桜、ただひとり… |
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=友雅なのに号泣!?= |
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友雅はひとり、馬の背に揺られながら慣れない山中を彷徨っていた。 もう一刻も歩き回っているだろうか。辺りは闇に包まれ、濃い霧によって足元さえはきとしない。 草木が踏みつけられてできた細い獣道を、馬の眼を頼りにようやく進んでいるといった有様だった。 「ここはどの辺りなのだろうねぇ。そろそろ集落に行き当たってもおかしくないと思うのだが…」 年老いて隠居した乳母が、肺を患って寝付いたと耳にしたのは数日前。ようやく手に入れた妙薬を持って、この山の頂にある庵を訪ねたのは、陽が中天を指した頃だった。 それから薬湯を飲ませたり世間話に花を咲かせたり…庵を辞したのは、まだ夕暮れには程遠い時間だったはずだ。 本来ならばようやく日暮れの頃といったはずが、辺りの暗さは夜更けのようだった。しかも、気づいた時にはこの濃霧のただ中におり、方角さえも見失っていた。 あてどもなく歩き続けてはいたが、地面の傾斜や植物の生い茂る様子などから、間違いなく山を下りているはず。だが一向に民家のひとつも現れない。 そればかりか、山中深くに迷い込んでいるような気さえする。 「参ったね。これは…狐にでも化かされたか…」 先の見えない不安からか、それとも何かしらの危険を察知しているのか。盛んに嘶く馬を手で優しく宥めながら思案する。 そしてふと、獣道の先にぼんやりと広がる明かりに気づいた。 鬼火の類だろうかと警戒しながらゆっくりと近づくと、次第に仄明かりの正体がはっきりとしてくる。 「──これは…なんと見事な…」 桜だった。 思わず言葉を失ったのは、墨染めの桜よりも白く、闇に溶けるように淡い光を放つ大樹の美しさに目を奪われたからだ。 京の桜などはすでにその身を散らしはじめているというのに、これはただの一枚も花弁を散らすことなく、この山の主であるかのような堂々たる佇まいを見せている。 それでいて美しく控えめな、無数の花を枝に綻ばせ、浮世の夢か幻かと思わんばかりの荘厳さでそこにあった。 「これほど美しい桜は…見たことがない…」 友雅は馬から降りると、見事な枝振りの下から眩しそうに瞳を細めて桜を見上げ、太くそそり立つ幹に手を這わせる。それは仄かに温かく、人のぬくもりのように感じられた。 風もなく揺れた枝が、彼の訪れを歓迎するかのようにさわりと鳴る。 「そこにいるのは、どなたですか?」 ふと、鈴のような涼やかな声が響いた。 このような山奥に人がいるとは思ってもみなかった。それもまだ年若い女の声だ。 いや、もしかしたら彷徨っている間に随分と麓まで下りていたのかもしれない。 声の主を捜して辺りをうかがうと、ちょうど桜の幹を挟んだ反対側に、古ぼけた庵を見つける。この場所に足を踏み入れた時には桜に目を奪われて気づかなかったのか。声はそこから聞こえたようだ。 一晩の宿を頼むにも、帰路につく道を尋ねるにも調度良い。 友雅は名残惜しげに桜の幹に指先を添わせながら、庵へ足を向けた。 「失礼、怪しい者ではありません。山中にて道に迷い、四方を彷徨ったあげくこちらに辿り着いたのです。申し訳ありませんが、一夜の宿を頼めないでしょうか」 一瞬、妖しの類だろうかと疑念が湧いたが、このように美しい桜の元で暮らす女が、邪心を持つはずも無かろうと考え直す。 それさえも人を惑わす手段であるとも考えられなくないが、先程耳にした女の声は、どちらかといえば世の中の憎悪を知らず、男という邪を知らず。一切の悪から隔絶されて育ったような、清らかなものだった。 安堵と同時に、友雅の中の好奇心が疼く。 どんな女だろうか。 幼すぎると言うこともなく、そう装っていると言うこともなく。ただ無垢ゆえの、透明な声音。 このような鄙びた場所に住まうのだから、出自などに多少の面倒はあるかもしれないが、時折通うならばそのような闇もまた一興か。 友雅は期待と興味に胸を膨らませながら、母屋の階を上る。 半ば開け放されていた御簾を潜って房に入ると、はたと脚を止めた。 「──っ…」 そこには女が──いや、まだ少女と言うべきだろうか──儚げに座っていた。 どこまでも透き通ってしまいそうな、白い肌。 艶やかに流れる春陽のような、髪。 こちらをじっと見つめる琥珀の、大きな瞳。 ふっくらと柔らかく瑞々しそうな、薄紅色の唇。 想像を絶する少女の美しさに、友雅は言葉を失う。 彼女はふうわりと微笑を浮かべると一層幼さが際だち、特段匂い立つような色香があるわけではない。しかし、灯台の火に負けないほどの光を放っているように思えた。 「難儀なことでございましたね。さぞかしお疲れでございましょう。女ばかりの東屋で、大したおもてなしもできませんが、夕餉のご用意を致しましょう。どうぞお寛ぎくださいませ」 「──あ、あぁ。ありがとう。お言葉に甘えさせて頂こう」 彼女が用意してくれた円座に腰を下ろすのを待っていたかのように、女房が膳と酒を運んできた。 少女の酌で杯を干すと、何とも言えない桜の香りが鼻腔を抜ける。 「美味い」 正直にそう漏らすと、彼女は嬉しそうにふわりと微笑んだ。 それは庵の外に咲いていた桜のように美しく清楚で、友雅の鼓動が跳ねる。 京の内外を問わず、美しく艶やかな女たちと数多の逢瀬を重ねてきたが、このように少年の初恋かのようなときめきを覚えたことはない。 友雅の中で、彼女に対する興味と思恋が生まれてくる。 「君の名は?」 「──そう仰る貴方様は、どなた様でしょう」 「これは失礼。桜の姫君の美しさに心を奪われていたようだ。私は橘 友雅。都に住まう陽炎のような男さ」 「お上手なお方…。わたくしは──あかねと申します」 「あかね殿…」 「いいえ、友雅さま。どうぞ”あかね”と」 「私に真名を呼ばせる?ふふ、それもいいだろう。では姫も私のことは”友雅”と呼んでくれるね?」 「殿方にそのような…」 「”あかね”。君にそう呼んでもらいたいのだよ。その桜貝の唇から零れる私の名を、聞いてみたい。ねぇ、呼んでくれるだろう?友雅と」 「── …友雅…さん?」 逡巡の後に呼ばれた名に、彼は相好を崩す。 「まぁ、今はそれでもいいさ。でもいつか、私を”友雅”と呼んでおくれ」 艶めいた微笑を浮かべてそう言うと、あかねは反対に表情を曇らせる。 「どうしたんだい?何か気に障ることでも言ったかな」 「いいえ、いいえ──。”いつか”があれば、どれほど嬉しいことか…。貴方は夜明鳥の囀る中、ここを去っておしまいになられる方。わたくしがどれほど焦がれようと、貴方は鄙びた庵に住まう女のことなど、すぐに忘れてしまわれるでしょう…」 涙を堪えるように俯いた彼女の肩が、微かに揺れた。 華奢な身体が小刻みに震え、俯いた白い横顔にはらはらと音を立てて絹糸のような髪が零れた時、友雅は身の内に恋の炎が燃え上がる音を聞いた。 彼女が妖しだろうが桜の精だろうが、この世の者でなくとも関係ない。 この女を手に入れたいという想いだけが渦巻く。 それによってこの身を喰らい尽くされようとも、魂を引き裂かれようとも、構うものか。 むしろ全てを貪ってくれるのなら、血肉に至るまで彼女と溶け合うことができるのだろうとさえ思う。 「『焦がれても』と仰ったね。それは私が君に捧げるべき言の葉だ」 ふたりの間を邪魔する膳を手で押しれば。カタンと白磁の銚子が倒れ、残っていた酒が床にしたたる。 辺りに一層、桜の強い芳香が漂った。 酔ってしまいそうだ…。 いや、もうすでに酔っているのかもしれない。 「友雅、さん…?」 「あかね。私は君という無垢で清楚な花の香りに魅せられてしまったようだ。もう、この花なくしては、私の心は永久に春を迎えることはないだろう」 彼女の手を強く引くと、胸に倒れ込んできた小さな身体を抱きしめる。 微かに震えながら身を堅くする初々しい様子が、男慣れしていない証のように思えて、歓喜で心が舞い上がる。 「どうかあかね。ひと目で君に恋をし、そしてこれほどまでに熱く焦がれる男を哀れと思し召すなら…。私のことを愛しいと言ってくれないか」 おとがいに指をあてると、僅かな躊躇いの後に、桜色に染めた頬が現れる。 親指で慈しむようにそれを撫でると、眦に浮かべた涙に潤む瞳を、ゆるりと閉じた。 「帰って欲しくない。貴方があの桜の下に現れた時から、わたくしの心は貴方を求めて止まないのです。ただひと目で貴方を愛しいと、そう恋に落ちてしまったわたくしは…なんと愚かな女なのでしょう…」 「私も同じ気持ちだよ。君が愛しい。君に出逢わせてくれた桜にさえ、感謝したいくらいさ。あぁ、あかね。愛しい我が桜の姫君──」 彼女の唇は、仄かに甘かった。 眦を羞恥に染めた姿は初々しく、接吻はぎこちない。 ただそんなことさえ、この少女が自分だけのものだと確信するようで、友雅の中の男を強く刺激する。 「あかね── …」 燃え上がる炎の熱が身を焼いて、声がかすれる。 彼女は組み伏せられながら、じっと友雅を見つめていた。 大きな瞳に映る己は欲情にまみれた獣のようで、純粋無垢な水晶の瞳に見つめられていることが恐ろしくもあった。 しかし、この心を止めることはできない。 彼女の何がこれほどまでに友雅を惹きつけるのか。その答えは到底分かるはずもないが、そんなことは瑣末なこと。 政にも、恋の駆け引きにも、命のやり取りでさえも熱くなることのなかった心が、この少女を強く欲している。 友雅は彼女の単の襟に手を差し込むと、己の浅ましさを断ち切るように一気に左右に広げた。 「──ぁ…」 微かに悲鳴を漏らしたものの、抵抗する素振りも見せないことに、ほっと内心で安堵の溜息を零す。 女を無理に抱くなどと言う野蛮な行為は、友雅が最も侮蔑するところだ。だが、今あかねに拒まれたとしたら、己を蔑むようなことでもせずにはいられないだろう。 無茶苦茶に彼女を犯し、欲望を叩き込まずにはいられないほど、余裕などなかった。 そうせずに済みそうだと冷静に思いながら、たわわに実るふたつの果実に唇を寄せた。 しっとりと吸い付くような感触。染みひとつないきめ細やかな肌は僅かに上気し、友雅を悦楽の淵へと誘う。 緩やかに揉みしだけば、思うままに形を変える白い乳房の頂きを、引き寄せられるように口に含んだ。 舌先を使ってころりと転がせば、頭上から遠慮がちな甘い嬌声が降り注ぎ、頬を緩める。 細い身にまとわりつく邪魔な衣を取り除きつつ、彼女の存在を確かめるように掌を滑らせていくと、花明かりのように光る裸身が現れた。 なんと美しい── … 双眸を細めてそれに見入る。 施される愛撫を受けてくねらせる姿態は、まるで天女の舞を見るようで──友雅は歓喜にぶるりと身体を震わせた。 蜜壷を探れば熱い吐息が零れ、それさえも甘い芳香を含んでいる。 彼女が嬌声を漏らすたびに、辺りを包む桜の香りが濃厚になっていく気さえした。 まるで、麻薬のようだ。 そう思わずにはいられなかった。 破瓜の苦痛など感じさせず、ただまっすぐに桃源郷へと導き、悦楽と幸福のみを与えてやりたいと思うが、友雅自身がすでに耐えられないところまで来ている。 やがてあかねの身に己を沈め、そして一気に高みへと誘う。 しかし散らしても散らしても…あかねという花は花弁を開き、友雅を翻弄し続けた。 友雅もまた、それを味わい尽くすかのように、あかねにのめり込んでいった。 |
さくらのさざめき / 麻桜 様 |