天使のキスで眠らせて |
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= 03.医者と看護師 = |
ランチボックスの蓋を開けると、友雅が頼んだとおりのメニューが詰め込まれていた。 こんがりと焦げ目のついた、BLTサンド。あかねのレシピは、プラス目玉焼き。 マフラーやらストールなどで何重にも包んでいたから、十分作り立てのように暖かい。 「懐かしいねえ、あかねの作ったBLTサンド。昔を思い出すよ。」 食べやすいように四分の一にカットされたそれを、友雅は一つかじってみる。 瑞々しいレタスの歯ごたえが、耳にも爽やかに聞こえた。 「どうして、急に食べたいなんて言い出したんですか?」 ポットからコーヒーを注ぎながら、あかねが尋ねた。 元々食が太いわけでもないので、当直の時もすすんで夜食を頼むことは少ない友雅が、珍しく今日はこんなリクエストをしたのが不思議だった。 「ま、深い意味はないんだけれど…。差し入れによくもらったなあ、と思い出しただけだよ。」 「ああ…そういえば、そうでしたね…」 彼女の差し出したカップを、友雅は受け取った。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ あれは…まだ、あかねが高校の衛生看護科学生だった頃のことだ。 2年目の臨床実習で、指導を受けた医師の中に彼がいた。 ------それが出会い。 その時、あかねは初歩的なミスを犯した。 しかもそれに自分で気付けず、おかげで看護師長から大きな雷を落とされた。 施術前の事で大事には至らなかったが、今思い出しても弛んでいる、と自分を戒めたくなるくらい。 咎められても仕方ない。そんなミスをした自分が悔しくて、半泣きで小言を聞き続けていた時、間に入って庇ってくれたのが、彼だった。 "数週間しか実習が出来ない学生に、余計な用件をいくつも押し付けて焦らせた。彼女が不注意を招いてしまったのには、少なからず私にも責任がある"と言って。 申し訳なくて、でも…庇ってくれたのが嬉しくて、お詫びと御礼を言わずにいられなくて……昼休みに彼の所へ行った。 もしかして怒られるかと思ったが、逆に"ミスは繰り返さなければ、それで良い"と、もう一度励まされて…本当に嬉しかったのだ。 その時、はじめて一緒に昼食を摂った。 友雅は出来合いのランチプレートで、あかねはお弁当持参で、その時のメニューがBLTサンド。 食事をしている最中でも、さっきの事を詫びている彼女に言った、友雅の一言。 『じゃあ、私に申し訳ないと思っているなら、お詫びにそのBLTサンドをご馳走してくれるかい?』 突然そんな事を言われて、頭の中がクエスチョンマークだらけになってしまったが、別にそんなこと全然問題なかったので、そのまま彼に差し出した。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「でもー…友雅さんて、BLTサンドがそんなに好きだったんですか?」 来る途中で自分用に買った、暖かい烏龍茶を啜りながらあかねが言う。 「いや別に。」 「じゃあ、何で私のサンドイッチが食べたいって、あの時言ったんですかー?」 そう問われたが、咄嗟に考えても…理由はハッキリと浮かんで来ない。 何故、あの時にそう言ったのか。 強いて直感にあてはめるとしたら… 「私の味覚に合いそうなサンドイッチだなあ、とか…思ったのかもしれないね。」 「はあ…?よくわかんないんですけどー」 だが、それがすべてのきっかけだったのだ。 彼女からもらった手作りのBLTサンドは、本当に何故か妙に美味しいと感じて。 実習生たちの指導の傍らで、あかねとは顔を合わせるたびに会話が多くなっていった。 もちろん、医療や看護についての話もあったが、そのうち私的な雑談まで話せるようになって。 「確か学会が近い時だったっけね。今日みたいに当直で朝まで病院にいなくちゃいけなくて。それなのに書類もまとめないといけなくて大変だ、って話してたら…夜食を差し入れてくれたんだよね。」 「そうそう、そうでした!」 懐かしい想い出が浮かび上がって来る。 ただでさえ夜勤は大変なのに、それに加えて資料や論文まで書かないといけない彼。 せめてちょっとくらい、サポート出来ないかな…と考えてみたが、学生が出来る手伝いなんてあるわけがない。 自分に出来ることと言ったら…差し入れをすることくらいかな、と。 「その差し入れが、またまたBLTサンドだったんだよね」 「だってっ、友雅さんが美味しいって言ってくれたから、それが良いかなーって!」 お世辞だろうとは思っていたけど、何だか嬉しかったのだ。 「本当に美味しかったんだよ?。だから、それからもずうっと、リクエストしてたじゃないか。」 友雅自身、食べ物には特別なこだわりは無い。 美味いもので、それなりの栄養素が整っていれば十分。 気に入ったものならば、ずっと食べていても平気だし飽きない。 そういう意味で、あかねのサンドイッチは友雅にとってはアタリだった。 しばらくして、彼に夜食の差し入れをするのがあかねの習慣になり、話をする機会は増えて行き、一ヶ月半の実習が終わったあとも…お互いの連絡は途絶えることはなく。 だんだんと会話の割合は、医学的なことからプライベートの話題の領域が増え、その会話は互いに共通の内容を持ち始めた。 晴れて看護師となり、彼のいるこの病院に勤務が決まったのは良かったが、ドクター×看護師の覆面をかぶり続ける勤務生活は、結構息苦しくもあったけれど。 そんな生活ともやっとサヨナラ出来て、今はこうして堂々と自然に、一緒にいられるのが素直に嬉しい。 「あかねの作ったものを食べたら、その辺で売ってるものは食べられなくなるね」 「……そこまで言うと、お世辞どころか嘘っぽく聞こえますけど」 穿った言い方をしながらも、表情はそれほどまんざらな感じではない。 それはただ、彼女の照れ隠し。 「嘘じゃないよ。古風な言い方だけど、ずうっとこれから、あかねが作ってくれるものを食べて生きて行けると思うと、幸せだなあって思うよ。」 「も、もう良いですってば、そういう話はっ」 車のエアコンは低めにしてあるのに、そんな彼女の頬は赤くなって、ペットボトルの蓋を開けたり閉めたり…。 友雅は、あかねの左手を取る。 細い薬指には何も無いけれど、うっすらと残るエンゲージリングの跡。 普段は付けられない彼がくれたリングは、休みの時だけはずっとはめている。おそらく今日も、そうだったんだろう。 「これからは夜食だけじゃなくて、朝も夜もご馳走してもらえるね」 「えー?それじゃあ、お昼はいらないってことで良いんですねぇ??」 顔を覗き込む悪戯な瞳が、きらきらしている。顔を見合わせると、二人とも笑い声が込み上げて来た。 「お昼くらいは私がご馳走するよ。」 「ホントですか?やった!」 彼は常に忙しくて、一緒に昼食を取れることは少ない。 それでもたまに訪れるそんな時は、ゆっくりと…出来ればこんな風に二人で。 「ご馳走さま。これで少しは気力が戻った気がするよ。」 二人にとって想い出の深いメニューを味わったあと、友雅はシートを倒して少し身体をぐっと伸ばした。 「あとは仮眠を取って、体力も蓄えて下さい。明日は念願のお休みですから、もうひと頑張りですよ。」 まだ十分中身の残ったポットだけを置いて、ランチボックスをあかねは片付け始める。 明日は友雅もお休み。 皮肉だが、勤労を感謝する日には勤労に従じてしまった。 けれど、明日はゆっくり過ごせる。 有休のおかげで、あかねは今日と明日と稀な連休。 つまり、明日はようやく二人で一日を楽しめる日。 一緒に買い物に行って、ご飯食べに行って、お茶飲みに行って、映画とかも見てみたいなあ…と、やりたいことは尽きない。 「あかね」 横になっていた友雅に名前を呼ばれて、あかねは振り返る。 「キスしてくれない?」 「……はあ!?」 みるみる赤くなる彼女の顔を、友雅は笑顔でずっと見つめている。 「これから仮眠を取るんだよ。だから、"おやすみ"のキス。」 「何を言ってるんですか!そんなこと言ってないで、早く当直室に戻って下さい!」 「だって、いつもしてることじゃないか。でも、たまにはあかねから…ね?」 友雅の手が伸びて、あかねの手を握る。 それは、まさに"逃がさない"と言っているような力を込めて。 「してくれないと、一睡もしないで仕事に戻るよ」 「何ですかそれぇ…。脅迫のつもりですかぁ?」 日本でも有数の名医が、一看護師を捕まえてキスを強請るなんて…セクハラか!と普通なら三面記事になりそうだが。 でも、お互いに薬指の約束をした関係だし、悪びれない艶のある目で見られたら…厳しい態度が砕け掛かるのが悔しい。 「ちょっとだけですからねっ」 そう言ってあかねは、渋々身体を起こして身を乗り出し、友雅の唇に近付づいた。 ひとつしかない駐車場の明かりは、奥にあるここまではあまり照らさない。 薄暗い中で唇を重ねたあと、友雅の両手が、がしっとあかねの背中で組まれた。 「何ですかっ、この手は!」 「ん?眠るには、抱き枕が欲しいなあと思って。」 「だったら、当直室のベッドの枕を抱いて寝て下さいよっ」 そんな風に咎めたところで、彼が大人しく引くわけなどない。 「私の抱き枕と言ったら、あかねしかいないだろうに」 一度閉じ込められれば、そう簡単に友雅の腕は揺るがない。 逃げようとしても、捕らえたら逃がさない。 彼女だけは。 「おやすみ。これで良い夢が見られそうだ。」 「ちょっと?っ!」 BLTサンドで、あの頃を思い出して、今のキスで二人のファーストキスを思い出した。 懐かしさに一度触れてしまったら、離すわけにはいかない。 天使を手に入れた今でも、まだあの気持ちは瑞々しいままで、ここにある。 夜が明けるのは、もう少し先。 夢に見るのは、二人にしか分からない記憶と、これから始まる二人だけの未来。 -----THE END---- |
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右近の桜・左近の橘 / 春日恵 様 |