きみは、わが魂、わが心 |
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= 雨 = |
灰色の雨が降る。 重い雲が垂れ込めた空が、泣く。 黒光りする、濡れた大地。 砂色の巨大なビル群。 無表情に通り過ぎる、人形達── ワタシハ ナゼ ココニイルノカ… 意味を成さない音が溢れる。 ムン、としたアスファルトの濡れた臭い。 大きな大きなヴィジョンが、攻撃的な音と光りを放出する。 彼女がいないだけで、何もかもが煩わしく、褪せて見えた。 PM4:55── 今か今かと待つ心には、虹さえも掛かっているようだった。 人混みをかき分け、花のように大きく開いた緑色の傘を揺らして、駆けてくるだろう人。 裏側にあしらわれた青空の下で、太陽のように笑う。 『友雅さんっっ!!』 少しだけ焦った表情で。 けれど、逢えて嬉しいのだと、全身で叫んでくれる。 そのはずなのに──… PM5:25── その笑みを、その髪を、その眸を、その心を、存在の全てを抱きしめているはずの今。 自分は独り、こうして雑踏の中に身を沈めている。 時折横から殴りつけてくる雨粒を受けて、滅紫のジャケットが鼠色に重く変色していた。まるで、友雅の心中を映したかのような色に、ひっそりと溜息を吐く。 こんなことなら、たまには待ち合わせて──などという言葉に、頷かなければ良かった。 常のように、講義が終わるのを大学の門前で待ちかまえていれば良かったのだ。 そうすれば、こんな頼りない思いをすることはなかっただろう。 まるで、自分がこの世に存在しないような。 まるで、彼女のいない時空に置いていかれたような── PM5:30── 約束の時間から、すでに30分が経過している。 何の連絡もなく、これほど遅れることは皆無だった。何かあったのだろうか。 友雅は嬲っていた携帯電話を持ち直すと、何度目かになる動作を起こした。 リダイヤルボタンを押し、リストの一番上にある『あかね』の名を選ぶ。それはつい3分前にも選択したことを示している。 押した分だけ並べられたら、リダイヤルリストはすべて『あかね』の名で埋め尽くされることだろう。 今度こそ繋がってくれ。そう、願わずにはいられなかった。 友雅の願い虚しく、接続音の後に続いた言葉は相変わらずな機械音声。せめてそれが、彼女が録音した声ならば少しは落ち着けただろうか。 いや、一層逢いたくなっただろう。 どうして出てくれないのかと、どうして遅れたのかと、子供のように拗ねて駄々をこねて、潰してしまうほどに抱きしめたくなっただろう。 ココニハ ワタシノ イバショガ ナイ ── 目の前の横断歩道にも、その先にあるビルの大型ヴィジョンにも、背にした駅にも。 メインストリートの街路樹にさえ、彼女との思い出が染みついているというのに。 歩行者用信号から流れる、ガサついた音楽のことを語ったのはいつだったろうか。昔から歌われる童謡なのだと、軽やかな声で歌ってくれたのは── 息をすることさえ躊躇う程に、世界に拒絶されているように感じる。 何のためにここに存在するのか、意味を失う。 こんなに恐ろしいことが、あるだろうか。 全身が震える。 心底、こちらの世界に渡ってこられて良かったと思った。 悔しいけれど、京にあれば自分の方が先に逝っただろう。彼女を独り残して。今この時の自分のように、彼女から存在の意味を奪い獲り、絶望を与えて死んでいったのだろう。 狂おしいほどの喪失に慟哭し、再び得ることの叶わない温もりを渇望し、哀しみに蝕まれていくのだ。 この場に彼女がいないというだけで、凍えてしまいそうなこの心のように。 ふいに、息が止まった。全身が総毛立つ。 鼓動が激しく脈打った。 けたたましいブレーキ。 ドンッ、とも、ガンッ、ともつかない衝撃音が轟く。 絹を引き裂くような悲鳴が、伝播する。 人波が立ち止まる。 耳鳴りがする。 めまいが襲う。 翻る色とりどりの服の裾が割れ、その先に横たわっている人の姿が見えた。 翡翠のスプリングコート。 キャメルのブーツ。 ──見覚えが、ある。 あ か ね 「──友雅さん!?」 ビクリ、全身が引き攣った。 何が起きているのかと、彷徨った視線の先。自分が持っていたはずの傘が、ゆらりゆらりと頼りなげに揺れているのが見えた。 見上げれば曇天。大粒の雨が、髪に、頬に、肩に、降り注いでいる。 ぱたりと眦に落ちた雫が、頬を伝っていくうちに温み、顎先から滴った。 「友雅さん…?顔が真っ青ですよ?」 仄かな温もりと甘さを含んだその声が、どこから聞こえてくるのかわからなかった。 それさえも、現実を逃避した末にもたらされた夢のように感じる。 「友雅さん?…どうしたの?具合、悪い?」 ひたりと頬にあてられた物が酷く熱く感じて、思わず背が跳ねた。 口内が乾ききって、悲鳴さえ漏らせない。 彷徨った視線の先、本当に目の前に。 彼女は、いた。 「待たせちゃってごめんなさい。どうしよう…とにかく座ります?」 慌てたように辺りを見回す彼女の頬に、呆然と指を伸ばす。けれどそれは、触れるか触れないかの所で痙攣したように止まった。 霞のように消えてしまったら。 触れることの叶わぬ、幻であったなら…自分はその瞬間に、狂うだろう。 泣き叫ぶことも出来ず、狂気のあまりに見苦しく哄笑する肉になる。 喉が張り裂け、吐血を繰り返しても彼女の名を呼び。 抱きしめる術を探して、永劫を彷徨う。 一瞬の躊躇を見て、彼女は不思議そうに小首を傾げた。 そして友雅の手のひらに収まるように、自らの頬をすり寄せた。 あ た た か い 友雅の唇から、破裂したように空気が漏れる。全身から、ようやく力が抜けた。あまりの緊張状態だったのだろう。その脱力感に、立っていることさえ困難だった。 へたり込むように崩れた身体を、白いスプリングコートの小さな肩が支える。それは、前回のデートで自分がプレゼントした物。 薄暗い鈍色に支配された世界が、一瞬にして光りを取り戻した。 「──っ友雅さん!?」 差し掛けられる傘を支えた腕を掴んで、一気に引き寄せる。雨雫を纏った身体を抱き寄せて、小刻みに震える身体に彼女の温もりを与えた。 細い呼吸がやがて深くなり、溜息にも似た吐息を零す。 あかねがいなければ、生きていけないのだと言うことを、まざまざと思い知らされた。その存在によって、生かされているのだと再認識する。 失えない。 失いたくない。 「…どうしたの?大丈夫だよ、私はココに、友雅さんの側にいるよ?」 宥めるように背中を行き来する手のひらが、幸せそうに零れる甘い吐息が、生を認識させる心地良い温もりが。彼女に依存させる。 抱きしめた身体の向こう。翡翠のコートが横たわっていたはずの道路は、何事もなかったかのように日常が進んでいた。 誰かが轢かれたと思ったのは、勘違いだったのか。はたまた、大したことがなかったのかは分からない。 一瞬の喪失。 玉響の崩壊。 残されたのは、懸河の勢いで彼女に向かい続ける想い。そして、執着。 どうか、この手を離さないで。 心と心を繋ぐ鎖を、断ち切らないで。 「…友雅さん…?」 不思議そうに、けれど柔らかさを増した声に包まれる。 濡れた頬に一筋の髪がまとわりつき、彼女との間に隔たりを作る。 己のそれさえも許せぬとばかりに払いのけ、再び小さな身体を腕に囲い込んだ。 「あかね──あかね、あかね…あかね…っ…!!」 友雅の唇から漏れるのは、万感の想いを託した彼女の名ばかり。 そして彼女の唇は、僅かに引き上げられた。 |
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さくらのさざめき / 麻桜 |