そんな日曜日の夜 |
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= 21.勤労感謝の日 = |
パシャンッ…浴室に弾ける水音が響いた。 温泉の元を入れた湯は乳竹色に染まり、白雪のような少女の肌をそのにごり湯の中に隠してしまう。 「ん〜〜、良いお湯。やっぱりピカピカのお風呂は気持ちが良いですね。お掃除ありがとうございました、友雅さん」 「そう言われると私も頑張ったかいがあるよ。あかねも換気扇との格闘お疲れ様」 「あの油べとべとは辛かったー。普段お掃除してるつもりでも結構汚れが残ってて。擦りすぎて腕疲れちゃった」 十一月の末。勤労感謝を含むこの連休を利用して、友雅とあかねは一足早い大掃除を済ませてしまった。 去年は“クリスマスが終わってからにやればいいや”とのんびり構えていたのだが、とんでもない。師走に入ってからはお歳暮選びに始まって各種忘年会、実家への顔出し及び手伝い、自治会イベントの参加などなど…あっちにこっちにと大忙しでろくに掃除が出来なかった。 だが今年は違う。友雅の妻になってから二年目で、まだまだ新米主婦とはいえ大切な家を預かる身。年末年始のひとつやふたつ、軽くこなせなくてどうするのだ!と、前年の失敗を踏まえ、一番時間のかかる掃除だけは師走前のこの連休にやっつけようと前から決めていたのだ。 土曜日曜と二日掛けた甲斐あって家の中はどこもかしこもピッカピカ。くたびれた体を癒すためすこし熱めに沸かした湯は、最近厳しくなった北風に冷えた体を心地よく包んでくれた。あかねは首筋まで深く沈み込んで、その心地よさを堪能する。 「おや、そんなに沈まれたら君の肌が見れなくて寂しいね」 「寂しいも何も、肩までちゃんと浸からないと冷えちゃうからこれでいいの。友雅さんもきちんと暖まらないと疲れがとれないよ」 あかねの向かい側には肩どころか胸の下辺りまでしか浸かっていない友雅がいた。見慣れているとはいえ、狭い浴槽の中で真正面に厚い胸板があると、正直、目のやり場に困る。 それに今日はたくさん動いたのだから、しっかりほぐさないと体の芯に疲れが残ってしまいかねない。 「でも二人で沈んだら湯が溢れてしまうからね。仕方がないよ」 浴槽は足が伸ばせる少し大きめのタイプだが、二人で沈んだらきっと湯が零れてしまうだろう。 「あかねはそのまま浸かってなさい。私は髪を洗ってしまうから」 「もー。後でちゃんとあったまるんですよ」 ザバリと立ち上がった友雅から目を背けつつ、あかねは口を尖らせながら頬を染めた。 結婚して二年。つきあい始めて五年。 それでもやっぱり、恥ずかしいものは恥ずかしい。 なのに一緒にお風呂に入るのは、光熱費節約とはまた別の理由があったりする。 ひとつは夫婦の会話の場を設けるため。 もちろん二人はしょっちゅう一緒にくっついては砂吐くような会話を繰り広げているのだが、衣服を脱ぎ捨て母親の胎内にいたときのように水に包まれる入浴時は心も体もリラックスするのだろう。普段なかなか言えない不安や悩み事を、するりと伝えることが出来る大変貴重な場だとなっている。 もうひとつは、あかねの密やかなる楽しみのため。 愛しい旦那様の裸体を本人に知られることなく存分に堪能できるのは友雅が髪を洗っているこのときだけだ。直接見るのは恥ずかしくても、横目でちらちら盗み見すれば、引き締まった体躯の上をシャンプーの泡が滑り落ちていくさまがなんとも艶めかしい。 普段あまり見られないうなじや、小刻みに動く肩胛骨を眺めていたあかねの視線が、ふと脇腹辺りで止まった。シャンプーの泡が滑り落ちず、そこだけくっついている。じっと見ていても一向に落ちる気配がしないそれを見て、あかねはあることを思いついた。お湯の中で手を組んで、慎重に狙いを定める…。 「えいっ」 あかねが放った水鉄砲は見事に命中し、泡は友雅の肌に沿って流れ落ちていった。 「…?あかね、今何かしたかい」 「してないしてない。何にもしてませんよー」 口ではそう言いつつも、この泡射的が面白くなってきたあかねは次々と別の泡を撃ち落としていく。その度に何かしたかと聞いてくる旦那様にあかねは笑いを堪えるのに必死で、肩をふるわせる度にお風呂の湯がチャプチャプと音を立てた。 「あかね、シャワー出してもらって良いかな」 「あ、はーい」 洗髪を終えた友雅の手が宙を彷徨う。その手をシャワーヘッドまで導いてコックを捻ると、勢いよくお湯が降り注いだ。友雅の泡まみれの真っ白な頭がみるみるうちに艶やかな黒髪へと変わっていく。 「変えてみたシャンプーの調子どうですか?」 「そうだね、なかなかいいよ。香りも良いし、私の髪にも合ってるみたいだし…ね!」 あかねがのんびり質問などしていると、突然シャワーがあかねの方を向いてきた。大量の水飛沫が一気に襲ってきて、鼻の中にまで容赦なく入りこんでくる。 「ぶはっ!と、友雅さんギブギブ!ごめんなさい!!」 「私が気付いてないとでも思ったのかい。このいたずら娘が」 「だからごめんなさいってば!もう止めてー」 油断しているところをやられたものだから、思いっきり顔面で受けとめてしまった。咳き込むあかねを横目に笑いながら友雅はリンスを髪に付けていく。 「ふふ、私の裸を見たいのなら素直に見ればいいのに」 「げほげほっ…違うもん、誰も友雅さんの裸なんてみてないもん」 「では私が感じたあの熱い視線は一体誰のだったのかな?ここにはあかねしかいないのに」 「それは友雅さんの気のせい!もう私、出る。友雅さんはちゃんと暖まってから出てくること、いいですね」 時間差入浴で先に入っていたあかねは、もう髪も身体も洗い終わっている。あまり裸姿を見られないよう、友雅が下を向いた隙を狙って急いで浴室から出て行った。 「まったく、あかねはいつまでたっても素直で可愛いね」 呟いた友雅の声は扉の向こうの妻にも聞こえたらしく、身体を拭いたタオルの塊が抗議のようにベシンッと叩きつけられた。 「もー、鼻に水入って痛いし…」 風呂上がりの湯気をほこほこ上げながら、あかねはリビングのソファで鼻をかんだ。 いたずらを仕掛けたのは確かに自分だが、あんな報復が来るとは思わなかった。あかねもそうだが、友雅も結構いたずら好きで子どもっぽいところがあると知ったのは、結婚して一緒に住み始めてから。恋人ではなく夫婦になってからみせる新しい顔は、本当に心を許してくれている証のようでなんだか嬉しかった。 ドライヤーで髪を乾かし、化粧水や乳液で肌の手入れをしながら友雅が出てくるのを待つ。今は身体のどこを洗っているのだろう。足の指だろうか、それとも首周りだろうか。 友雅と一緒の時は友雅のことしか考えられない。 友雅と離れているときはもっと友雅のことしか考えられない。 「あかね、今出たよ。本当にいい湯だったね」 先程のあかねと同じく湯上がりの蒸気を纏った友雅が、リビングへやってきた。ソファに腰を下ろして、ただいまの挨拶代わりにあかねの頬にキスを落とす。 「家の風呂でもあんなによかったのだから、あの温泉の元になった湯にも行ってみたいものだね。本物はもっと素敵なのだろうから」 「そうですね。私も、あのお湯の色好きです。雪見風呂とか憧れちゃうな〜」 「年末年始は厳しいから、二月三月で空いた日を作って行ってみようか」 そんな温泉話をしながらあかねはソファの後ろに回り込んで友雅の髪を丁寧に乾かしていく。熱で髪が傷まないよう慎重に、でも時間を掛けすぎて冷えないように。 濡れたときだけに見られるストレートも好きだけど、やっぱり旦那様にはいつもの天然ウェーブがよく似合う。乾いていくうちに生まれてくるうねうね髪を見ると、あかねの心はいつもトキン…と揺れ動いて仕方がない。 「いつもありがとう。私もたまには君の髪を乾かしたいのだがね」 「だって友雅さん待ってたら風邪引いちゃうもの。だからおあずけ。また別の時にね」 「おあずけって…、私は犬かい?」 「ううん。私の大好きな人っ」 ソファ越しに抱きついて、あかねは友雅の髪に顔を埋めた。力一杯抱きしめた後に顔を上げると、振り向いてきた友雅と目があった。 一瞬。視線だけで会話をした後、互いを求めて唇を交わす。 友雅が回された腕を引っ張ると、ころりとあかねが膝の上に転げてきた。 「ね…今日はもう、寝ない?」 時計は九時半を少しまわったところ。いつもはもう少し遅くまで起きているのだが…。 「大掃除で疲れた?今日は布団も干したから、ぐっすり眠れるだろうね」 「そうじゃなくて、その、明日は休みだから…ね」 分かっているくせに茶化す小憎らしい夫の脇腹を指でなぞって、あかねがもう一度誘いを掛けた。今度は友雅も素直に応じて愛しい妻の身体を柔らかに抱き上げる。 「今日はね、私がいっぱい友雅さんにしてあげる」 「それは楽しみだね。でもどうして?」 「勤労感謝の日…だから」 日の光をたっぷり浴びた布団はあかねの体をふわりと包み込んだ。 「いつも友雅さんにいっぱい愛されて幸せだから、今日はそのお返しをする日なの」 「おや、今日はそういう日なのかい?それは…困ったね」 「どうして?」 下から見上げるあかねの瞳が、きょとんと疑問を投げかけた。 「私もね、いつもあかねに愛をもらって幸せだからお返しをしたいと思うのだけど…ダメかな?」 「ん…ダメじゃ、ないです。いっぱい愛して」 「よかった。では、今夜は思う存分互いを愛し合おう…」 あかねの腕が友雅の首に絡んで、引き寄せるように口付けた。 明日は振り替え休日でお休みだから、のんびりしても大丈夫。 大丈夫だから、思う存分愛し合おう。 幸せに輝く室内に、愛しい人が傍にいて、自分だけを見つめてくれる。 ただ、それだけのこと。それだけのことが、涙が出そうになるくらい嬉しい。 身体を重ね心を重ね、魂さえも混ざり合う時間を過ごして、伝えたいことはただ一つ。 いつもありがとう。私もあなたを、愛しています… |
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戯れの宴 / 橘深見 様 |