色模様 |
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= 爪の先にちゅー = |
………曇った硝子窓の向こうは、雪。 さっきまで雨だったそれは、今やすっかり冬の風物詩へと姿を変えてしまったようだ。 そっと指を伸ばして、硝子の雫を除けるようにすると、たちまち息を飲むような美しい景色が目に飛びこんでくる。灯りを落としたこの場所とは対照的に、発光する星のようにきらびやかな夜の街が、純白の結晶に覆われていくのが見えた。しかしそれも一瞬のことで、雫を払ったばかりの窓はまたうっすらと霞がかって、瞬く間にあかねの視界を遮ってしまう。 硝子一枚隔てているとはいえ、雪に満たされつつある外界は、ひどく冷たそうだった。 けれど。 寒さなどまったく感じず、むしろ湯に浸かった体は熱いほどだ。 ………どきどき、する。 それは。 この幻想的な夜景を見おろしながら入っている贅沢なバスルームのせいではなくて。 ましてや、お湯の温度のせいでもなく………。 おそらく、それは………。 「………大人しいね、のぼせてしまったのかい?」 ぼんやりとした湯煙の向こうから、低くなめらかな声が囁いた。 あかねは、声を発したそのひとが近寄って来ようとする気配に、ばしゃんと大慌てで肩まで沈んだ。水面の揺らぎにキャンドルの灯りが反射して、照明の落ちたバスルーム全体が、きらきらと輝いた。 「だっ、だだ、大丈夫ですから、友雅さん!」 あかねの焦ったような言い方に、バスタブの向こう側に悠然と背を預けている恋人―――友雅は、くすくすと笑いながらさらりと言った。 「それは、残念。湯当たりしてしまった君を、介抱するのも悪くないと思ったのだがねえ………ふふふ、冗談だよ、月の姫」 警戒するような目つきのあかねに、心騒がせる色めいた微笑みを返した友雅は、バスタブ近くに置いたシャンパンボトルを掴むと、縁に置いたグラスへ片手で器用に注いだ。小さな真珠にも似た気泡が、繊細な形のグラスの中で幾つも踊るのが見えた。 「だっ……だいたい、どうして私と友雅さんが、一緒にお風呂に入ってるんですか……」 ぶくぶくと泡をたてるようにしながら文句を言っている、唇すれすれまで湯に沈みこんだ大切な少女へ、友雅は恭しくグラスを掲げてみせると、可笑しそうな口調で言った。 「おやおや。ではあのまま冷たいみぞれ混じりの雨に打たれて、二人して肺炎になったほうが良かったのかな?」 からかうようにそう言って、きりっと冷えたシャンパンを一口味わった友雅は、ふと瞳を眇めてあかねを包みこむように熱く見つめた。 ……狂おしい感情を沸きたたせたような、甘い眼差し。 その男っぽく魅力的な視線に、あかねの動悸は速まる一方だ。 「……そっ、それは、困ります……けど」 口を尖らせて反論しかけたあかねだったが、ちらっと友雅の方を見てしまったばかりに、心臓が大きく飛び跳ねる結果となる。緩やかに癖のある恋人の髪は水分を纏っているせいで、彼の幅広い肩にしっとり貼りついていて、ひどく扇情的だった。 あかねの乱れる心情を知ってか知らずか、友雅は「ふふ」と小さく笑うと、バスタブに肘をついて首を傾げてみせた。 はらり……と、濡れた髪が一筋、垂れた。 「雨宿りしていこうって誘ったのは確か、あかね……君だったと記憶しているがねえ。違ったかな……?」 友雅は、真っ赤になっている目の前の少女へ、甘く悩ましげな視線を注いで、ぞくっと背筋を震わせるように甘い声で、ゆっくりとそう囁いた。 「……ううっ……」 ……待ち合わせ場所に着いた途端に、雨が降ってきて。 傘を持っていなかったのが、いけなかったのか。 すぐに降りやむと、高をくくっていたのがいけなかったのか。 それとも、友雅と合流した時に、雨を避けられそうなホテルのエントランスへと避難したのが……いけなかったのか。 『ロビーで雨宿りを』というつもりだったあかねの意思は、ずぶ濡れの姿で震えながら言ったところで、過保護な年上の恋人に採用されるはずもなく。 『風邪をひかない為』という名目上。 ……こうして、二人で熱いバスタブに浸かっているのである。 友雅が「君も飲むかい」と、声をかけてきたのに気づいて、あかねは首を左右に振った。未成年だからという理由もそうだが、これ以上心拍数をあげたくない……というのが本音だった。それでなくても今夜のあかねの心臓は、もう既にフル回転なのだから。 「では、こちらをどうぞ、姫君」 友雅は、シャンパンクーラーの氷上に置いていたチョコレートをひとつ摘むと、手を伸ばして対面に座っているあかねの口元に運んだ。あかねが持ってきた、チョコレートだ。今日は、これを渡す為のデートだったのに………と、内心でため息をつきながらも、あかねは大人しく口を開けた。 口溶けのよいそれを優しく押し込むついでに、友雅の指先がそっと唇をなぞる。その艶かしさにどきりとしながらも、あかねはうっとりした表情で呟いた。 「ん………美味しい、です」 ……バレンタイン用に、頑張って作って良かった。 ほろ苦いパウダーを纏っている口溶けのよいこれなら、甘味が苦手だという友雅も気に入ると思う。そんなことをこっそり思って嬉しそうに微笑んだあかねを、甘く和ませた瞳で見守っていた友雅が、動いた。 火照った肌の周りで、ゆるやかに波がさざめく。 「どれ……」 やわらかく重ねられる、唇。 離れる間際に、優雅に愛撫するように舐めていった、舌先。 束の間、あかねの唇を味わった友雅は、少しかすれた声で囁いた。 「……確かに……悪くない、ね」 耳もとで紡がれた声の艶かしさに、かあっと顔を赤らめたあかねは、いそいで友雅の胸を押し返した。しかし、押してもびくともしないその逞しい体に、ますます頬が火照りだす。 「おっ、お風呂に入って暖まるだけって、言ったじゃないですか、友雅さん!」 恥じらって頬に朱を散らせた愛しい少女の姿を、友雅は愛おしげに見おろすと、ゆるりと蠱惑的な笑みを唇に浮かべて「そうだっけ?」と、髪からのぞいている可愛い耳を甘噛みした。濡れた友雅の艶麗な声に思わず、ふっと力が抜けそうになるのを必死に耐えてあかねは、口を開いた。 「暖まるだけって……言いました!」 悲鳴のような声で言ったのと同時にあかねが身を捩ったせいで、ぱしゃんと派手にあがった飛沫を、友雅がまともに被ってしまった。軽く見開いた友雅の瞳の奥に、たちまち面白がるような笑みが滲んだ。 「やってくれるね、白雪……ふふふ」 そう言って濡れた髪を片手でかきあげた友雅が心底、楽しそうに微笑むものだから。 全然、堪えてないように、余裕めいた笑みを浮かべるものだから。 あかねが仕返しとばかりに、もっと濡らしてやろうと片足をばたつかせた、そのとき。 ……大きな手が、あかねの足首を捕らえた。 「こらこら……お転婆な脚だねえ」 吐息まじりのその声が、白い蒸気に満たされた浴室で、艶やかに反響する。 「は、離してくださ……あ!」 爪先にやわらかな感触を覚えて、じんっと電流のような甘い痺れがあかねを襲った。笑みを浮かべた友雅の唇が、しっとりとあかねの爪先に押しあてられていたのだ。 「とっ……ともまさ、さ……ゃっ」 友雅の視線は、反応を見るようにあかねへ留まったままでいたが、彼女の瞳が羞恥と官能に潤むのを見てとると、ゆっくりと唇を足の甲まで滑らせた。その軌跡は、まるで火傷をしたように甘い疼きを残した。 ……羽先がかすめるように彼の唇があかねの肌へ触れるたびに、そこから凄艶な痺れが生じてくる。ときおり強く舐めたり軽く咬んだりしながら、気まぐれに肌を味わわれるせいで、歓喜がやさしくかき立てられ、次第に大きな渦となってあかねを甘く蝕んでゆく。 くるぶしの内側をなぞっていた友雅の悪戯な唇が、いつしか膝の内側の敏感なところまで這いあがってくる頃になると、あかねは息も絶え絶えになっていた。 「……可愛いね……私の白雪は……」 顔をあげた友雅は甘く深い声でそう囁くと、肌を桜色に火照らせているあかねの上に覆いかぶさり、誰よりも愛しい少女の唇を、もう一度しっとりと奪った。 ……水面が揺らぐたびに、熱い蒸気がふわりふわりとたちのぼる。 あたりを白く霞める綿のようなそれは、ふたりの吐息によって身悶えするように次々と姿を変えてゆき、濡れた肌の周りを踊りだす。 そして恋人達は、静かに燃えるキャンドルの灯りに包まれたまま、とろけるように甘美な陶酔に溺れていった―――…。 |
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ときの彼方 / キンカン 様 |