ガトーショコラ

=   ガトーショコラ   =



注意)現代ED後、特殊設定でシリアス風味。少し艶シーンも入ります。OKな方は下へスクロール。

































■ ガトーショコラ ■


 バスルームから出ると、空調をきかせた室内だというのに、それでもまだ2月ということもあり、冷やりとした空気が頬を撫ぜてゆく。
 窓から入る月の光だけが、暗い室内のテーブルの上に置かれた、半分になってしまったオレンジピールを加えたガトーショコラと、もう空になってしまっている紅茶のカップを仄かに照らしていた。

 少し前まで、ここでふたりで、甘いものを口にしながら、幸せな時間を過ごしていた。
 これを一緒に食べている時の友雅のとろけるような眼差しを思い出し、あかねの口元が僅かにゆるむ。このガトーショコラは、まだ新しいキッチンで作るのに時間がかかっただけあって、無事に仕上がったことにも、しかも美味しいと言って貰えたことも、本当に嬉しかったのだ。新しい生活にも自分自身にも、少しずつだが慣れてきている。
 それを実感し、あかねはホッと安堵の吐息をつく。
 しかし今はまだ「どうして?」と思ってしまう気持ちと、以前に比べて思い通りにならない事に、苛立ちを隠せないことも多いけれど。
(でも……)
 きっと彼の方がずっと大変なのだろうこともわかっている。
 異世界からこの現代に来てからというもの、あの友雅がゆっくりとくつろいでいる姿を見たことがほとんどないぐらいなのだから。
 天真や詩紋が細々とサポートしてくれているとはいえ、全く異なるこの世界での生活に慣れる為のその苦労は想像にかたくない。
 こんなはずじゃないかったのに―――そう思った途端に、目の奥がジワリと熱くなりはじめた。
 誰よりも彼の力になるのは自分だったはずなのに、逆に足手まといになっている今の現実が嫌になる。
 頬に熱い雫が伝い落ちた。
 泣いてどうなるわけでもない。
 今の自分が変われるわけでもない。
 それでも、歯がゆいやりきれなさが、こうして溢れて止まらないことがある。

「どうしたんだい? 明かりもつけずに……」

 遅れてバスルームから出てきた友雅のその声と共に、照明のスイッチが押されるパチリという音がした。

「つけないで!」

 自分でも驚くほど大きな声で、そう叫んでしまっていた。
 空気が張り詰め、友雅が息をのむような気配がする。

「泣いてるのかい?」

 静かな落ち着いた声色に、高ぶっていた感情が僅かに落ち着きを取り戻しはじめる。
 そして、あかねの希望通り、もう一度、部屋の明かりが落とされた。

「お願い……まだ、来ないで……」

 涙が完全に止まっているわけではないから。

「それは聞けないお願いだね。つらい? まだ、足の痺れが取れないのかな」

 最後の方は独り言のように呟いて、友雅はあかねの傍に寄り、戸惑うことなくその足元に跪き、肌触りの良いガーゼを重ねたワンピース型のパジャマの裾をそっと膝までめくりあげると、脹脛から足先をゆっくりと撫ぜ始めた。
 大きな手の感触が、鈍くあかねの肌に広がる。

「違うの! 違う……こんなはずじゃなかった……友雅さんにこんなことをさせるはずじゃなかったのに……」

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 狂い始めた人生の歯車は、未だに戻ることはなく、それを受け入れて生きてゆく強さも今は到底ない。

―――汝の身を捧げよ

 あの時。
 京を支配しようとしていたアクラムとの最後の戦いで、身の内から聞こえる龍神のその声に、あかねは承諾した。
 瘴気に八葉が倒れてゆく中、あの時は、それしか方法がないと。
 けれどそれが、こんな結末を招くとは思いもしなかった。

「おやおや……私は自ら望んで、ここにこうして居るのだけれどね。……あまり軽はずみなことを言うつもりはないけれど、始めの頃に比べれば、随分と回復しているのだし、あかねが私を気にして、自分を責める必要などないよ?」

 許容を超えた力を使う代償なのか―――龍神の御許から戻り、話すことも、頭を持ち上げることも、指を動かすことも出来なくなっていた当初に比べれば、回復しているのかもしれない。この一年足らずで、確かに今は、上半身は思うように動くようになり、車椅子とはいえ、自分の意思で動き回れるようになってきているのだから。
 でもそれも、こうして目の前にいる人が、自らの世界を捨て、この現代で献身的に、病院でも自宅でもマッサージやリハビリに付き合い、身の回りの世話をしてくれているからで。
 この年上の男は今の状況を微塵の葛藤も無く受け止めて、それなりに楽しげにやっているようだが、それでもあかねにとっては『申し訳ない』という思いでいっぱいいっぱいになってしまう。
 あかねのそんな気持ちを払拭するように、友雅は口元にクスと笑みを浮かべた。

「こんなことを言っては、君が怒ってしまうかもしれないが、私は以前の生活よりも、ずっと、充実しているけれどねぇ。誰に憚ることなく四六時中、こうして共に過ごせるのだし?」

 それでも、でも……と言いかけた言葉を遮るように、あかねは友雅に唇を奪われてしまっていた。

 言葉を飲み込んだ胸の中は、愛しさと苦しさが渦巻いていて。
 少し、ほろ苦い気がする。

 それがまるで、今日作った、甘くて苦いガトーショコラのようだと思わずにはいられなかった。



「もっと甘いものにすればよかったな……」

 落ち着きを取り戻し、明かりのついた部屋で、あかねは自らハンドリムを回し車椅子を動かした。テーブルの上の置いたままだったガトーショコラを冷蔵庫に入れながら、あかねが呟いた独り言に、友雅は目を細めて微笑する。

「おや? 私達は気が合うね。私ももっと甘いものが欲しいよ」

 その視線には、明らかに艶が滲んでいて。
 あかねは思わず視線をさ迷わせながら、頬が熱くなるのを感じていた。

「あ、あ、甘いものって……友雅さんの欲しい甘いものってなにかなぁ〜〜? なんだろう〜〜?? 生クリームいっぱいのシフォンケーキとか。あ、いいかも。じゃあ、来年のバレンタインにはシフォンケーキを作ろうかな」

 上擦る声を隠し切れないままの白々しいそのセリフに、友雅は肩をすくめてわざとらしく溜息をつく。

「わかっているのだろう? 今日はバレンタインなのに、私に言わせる気かね? あかねはサービス精神がないねぇ」

 きっと真っ赤になっているだろう顔を、あかねは隠すように俯いて。

「……甘いかどうかはわからないけど…わ、わたしで良ければ、どうぞ…………」

 最後の方は、蚊の鳴くような声で、そう応えるだけで精一杯。
 君はどんな甘味よりも甘いんだよ? と、耳元で囁かれれば、くにゃりと全身の力が抜けてゆくようで。
 気がつけば、車椅子からかかえるように抱き上げられ、友雅の足は楽しげにベッドルームへと向かっている。

「でも……」
「今日のあかねは『でも』が多いね」
「だって……」
「今日は嫌?」
「そうじゃないけど」

 ベッドの上に置かれ、覆いかぶさるようにして至近距離で探るように見つめられれば、もう逃げようも無く。

「……友雅さん、つまらないんじゃないかなぁ…って。わたし、反応…ない、し……」

 未だ、腹部より下の部分には感覚が戻っていない。
 あかね自身、抱きしめられて触れられていることは当然悪い気分ではないし安心もする。それに、徐々に汗ばんで乱れてゆく彼の姿は欲情的で、それをこそっと垣間見ているのも、楽しくも心地いい。
 けれど、友雅はどうなのだろうと思うと、つい溜息がでてしまう。まるで人形相手のようだろうに、それでもあかねがいいと言ってくれることだけが救いだが。

「私はね、そのうちあかねの下肢も動くようになると思っているよ。上半身が不自由無くなってきたようにね」

 今まではあまり希望的観測を言わなかった友雅の珍しい台詞に、あかねは「どうしてそう思うの?」と、小さく首を傾げた。

「最初の頃に比べると……よく濡れるようになっているし」

 カァッと頬が熱くなる。

「締め付けてきたりもするし」

 更に顔中が真っ赤になっているのがわかる。

「あかねは気がついてないようだけれど、時折、膝で私の腰を挟んでくるよ? まるで、ねだってくれているようで、たまらなくなる。まぁ、生理的な反応なのか、無意識なのかはわからないけれどね」

 あまりの恥ずかしさに気を失っていいならば、失ってしまいたいぐらいだ。

「あかねの身体で麻痺が残っている部分については、いつ、どんな時に、どんな反応があったというのは記録してあるから、3月の健診の時に、また主治医の先生に報告しなくてはね」
「しなくていいから!!」
「するよ。それによって、今後のリハビリ計画も変わってくるのだから」
「そういう問題じゃ―――」
「もう黙って」

 愛してるよと、どんなデザートよりも甘い声色で愛の言の葉を紡がれれば、何も考えらえられなくなってくる。

「ずるい……」
「何が?」
「友雅さんの声……いやらしいもん……」

 今は笑みを含み、出逢った時は軽薄で冷たそうに見えた友雅の唇が、あかねの肌のあちこちに温もりを与えては、小さな火を灯す。

「いやらしい私も好きだろう?」

 その直後に胸の蕾を吸われれば、ビリッと電流のような快感が頭に走り抜けて、思わず声が漏れた。
 彼の声に過剰に反応してしまうのは、後遺症みたいなものだと思わずにはいられない。
 身体が動かずに、声を出すことも出来なかった頃、頻繁に訪れてくれる彼の足音に―――何気ない話をしてくれるその声に、神経を研ぎ澄ます癖がついてしまったから。
 鈍い違和感しか感じない下肢に愛撫が移動し始めた時、熱くなっていた胸の内に、また小さなほろ苦さが広がった。
 彼の言うように、今は随分と不自由がなくなってきた上半身と同じく、いつかは感覚が戻るのだろうか。触れられて口付けられて、愛情を感じて、それに応えるように火がついてゆくような。
 今は何の反応も返せないことに、ごめんなさいと、あかねは声に出さずに友雅に詫びた。言葉に出してしまうと、なぜか彼の方がひどく傷ついた眼差しになることを知っているから。





「決めた! 来年は、カスタードと生クリームたーっぷり使ってミルフィーユを作る」

 朝食を少な目にして、10時過ぎからまたふたりで残っていたガトーショコラをついばむ。冷蔵庫で一晩冷蔵庫に置かれたそれは、チョコやバターが冷え固まって、適度にしっとりとし、昨日よりも食べ応えのある一品になっていた。

「これも美味しいけど? あかねはあまりお気にめさなかったみたいだね」
「だって……」

 甘さと苦さが絶妙に入り混じるこの味が、今の生活と重なってしまう。
 どうせ食べるなら、来年はただ甘いだけのものがいい。
 その時、自分がどんな状態でも。

「甘いだけの方が幸せな気分になれるでしょ?」

 あかねの胸中を知らない友雅は「若い娘はそんなものなのかい?」と、少し飽きれたように、けれど幸せそうな笑みを溢した。






変な設定の話ですみません。
ひたすらに甘いミルフィーユを題にした話を書きかけていたのですが、皆様の甘いお話に満足してしまい、自分で甘いのを書こうとすると拒否反応が(笑)
読後がガトーショコラ風味…というか、微妙な気分になるようなお話になっていればいいなぁと思います。
ルナてぃっく別館 / くみ 様