桜、ただひとり…

=友雅なのに号泣!?=


-3-




一心不乱に馬を駆り自邸に辿り着くと、女房達が蜂の巣でもつついたような騒ぎで主を迎えた。
友雅は桜の庵にいたのはたった二日だと思っていたが、実際には十日ほども過ぎていたらしい。
いくら昼夜もなく睦み合っていたとはいえ、それほどに勘違いをすることなどあり得ない。
そうとなるとやはり山中を彷徨う間に、狐狸にでもからかわれていたのか、それとも──
しかしそんなことはもう、どうでも良かった。
今はこの手に、愛しくて憎らしい女があるのだから。


広廂に座り込んだ友雅は、ぼんやりと庭を眺めていた。
ほんの数日前までは、庭の桜も僅かに残っていた花弁を優雅に散らしていたのに、今はもう、その気配さえない。
清かで穏やかな風に髪を遊ばせながら、友雅は銚子を傾けて杯に中身を注いだ。
普段ならここで芳醇な酒の香りが広がるはずだが、このところ友雅は酒を断っていたため、仰いだ杯はただの清水だ。
それというのも、あの日、桜の庵で呑んだ酒を思い出すと、何とも味気ない香りに思えて気が削がれてしまっていたからだ。
そしてもうひとつ。

あかねを無理に攫ってきてから、十日ばかりが経つ。
友雅は行方不明となっていた事実を利用し、鬼と接触してしまったことで邪気に触れ、伏せっているとして出仕を見合わせていた。
それはもちろん、出仕を促す矢の催促に対する方便なのだが、どうしても邸を空けられない理由もあった。
はじめて自らが激しく求めたあかねが、伏せっていたのだ。
日毎夜毎、友雅の腕で美しく乱れ咲きつつも、「帰して欲しい」「帰らなくてはならない」と言い続けたあかね。
その言葉を耳にするたび、彼もまた沸き起こる怒りと喪失の恐怖によって、我を忘れて責め立てるように抱いた。何度も何度も、その身体を壊してしまうほどに。
そのせいか、それとも庵を離れた事による気鬱のためか…。彼女はまったく食事もせず、幾ばくかの水を飲むだけという日々を過ごし、やがて限界が訪れていた。
次第に衰弱していった身体は、ついに床から起きあがることさえ叶わなくなってしまった。
一日のうちのほとんどの時間を、うつらうつらと夢の中で過ごすあかねの様子に、困惑と焦燥を隠せない。

どうすればいい。
この身が朽ち果てようとも、彼女を手放すことなどできない。
どうすればいい。
彼女の幸せだけを望んで、他の男を待つ場所へ帰せるほどに冷静にはなれない。
どうすればいい。
いっそ、官位を捨て、家も男も何もかもを捨てて、たったふたりで新天地を目指すのも悪くない。
あの庵に訪れる者を恐れて病むくらいならば、共に手を取り合って誰にも知られぬ場所へ行けばいい。

だが、あかねが嫌がったならば?
それでもなお、あの庵に帰ることを望んだら?

その時はもう、共に黄泉路を辿るしかあるまい。

今の友雅には、すでに冷静な判断力というものが欠落していた。
愛する者を求めるがゆえに、自身をも追いつめるような思考しかない。

「──ともまさ、さん…?」
微かに身動ぐ気配と共に、衰弱しきった声が聞こえて我に返る。
御簾を跳ねのけるようにして御帳台に駆け込むと、昨夜より一層青白く生気を無くした愛しい女がいた。
もはや首を動かすだけで精一杯といった様子に、胸が詰まる。
「ここにいるよ、あかね」
身体に掛けられた袿の中へ手を差し込み、眠っていたとは思えないほどに冷たい指を絡めて握りしめる。
こうして伏せっていてもなお、彼女の美しさは損なわれることはない。
健康的で幼い印象をこそぎ取ったその面は、凄絶なまでの美しさを誇っていた。
「ともまさ、さん…」
もはや、ただその名を呼ぶだけの体力も残っていないのか、吐息の中に微かな音が混じる。
友雅の胸には、後悔と哀情が吹き上がっていた。
「あかね、君が愛しい。愛しいんだ。このような姿にしてまでも手放せないほど、君が愛しい…」
苦しげに囁いた言の葉に、彼女はうすらと微笑んだ。
「君自身を害しても手放すこともできず、こうして病んでまで繋ぎ止めていた私は──もう狂っているのだろうね。君への想いが、私を狂わせていく…」
友雅の体温が移って、ほんの僅かにぬくもりを取り戻した指が、微かに動いた。
まるで友雅の手を握り返そうとするかのようなそれに、涙がこぼれそうになる。
「あかね。君を庵まで送ろう」

もう、終わりにしよう。
こんな狂人の戯言に、この美しく無垢な女を巻き込んではいけない。
最期に、燃えるような恋に身を焦がし、これほど強く熱く想いを捧げることができた。
ただ、それだけで…満足だ。

「すまなかった。君の意志を無視し、捕らえるようにこんな所まで連れてきてしまって…。本当に、すまなかった」
「もう、いいのです…」
「あかね?」
彼女は儚げに、しかし幸せそうに微笑んだ。
「お願いが、あるんです…」
「なんだい?言ってごらん?」
何かを喋ろうとしているが、喉からは風が漏れる音しか聞こえない。力尽きる時が訪れようとしていた。
友雅はあかねの唇に耳を寄せる。


く  ち  づ  け  を ──


苦しげに囁かれた言の葉。
耳を離して微かに頷くと、そっと唇を寄せた。
これまでのように、貪るようにでも、嬲るようにでもなく、優しく合わせられた唇。
あれほど瑞々しく艶めいていたそれは、今は冷たく乾いている。
友雅は自らが犯した罪の深さに、ようやく気づいた。

どれだけそうしていただろうか。
あかねの眦から光る透明の雫が、はたり、はたりと流れ落ちて消えいていった。


「ともまささ…ん。貴方を、愛していました── …心から…」


突如、あかねの身体から無数の花片が吹き出した。
「──あかねっ!?」
視界を埋め尽くす、淡い、淡い薄紅。あの庵で見た、桜。
彼女の指先を握っていたはずの自身のそれが、弾力を無くした。慌てて袿から引き抜いた掌を見て、呆然とする。
白く冷たい指先は、数枚の白い花弁に変わっていた。
嵐のように舞う花が全て落ちると、残されたのは友雅と彼女の僅かなぬくもり、そして風にゆれる無数の花弁。ただ、それだけ。
跳ねのけた袿の下には、吹き溜まりを作る花の渦があるだけだった。
友雅は、愛する者の代わりに残されたそれを無心でかき集め、掌につもる花片に額を寄せる。
「あかね…。あかねええええぇぇえええ──っ!!!!」

絞り出された、血を吐くような絶叫が、京の都にこだました。


友雅はあかねの魂を追って、山中深くに分け入った。
木や草が生い茂る路なき路を、枝葉に全身を切り裂きながら必死に進み続ける。
どこをどう歩いたか…ようやく辿り着いたかの桜は、すでにその生を終えて枯れ果てていた。
ほんの十日前までは、凄絶なまでに美しく咲き誇っていた桜。
本来なら花を散らしながら顔を出すはずの、新芽ひとつない黒々と乾いた樹皮に、友雅は呆然と幹に触れた。
あれほど温かく感じられたそこは、固く冷たく…まるであかねの指先のようだった。

友雅はここまで来て、ようやく全てを確信する。
なぜなら、以前この地を離れる直前にあかねに渡した蝙蝠扇が、その古木の幹に抱くように深々と刺さっていたからだ。やはり彼女は、この樹の精霊だったのだろう。
己が身と離されてしまったゆえに衰弱し、本性の樹もろとも命の焔を吹き消した。


「あかね…」

友雅の双眸から、光る雫が静かに流れ、そして太いむき出しの根を濡らす。

「あかね──」

己の愚かさに、今頃気づいたところで…愛しい者はもう、この腕に戻ってくることはない。

「──あかね…」

友雅の身体が、その場に崩れ落ちた。


再び邸から姿を消した彼は、もう二度と都に戻ることはなかった。
その美貌と才気ゆえに、鬼に魅入られ連れ去られたのだという噂がまことしやかに流れたが、彼の消息を知る者は誰一人としていない。

叶うべくもない恋に溺れた男は、今は枯れてしまった古木の根に、優しく抱かれるようにして眠っていた。
愛する者が残してくれた言の葉を胸に、互いをその腕に抱きしめながら。
永久の眠りについたのだった。







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さくらのさざめき / 麻桜 様