〜にわたずみ〜

= 雨 =



 うち続く長雨に倦み疲れた目をして。

「あーもー退屈!」

 少女は手足を投げ出して床に大の字に寝転がった。


「おやおや、実に色気のない眺めだね。」


 橘少将友雅と呼ばれる男が、無遠慮に御簾をくぐって入ってきた。
 色気がない……と言われたのが気に障ったか、少女はさっと起きあがり、つんとそっぽを向いて几帳の陰に隠れた。


「何がそう退屈なのかな? 姫君。」
「だって、びしょぬれになっちゃうから外にも行けないし、暇つぶしをしようにもテレビもゲームもマンガすらないし、藤姫を相手に遊ぶのにも飽きたし……」
「おやおや、こちらの世界の遊びは、神子殿にはお気に召さないのかな。」

 気に入らないわけではない。貝合わせも偏継ぎも雛遊びでさえも、新鮮で楽しかった。しかし、それも、一日中が何日も続けば、さすがに飽いてくる。

「元の世界に帰る日だって遅くなるじゃないですか。」
「……やはり、帰りたいのだね。」
「当たり前でしょ……」

 語尾が尻窄みに小さくなったのは、神子と呼ばれた少女の心の揺れ。

「どうしたんだい、君らしくもない。」

 いいかい?と几帳の向こう側をのぞいた。少女は拒まなかった。友雅は少女の隣に腰を下ろした。肩に手を置き、そっと引き寄せた。
 少女は抵抗しなかった。自ら額を友雅に擦りつけ、甘える様子を見せた。友雅は愛しそうに少女をかき抱き、そのふっくらした唇にそっと唇を触れた。
 これが、少女の心の揺れの原因だった。異世界から京に降り立った少女は、友雅にすっかり心を奪われていた。ほかの八葉に隠れ、逢瀬を重ねていた。

(友雅さんと離れて暮らすなんて考えられない。)

 しかし、この世界の暮らしになじむのも大変そうだった。なじめる自信などなかった。しかし、友雅と暮らすなら、こちらに残らざるを得ないだろう。誘えば、面白がってついてくるだろうが、今度は友雅の方が苦労するだろうから。
 長雨に降り籠められた機会に、なじめるかどうか試してみようと思った。外にも出ず、自室からも出ず、御簾と几帳に囲まれた狭い空間で、限られた人とだけ会って過ごす毎日を。
 そして、挫折した。退屈に負けた。

(もう、ダメ……)

 鬼の一族との対決が終わったら、元の世界に帰る日がやってくる。戻らなければ、きっと後悔するだろう。しかし、友雅を置いて、帰れるか……。

(帰れるはず、ないじゃない……)

 涙があふれてくる。友雅に知られたくなくて、あくびをかみしめる振りをしてそっと友雅の大きな袖に顔を埋めた。

「君は疲れているんだよ。お休み、愛しい人。私はここで、君の夢路を見守ることにするよ。」

 少女の頭を袖からそっとはずし、膝に寄りかからせてやりながら、友雅はふと、袖が濡れているのに気付いた。

「泣いて……いるのかい?」

 少女は顔を見せなかった。外出しないときに着せられている山吹の小袿の広袖で顔を隠したまま、友雅の膝で寝入るようだった。
 友雅は少女の袖を取りのけた。涙で赤くなったまぶたが目に入った。

「どうしたの……」

 少女は首を振った。俯いて、袿をひきかぶり、仔猫のように丸くなった。
 隠してもわかる。ぽつりぽつりと少女の目からあふれる雨粒。

 友雅は少女の背に手を触れた。小刻みに震える背。辛い、辛いと訴える背。
 友雅は黙って背を撫でた。少女の涙はいつ止まるともしれなかった。労るように撫でてやりながら、友雅は少女の涙の理由を思いやっていた。



 龍神の神子の役目が終わった日、この少女はどうするだろう。元の世界に帰るのが望みだった。しかし、こちらの世界で思わぬ縁に結ばれてしまった。
 少女がこの絆を断ちきって帰るというなら、自分はどうするだろう。

(追うまいよ。それが彼女の選択なら。)

 撫でる手に力がこもる。この手を、この体を離したくないと思う。心がちぎれそうに痛む。

(未練だな。)

 涙が河となって、この想いなど押し流せばいい。そうすれば、自分も少女も楽になれる。この時空でつないだ絆などほんの泡沫、邯鄲の夢のように、覚めれば儚く消えるもの。少女もそれを感じているのだろう。

 友雅は黙って背をなで続けた。少女の小刻みな震えは少しずつ収まり、静かな寝息に取って代わるようだった。
 背を抱え、起こさぬようそっと頭を膝から外し、自らも体を横たえて腕に抱えた。赤く腫れたまぶたに口づけた。髪に顔を寄せれば、甘い香りが鼻腔をくすぐる。愛しさで胸がいっぱいになる。

(愛している……)

 雨が上がれば、少女はまた、怨霊を封じに出かけるだろう。少女の願いに応えて、自分を含めた八葉みんなで少女を助けるのだろう。助ければ助けただけ、少女が帰る日は近づく。少女がそれを望んだから。

(私を……連れて行くかい?)

 こちらの時空に思い残すことはない。自分一人がいなくなったとて、誰かが代わりに自分の場を埋めるだけ。左近衛府少将など、なりたい者はいくらでもいる。どうせ一睡の夢のような人生ならば、この甘やかな香りの中で過ごしたい。
 少女の顎を持ち上げ、唇を寄せた。しっとりと柔らかい唇を包んだ。少女の息づかいが直に伝わる。このまま最後まで奪ってしまいたい欲望が渦を巻く。袿を押しやり、袴の紐に手を掛けた。しゅると小気味よい音をたてて結び目が解ける。

 少女が抗うように身じろぎした。

(目を覚ましたか?)

 悪戯を見とがめられた少年のように手を引っ込める。そんな自分がおかしくて、ふと笑いがこみ上げる。

(子どものようだ。)

 空に浮かぶ月を欲しいと願う子ども。手にはいるはずがないとわかっていても、欲しがらずにはいられない。自分の、少女への思いはまるで、その子どもの願いと同じ。
 なぜ、惹かれるのか。失うことがわかっているからか。手に入れることの叶わぬ月の姫、異世界の乙女だからこそ、このように自分を惹きつけて放さぬのか。

 友雅は少女の寝顔をじっと見つめた。

 いつか目の腫れも引き、退屈で悩んでいたとは思えぬほど穏やかで安らかな表情を浮かべている。時折まぶたが動き、口元が笑ったように引き結ばれるのは、何か楽しい夢でも見ているのか。





 空が薄明るくなり、さしもの長雨も晴れるようだった。
 雨音もいつしか遠ざかり、霧のように煙る小雨だけが残っていた。

(晴れるか……)

 そしてまた、少女は、いつもの水干に身を包んで、颯爽と出かけるのだろう。心が屈託していては怨霊と対峙できないからと、迷いを全て振り捨てて。

 友雅は腕の中の少女を我が身にぐいと引き寄せた。
 力を込めて抱きしめた。

(せめて今だけは……)

 時空の運命が二人を分かつまで。出逢えたことを楽しもう。
 そう、楽しめばいい。その瞬間、その刹那が楽しければ、人生もなかなか捨てたものではないだろう?

 緩んだ袴の隙間から手を差し入れ、単衣の合わせ目をそっと探った。う…ん、と、少女の唇から吐息が漏れた。戸惑うような、抗うような、恥じらうような、誘うような……。

 友雅の手が更に大胆に動こうとしたとき。



「神子様ぁ、雨が止みましたわ、神子様!」



 嬉しげに呼ばわる藤姫の声がした。
 友雅は苦笑して、少女から手を離した。











潦:にわたずみ

 庭にできた水たまりの意。漢字には、大雨、長雨といった意ももつ。

遙かなる悠久の古典の中で / 美歩鈴 様