萌え出づる |
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= 春 = |
花の香に満たされている―― 囲む気配はまさに春のものだった。 先日、蕾をつけた桜は、あたたかな陽気の中で一斉に花開いた。 物見窓を開けずとも伝わって来る。この牛車から一歩外に出れば、満開の桜に埋め尽くされていることだろう。 ふと、屋敷に残る妻の事を思い浮かべた。 彼女をここに連れて来ようか。 そんな思いつきに、口元に笑みが浮かんだ。 あかねを娶って三月程が経っていた。 我が妻は思惑のうちには収まらず、いつも私を驚かせてくれる。活発で前向きな人だ。 その持ち前の明るさで、屋敷の者たちとも上手くやっているようだった。 だがこの間まで、まだほんの少女であったのだ。 このところ、忙しさにあかねとの時間を取れないでいた。もちろん本意ではないが、寂しい思いをさせていることに変わりはない。 もし桜を見ることが気分転換になるのなら、してみるべきだろう。 いや、ただ私が見たいだけなのかもしれない。君が喜ぶ姿を。 思い起こすように、瞳を閉じた。 可愛らしいという形容がまだ似合う、幼さの残る姫。 だがそれもあと少しのことだ。咲き始めの花のように、着実に女の香を匂わせ始めている。 ”――友雅さん” 記憶にあるその声が、心を静かに揺り動かす。 「生まれ変わったような、とは、こういう事を言うのかねえ」 なんとはなしに、口にした。 かつての私にはなかった感情。ひとりの人間に捕らわれるなど、煩わしいと思っていた。 なのにいつしか、めぐる季節と同じように変化が訪れている。 だがそれは、彼女がいてこそ成り立つもの。 その様は他の者にも分かるようで、色々と宮中では囁かれているらしい。 あまり話に上るのも困りものだ。私だけならまだしも、あかねに興味を持たれては敵わない。 私は咲いている花々には目もくれず、屋敷へと向かった。 友雅さん、今日も遅いのかな。 ここのところ忙しいから、やっぱり疲れているよね。 私の前では、そんな顔は見せないけど……。 はっ、と意識が戻った。そして指が止まっていた事に気が付いた。 いけない。お稽古中なのにっ。 つい演奏中に考え込んでしまった。もう一度、最初からやりなおしだ。 ぼーっとしていたら、働いている友雅さんに申し訳ない。 だからまた琴を弾き始めたのだけれど。 「本当は無理してるのかな……うーん……」 結局はそこに戻るのだった。 友雅さんの昇進が決まったのはつい最近。 屋敷のみんなの喜びようから、それがどれだけすごい事なのか伝わって来た。 功績が認められた事に、私も一緒になって祝った。だけど必然的に仕事は多くなり、友雅さん自身は大変そうだった。 『大した事じゃないのに手間を取られるのは敵わないね』と言いながら、お勤めに出ている。 そこで重圧を感じない所が友雅さんらしいというか、すごい所だと思う。たとえ不真面目な発言をしても、きちんとお仕事はこなすのだから。 そして、そんな状態でもひとことなりと私に声を掛けてくれる。 話をしている時は楽しそうだし、私も嬉しくて、つい話し込んでしまうのだけれど。 本当は働いてきた友雅さんを癒すために何かをしてあげたい。自分も、奥さんとして出来る事をしなければと思った。 今、たった一つだけ思い当たる事は。 『優しい音だ。君の琴を聴いていると、気持ちが安らぐよ』 そう言ってくれたから。 だから何があっても、琴のお稽古だけは欠かさないようにしていた。 ようし。今やっている曲が仕上げに入るから、集中しよう。……いつも同じ所でひっかかるんだよね。 私は弦を弾いた。ビィーンという音と共に空気が揺れる。 琴の名手にはほど遠いけど、私自身、弾くのが好きだから。 私は稽古を再開した。そうしてしばらく経った時、近くで小鳥の囀る声が聞こえて来た。 あっ、鳥さんだ。 一人で弾いていると、雀や文鳥がこうしてやって来る。私は気が付かない振りをして続けたのだけれど、その嘴に何かを銜えているようだった。 気になった私は手を止めると、廂へとそうっと近付いた。だけど小鳥は驚いたのか、あっという間に飛び立ってしまった。 しまったと思っていると、そこに残されたものがある。 「あ……、これって」 それは桜の一房だった。 私はそうっと拾い上げると、手のひらに乗せた。薄くピンクがかった色合いが可愛い。 「ふうん、君に贈る桜花……か。まさか、小鳥までもが恋敵とはね」 すると突然、思い掛けないところから声がして、びっくりして立ちすくんでしまった。 下ろされた御簾の向こうにいたのは、 「……と、友雅さん?!」 そこには出かけているはずの友雅さんがいた。くつろいだ風で、こちらを振り返る。 う、うそっ。いつから? 友雅さんは私と目が合うと、楽しげに笑った。 「今日は久々に早く解放されたよ。お陰でゆっくりと君の演奏を聴く事が出来た」 「そんな、声掛けてくれれば良かったのに……!」 何も簀子で聴かなくたって。だって、この人はこの屋敷の主なのだから。 「いや、途中で止めるのは惜しかったからね」 「そう言ってもらえるのはすごく嬉しいですけど……」 琴はいつでも聴けるのだから、今は時間を有効に使うべきだと思う。 「せっかく早く帰れたんだったら、中へ入って休んで下さい」 ただでさえ、睡眠時間が少ないのだから。 まずはそれからだと私はその前に座った。抵抗するならば説得する体勢で。 意気込みに対し、友雅さんは驚いたように目を見開いた。そうして微笑むと、ひとつの提案をした。 「そうだね。君が側にいてくれるなら悪くはないが、ちょうど桜が盛りだ。花々に癒されに行くというのはどうだろう?」 「え……」 その光景がぱあっと頭の中に広がった。 桜、見に行きたい……。 結婚してから出かける事はほとんどなくなったから、その申し出にはとても心が揺れた。 「あ……でも、友雅さんは外でもう見てきたんじゃないですか?」 「いいや。私には愛でたい花が別にあったから」 「そうなんですか?」 木蓮とかかなあと思っていると、友雅さんはくすっと笑った。 だけど、本当にそれでいいのかな。うーん……。 迷っていると、ふいに友雅さんは真顔になり、 「どうか私にも贈り物を捧げさせて欲しいのだよ、姫君。ここは鳥に遅れを取るわけにはいかないだろう? 君の夫として」 ね、と同意を求めて来る。 「友雅さんってば……」 小鳥と張り合ってどうするのか。思わず笑ってしまった。 ああ、やっぱり友雅さんには敵わないなあ……。 私は笑顔で頷くと、届けてくれた桜をそっと文机に置いた。 素敵なきっかけをありがとう、小鳥さん。 そう、心の中でお礼を言いながら。 邸内の明かりが次々と灯された。 すでに夜が更けて、空には朧月がぼんやりと浮かんでいる。 私は持ってこさせた袿を、もたれ掛かるようにして眠る妻にそっと掛けた。 春の夜はまだ冷える。体を夜風にさらすのは見過ごせない。 私は起こさないように注意しながら、自らの腕で包み込んだ。 眠ってしまったのは、少しだけたしなんだ酒のためだ。 花見から帰った後、自分も私と同じものを口にしてみたいと言い出した。とても今日は楽しかったから、ちょっとだけいいかと。 だが、飲み慣れていないためだろう。見る間にその頬は赤くなり、うとうととし始めた。彼女は必死で起きていようとしていたようだが、睡魔には勝てずに先に夢路へと向かってしまった。 まだまだ私の酒の相手は無理のようだね。 そう思いながらも、残念とは露程も感じていなかった。素のままの彼女が好ましい。 どこからか風に運ばれて、ひらりと花片が宙を舞った。それが私の足元へと辿り着いた。 『近くの桜がいいです』 どこの桜を見に行こうかと尋ねると、あかねはそう言った。 私の体調をおもんばかった事はすぐに分かったから、いくつか名所を勧めてみたのだが、彼女は首を横に振った。 『それもいいですけど、私は友雅さんと一緒に見られるのが嬉しいんですから、どこでも同じなんです』 だって、桜は来年も再来年もずっと咲いているんですから――と。 二人でこれから先も見続けられる。 そんな事をさらりと、くったくのない笑顔で答えた。 「まったく、君ときたら……」 すうすうと安らかな寝息を立てる妻に、柳眉が下がる。 彼女はもともと貴族の娘ではない。結婚したことで、私はその自由を奪ってしまったというのに、その輝きは失われてはいない。 あかねといるとまるで、春の野に新芽を見つけたような気持ちになる。健やかに芽吹き、春の訪れを感じさせる。 だがそれは突然現れたものではない。冬の間に磨かれ培われていたものだ。 この細い体のどこに、そのような力が潜んでいるのか。 慣れない御酒に眠る姿は、こんなにもあどけないというのに。 本当に君は……私の心を捕らえて放さないね。 込み上げる愛しさに、ふっと笑みがこぼれた。 私は彼女を抱き上げると褥へと運んだ。 ん……、と小さく声が漏れる。 今は眠りなさい。私だけの姫。 君の安らかな眠りを守ろう。私のすべてを掛けて。 その唇に、そっと口づける。 この世でただ一つ、私の心を揺り動かすもの。 君のくれた甘さに酔いながら、私は長き春の夜をまどろんでいた。 終 |
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松木茶本舗 / かわいいつか 様 |