ほのかに香る |
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= 爪の先にちゅー = |
はあ……。 思わず、こぼれてしまった溜め息。 すると側にいた女房さんたちが、くすくすと笑みをこぼした。 「あ、すみませんっ」 慌てて口に手を当てた。自分の部屋とはいえ、人前で溜め息をつくなんて、失礼だったかも。 だけど女房さんたちは気を悪くした様子はなく、むしろ楽しげに言った。 「愛しい方を想って、思わず零れてしまった吐息なのですもの。仕方のなのない事ですわ」 そんな、すごいものでもないんだけど……。 私はどう答えるべきかと、視線をさまよわせてしまった。 春めいた陽気が続いている、ある日の午後。 これから、友雅さんが館に来ることになっていた。 女房さんたちはその事を知っていて、ずっとこんな調子なのだった。 待ち遠しいですわねと言う声に、私はおずおずと口にした。 「あの、皆さん期待してるみたいですけど、友雅さん忙しい人だから、今日来るかわかりませんよ? 急ぎの用事があるわけじゃないし」 すると女房さんは、嫌ですわ! と大仰に袖で顔を隠す。 「恋人の元を訪れるのに、理由などいりませんもの」 えっ、恋人? そうよそうよと盛り上がる女房さんたちを前に、私は待って下さいと留めた。 「そっ、そんな風じゃないです」 すると別の女房さんが、怪訝そうに問い掛けた。 「でも橘の少将様は、神子様に恋文をおくられたのでしょう?」 「それは……その……」 告白されたりは……したけれど。 その時の事を思い出してしまい、かあっと顔が火照った。 私の反応に、得たりとばかりに女房さんたちがきゃあと声を上げた。 そうして次には、聞かせて欲しいと、期待の眼差しが注がれる。 もう勘弁して〜っ。そう悲鳴を上げかけたその時だった。 「何を騒いでいるのですか、はしたない。神子様の御前ですよっ」 助けの声が割って入った。 効果は抜群で、女房さんたちは、ぴたりと動きを止めた。 「申し訳ございません、神子様」 入って来た古参の女房さんは、深々と頭を下げた。 「これも私の指導が至らないせいです」 「いいえ、そんな事ありません。私も楽しいし」 さっきはちょっと困ったけれど、でも、賑やかなのは嫌いじゃないから。 「神子様はお心が広すぎます。今後は遠慮なく叱ってやって下さい。でなければ、ためになりませんから」 そう言うと、若い女房さんたちがこそこそと退出していくのを厳粛な面持ちで見送った。 「まあ――、騒ぐ気持ちも分からなくはないのですが」 みんなが出て行ってしまった後、ふっと口元に笑みを浮かべ、 「橘の少将様と言えば、今をときめくお方。その殿方が神子様のもとへ通っていることが、我が事のように嬉しくて堪らないのです」 あれで皆、神子様の事を慕っているのです、と。 「だけど友雅さんが来てくれるのって、女房さんたちが思ってるような理由じゃないかも。その……、恋人だからじゃなくて、心配して来てくれてるとか……」 好きだとは言われたけれど、そもそも私と友雅さんとじゃつり合わないし。 ひょっとして、告白は勢いだったのかもと思ってしまうのだ。 今になって、それほどじゃなかったと言うこともありえる……。 すると、女房さんは堪え切れないように、しばらくしてぷっと笑みをこぼした。 えっ、どうしたの? 私は何故笑われているのか分からずに、きょとんとしていた。 「申し訳ありません神子様。あの少将様でも、特別な相手には勝手が違うものだと思うとつい……」 女房さんは謝ると、私を安心させるように、 「本当に、大切にされていらっしゃるのですね。羨ましいです」 そう言って、にこりと笑った。 何かありましたらお呼びください。控えておりますから。 そう言って退出してしまうと、急に周りは静かになった。 ここのところ友雅さんは、よくこの館へと訪れていた。女房さんたちの話題になるほどに。 出仕の前であったり、あるいは宿直の後であったり。 お土産にと、めずらしいお菓子や、時には装飾品なども持ってきてくれたりした。 そして昨日訪れた時に、 『また明日も伺ってよいだろうか、姫君』 そう問われたので、こくりと頷いた。 もうそれだけで、心が踊ってしまって。 みんなが言う”恋人”なんていうものには、本当にほど遠いのだけれど。 でも今は、会えるだけで嬉しい……! だけど、今日はもう来ないかもしれないな……。 上げられた御簾の向こうを見ると、日が少し傾いている。 寂しい気持ちが込み上げてきたけれど、私は首を振った。 昨日だって、その前だって会っているし。 忙しい人なのだから、贅沢言ってちゃいけないよね。 京にいた怨霊は、ほとんどが私たちの手で浄化されていた。 でも、鬼たちの動向は未だつかめないままだった。こうしている暇があったら、やるべきことをやっておかないと。 側に置いてあった巻物を手に取って、ぱらりと紐をといた。ここには今までに気がついた事などを、私の字でまとめてある。 チェックしていると、ふいに後ろから声が掛かった。 「まだ、こちらへと立ち入る事は許されるだろうか、神子殿?」 私は自然に顔がほころぶのが分かった。 「友雅さん、来られたんですね」 笑顔で振り返ると、御簾のところに友雅さんは立っていた。その瞳には、優しい色が浮かんでいる。 「そう約束しただろう?」 ふっと笑みを浮かべると、優雅な足取りでこちらへと近づいて来た。 そうして、私の前へと膝をつく。 「遅くなってしまってすまなかったね。詫びというわけではないが、これを君に」 そう言って差し出されたのは、桜一枝。 「桜……? でも、もうこの辺りのは……」 すでにその盛りは終わってしまっていて、花を見かけることもなくなっていたのに。 だけど友雅さんが持つ枝は、淡い色の花をつけていた。 「遅咲きの桜だよ。今日は仕事で里の方へと出かけてね。そこで咲いているものを見つけたから、君に見せたくて持ち帰ったというわけさ」 そう言って、笑った。 「遠くに行ってたんですね。だったら、ここへ寄るのも大変だったんじゃないですか?」 約束を守るために、無理をしたのではないだろうか。 心配になって見つめると、友雅さんは静かに微笑んだ。 「私がそうしたかったから、したのだよ。この桜を手にしてくれる姿を楽しみにね。どうだろう、受け取ってくれるだろうか?」 差し出された枝は小さな花びらで、この辺りのものとは少し違っていた。 白くって、可愛い。 私は笑顔で受け取った。 「もちろんです。うれしい!」 そう答えると、友雅さんは嬉しそうに目を細めた。 「ならば良かった。桜の季節には、あまり楽しむ余裕がなさそうだったからね。せめてもの憩いになってくれればと思ったが、そんなに喜んで貰えたのなら持ってきたかいがあったよ」 うん、この間まで京のことでいっぱいいっぱいだったもんね。 こういう気配りはさすがだと思った。やっぱり、友雅さんってすごいなあ……。 美しく咲いた花を目にしながら、あたたかな気持ちになる。 友雅さんにとって、ここに来る事が息抜きになればと思ったけれど、癒されているのは私の方かもしれない。 「ありがとうございます、友雅さん」 「礼にはおよばないよ。――ところで、先程は何を熱心に読みふけっていたのかな?」 枝を水につけてくれるように女房さんにお願いして戻ると、友雅さんはそう尋ねた。 「ああ、あれはですね」 私は、自分なりのまとめ書きなんですと話した。毎日目まぐるしく色んな事が起こるから、記録するようにしているのだと。 すると友雅さんは感心したように、 「おや、それはすごいね。鷹通あたりが聞いたら、さぞかし感激することだろう」 私にはとても出来ないよと口にした。 「でも、そんな大したものじゃないんです。ほとんど、日記みたいなもので」 詩紋くんが新しいお菓子を作ってくれたこととか、泰明さんの式神が今日はねずみだったとか。そんな日常的なことまで書いてある。 「私のことも?」 友雅さんの問いに、私は頷いた。 「それはそうですよ。ここのところ、毎日くらい会ってますもん」 理由はもちろん、それだけじゃないけどね。 今日は色んな事が書けそうだった。友雅さんが遅くに来てくれたこと。私のために桜の枝を貰ってきてくれたこと。 楽しみだなと思っていると、友雅さんはふーんと私の後ろを見た。 「どんな風に書いてあるのか気になるね」 えっと声に出かかった。まさか、そう来るとは思わなかった。 「普通の事しか書いてませんってば」 「見せてもらえないのかい?」 「だっ、だめです。字がきれいじゃないし、だいいち恥ずかしいし……っ」 私は巻物を隠すように、後ろ手に追いやった。本当に大したことは書いていないのだから、見せるほどのものでもないのだ。 「そう言われると、ますます見たくなるのだがねえ……」 じりっと、わずかににじり寄った。私は反射的に後退する。 なっ、なんでこうなるの……? 私は首をおもいきり横に振った。 「日記見るだなんて、趣味良くないと思います!」 精一杯抗議すると、友雅さんは一瞬きょとんとして、 そして、たまらないと言ったように吹き出した。 と、友雅さん……。 あまりにいつまでも笑っているので、少々恨みがましい目で見てしまう。 「それもそうだね。すまなかった、神子殿」 友雅さんはようやく笑いを収めると、わずかに涙目で詫びた。 「そんなに笑わなくても……」 ちょっと膨れながら口にすると、悪かったともう一度謝ってくれた。 「だけど、あまりに可愛らしい反応をするからだよ。君のことを何でも知りたいと思ってしまう私には、あらがい難い誘惑だったから」 「そう……なんですか?」 「ああ」 問い掛けに、くすりと笑みを浮かべる。 「私のいない間に、どう過ごしてしているのだろうか、とね。もし私のことを思ってくれているのなら、どのように心に浮かべているのだろうと」 そう言うと、どうしてか少し寂しげに微笑んだ。 友雅さん……? そして、思い返すように瞳を閉じる。 「自分が人の目にどう映っているかなど、気にしたこともなかった。どういう風であれ、私に影響をおよぼすものではないからね。 だが、君にだけは疎まれたくないと、不安にさえなってしまうのだよ」 「そんな……、そんなことあるわけないじゃないですか」 意外な言葉に、驚いた。 友雅さんが不安になるなんて。それも私のことで。 いつだって会いたい。会って知りたい。 どう思われているか気になって仕方がない。 それは、自分だけだとばかり思っていたのに。 「そうだね。君は誰かを疎むなどということはないだろう。その思いは真っすぐで清らかで――だがそれだけに、私のいない間に何者かに染められてしまうかも知れない、とね。ほら、今だって」 ふいに伸ばされた指先が、私の手を取る。 そうして、自らの唇へと導いた。 「桜の香が、移ってしまっている」 爪の先に落とされた口づけ。 思い掛けず訪れたそのぬくもりに、かあっと顔が火照った。 「とっ、友雅さん……っ」 思わず声を上げるけれど、動く事もできなくて。 「桜色の……ああ本当に、君こそが花なのだね。 ――世界でただ一つ、私を酔わす華の香だ」 そんな私を解放することもなく、友雅さんはさらに口づけを落とした。 ひとつひとつに、唇を添わせてゆく。 やさしい感触。なのに、触れられた爪先は熱を伝えてくる。 奥へ奥へと、その想いが染み込んで来るかのように。 すべてに口づけを施すと、友雅さんは名残惜しげに微笑んだ。 「君に、消えない印をつけられたらよいと思うよ。そうすれば、少しは心穏やかになるかもしれない」 印なんてなくたって、私の心は、こんなにも友雅さんでいっぱいなのに……。 どう言えば伝わるのか。もどかしく思いながら口にした。 「消えちゃったりしないです」 「神子殿……?」 「だって、ずっと日記に書いてましたもん。明日も来てくれるといいなって」 友雅さんは驚いたように私を見た。 本当は、ずっとそう思ってた。 これは私の我が侭だから、口にするわけにはいかなかったけれど。 「だから、大丈夫です。毎日会えなかったとしても、ちゃんと私、友雅さんのこと想ってますから」 寂しいけれど、それは仕方のないことだから。 それよりも、会いたいって気持ちが同じだったって事が嬉しいよね。 笑って言うと、友雅さんは少しの間黙っていた。 的外れなことを言ってしまったのだろうか。そう心配しかけた時、 「まったく君は……」 友雅さんは、まいったとばかりに髪を掻き上げた。 「どうしてこう、神子殿の言うことは私の壺にはまるのだろうね。これではまた明日もここに来る事ばかり考えて、仕事など手に付かないよ」 いつになく頬を染めた友雅さんの言葉に、私ははっとした。 「えっ、そんな……」 対照的に、すうっと青ざめた。 どうしよう。友雅さんって有能な人だけど、あまり真面目には仕事をしていないって、鷹通さんが言ってた……。 なんだか私が、邪魔をしているような気にさえなって来る。 「あの……、友雅さん。お仕事、して下さいね……?」 念のための確認に、友雅さんは楽しげに微笑む。 「私の事を心配してくれているのかい? 可愛いね、君は」 そうして何かを思いついたように、口にした。 「では、こういうのはどうだろう。心を落ち着けるためにも、とっておきの明日の約束をしようか」 「とっておきですか?」 そんなものがあるんだ。感心していると、友雅さんはにこりと笑った。 「ああ、そうだよ。君とでなくては駄目だけど」 そうして私の頬に手を掛けると、声を上げる間もなく唇は奪われた。 「………!」 友雅さん……っ。 真っ赤になって口元を押さえた。 「花よりも甘い蜜に誘われて、足を運ばずにはいられないからね」 そんな私に、艶やかな笑みを向けてくる。 「ずっと君のことを考えている――愛しているよ、あかね」 友雅さんはふわりと微笑むと、ではまたと言って去って行った。 お、落ち着かないです、友雅さん……っ。 それどころか、余計に心臓がどきんどきんと脈打っている。 もしかして、これから毎日これ……ってことはないよね。 今までだって友雅さんのことばかり考えてしまっていたのに、そんな事になったらどうなってしまうのだろう? 私は机の上に置かれた、桜の枝を見つめた。 そうしてからそっと、自分の唇に触れる。 見えない約束の印。だけど、消える事はない。 ほのかに香る、桜花。 その余韻は、いつまでも甘く心に残っていた。 |
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松木茶本舗 / かわい いつか様 |