恋する糖尿病 |
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= 春 = |
窓から差し込む光の色が橙色に染まり始めていた。 日中よりも深い角度で差し込むそれは、ソファに寝ころぶ男の顔にも色を付ける。 規則正しく上下する胸と、それに合わせた呼吸音。 ソファからは、はみ出した足がだらりと垂れ下がっていた。 「…………ん」 誰かに呼ばれたような気がして、男の意識が夢から現へと傾き始める。長い睫毛がふるりと震え、目蓋の下から青空を溶かしたような色の瞳が現れた。 「あかね?」 のっそりと起き上がり、寝ぼけ眼で部屋を見渡す。 時計の針は五時に差し掛かろうとしていた。 カチカチと秒針の音だけが響き渡る、静かで、誰もいない部屋。 「気のせいか…」 残り少ない春休みを満喫すべく、あかねは蘭や詩紋達と遊びに行ってしまった。夕飯までには帰ってくると言っていたけれど、きっと話が長引いてしまうだろうから帰宅時間は七時か八時か…。 とにかく、まだまだあかねが帰ってくる時間ではない。 テーブルの上のお茶はすっかり冷え切ってしまっていて、寝ぼけた頭を覚ますのにちょうど良い不味さだ。湯飲みの底に残っていた苦々しい液体を一息で飲み干すと、友雅はシンクに向かいこびりついた茶渋を落とし始めた。 カウンター越しに眺める室内はすっかり緋一色になっており、夕方独特の物寂しさが友雅の胸を占める。 あかねのいない一日などつまらなくて。 こんな時間が早く過ぎるようにと昼からふて寝を決め込んで。 目覚めたときには愛しい人が傍にいてくれることを願っていたのに。 この仕打ち。 「君はひどい人だねぇ」 湯飲みを水切り籠に放り込み、苦笑しながら呟いた。 嗚呼全く。なんて自分勝手な想いだろう。 「さて。夕飯は何にしようか」 何もしないでいると寂しさに負けてしまいそうになるから、とにかく動いて気を紛らわせよう。冷蔵庫には鰈があったはずだから煮付けにしようかムニエルにしようか…そんなことを考えながら暗くなり始めた室内に明かりを付けて。 心を揺らす黄昏の空とさよならすべくカーテンを閉めようと窓に向かった友雅の目に、ベランダで悲しく干されたままの布団が入ってきた。 「おっと、すっかり忘れてしまっていたね」 せっかくふかふかになった布団だって夜露に濡れたら意味がない。友雅は慌ててサンダルに足をつっかけて冷えかけた布団を回収し始める。 「下に落ちたのはないか…ん?」 柵から少し身を乗り出して落下物の確認をしていた友雅は、嬉しい存在を見つけて顔をほころばせた。どこか歩き方が頼りなさそうなのは疲れているからだろうか。 「おかえり、あかね」 マンションの八階から声をかけても聞こえないだろうと思ったのに、意外にもあかねはこちらを見上げてきた。目が合って、互いに手を振り合う。 ――――ただいま やっぱり声は聞こえなかったけれど、確かにあかねの口はそう告げていた。 * * * 「ただいまー。友雅さん、お土産買ってきたよ」 友雅がベッドメイクを終わらせるとほぼ同時に玄関のドアが開いて明るい声が響き渡った。 「おかえり、早かったね。今お茶を入れるから座ってておくれ」 「なんだか友雅さんに会いたくなっちゃって。途中で抜けて来ちゃった」 ちょっぴり恥ずかしそうに言ってあかねははにかんだ。そんなことを言われたら寂しかったなんて恨み言も言えやしない。友雅は大人しく湯を沸かして茶を淹れる。 「これね、大福なんだけど中がクリームになっててとっても美味しいの。甘さも控えめだから友雅さんも大丈夫だと思って」 テーブルの上には皿に乗った大福がちょこんとひとつ。 あかねはそれをソファに腰掛けた友雅の前につついと差し出した。 「おや。あかねは食べないのかい?ひとつしかないなら分けてくるよ」 「う、ううん。良いの、大丈夫。私はさっきみんなと食べたばっかりだから」 甘いものに目がないあかねが遠慮するなんて珍しいことだ。いつだってお土産は二人分買ってくるし、友雅から貰えるおこぼれに目を輝かせているのに。 もしやダイエットでもし始めたのだろうか。あかねは今のままで充分綺麗だし、むしろもう少し肉付きが良くなった方が艶気が増すと思うのだけれど……などとつらつら考えながら友雅は一口大の大福をぱくりと口にする。 「ん…美味しいね。とても上品な味をしてる」 「でしょ!良かったー、気に入って貰えて。また今度行ったときも買ってくるね」 「それもいいけど、また一人にされるのはごめんだよ。菓子ならばあかねの方がこれの何倍も甘くて美味しいのだし、行くなら二人で出掛けたいよ」 軽口の中に、ちょっとの恨みと次なるお誘い。あかねの喜んだ顔についつい甘えが出てしまった。友雅にしてみれば、いつも通りの愛の囁き。ただあかねにとっては違ったようで、笑顔を急にしぼませて俯いてしまった。 不思議に思って声をかける前に、あかねが友雅に質問してきた。 「ねぇ友雅さん、私ってそんなに甘い?」 「もちろん。君の肌も蜜も、この世のなによりも甘いね」 ほら、こんなにも…そう言って友雅はあかねのこめかみに口付けを落とす。いつものあかねならここで「もう、友雅さんったら」などと顔を赤らめるところだ。 しかし今日は様子が違った。眉根をキツク寄せ、今にも泣きだしそうな顔でじっと友雅を見つめている。 「あかね…?どうしたんだい」 何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。気付かないうちに最愛の恋人を傷つける何かを。 友雅の中で疑念が渦巻いている間にも、あかねの瞳にはみるみる涙が溜っていく。 「っく…うっく…友雅さん…私がいなくなっても、一人で生きていってね。後追ってきたりなんてしたら嫌よ」 「あかね!?いったい何を言うんだいっ」 まるで永遠の別れのような物言い。 一体あかねに何があったのだろうか。 いや、あかねの身にこれから何が起こると云うのか。 「ねえ、あかね。どうしてそんなことを言うんだい?ゆっくりでいいから説明しておくれ」 震える身体を抱き寄せて何とか落ち着かせようと背中を叩いてやる。 「…ぅ…あのね…」 「………糖尿…病?」 友雅の、大きくて温かい手に促されてあかねが話したのはなんとも信じがたい話で。 「あかね、君が病気だなんて私は信じられないよ。どうしてそんな風に思ったんだい」 「だって友雅さんいつも私のこと甘い甘いっていうから…。お菓子食べすぎて体が砂糖漬けになっちゃったのかもしれないって思ったの」 あかねは悩んだ。病院に行くのは怖くて、でも確かめなければいけないと、思い切って蘭や天真や詩紋に相談した。恋人が自分のことを砂糖菓子のように言うのは本当に糖分が多すぎるからではないかと…。 あかねにしてみれば大真面目な話だが、聞かされた方にしてみればノロケ以外のなにものでもない。つい「そりゃ一生治らない病気だ」などど呆れながらに言ってしまえば、素直な少女は馬鹿正直にそれを信じてしまったと言うわけだ。 「きっと私、そのうち身体中に蟻がくっつくようになって、蟻に食べられて死んじゃうんだわ」 「あかね……」 収まりかけていた涙がまた溢れ出して、あかねの頬を次から次へと滑り落ちていく。その塩辛い雫を拭ってやりながら、友雅の胸は締め付けられるような苦しさでいっぱいだった。 嗚呼全く。自分はなんて愚かだったんだろう。 愛しい人が苦しんでいるのにちっとも気づけなかったばかりか、不安を煽るようなことばかり口にしていたとは。 「すまない…辛い思いをさせたね」 「ううん、私がいけないの。ずっと黙っててごめんなさい」 抱きしめる腕に力を込めて友雅はあかねの不安を溶かそうとする。 もちろん、あかねが糖尿病だなんて生活習慣病にかかっている訳はない。それは一緒に暮らしている友雅が誰よりも分かっていた。 おそらくは天真あたりが言ったであろう無神経な言葉のおかげで、あかねは大いなる誤解の渦に巻き込まれてしまっている。一刻も早く少女をこの悲しみから救ってやらなければ。 友雅はあかねの額に口付けを落として、泣きじゃくる少女の注意を自分に向けさせる。 「ねぇあかね。良く聞いて。確かに私はよく君のことを甘いと言うけれど、本当に甘いのかと言えばそうではないのだよ」 「え…そうなの?」 少女の涙がピタリと止まり、うるんだ瞳で友雅を見返した。愛らしい恋人の上目使いは男の股間を直撃するが、今は少女の勘違いを解く方が優先事項。あかねを腕の中にすっぽり閉じ込めて、友雅は語るように言葉を続ける。 「私があかねを甘いと言うのはね、貴方が愛しいからなのだよ。肌の香りも発せられる声も、繋いだ場所から伝わる温もりも――――溢れる想いがその全てを甘美なものにしてくれる」 「好きだから…甘くなるの?」 「そうだよ。あかねは違う?私と過ごす時間を甘やかな一時だと思ってはいない?」 愛しいものは甘くなる。それは味覚だけの話ではなくて。その人から漂う香り、触れた肌から伝わる温もり、くるくると変わる表情、その全てが心を熱く甘く震わせるのだ。 「じゃあ私、病気じゃないの?ずっと友雅さんと一緒にいられるの?」 不安に曇っていたあかねの瞳が、みるみるうちに明るくなっていく。 「もちろんだよ。私とあかねが離れる未来なんて考えたくもないね」 「私も友雅さんと離れたくない。病気じゃなくて良かった…」 大いなる勘違いも解け、あかねの心もすっかり晴れて明るい笑顔が戻ってきた。良かった良かったとこの安心を確かめるように友雅の胸にすりすりと頬を寄せる。 「ふふ、くすぐったいよあかね」 「だって嬉しいんだもん。友雅さんにくっついていたい気分なの」 雨降って地固まるとはこのことだろうか。押しつけられる柔らかな身体を味わいながら、友雅はこの事件の発端者に感謝すらしていた。今夜はきっと極上に甘いスイーツが食べられることだろう。 目の前にいる砂糖菓子のような存在をいかにして味わい尽くすかを友雅が考え始めた頃、ふとあかねが何かに気が付いたような声を上げた。 「どうしたの?まだ何か気になることがあったかな」 「うん…今思ったんだけどね。友雅さんは私をいっぱい愛してくれるから私のことが甘くなるんだよね」 「そうだよ」 「じゃあ…私の友雅さんへの愛って、まだまだ足りないのかも」 むむぅ、と眉間にしわを寄せてなにやらあかねが考え出した。 「足りないことなどないよ。私は十分に君の愛を感じているよ」 「だって…友雅さんの“アレ”、どうしても苦いって思っちゃうから」 「……………アレは、その、別に無理して飲まなくても良いのだよ」 頭の中の邪な気持ちを見透かされたような発言に友雅の体は一瞬凍り付く。対してあかねの方は、至って真剣にこの問題について悩んでいるようだ。 「苦いけど、でも嫌いじゃないの。むしろ癖になる感じで好きなんだけど…やっぱり、友雅さんを大好きーって気持ちが足りないって思うのはイヤだし」 「元々苦いモノだから…あかねの愛情とは関係ないと思うのだがねぇ」 世の中どんなに頑張っても覆せないことはある。 ゴーヤもパセリもピーマンも、好む好まざるに関わらず苦いもの。 「ん〜〜、決めた!私、友雅さんのこともっと愛せるように努力する。苦いのが甘〜くなるまでいっぱいいっぱい好きになるからね」 「それは…何とも嬉しいお誘いだね。では私も君が愛を捧げるのにふさわしい男になるよう頑張るよ。協力して欲しいことがあったら何でも言っておくれ」 「ありがとう!友雅さんだーいすき」 友雅とてあかねに無体を働きたい訳ではないから、行為を強要しようとは思っていない。ただあかねがいつもそれを望むのなら無理にやめさせようとは思わない。少女に悪いと思いつつそれを喜んでいる己がいることも確かなのだから。 「あ。今ならもしかしたら苦くないかも。ねえ友雅さん、早速でごめんなさいなんだけど…お願い、聞いてくれる?」 「いいよ。私の姫は一体何をご所望なのかな」 別に口にしなくても分かるけど、それでも君の口から聞きたいから。 いじわるな恋人でごめんね。 「もう、友雅さんったら…ベッド、行こ?」 愛しい人の唇に羽を落として、砂糖菓子の女神は微笑う。 嗚呼全く。なんて幸せな病なんだろう。 夢のような現に溶かされて、窒息死してしまいそうになる―――――― |
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戯れの宴 / 橘 深見 様 |