ふわり、舞い降りる

=友雅なのに下僕体質!?=

-1-



あかねは自室のバルコニーから眺める、夜の中庭が好きだった。
白く輝く月の光に照らされて、噴水の水がキラキラと反射する様。
仄かな明かりを放ちながら、整然と並ぶガス燈の列。
シンメトリーに配された庭木の陰が、異次元空間への扉のように思える。


さやりと優しく吹き抜けていく初夏の風が、シルクのネグリジェを揺らしていった。
乾いた肌を滑る絹の感触は、冷たくもあり温かくもあり…ただ心地いい。
闇の中を漂う、青い草の香り。
寝静まったはずの小鳥たちが、時折さえずる愛らしい声。
澄んだ空気に、遠くの街から人の気配が伝わる。
その様が、彼女をひとりの少女にする。
この時間のこの場所が、あかねのお気に入りだった。

そして何より──

コンコン
広い屋敷内に響いたところで、この部屋の近くには誰もいない。
しかし深夜といっていい時間帯に配慮した小さなノックに、我知らず笑みが浮かんだ。
そう、このノックを待っていたのだ。
こうしてバルコニーに出て、幾分肌寒くなってきた夜風に身を晒していれば、必ずもたらされる幸福を。
「はい」
その音の主をわかっていて、知らぬ振りで答えるのは乙女の恥じらいゆえか、浮き立つ心を知らせないようにする虚勢なのか。
「私です」
分厚い扉を通してもまだ、伸びやかに通るバリトンに、トクリと胸が鳴った。
どうぞ、と言う声が震えていないか。それだけが心配だ。

きっと彼は、この想いに気づいている。
だが、知っていてなお何も言おうとしないその心は、痛いほど良くわかっているつもりだった。
だからこれ以上の幸福は望まない。
彼がいて、その瞳をほんの刹那の間だけでも留めておくことができるなら、わかりきった答えを聞く必要は無い。いや、聞きたくないだけなのかもしれない。

ガチャリ
真鍮のドアノブが回され、静かに内側へと開いていく。
この扉が、彼の心ならばいいのに──
あかねはそう思わずにはいられなかった。

「まだ、おやすみではなかったのですか?」
「だって、夕方に降った雨の雫が光って、とても綺麗なのよ?」
扉の前に立つ彼の表情は、闇に隠れて見ることが出来ない。
きっと、微かな苦笑を浮かべたまま、何と言ってこの聞き分けの悪い娘をベッドに押し込もうかと、考えているに違いない。
いつまでたっても子供扱いしかしてくれないのは、決して縮むことの無い歳の差のせいなのだろうか。それとも、飛び越えることの出来ない、運命のせいなのだろうか。
「もう風が冷たいのではありませんか?暖かくしてお休みになりませんと、風邪を召します」
「いや」
「お嬢様──」
そう、いつも彼はそうやってあかねを呼ぶ。
彼女がこの世に生を受けたその瞬間から、16年間変わることのなかったその呼び名。
「──いやよ。まだ眠くないもの」
どうせすぐに丸め込まれ、彼の言う通りにしてしまうことがわかっていながら、ささやかな抵抗をする。
本当は正直に「貴方と話しがしたいの」と言ってしまいたい。
だが、そんな言葉を零して、彼がこの屋敷を去ることにでもなったらと思うと、想いを滲ませる微かな色でさえ外に出すことは出来なかった。

彼は小さく吐息を零す。
おもむろに、カツリカツリと靴音を響かせバルコニーに脚を向けた。
少しずつ露になっていく姿。こんな夜更けであっても、カチリと身に纏ったスワローテイルとリボンタイ。
逞しい胸を覆う柔らかな白いシャツが月に照らされて、眩しいほどに美しかった。
「せめて、これを──」
己の着ていたジャケットを脱いで差し出す彼は、我侭を言う子供を諭すような、少しだけ困った顔で微笑んでいる。
言い知れない思いにザッと頬が熱くなるのを感じて、それには応えずそそくさと庭へと視線を移す。
「──失礼致します」
ふわり
肩に掛けられた彼の服は、あかねのそれより遙かに大きく、そして彼のぬくもりと香りが移っていた。
まるで、抱きしめられているかのような感覚に、胸が高鳴る。
「あり、がと…」
「いいえ」

もう何年も繰り返されるやり取り。
もう何度も聞いた言葉。

「ね、友雅」
「はい」
「月が、綺麗ね」
「…ええ、とても」
応えに微かな間があったように感じ、怪訝に思ってチラと様子を伺うと、彼は穏やかに微笑んでこちらを見ていた。

いつもいつもいつも、彼はどうしてこう、あかねの心を惑わすのだろう。
それが無意識なのか、そうでないのかはわからない。
だが、幼い頃からの初恋の相手にそんな表情でじっと見つめられて、平常心でいられる女がいるだろうか。
この胸にある、秘めた想いを告げてしまいたくなる。
この広くて逞しい胸の中に飛び込んだら、受け止めてくれるだろうか。
さわりと過ぎていった風に、友雅のコロンが微かに溶けて、あかねに届いた。

ああ、どんどん惹かれていく──

「お嬢様」
はた、と思考が停まる。
いつだってそうだった。
自らの内に湧き上がる彼への思慕に翻弄され、思わず唇を割って告げてしまいそうになった時。彼は必ず硬い声音でそう呼ぶのだ。
そしてあかねの中には消化されない想いばかりが積もっていく。
胸元で掻き合わせたジャケットの襟をギュッと握り締め、込み上げる想いの奔流を堪える。それしか彼女に出来ることはなかった。
「今宵はもう、お休みくださいませ」
「──私が大人しくベッドに入らないと、仕事が終わらないから?」
「いいえ…」
ふぅわりと笑みを浮かべたその表情は、幼い妹を見るようなそれ。あかねをまるで女としてなど見ていない。
そんなことはとっくに気づいているし、そればかりでないことも知っている。

彼と彼女では、身分が違いすぎた。
この地を統括する領主の一人娘。
そして、使用人を統括する執事。
主と、使用人。
この世界では決して飛び越えることの出来ない、絶望的な身分差だ。

「最近は、月夜に怪盗が出るそうでございます。名のある家が次々と襲われているとか。このように月が美しければ美しいだけ、物騒なのでございますよ」
「ええ、知っているわ。龍神伝説に寄せて、『四神』とか呼ばれているのでしょう?龍神を護り従っていた四匹の霊獣のことよね。その伝説にまつわる宝石、美術品だけを盗んでいくんですって。その技たるや霞のごとく、風のごとく。姿は見えても捕まえることも、傷つけることもできない。でもそれが本当なら、確かにこの屋敷も危険よね」

龍の末裔であると言われる一族。
その長である父は、現在首都に赴いている。
が、ほんの数日後にはこの屋敷に戻ってくる予定だった。
かつて戦乱に巻き込まれ、焼け爛れる運命にあったこの地を救った、龍神伝説にまつわる宝石のひとつ。そして、この家の当主たるものが身につけることとなっている、『逆鱗』と呼ばれる宝物をその手にして。

「なぜ、そのように詳細にご存知なのですか…」
諌めるように寄せられた柳眉に、えへ、とおどけるように笑って見せる。
どうせどんな言い訳をしても、彼には真実がわかってしまうのだから。
あかねのその様子から、問いの答えに思い当たったようで、仕方がなさそうに吐息を零した。
「メイドと噂話に興じるのはおやめ下さい、と何度も申し上げたはずですが?」
「だって、外に出ることが出来ないのよ?外界を知るには噂話くらいしかないじゃない。それともなぁに、友雅もお父様のように『お前が外を知る必要は無い』とか言うの?」
「いいえ、そのようなつもりはございませんが…。貴方はこの地の領主、元宮家のただひとりの後継者なのですよ?そのような方が、使用人と噂話に興じるなど…」
「じゃあ、こうして執事と話し込んでいるのもいけないのかしら?」
「当然です。私はお嬢様が体調を崩されないよう、声をお掛けしたまで。ご婦人の部屋にこのような夜更けに訪れるなど、本来ならば言語道断なのですから」
「──ご婦人、ね…」
友雅は慇懃に頷いてみせる。
なんだか薄っぺらく感じるその言葉に、高鳴っていた心が醒めていくのを感じていた。
『ご婦人』だなどと思ってもいないくせに、こういう時ばかり大人扱いする彼が憎らしい。

促されてしぶしぶ部屋に戻ると、天蓋のベッドに腰を下ろす。
彼はその足元に跪くと、「失礼いたします」と断りを入れて靴を脱がせる。彼の長い指があかねの足首に触れた。そうされる度に思う。彼の掌の、何と大きいことか。
軽くマッサージを施される間、あかねはじっとその指を見つめていた。
幼い頃、虚弱体質だったあかねは、ほんの少し動いただけでもふくらはぎや太腿がだるくなっていた。総領娘として厳しく躾けられていたために、誰にも弱音を吐くこともできず、自分の小さな手でマッサージしてから眠りについていたことを思い出す。
いつからかそれに彼が気づき、就寝前にこうして揉み解してくれるようになった。
今ではだるくて眠れないなどと言うことはないが、こうして部屋を訪れた時は、何も言わずとも優しくさすってくれる。それがまた、幼い頃と同じように見ている証拠だとも思うのだが、彼と離れがたくて…ふたりきりになれる時間が嬉しくて、黙ってされるままにしていた。

爪先から土踏まずに。足首を通ってふくらはぎを。
白い肌の上を、男性特有の節張った長い指が這い回る。
絶妙な力加減の指先は、ゆっくりと円を描くように動いていた。
まるで愛撫のような、それ。
彼は物腰も穏やかで、容姿も美しく華やかだった。
一介の執事にしておくのは勿体ないほどの、傑物たる資質があるとあかねは思う。
友雅は代々、この元宮の執事となる家系の出だが、彼自身はその血筋とは関係ない。幼い頃、子供のいなかった執事夫婦の元に養子として引き取られたのだと聞いた。
出自は明らかではないが、もしかしたら、貴族や王族の血を引く者ではないかとさえ思ったことがある。
いつか、彼の元に十頭立ての白馬が牽く馬車が迎えに来て、世継ぎの王子としてこの家を去って行ってしまうのではないかと、本気で恐れていたのは何歳ころのことだったろうか。
そしてその時には、后として一緒に連れて行って欲しいと願ったのは。
それほど優美で博識で、明らかに他の使用人たちとは纏う雰囲気が違っていた。
だが、夢見がちだった少女の頃の恐れと願いは、それから十年程経っても現実のものとなることは無かった。

「まるで牢獄だわ…」
ぽつり、と呟いた声は、窓から入り込んだ風に吸い込まれていく。
「『四神』と呼ばれる怪盗が本当にいるなら…攫ってくれないかしら」
「お嬢様?」
「だって、屋敷の敷地内から出てはいけない。使用人と長話をしてはいけない。庭を駆け回るようなはしたない事をしてはいけない。寝転がって本を読むのもいけない。やってはいけないことばっかり。政治経済、マナーに語学に音楽に…勉強しなくてはならないことだらけ。私はこの家の奴隷じゃないわ?」
「奴隷などと…。貴方はいずれこの家を…ひいてはこの地を治めることになるのです。領民が豊かに暮らすためには、知っておいて損になるような知識はひとつもありません。社交界に出て、旧家、名家の方々と対等に渡り合うには、どれも必要な勉強でございましょう」
「じゃあ聞くわ。外にも出ず、領民の暮らしぶりも知らずに、どう豊かにしろって言うの?民が何に苦しみ、何を望むか知らず、使用人に囲まれてぬくぬくと暮らす領主に、何が出来ると言うの?」
言い募る言葉に、友雅はそっと吐息を零して微苦笑を浮かべる。
「旦那様も、この先一生、外に出てはならぬと仰っているわけではありません。今はまだ、その時ではないということなのでしょう」
「──私も、領民の中で学校に通い、街を歩き、そこで必死に暮らす人たちを知りたいわ。それが…後継者たる者の義務じゃないかしら」
友雅は僅かに考えるような素振りを見せると、止めていた指先を何事も無かったように動かし始める。
「もし本当に怪盗が現れたとしても、私があなたをお守りします。この命に代えても」
「──ばかなこと、言わないで…」
そんなことをして欲しいわけではない。
ただ、この屋敷を飛び出しさえすれば、彼と同じ身分で、同じ視線で立つことができるのではないかと思っただけだ。
そして本当は、攫って欲しいのは怪盗にではない。
「──外に出れば、領民が何を望んでいるのかわかるんじゃないかと思っただけよ。別に…本当に攫って欲しいわけじゃないわ…」
誤魔化すようなその言葉に、からかうような色を微かに湛えた微苦笑で視線を上げる。
「ご立派なお心掛けですが…。先のことよりもまず、明日のことをお考えになっては如何ですか?」
「明日のこと?」
訝しげに尋ねると、彼はふと笑みを深くし、そして僅かに瞳を揺らした。
「明日は天真様がおいでになると申し上げたはずですが」
「あ…っ」
「やはりお忘れだったのですね…。朝駆けでいらっしゃるのですから、遅くまでお休みになるわけにはいかないのですよ?」
小さな子供に言い聞かせるようなその声音。
悔しいけれど、彼の言うことは尤もなことで、反論の余地も無い。
「わ…わかってるわよ」
すねたように言うと、くすりと小さく笑んだ。
子供扱いされている。身分ではなく、人としての性質が、いつまで経っても彼に並び立つことができない。
そうは思っていても、彼のそんな笑い方が好きだった。
「ね、お父様も首都においででいらっしゃらないのに、どうして天真くんが来るのかしら」
「──さぁ、私にはわかりかねますが。明日、天真様に直接お伺いになったら如何ですか」
ポーカーフェイスを気取っているが、彼は何かを知っている。そう思った。
俯いていて乱れた髪を整えるようにして、ふと背けた表情は陰になって見えない。
「そうね」
ただそう言うだけで精一杯だった。
今はただ、こうしてふたり、薄いカーテン越しに月を見上げているだけで…幸せだ。そう、思っているしかなかった。



NEXT
さくらのさざめき / 麻桜 様