馬鹿につける薬 |
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= 春 = |
あかねは風に煽られて舞い上がる土埃から顔を背けながら、高らかに鳴り響く学校のチャイムの音を振り返り、忌々しく舌を打った。 ビッグ・ベンの模造品のくせに、やたらと人の神経を逆撫でする音だ。楽しかった休み時間も、コイツのせいで否応なく終わらされてしまうし、唸り声を上げつつ必死に解いている問題も、コイツの一声でストップさせられる。 今は今で、鬱々とした気分で帰路につく自分の丸まった背中を、笑っているように聞こえるのだ。 ──もちろん、コイツのせいで助けられることだって…無くはない。かもしれないけれど。 目の前で、どこかの部活から逃走してきたのだろう紙くずが、春の嵐に翻弄されている。弄ばれていると言ってもいい。 右に吹き飛ばされ、左に引き摺られ、花壇のコンクリートに救われたかと思えば、また突風に舞い上げられる。痛々しいったらありゃしない。 これだけ風が強いのだから、校庭ではミニチュアの竜巻が空に伸び、砂煙で視界はほとんどきかない。竜巻が渡り廊下のトタン屋根を襲い、出来損ないの鼓笛隊の行進のようにバラバラと音を立てた。 ああ、気分は最低最悪。 せっかくの桜吹雪だって、こんな気持ちじゃ、鬱陶しいとしか思えない。 あかねはいわゆる所のズンドコまで落ちた気分と機嫌を、さらに地面にめり込ませていた。 もう全てのことに嫌気がさし、何もかもを放り投げてしまいたいとさえ思う。 ふと、身体を打つ砂つぶての数が減っていることに気づいた。抑えていたスカートから伸びる素肌の脚から、チクチクとした痛みが遠ざかる。 「大丈夫かい?」 間近から聞こえた声に振り返れば、背後を歩いていた男が、あかねを自らの懐に掻き抱くようにして砂嵐から守っていた。 普通の女の子であれば、頬を染めて喜ぶようなシチュエーションであっても、今の彼女にとっては苛立ちを増幅させる種にしかならない。 「──大丈夫ですっ」 素っ気なく言い放ち、自分の前に回された二本の腕を引き剥がした。 男の方はというと別段気を悪くした様子もなく、微かに苦笑を漏らしただけであっさりと身を離す。 「随分と風が強いね、今日は」 「そう朝のニュースで言ってましたっ。聞いてなかったの?」 まだまだ吹き荒れる風の中を、手に持った鞄で捲れ上がるスカートを抑えつつ歩き出した。男の方もそれに吊られるように後をついてくる。 たったそれだけのことさえ、今のあかねにとっては腹立たしいことこの上ない。完全に八つ当たりだと言うことは、十分承知していたが。 ザァ……ン──! 強風に押されて、あかねがたたらを踏む。 慌てたように伸ばされた手が、鞄を持つ腕を引いた。 アッシュグレイのスプリングコートが身体を包み込み、あかねを害さんとする全てのモノから守る強固な盾となる。 自分の胸の前でクロスする、太い腕や。 頬を撫でるさらりとした、生地の感触や。 背中から包み込む、絶対的な温もりや。 強がって見せたことなどお見通しだと言わんばかりの、堪えた笑い声や。 砂埃の臭いに交じる、艶やかで甘い香りや。 桜吹雪にも負けない、圧倒的な存在感や。 「──ばか…」 思わずポソリと零れた言葉は、誰に対してのものかわからない。 かわいげのない不機嫌面を晒し、無限に与えられる優しさに苛立ち。そのくせ、包み込まれれば無条件で嬉しくなって…そしてまた腹を立てる。そんな幼げに振る舞う自分に対してなのか、はたまた、子供をあやすように絶対的な優しさで囲おうとする、男に対してなのか。 「ほんと、ばか…」 唇を噛みしめて俯けば、あかねを抱きしめていた腕に僅かな震動が伝わる。額を寄せた厚い胸が微かに震えて、男が笑いを漏らしたのだと分かった。 「誰が、かな?」 クスクスと笑う声は、小癪に障る学校のチャイムのようではなく、ただ愛しげな甘さを含み。 けれど普段なら嬉しいはずのその音色にも、再び苛立ちが募った。 少しだけ身動ぐと、柔らかく拘束していた腕を緩めてくれる。この男は、どこまでもあかねに優しい。あかねだけに、際限のない優しさと愛情を、惜しみなく捧げてくれる。 それがまた、心を波立たせる要因のひとつだと、知っているのだろうか。 そっと見上げた顔には、八つ当たりを責めるような色はない。むしろ、突き抜ける程の愛情を湛えていて、居たたまれなくなった。 どんな風に関係が変わろうとも、この年の差だけは、決して変えることが出来ない。 何度となく実感する。 優しくされれば、されるほど。 愛されれば、愛されるほど。 悔しくて、苦しい。 カッと血が上った頭の命じるまま、ゴスッ!と酷い音を立てて、彼の腹部にローリングエルボーを見舞ってやった。 「──あら、スペシャルヒット!」 う"ぐ、と唸る声に溜飲を下げる。その程度しか、反抗する術がない自分が情けない。そして、そんな反発の仕方しかできない自分に、嫌気がさす。 変えることの出来ないはずの年の差という溝を、自らの言動でもって深めているのだから。 結局、彼に攻撃を仕掛け…それが見事に決まったところで、この苛立ちは解消されることはないのだと思い知らされるだけなのだ。いや、本当はとうに知っていたのだけれど。 「──いたい、よ…あかね。そんなに怒らなくてもいいじゃないか…」 耳元で囁かれる言葉の後ろから、遠くの方で悲鳴が聞こえた。遅れて突風がふたりを叩く。ガランガランと、バケツか何かがコンクリートを転がっていく音が校舎に反響していた。 「──ここ、学校なんですけど?」 「うん、知っているよ?」 「あんな格好でいると、明日、私は間違いなく好奇の目で見られるんですけど?」 「あんな?──ああ、抱き合っていたと?」 しれっとした顔で言う男に、カッチーンときた。 もう遠慮なんか…最初からしていないけれど、絶対にしない、と心に決める。 「質問攻めにあって、誤魔化すのに苦労するんですけど!?」 ピキ、ピキピキ…青筋が立ってくる。 「うん、誤魔化さなければ良いのではないかな」 な に い っ て ん の 「──ケンカ、売ってます?」 思いも掛けず、ドスのきいた声が出た。おお、やれば出来るじゃん、なんて自画自賛してみたり。 けれど彼は、全く意に介すことはない。バッチリ決まったローリングエルボーの衝撃を拡散させるように、鳩尾をさすりながらサラリという。 「いや、本音だけれど?」 息を飲んで、肩を落とした。 何を言っても無駄だと言うことは、十分承知しているけれど。自他共に認める(はずの)常識人としては、一言物申してやらなければ気が済まない。 「どうせ、皆に知られているのだろう?」 「そーゆー問題じゃないしっ」 「では、どういう問題?」 この人、日本語分からないんじゃないかと、時々思う。 もしくは、羞恥心って言葉を知らないか。 何がそんなに問題なのかワカリマセンって顔に、思わず臓腑をも絞り出すような溜息が零れた。 「──厚顔無恥って、友雅さんみたいな人のこと言うんだよね…」 彼は…友雅は、ふっと笑いながら髪を掻き上げると、恭しく腰を折った。それはもう、騎士がお姫様にでもするように。悠然と、華麗に。 「お褒めに与り、恐悦至極」 「ほ…っ褒めてませんっ!」 思わず見惚れてなんて──いない。わけがない。 これほどに格好いい人なんて、見たことがないってくらい。 満開の桜をバックに、微笑んでみせるなんて卑怯だ。吹きすさぶ風のことも、襲い来る砂つぶてのことも、溜まりまくった鬱憤のことも、何もかもが飛んでいってしまいそう。 本物の騎士や王子様だって、この人の隣になんて、恥ずかしくて立てやしないだろう。わかっているけど、ムカツク。 「…というか、むしろ蔑んでる?」 あ、違った。「褒める」の反対語は「けなす」だった…なんてことを、血が上った頭の隅で考えてみたり。 「おや、難しい言葉をご存知だ。さすが現役高校生、と言うところか。もちろん、漢字で書けるのだろうね?」 いかにも『無理だと思うけど』という言葉が隠されているとしか思えない笑顔が、癪に障るなんてもんじゃない。 前言撤回。顔は良いけど、中身は極道。 反対語の訂正なんてことを、正直にして見せなくて良かった。余計にバカにされるだけ。 睨み付けてやっても、どこ吹く風。暖簾に腕押し糠に釘。ホラ、さすが受験生。このくらいの慣用句は朝飯前じゃない? 「──バカにしてるでしょ」 「馬鹿な子ほど可愛い、とも言うね」 ふふん、笑ってみせる男。 「後悔先に立たず、とも言いますね?」 ふふん、笑ってみせる女子高生。 「それは聞き捨てならないね」 ふいに、眼差しが強くなった。え、と思う間もない。 「後悔、しているのかい?────奥様?」 やけに真剣な声。苦しげに寄せられた、眉間の皺。 やっぱりバカなのは、私じゃなくてこの人だ、と思う。 「唆されて、高校生のうちに結婚しちゃったことはね」 「──へぇ、そう」 一瞬にして、『春風』が『凩』に様変わり。春嵐さえも押さえつけるほどに、友雅から漂う冷気(もしくは霊気)が辺りを極寒に陥れる。 そんなふうに威嚇してみせたって恐ろしいどころか、怯えた子犬が震えているようにしか見えないっていうのに。 本日、何度目の溜息だろう? やっぱり、馬鹿な子ほど可愛い、っていうのは的を射ているかもしれない。 確かに、再三、昼夜を問わず、結婚したいと言われ続け。いつの間にか両親学校その他諸々、全ての障壁を排除してあって。泣きそうな顔で迫られ、他には──まあ、そんなことをされて、頷かずにいられるはずがないじゃないか。 だって、相手は生涯ただひとりと決めた人だったのだから。 でも、唆された、というのも本当の話で。 だからこそ、彼はこの話題になるとプルプル震える子犬ちゃんになってしまう。 それを知っていて、言葉にする自分は…ちょっとSが入っているんだろうかと思うこともあるけれど。 でもやっぱり、馬鹿な子ほど可愛い。その一言に尽きたりするのだ。 「だって、三者面談の『保護者』が『旦那さん』なんて…それってどうよ?って思わない?」 そう、あかねが引っかかっているのはソコなのだ。 通知がされて、母親のいる実家にプリントを持っていったところまではいい。いくら結婚したとはいえ、まだ未成年なのだから、『保護者』イコール『母親』という認識があったのだ。 しかし、廊下に並べられた倚子に座って順番待ちをしていると、そこに悠然と現れたのは、出社しているはずの夫で。 その時の愕然とした気持ちやら、失望やら、焦燥やら、もうそういったあれこれの感情を、鎮める術などたかだか十七の小娘には持ち合わせていなかった。 どこの世界に、夫との(主に精神的な)年齢差を気にしている妻が、高校の三者面談に『保護者』として出席して欲しいと思うだろうか。 「『夫』が面談に来てはいけない、などという校則があるのかい?」 イジイジ 「あるわけないでしょ!?そもそも、結婚してる生徒がいないってば!」 「けれど、結婚してはいけないという校則もない。入籍する前にきちんと説明にも行ったし?」 開き直って、フンッ 「それは…そうだけど…」 「では、何が問題なのかな、奥様?」 威圧的ニッコリ 「いつの間にか、結婚したことをみんなが知ってた…」 「それは私の所為ではないね。君と蘭が、警戒を怠っていた所為だろう?」 形勢逆転? 「それは…そう、だけど…。友雅さん、優しくない。ああ、なんで結婚なんかしちゃったんだろう…」 「なんで、だって?おかしな事を言うね。君が泣いて頼んだからだろう?」 得意げに、フフンッ 「なっ!!泣いてないし!そっちが、そこら中の女に鼻の下を伸ばしてるからでしょう!?」 「ふぅん?目の前で転んだ女性に手を差し伸べるのも、落とし物を拾ってあげるのも、至極当然の行為だと思うけどね。愚直な天真でさえ、同じ行動を取るだろうけど?」 妻の嫉妬にホクホク笑顔 「天真くんのは純粋な好意!貴方のはスケベ心。コレ千年経っても変わらない真実ね」 「私の『スケベ心』を刺激するのは、君だけだけど?」 ニンマリ 「アアソウデスカソレハヨカッタデスネ」 「つれないねぇ…」 「何を釣ろうと思ってるわけ?」 ──もちろん、キミヲ そんな極道を囁くような男が『旦那様』って不幸、誰にもわかりゃしない。分かって貰えるわけがない。 不純異性交遊は禁止の校則。でも純粋異性交遊で、しかもすでに結婚してますってのはアリなんだろうかと、グチりたくなるのも必然。 中には結婚してるなら、「アッチの方もお盛んで〜」なんてからかってくる奴、酷ければ襲ってくる奴なんかもいたりして。 もちろん、そんなのに易々と良いようにされてやるつもりはないけれど。周り(主に天真や詩紋や、蘭が一番おっかない)が何とかしてくれることもあるけれど。いつもいつも、友人達に世話になっているわけにもいかない。 そんなことを考えていると、友雅の指が、左の手首をさらりと撫でて離れていった。 自分から逸れたあかねの意識を取り戻そうとしたのか、それとも"お誘い"じみた戯れなのかはわからない。けどやっぱり、何を考えていたのか、見通されているような気がした。 決して無理に掴み上げたりはしない。それは暗黙の了解。 ほんの数日前、バカな上級生に、痕がつくほど掴み上げられた場所だから。 強引に触れれば、恐れられるとでも思っているようだった。 そんなヤワじゃない、と悪態をついてやりたくなるけれど、やっぱり身が竦んでしまうのも事実で。 自分の苛立ちや怒りを、キレイに押し隠して優しくしてくれる。それはそれで嬉しいけれど、少し寂しいと思ったりもする。 「だいじょぶ」 離れ掛けた大きな手を、そっと掴む。 天の邪鬼だから、言葉にはなかなか出来ないけれど。 心配ないんだよ。守ってくれてありがとう。優しくしてくれてありがとう。そんな想いを乗せて見上げた視線の先で、彼は柔和に微笑んだ。 「今度押し倒されたなら、股間に一発。喰らわせてやるから、ね?」 勇ましい言葉も、微笑いながら言えば、睦言になるだろうか。 友雅は、突然のそれに目を瞠った。 そしてその裏に隠された想いを感じ取ったのか、優しい透明な笑みを、悪戯めいたヒトノワルイ笑みに変える。 「周到に手足を押さえられたなら、頭突きして。緩んだところで、思い切りやってやるのだよ?」 躊躇はいけない。渾身の力を込めてね。なんていいつつ、背中を抱き寄せる腕は一体何だ? どうして、顔が近付いてくるの? 「いっそ、にっこり笑って「一時の性欲に負けて、人生棒に振るんだ?」くらい言ってやりなさい」 もちろん、クラスと姓のチェックは忘れずにね。覚えていたくはないだろうけど、顔もしっかり見ておくのがいい。 小さく動く口元に、ふと、視線が吸い寄せられる。 「ど、して…?」 ニヤリ、 唇が、凶悪な形に引き上げられた。 「犯人が学校関係者なら、探し出すことも簡単。誰なのかが分かれば…そうだね、生きていることを後悔する程度には、貴重な経験をさせてあげる。まあ、学校自体を壊滅して見せても構わないけれど?」 「…って、それってすでに、私は被害者じゃん。被害に遭わないために、ってアドバイスはないわけ?」 もどかしい。 呼吸が浅くなる。 瞳がどこを捉えているか。何を欲しているか。この人は全て見通しているというのに。 いつだって、欲しいモノを簡単には与えてくれない。 優しいクセに、酷くイジワル。 馬鹿で、極道で、愛しくて、とんでもなく大切な人。 「なるほど。では、転職しようか。あかねがいる間は高校教師というのもアリかもしれないね」 「私立高校じゃないのでそんなことは無理ですー。公立校の人事権は各市区町村の教育委員会に委ねられておりますぅー」 それでも、お互いに牽制し合って、こんな風に馬鹿げた会話を交わすというのも、嫌いじゃなかったりする。 ハタから見たら、単なるバカップルなのかもしれないけれど。 欲望に負けて、白旗を揚げるのは…さあどっち? 「なら、用務員とか?」 「ねずみ色の作業着着て、竹箒持って歩き回るの?黒いアームカバーしたり?軍ソク履いて?全然ノーサンキュー。そんな姿見たくありません」 認めてしまえばいい。 そうすれば、至福の一時を味わえるのだから。 「おや、それは私の姿形だけが好きだと言うこと?」 「あーそうですねー。顔は特に好きですよー」 「身体もだろう?」 「あーはいはい。上腕二頭筋と腹筋は大好き♪後好きなのは──キスかな」 「それはお誘いと考えて、いいのかな?」 「さてどうかしらねー」 「では虫除けに…」 背中に回されていた腕に、ぐっ、と力が込められて。 ほんの少し離れていた所で、人の悪い形になっていた唇が、ずずい、と近付いてきて。 そして── 「「うちの旦那様と比較してさしあげるから、どうぞ掛かってらっしゃい?」って言ったら、どうかしら?」 「それは、腰が立たないくらいの熱烈なキスをご要望ということで、いいね?オクサマ」 くすくすくすくす 砂が渦巻く竜巻の中、熱く交わされるキス。 薄桃色の花びらが踊る。歓喜のステップ。 噛みついて、吸い付いて、奪い尽くすようなそれ。 誰かに見られているのか、見られていないのか、そんなことはどうでもいい。 沸々とわいていた不満も不安も苛立ちも、そんなものはとうにお空の彼方へ。 戦いは、ドロー。 ただ、バカはお互い様。 可愛いのも、お互い様。 馬鹿につける薬は、ただひとつ。 夫婦は、これくらいがちょうどいい──? ビッグ・ベンが、祝福の鐘を高らかに鳴らした。 なんてね? |
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さくらのさざめき / 麻桜 様 |