子守歌はあなたの腕の中で 

= エイプリルフール/春 =



−3−



 散歩に出ただけのはずのあかねが泥水にまみれ草履も履いてない状態で戻り、天真が
頭から血を流し泣き叫ぶ友治を抱えて後に続いてくるのを見た時、藤姫は息を呑んだ。
だが、だてに龍神の神子に仕えてきたのではない。
震える足にぐっと力をこめ立ち上がると、直ぐさま頼久を薬師を呼びに走らせる。

「天真殿、友治殿をこちらへ・・。神子様はお着替えくださいませ。お怪我はありませんか?」
「すまん、俺がついていながらこんな事・・・!」

天真もあかねもまるで自身が大けがを負ったかのように蒼白だ。
天真のTシャツには抱きかかえていた友治の血がべっとりと染みついている。

「お二人とも、身を清められてお着替えくださいませ。すぐに薬師も参ります。」

騒ぎを聞きつけて詩紋も局に走ってきた。きれいな布と水を用意するよう女房に頼み、
天真から受け取った友治を茵の上に下ろす。

「私が悪かったの!友治君を置いたまま側を離れて・・・簀子から地面に落ちて・・・!」
「落ち着きなさい、神子殿。大丈夫、たいした傷ではないよ。」
「友雅さん!」

いつの間にか簾をくぐって入り込み、布で友治の傷を押さえているよう詩紋に指示を出した
友雅がそっとあかねを抱き寄せた。

「赤ん坊は存外丈夫なものだよ。だから、落ち着きなさい。」
「だって、あんなに血が出てるんですよ!それにこんなに泣いて・・・!」
「頭の血は、見た目以上に血が出るものなのだよ。それにあれだけ泣ければ大事はない。」

『友雅の言う通りだ。落ち着け、神子。気を乱すな。』

聞こえてきたのは澄んだ湖のような陰陽師の声。

「泰明さん?」
「へ、泰明?どこに・・・っ!」

慌てて辺りを見回す一同が眼にしたのは、赤ん坊の枕元に蹲る小さなネズミ。

「泰明さん・・・・なの?」

友雅に肩を支えられながら、まだ涙でぐしょぐしょになった顔で、あかねはそっとネズミに
手を伸ばす。
 その指先につん、と鼻先を触れさせ、聞き慣れた抑揚に乏しい声が部屋に響く。

『私の身体はいまだ嵯峨野にある。藤姫が使いを寄越したので、式を飛ばした。
だいたいの事情は書状と今の様子とで理解した。神子、お前が気を乱すことが一番良くない。
心を落ち着かせろ。赤子は大丈夫だ。』

あかねの身体から力が抜け、ぺたん、と座りこんでしまう。
友雅の言葉を信じないわけではなかったが、泰明に言われて初めて本当に友治は
大丈夫なのだ、と実感した。
ぽろぽろと新たな涙があかねの頬を伝い落ちる。

「よかっ・・・よかった・・・ほんとに・・・よかっ・・・・。」
「神子殿・・・。」

何度も『良かった』と繰り返すあかねを友雅がそっと抱き寄せる。
頼久が有無を言わさず馬に乗せて連れてきた薬師がよろよろと局に入ってきて、傷を
見ながらいくつかの指示を女房たちに出す。
 一様にほっとするその場をぐるりと眺め渡し、用は済んだ、とばかりにネズミはその場を
去ろうとした。

「あー!ちょっと待て、泰明!」

安堵のあまりどっかりと胡座をかいてしまっていた天真が慌ててネズミを引き留める。

『なんだ。』
「なんだじゃねーよ!藤姫の手紙読んだんだろ?肝心の用が済んでねぇよ!」
『肝心の用とは何だ。』

天真はくしゃくしゃと髪をかきむしる。

「あいつの・・・あの赤ん坊の本当の母親の事だよ!」

この騒ぎですっかり忘れていたが、本来それを突き止めてもらうために泰明に書状を
送ったのだ。
 そうだった、と一同が再びネズミに注目する。

「泰明さん、あの赤ちゃんのお母さんが今どこにいるか、分かりますか?」

詩紋の問いかけに泰明はちょっと黙り、そして空気の匂いをかぐように頭を上げて、
鼻をひくつかせる。

「・・・・・その赤子の母親はもうおらぬ。」
「へ?」
「どこにも気配を感じられない。」
「ま、まさかホントにこいつ捨ててどっかへ行っちまったのか?」
「そうではない。京はもちろん、周辺にも。・・・移動した気配はたどれぬ。」
「それは・・・つまり・・。」

薬師を連れてきたまま、階下で控えていた頼久も眉をひそめる。

「もう、おらぬ。その赤子の母は、この世に存在していない。」




◇◇◇




「・・・ゆ〜りかごの歌を・・・か〜なりやが、う〜たうよ・・・・。」

あかねの声が細く密やかに土御門の西の対に流れる。

「神子殿。」

気の早い蛍が2,3匹水辺を漂っている。友治を抱っこしたまま、その光を追っていた
あかねは振り向き、白い直衣が闇に光るかのような男に微笑んだ。

「皆、落ち着きましたか?」
「ああ。天真なども随分大人しくなっていたよ。」

泰明の落としていった爆弾は随分皆を動揺させた。
母親が亡くなり、父親に任せるつもりで置いていったものなら、身寄りが名乗り出るとは
思われない。
友治の怪我を聞いて駆けつけたイノリや鷹通も揃ってさてどうするか、と顔を
見合わせた男たちにあかねは晴れ晴れと言ったのだ。

「じゃあ、このまま私が育ててもいいよね?」

天真は天井を仰ぎ、詩紋やイノリは口をぱくつかせ。
口々に皆が勝手にしゃべり出すのを面白そうに眺めていた友雅に、ネズミは
ちらりと視線を送り、

「・・・・人騒がせな男だな、お前は。」

とだけ言い捨てると今度こそその身を翻し去っていった。

「おや、友治はまだ起きているのかい?」
「たいしたことないって言われても、頭に怪我してるんですから、早く寝た方がいいと思う
んですけどね、なんだか興奮しちゃってるみたいで、下ろすとぐずるんです。」
「だからずっと君が抱いているのかい?やれやれ、妬けてしまうねぇ。」

いつもの軽口とばかりも言えない口調にあかねはくすくす笑う。

「友雅さんてば、本気で赤ちゃんにヤキモチ妬いてるんですか?」

おかしいよねー、とあかねが友治に頬ずりすると、友治は実に嬉しそうに笑うのだ。
再びあかねは小さな声で歌い出す。

「「ゆ〜りかごのゆ〜めに・・・きいろい月が、か〜かるよ・・・・。」
「・・・・・君はどうしてそんなに優しいのかな?」

あかねを切なげに見つめ、友雅は囁くように言った。

「普通に考えたら平静ではいられないはずの立場の赤子をそんなにも可愛がって。
君が龍神の神子だから?尊い巫姫だから、他の者のように怒って私を詰ったり
しないのかい?」

あかねは軽く目を瞠り、そうして寂しそうに笑った。

「・・・・・私、別に優しくなんか、ないですよ?」
「とても優しいよ。優しすぎて、不安になってしまうくらいだ。・・・・・君にとって私は、
花を愛でるようにただ、優しく接してやるだけの存在なのかと。」

あかねは静かに首を振る。

「優しくなんか、ないです。私、すっごく自分勝手ですよ?だって、友雅さんが私を好きだって
言ってくれて・・・私以外の誰にも心を許すことが出来なかったって言ってくれてすごく
嬉しかった。きっと寂しい思いを長い間していたはずなのに・・・・私以外の人に、先を
越されなくてよかったぁ、とか思っちゃったし。」

意外そうな顔をする友雅にあかねはへへ、と笑って見せた。

「・・・・君は他の女性など全然気にしていないのかと思ったよ。一度もそんなことを
言わなかったから。」
「だって、言い始めたらすごくみっともないことばかり言いそうだったんですもん。
友雅さんが『やっぱ子どもだなぁ』って呆れちゃいそうなくらいみっともないことをたくさん。」
「・・・・・・聞きたいよ。君の言葉なら、どれほどみっともないことだろうと、冷たい罵りの
言葉だろうと。」

あかねは視線を暗い池の向こうに定めたまま、静かに応える。

「・・・・私、実はすごく独占欲も強いんです。友雅さんの体も心も・・・・本当は私が全部
独り占めしたい。例え心がなかったとしても、他の女性が友雅さんに触れたなんて
考えたくないです。・・・・・もっと早く、友雅さんに会いたかった。
誰よりも早く友雅さんに会いたかった。
友雅さんに触れたどの女の人よりも早く、私が友雅さんに出会いたかった・・・!」

あかねの声に嗚咽が混ざる。

「・・・・私はずっと、あかねを待っていたよ・・?」

ふわりと侍従の香りが強く漂い、温かな温もりにあかねは包まれた。
しゃくり上げる毎に溢れる涙を全て友雅が覆い被さるように唇で吸い取って。
友治が、不思議そうにあかねを見上げる。

「あー・・・・うあ?」

小さな手がそっとあかねの頬に伸ばされる。
あかねが微笑み顔を近づけてやると、友治も体を伸ばしてあかねの顔に近づいてくる。
そしてバランスを崩して倒れかかった拍子に小さな唇があかねのそれに触れた。

「おや。」

至近距離で恋人と友治の接吻を見てしまった男は目を瞠る。

「やれやれ、赤子と云えど、私の姫君の唇に触れるなど、許しがたいね。」

不愉快そうな顔は真剣だ。慌ててあかねは顔を上げる。

「事、事故です!今のは、偶然なんですからっ・・!」

「例え偶然でも、私のモノを目の前で奪われて黙っているわけにはいかないねぇ。
私はおそらく、君以上に独占欲の強い男だからね?」

言うが早いか、友雅はあかねの唇を奪う。

「ん・・・・・ともっ・・・んんん・・・っ!」

舌の根本から絡み取られ、息も出来ないほどの深い口づけはあかねの身体から
力が抜けるまで続けられた。

「ふふ、大丈夫かい?」

ようやくその唇を解放し、ぷっくり腫れあがってしまった唇をぺろりと舐めて、男は全然
気遣っているとは思えない問いかけをする。

「もうっ・・・!友治君落っことしちゃうかと思ったじゃないですか!」
「大丈夫だよ、私が君ごと抱えているからね。」
「友雅さんてば、時々ホントに子どもみたいなことするんだから!」

いったい誰が信じるだろう?誰もがうらやむ美貌と優れた才覚、如才ない対応で知られる
左近衛府少将が、実はひどく子どもっぽい、悪戯好きな男だなんて?
頬を膨らませた恋人を大きな袖でそっくり包み込んで。
くすくす笑いながらさらに甘い唇を味わおうと顔を寄せた時、それは始まった。

「と、友雅さん!?」

腕の中の友治の姿が次第に薄くなっていく。まるで月の光に溶けていくかのような
その状態に、あかねは狼狽えて背後の恋人を見上げた。

「おや・・・・そろそろ刻限のようだね。」
「刻限?何のことですか?」
「この子が本来あるべき場所に還る時が来たということだよ。」
「『あるべき場所に還る』って・・・・どういう事ですか、友雅さん!」
「あかね、君は本当に私が君以外の誰かに子どもを産ませたなんて信じていたのかい?」
「え?だって・・・・あ、ああ・・・消えちゃうっ・・・!友治君!」

慌てて抱き留めようとしたあかねの腕は空気を掠めて交差した。
きらきらと月の粒のような光がしばらく宙を漂い・・・そして、消えた。
辺りは静寂に包まれる。

「友治君は・・・・どこか、ここでないところから来たって事です、か?」
「そういうこと。あれは他の誰かが産んだ私の子ではないのだよ。」
「・・・・そして友治君はそこへ帰ってしまったんですね?もう・・・・会えないのかな・・。」
「おや、寂しいのかい?」

友雅は俯いてしまった恋人を優しく腕に閉じこめる。

「だって、すごく懐いてくれていたのに・・・・・友雅さんは寂しくないの?それに、どうして
友治君がもうすぐ帰るってことまで知ってたんです?」
「ふふ、不思議かい?・・・私としては例え赤子といえど『今の』私以外の男が君の腕を
独占している姿などこれ以上見ていたくはなかったねぇ。」

独占欲丸出しの台詞を甘く囁かれ、あかねは夜眼にも分かるほどに頬を染める。

「何言ってるんですか、もう!」
「ああ、そんな風に怒ってらっしゃる姿も可愛らしいね。・・・ねぇ、あかね?『友治』は
消えてしまったけれど、ちゃんと君の前にいるのだよ?」
「は?」

くすくす笑いながら、友雅は前髪をぐい、と掻き上げた。

「月明かりでは少し見づらいかな?ほら、この辺りを・・・触ってごらん?」

腰を屈め、あかねの手を取り己の前頭部へと導く。
生え際の少し上、さらさらした髪と滑らかな頭皮に触れたあかねの指先に微かな違和感。

「え?これ・・・・?」
「傷はたいしたことはなかったのだけれど、少し痕が残ってしまったのだよね。」

立ち上がり、友雅は悪戯っぽく笑う。
あかねは必死で頭の中を整理した。

『友治』は友雅にそっくりだった。
『友治』はどこか違う世界から来て、そして今そこへ帰って行ったらしい。
『友治』と『友雅』には同じ所にアザがあるが、同じ所に傷もある・・・。

「ま、まさか!友治君って、友雅さんなんですか?友治君が来た世界って、友雅さんが
赤ちゃんの頃のっ・・・・!」

直衣に縋り付く恋人を友雅は朗らかに笑いながら抱きしめた。

「ようやく分かってくれた?全く、いつ気がついてくれるかとずっと待っていたのだよ。」
「分かるわけないじゃないですか!って、友雅さん!いったいいつから気がついて
いたんですか!」
「最初からだよ。」
「最初からぁ?」
「あの衵の柄には見覚えがあったしね。それに亡くなった乳母から、赤子の頃五日ほど
行方知れずになったことがあって、人攫いに浚われたに違いない、もう生きていない
だろうと皆が泣いていたと聞かされていたからねぇ。」

してやったりと楽しそうに嘯く友雅にあかねは開いた口がふさがらない。



ではあれほど皆が大騒ぎしたのも、あの子の母親を捜そうとしていたのも、全部
無駄なことで・・・。

「友雅さん!何で言ってくれなかったんですか!そしたら皆あんなに怒らなかったし、
お母さんを捜して京中を走り回ったりなんてしなかったのに!」

友雅は嫌そうに蝙蝠で顔を隠す。

「天真やイノリに、神子殿にむつきを換えてもらっているのは私だと言えというのかい?」

そんなことを言ったら彼らはきっと鬼の首を取ったように大喜びするだろう。
口には出さなくても詩紋や頼久、鷹通だって平常心ではいられないに違いない。

「だからって・・・。」
「彼らに弱みを見せるなんて、死んでもごめんだね。」

ぷいっと拗ねてしまった大人げない恋人に、あかねは呆れてしまって二の句を告げない。
ああそうか、とあかねは納得がいった。

『赤子の母親はもうこの世にはいない』

 友雅の母親は彼が小さい頃亡くなったと聞いた。泰明は分かっていたのだ。
そして聞かれたことに的確に答えた。



 ・・・・にしたって・・・泰明さんも、もう一言くらい教えてくれたって・・・。




「ねぇ、あかね、そんなことより・・・気がつかないの?」
「は?」

友雅は更に企みがあるかのように笑うとあかねを再び抱き寄せた。

「きみは私が他の姫君より先に私と出会えなかったと嘆いていたけれど・・・・君は私が
初めて出会った愛しの君なのだよ?他のどの女君でもなく、君の腕でなければ
抱かれるのを拒むほどにね?」
「はっ?そ、そんなの!赤ちゃんの頃のことでしょう?」
「おや、私が本当にただ、懐いていただけだと?まるで乳母に懐くように?」

あかねはちょっと言い淀む。
生後半年の赤ん坊だ。普通に考えればそのはずだ。
だが友雅に関しては断言できないものがある。

「疑っているのかい?私の初めての接吻まで捧げたのに・・・・つれないねぇ。」
「初めてのって・・・あ、あれは事故ですっ!」
「『事故』で片付けられてしまっては『友治』が報われないよ?仕方ない、彼の分も
私ががんばるとしようか。」
「『彼』〜?だってあれも友雅さんじゃないですか!」

不穏なものを感じて抜け出そうとするあかねの身体を左近衛府少将はしっかりと押さえる。

「取りあえずは・・・・先ほど君が歌っていた寝させ歌を、もう一度聞かせておくれ。
寝所でゆっくりと・・・・ね?」

君の腕の中でないと私は眠れないのだよ、とお強請りする男にたまらずあかねは笑い出す。

「分かりました。何度でも歌ってあげます。でも、その代わりいい子でねんねしてくださいね?
おいたはなしですよ?」

とぼけて明後日の方向を見る男をぺしっと叩いて局の方へ一緒に歩きながら、ふと
あかねは蛍が飛び交う池を見やる。

 『友治』は幻だったけれど、いつかきっと、それほど遠くない未来に。

この腕に愛しい男の分身を抱くことが出来るだろう。
その時には、もっともっとたくさんの子守歌を、歌ってあげよう。

その子が大きくなった時に、寂しい瞳で
      月を見上げたりすることがないことを祈りながら───────────












 初「京ED」後です。(パラレルばっか書いてるから・・)

『神子殿』って呼びかけが新鮮でした!赤ちゃん友雅さんを書くのがひっじょ〜に楽しかったのですが(○○○しちゃう友雅さん・・・うぷぷ♪)。さて、生後半年でいったいどれだけが意図的だったのか?それは、永遠の謎、ですね♪

夢見たい / koko 様