗さえ手に入れば、この家を捨て、私を置き去りにしても構わないということだったの!?」 掴みかからんばかりの勢いで問いただすと彼は、纏め上げられたあかねの髪からほつれ落ちる流れをそっと撫で、そして己の顔を隠す仮面を外した。 淡い月明かりに照らし出されたのは、やはり見慣れた男。 そしてそれは常のように、この屋敷に仕えていた時と同じように、微笑を湛えている。 「それだけが理由ならば、もっと早くにこの逆鱗を奪い、姿を消せばよかった。そうは思いませんか?」 「なら、どうして。どうして20年以上もこの屋敷にいたの?どうして、私の傍にいたの?早く去ってくれれば、私は…」 「お分かりになりませんか?本当に?貴方はご存知のはずだ。私の心が、どこにあったのか。私が常に、何を思っていたのか」 「わからない。わからないわ!友雅はいつも、私の心をはぐらかしてばかりで…何一つ自分の気持ちなんか話してはくれなかった」 彼は翡翠の瞳を小さく揺らし、そして微苦笑を浮かべた。 「そう、かもしれませんね。貴方の秘めた想いを知りながら、何も言わずにいたのは…迷っていたのです。闇を食んで生きる私の、暗い運命に貴方を巻き込んではいけないと知りつつも、惹かれていく心を止められずにいた。幼い頃から私がお育てし、尽くしてきた貴方を。穢れゆく男の犠牲にしてはならないと…」 「友雅…」 「ですが、昨夜の貴方のことのはに、私も心を決めました。貴方をここから…攫っていく。罪深き男が背負う業を、お許しくださいますか?」 常の微笑を消して、真摯な瞳で語りかける彼の姿に、やはり友雅と離れて生きることなどできないのだと知る。 彼を諦めることなどできない。彼を想い続けながら、他の男に身を任せることなどできようはずもない。 ならば、答えはひとつ。 「私も、逆鱗と同じコレクションにするの?」 「いいえ、貴方は私の…花嫁と言う名の生贄です」 自嘲気味に歪められた唇。だが、あかねは躊躇うことはなかった。 「なら、攫われてあげる」 「──後悔はしませんね?覚悟なさい。私の手を取ったら最後、貴方はもう、”お嬢様”ではなくなるのだから」 「ええ、これからは貴方を愛し、尽くすただの女だわ」 「──貴方という人は…」 あかねの頬を掌で撫で上げながら、微苦笑を浮かべる様は、どんな立場になっても、どんな生き方をしていようとも、あかねの知る友雅でしかないのだと思えた。 ふと、柱の向こうに影が動く。 「白虎。もう一時も猶予は無いぞ」 誰かが隠れていたのだろうか。いや、その様なことは無いはずだ。 やはり噂に違わぬ神出鬼没な怪盗団だからこその所業に眼を丸くしていると、友雅は小さく頷いて手を上げた。 「無粋な奴等が来てしまったようだ。さて、参りましょうか」 「はい、旦那様」 「ふふ、悪くない。では私と共に、踊っていただけますか」 跪いて一礼し、そして差し出された大きな右手に、己の手を重ね合わせる。 「喜んでっ」 笑みを浮かべて頷いたあかねの腰をぐっと引き寄せると、バルコニーを飾る石像に繋がれていた太いロープを短刀で斬りおとした。 風に乗って身体がふわりと浮き上がる。 空を見上げると、大きな気球が火炎を吹き上げながら月に向かって流れていた。 「貴方を、お慕いしておりました。もう、長いことずっと」 闇色の空に舞い上がっていると言うのに、まったく不安に感じないのは、この男の腕に抱かれているからだろうか。 「私も、愛しているわ。貴方だけを、ずっと前から」 次第に小さくなっていく下界では、総領娘の異変に気づいた屋敷中の人々が、ランプを持って右往左往している姿が見えた。 それらが遙か遠くの出来事となるまで、ふたりは触れ合わせた唇を通して、お互いの存在と想いを確かめ合う。 何度も何度も繰り返される語り合いは、いくつもの国境を越えた先の異国の地を踏みしめるまで、続いたと言う。 龍の末裔。 古の伝説が残る地を束ねる領主の総領娘が攫われた事件は、瞬く間に各地に伝わり、大規模な捜索が開始された。 しかし、どれほどの月日が経とうとも、彼女の温かい笑顔が屋敷に戻ることはなかった。 その代わり、そこから遠く離れた海沿いの小さな国。 決して裕福ではないが穏やかな気候に恵まれ、人々に笑顔が絶えない暖かな土地。 愛する夫との貧しくも幸せな生活。屈託の無い少女の笑い声が、路地裏の薄汚れた小さな家にさざめいていた。 その家に、彼女に良く似た小さな男の子が誕生したのは、それから2年ほど後のことだったという。 |
さくらのさざめき / 麻桜 様 |