A first feint Valentine |
|
= 子猫 = |
最初は行くのを止めようと思っていた。 『 A first feint Valentine 』 『放課後少しだけお邪魔してもいい?忙しいのにごめんなさい』 『かまわないよ。迎えてあげられないから、鍵を使って入ってきて。本当にすまない』 メールでそんなやり取りをした日の放課後。あかねは学校からの帰りに友雅のマンションへ向かった。 いつもなら一旦帰宅して着替えて友雅のところに向かうのだが、今日は一刻も時間が惜しかった。 「―――お邪魔しまー…す」 一昨日、突然急ぎの仕事が入ってしまったらしい友雅。本当は邪魔をしちゃいけないとわかっている。 でも来てしまった以上はなるべく邪魔をしないように、静かに玄関のドアを閉め。 訪いの声も、いつもよりホンの少し落として。廊下も、静かに静かに歩く。 自宅で仕事をしている友雅は仕事部屋に籠もったままで、出てくる気配がない。 どうやらまだあかねの到着に気がついていないようなので、あかねは仕事部屋のドアを軽くノックして開け、入り口からそっと声をかけた。 「……こんにちは、来ちゃいました。―――お仕事中なのに我侭言ってごめんなさい」 部屋中に広げられた本や書類の奥、飴色のチークの大きな机に向かっている友雅。カタカタと流れるように鳴り続けていたキーボードを叩く音がすっと止んで、弾かれたように椅子ごとくるりと振り向いた。 「ああ、すまない。出迎えてもあげられなくて。いらっしゃい。我侭なんてとんでもないよ。君が来てくれて本当に嬉しいのに。ただ……もう少しだけ手が離せなくて……」 申し訳ないね、と微笑みながら許しを乞う友雅。 仕事中だけかける薄い縁ナシのメガネが、少し離れて立つあかねに、いつもの見慣れた顔をホンの少し隠してしまう。 メガネをかけている友雅もカッコいい、と思う一方、その笑顔はやはり疲労の色を滲ませているように感じられて。やはり少し申し訳ない気分でヘコみそうになりながらも、明るい声で話しかける。 「え、っと、コーヒー淹れましょうか?それともお茶?」 「そうだね、今はいいよ。あとで向こうで一緒にコーヒーをもらおうかな?すまないね、もう少し、待っていてくれるかい?」 「ううん。じゃ、頑張ってね。」 あかねは来た時と同じように、静かにドアを閉め、足音をひそませるようにして仕事部屋を後にする。 友雅が出てくるまで、あと小一時間はかかるだろうか。リビングに向かい、うーん、とひとつ伸びをして、もう見慣れたこの部屋をくるりと見回す。 友雅のマンションは本当に広くて、無駄なものが一切ない。仕事部屋以外はインテリア雑誌の1ページを飾ってもおかしくないくらい生活感がない。「そりゃ所帯じみた友雅さんなんてだーれも想像できないけどさ」と、ひとりごちながら広いリビングダイニングを眺める。 友雅の姿のない広いリビングを、ホンの少しつまらなさそうに一瞥すると、ソファに向かった。そしてソファには目もくれず、その下に敷かれている真っ白なムートンのラグの上に腰を下ろした。 ぺたりと座ると、毛足の長い、ムートンのしっとりとした暖かさと、包まれるようなふんわり感が、スカートや靴下に覆われていない部分にも心地よい。 11月の終わり頃だっただろうか。「友雅さん、友雅さん!ねぇ、これ!触ってみて?すごいよ、すごく気持ちいいの」と、以前一緒にリビングに敷くラグを探しに行ったときに、そのあまりの手触りのよさにうっとりしていると、「そんなに気に入ったのなら」と、友雅が買ったものだ。 これを敷いてからは、あかねはソファに座るよりも、ここに直接腰を下ろすことが多くなった。このしっとりした柔らかい感触に誘われて、ソファに座るよりも、それを背もたれにして、ぺったりと足を前に投げ出して座ってしまうのだ。 最初はくすくす笑われていたあかねだったけれど、そのうちにソファに座っていた友雅も、時折一緒にぺたりと並んで座るようになり。いつしかあかねの投げ出した足に遠慮なく友雅が頭をのせてくるようになって。 結局、このラグを買ってから一番楽しんでいるのは友雅じゃないかと思ってしまうほど、膝枕(?)もさせられた――― 毛並みを撫でていると、ふとそんなコトを思い出してしまう。 「―――や、私も楽しんでるか…」 ふふふっ、と、ひとり頬を赤らめながら口元を緩めてしまうのだった。 そして今日もいつものように、ラグの上にソファを背もたれにして座る。 いつもなら宿題や家事をしたり、雑誌をめくるなりTVを見るなりしながら友雅を待つのだが―――今日はそんな気分でもない。 不安げな視線が落ち着きなく宙を泳ぐが、やがて前日までの睡眠不足が、とろとろと両の目蓋を閉じさせる。 ―――そのまま、いつしかぐっすりと眠ってしまっていた。 「おやおや」 メガネを外し、襟元も少しくつろげて、ようやく仕事部屋から出てきた友雅は、リビングのあかねに目を留めると、頬を緩めながらも、少々残念そうな顔色は隠せない。 あかねが背もたれにしているソファに腰掛け、あかねの顔を覗き込むように身を屈める。友雅の重みでソファも少し傾いだのか、あかねの身体がホンの少し友雅の側に傾ぐ。 そのために滑り落ちたあかねの手は軽く友雅に掬い上げられるが、さしたる反応もない。ほんのり薔薇色に色づいた頬に、安心しきったような穏やかな寝顔。ふっくりとした唇は薄くひらき、規則正しく甘い寝息が聞こえてくる。友雅の片手はそっとあかねの頭をわが身に寄せるように包み込み、掬い上げた手の甲に口付けながら、愛おしげにあかねに語りかける。 「ねえ、眠り姫。そろそろお目覚めの時間だよ?」 しかし、あかねは相変わらず、すぅすぅと心地よさそうな寝息を立てたままだ。 「ねぇ…・・・あかね。起きないのかい?」 本当ならベッドにでも運んでやるのがいいのかもしれない。が、ちょっとした悪戯心が湧き起こり。 その頬を下から上へ軽く、唇にもそっと指を這わせ、誘うように撫でてやる。一瞬、ひくり、と眉根を寄せ、怯んだように首を竦ませたが、その悪戯から逃れようと、「ぅん…」と、軽く身体をよじった。すると、丁度友雅の太腿と、ソファが作るコーナーに身体が落ち着いたのか、太腿を枕にして再び体勢を落ち着けた。 だが、起きる気配は一向にない。 そんなあかねの動きに、つい誘われるように 「起きないと―――悪戯するよ、いいの?」 とさらに艶を帯びた掠れ気味の声で、耳元で熱く囁く。 いつもなら、真っ赤になって耳を隠したり跳びずさったりする、とびきりの声。 普段なら可愛い反応を見せる愛しの姫は、今度は眉根を寄せ、友雅の腿に頭を載せたまま、僅かに俯き肩で耳を覆うように肩を竦める。そして膝を胸の方に寄せるように、きゅうっ、と足まで丸めて友雅のつくる「コーナー」にはまり込んできた。しばらくもぞもぞと動いていたあかねだが、やがて、体勢が落ち着いたのか、再び規則正しい寝息が聞こえ始めた。 意外なほど眠りの深いことに少々驚きつつも、この子猫のような仕草が可愛くて愛しくて楽しくて。 しばらくは彼女の眠りを妨げないよう、目を細めながら髪を梳いてみたり、頬や額を撫でてみたり、軽く耳朶や鼻をつまんでみたり。 飽かず、その感触や、腿に心地よく当たる吐息、伝わる体温を楽しんでいた。 あかねも心地よさそうに微笑んでみたり、ふるりふるりと軽く身を捩ったり。時折、「ん」とか「うー」とか、言葉にならない可愛い抵抗を見せながら。 友雅にとって、なかなかに貴重で楽しい時間であることは間違いなかった。 やがて。 あかねは「ぅん…」と小さく声を上げ、ひとつ肩を竦めると、大きく身を捩り、眉根を寄せ出した。眉間になかなか大きなシワを認めると、友雅はひとさし指で「ほらほら、大きなシワができてるよ?ん?」と、ちょっと強めにくりくりくり、っとあかねの眉間に悪戯する。 さすがにこれはイヤだったのか、くりくりの加減が気に入らなかったのか。盛大に顔を顰め、「んー…、ぅ―――に、ゃ…っ」と、唸ったかと思うと。がっっ、と体勢を返し。まるで猫の手のように握り込んだ手のひらを、枕にしている友雅の腿に押しつけ、真っ赤になるんじゃないかと思うほど、ぐりぐりぐりぐりっ、と額を強く擦りつけた。 あまりのリアクションに、もう吹き出さずにはいられなくなって。くくくっ、と、肩を、全身を震わせて笑っていると、ようやく彼の眠り姫が赤くなったおでこを擦りながら目を覚ました。 「ぅ、な…に、あつ…、いた、い……ぃ?」 「おはよう、ようやくお目覚めだね?」 まだ現に戻りきらないあかねの唇に軽く口付けて、楽しそうな、蕩けそうな笑顔で友雅があかねの顔を覗き込む。 「あ……、ごめんなさい。寝ちゃった……」 まだ半分寝ぼけ眼のまま、唇に感じたしっとりとした感触と、鼻先に感じた嗅ぎなれた匂いに促されてゆるゆると状況を把握しだしたようだ。 あかねの顔が、頭まで急速に朱に染まっていく。 「う…―――――もぉっ、なんで?!起こしてくれたらよかったのに!一体いつから見てたんですか?」 怒ってみせるものの、友雅にとっては愛らしい以外の何ものでもないその表情では、なんの迫力もない。 それよりも寝起きの少し掠れた声が、ゆっくりと友雅の気分を煽る。 「まだ私が来てから10分も経ってないよ。それにしても随分と疲れているね。大丈夫かい?」 くすくすと楽しそうに笑いながら、頬や、乱れた額髪をするりと撫でてやる。 何か言おうとしていたあかねは、しばらくむぐむぐと口を動かしていたが、結局、そのまま顔を朱に染めただけで、ぱっと立ち上がった。 「あ…、うん。へーき。―――――えっと、じゃあ、お茶淹れますね。」 耳まで真っ赤にした彼女は、そそくさとキッチンに向かって行き、コーヒーを淹れる。 「そういえば、今日は悪かったね。せっかく来てくれたのにあまりゆっくりもできないだろう?予定外の仕事でせっかくのバレンタインに邪魔が入ってしまった。怒っているかい?」 「やっぱり。バレンタインって知ってたんですね。―――-うふ、じゃあやっぱり今日来てよかった」 「ん?」 馨しいコーヒーの香りが部屋いっぱいに広がる 「だって。京にはなかったでしょう?こんなイベント。実はね、私も初めてなんです。ちゃんとした“恋人”がいるバレンタイン」 ふふふっ、と頬を紅潮させながらトレーを運んでくる、 「初めて?本当に?それは光栄だね」 「今までは義理チョコばっかりだったけど、初めて恋人用のチョコを用意したんですよ?」 淹れたてのコーヒーと一緒に差し出されたのは、薄い白銀色と桃色の和紙を重ねて作った小さい袋。その口を赤いリボンで軽く括った可愛らしい包み。 「だ・か・ら。はい、バレンタインのチョコ、です。コーヒーと一緒にどうぞ」 友雅の隣に座ったあかねは、自分用に淹れた紅茶をこくん、と一口含み。視線で「開けて?」と促す。 あかねの“初めて”という言葉と、可愛らしく訴える視線に頬を緩める友雅。そんな友雅をふわりと、照れを滲ませて見つめるあかね。 促されてそのリボンを解くと、洋酒の香りとさっぱりした甘い柑橘の香り、そしてチョコレートの香りがふわりと香る。 中から現われたのは、人差し指くらいの長さの、色の濃いチョコレートがコーティングされた細い棒のような形のものと、それよりもやや短くて歪な形の棒が2種類。よく見ると、それぞれの端の一部がコーティングされておらず、オレンジ色と黄色が見える。 「えっと、甘いものがあんまり好きじゃないでしょ?で、あまり甘くないようにしてみたんだけど……どう?」 「ん―――これは…どちらも上品な甘さだね。何より香りがいい。オレンジの洋酒漬けかな?それと…この小さい方は柚子の…砂糖漬け?甘いだけじゃなく香りがね、とても気に入ったよ。あかねの手作り、だね?」 「うん。正解。気に入ってくれた?よかった〜」 ほおっ、と、傍目からもわかるほどあかねの肩の力が抜けた。吐息からだろう、ふっ、とダージリンの香りがした。 それぞれ、オレンジピールに洋酒を効かせたビターチョコ、和菓子屋さんで見つけた柚子皮の砂糖煮にビターチョコをコーティングしただけのシンプルなものだけど、香りにはとても気を遣ったと、はにかみながらも嬉しそうに説明をする。「私にはあんまり甘くなくて物足りないくらいだったんですけどね」と言いながら、ぺろりと赤い舌を出す。 「香り高い極上の菓子だよ。私の好みにも気を配ってくれたのだろう?その気持ちが何よりも嬉しいね」 満面の、蕩けそうな微笑み。 これはあかねだけに向けられるもの。それをあかねはよく知っている。 だから。 今の笑顔に勇気を貰って、大きく息を吸い込んだ。 「で―――――、あの、ね。もうひとつ、プレゼントがあるんです。これ…」 そっと差し出されたのは先ほどのチョコと同じ和紙で包まれた、もう少し大きい包み。 「――――これは」 軽い包みから出てきたものは。 濃い焦げ茶色の中に深いボルドーと深緑色が僅かにミックスされた、細手の毛糸で編まれたマフラー。編地はシンプル。裏表が同じ模様に見える編み方で、端には房がなく、嫌味や少女趣味にならない程度にかぎ針で軽く飾り編みが施されている。毛糸の質の良さと細さからくるのだろう、軽くて暖かい、なによりとてもしっとりとした感触。 ふと、先ほどまで戯れていたあかねの髪を思い出した。 「どうですか?」 「ああ、これは―――…驚いたよ。本当に素晴らしい手触りだね。だけど…―――まさか、やはりこれも手づから?」 「うん。クリスマスの前にこの毛糸を見つけたんだけど、糸が細くてクリスマスには間に合わなくて。だから絶対バレンタインには!ってがんばったんです―――気に入ってもらえました?」 よく、あかねたちの年頃の子が巻いているような、いかにも手編み、というざっくりした糸の半分ほどの細い糸。それをこんな長さまで、と思うと、実際、そのかかった時間と労苦に感服せざるをえない。なにしろ休日はほとんど友雅が独占している。たまに休日に空いていた時間は蘭たちと過ごしていたことも知っている。 目元を赤く染めながら、得意げにも、不安げにも見える表情で、じっと友雅の顔を覗き込むあかね。 もう、ただただ愛しさが募って。 あかねの胸元で握り締められていた両手をそっと掬い取り、自分の手の中に包み込んだその手に口付け、額をこつんと合わせる。 「ああ、もう、本当に君ときたら……!こんなに素晴しいものを頂いたら、私は一体どうしたらいいんだろうね?これを編むためにかかった時間も、手間も。私にはこれに見合うだけのものをお返しする術がないよ。君はいつも私からの贈り物だってロクに受け取ってはくれないのに―――教えておくれ、私は一体どうしたらいいのだろう?」 あまりの真摯な言葉の熱さに、つい、ぱっ、と身を離してしまったが、そのせいで友雅の深い、熱い視線に否応なく射抜かれてしまう。 顔が、全身が、じ……ん、と熱くなるのがわかる。 ――――――ダ メ 「大げさですよ、もうっ。だいたい、いつも友雅さんがくれるプレゼントだって、私にはもったいないものばっかりなんですよ?」 「何をバカな―――」 「ホントです!もう、充分ですっ。―――――」 友雅が口を開く隙を与えないよう、勢いよく口を開いたら、思ったより声が大きくなってしまった。 コホン、とひとつ咳払いしてから、 「私ね、友雅さんになんにも返せないのがいつも心苦しかったの。だから、今日、こんなに驚いて喜んでくれたのが、何より嬉しいの。それにね、これを編んでるときはね―――」 一呼吸おいて、真っ直ぐ友雅の目を見て 「友雅さんに触れてる時を思い出せて、楽しかったんです。しっとりして、あたたかくて……。あと、喜んでくれるかなぁ、って」 ふわり、と微笑みながら、はにかみながらも、本当に嬉しそうにそう告げてくれる。 「ふふふっ、じゃあ、ますます嬉しいね。これを編んでくれているときは、ずっと私のことを想ってくれていたのだろう?私のことだけを。これを作る時間―――私が傍にいない時も、私は君のことを独り占めできていたのだね。ああ、それがどんなに嬉しくて素晴らしいことか、君はわかっているだろうか?今のこの胸の高鳴りが君に聞こえるかい?ああ、もうこの喜びはきっと君にもわからないかもしれないね。本当に幸せだね、私は―――」 きっと毎日寝る間も惜しんで作ってくれたのだろう、この素晴らしい贈り物。 先ほどまでの深い眠りの理由がわかると、尚のこと愛しさも募ってくる。 「この手触りも、暖かさも。君の温もりそのものだね。なんて暖かいんだろう。それに―――」 膝にあったマフラーを、ゆっくりと口元に当てる。 「―――あかね、君の香りがするよ」 少し上目使いにあかねを見る。微笑みをのせて、優しい温かい視線ではあるけれど。 ――――――ダ メ ・ キ ケ ン……。 喜んでくれるとは思っていたけれど。今、“そんな視線”は予測していなかった。そんな艶を帯びたような熱い視線は。 いちいち反応してしまう自分がなんだか―――恥ずかしい、悔しい。 「あ。でも、もうしばらくは編まないと思います。やっぱりこんなに糸が細いと大変だもの」 顔が熱くなっているコトを気取られないように。精一杯無邪気に明るく。ごめんなさい、とペロリと舌を出して、ふふっと笑う。 「…あ、もうこんな時間だ。帰らなきゃ」 あまりにもそぐわない、突然の言葉に俄かにうろたえてしまう友雅。 「帰る?今来たところじゃないか。そんなに慌てなくてもいいだろう?」 「ううん、ダメ。今日は最初から早く帰るつもりだったから」 「いや、それにしても―――」 「あ、ねぇ、友雅さん」 「ん?」 すっと立ち上がって、友雅の目の前に立つ。 「巻いて見せてくれませんか?」 小首を傾げながらお願いするあかねに、友雅はふわりとひと巻きして「どう?似合うかい?」とあかねの返事を待つ。 「うふ、思ってたよりいいかも。―――うん、似合う。似合います!ぅわーーん、よかったぁ〜、頑張って」 少し離れて眺めたり、横手に回ったり。後ろにまで回りこんで、そう呟いた。最後の言葉は心底からの安堵の声で、思わずくすり、と笑みが零れてしまったが。 その安堵と嬉しさの混ざった声音も愛しくて愛しくて。ソファの背後に回りこんだあかねに手が届かないことがもどかしく、あかねの方に身を捩ろうとした、そのとき。 ふわっ、と。 あかねの両手が後ろから友雅の肩に触れて、すべるように友雅の頬を、頭を包み込む。 そして―――髪に唇がひとつ、落とされた。 「―――あ、か、…ね?」 「好き。大好き」 そう、耳元で小さく囁かれ、一瞬、友雅の動きが止まった。 邪魔されないあかねの腕は大きく友雅の首に巻きついて、友雅をぎゅうぅっ、と抱き込む。 ガラにもなく心臓が跳ね上がるのがわかる。こんなに可愛らしく、直截に愛を囁いてくれるなんて、予想もしていなかった。 喉が干上がる。 たまらずあかねの腕を捕らえ、そのまま自身の腕の中に抱きこもうとしたのだが―――悔しいことにあかねの両腕とソファの背もたれに遮られた。 けれど、あかねの両腕は今だ友雅に大きくまわされたまま、その肩にあかねの顔が載っている。 「友雅さん、――――大好き。いつもありがとう。これからもずっと、ずっと一緒にいてね」 頬と頬が触れ合うほどの距離。けれど、友雅からはあかねを正面に見据えることもできないもどかしい距離。 友雅にまわされたままの腕と、ずいぶんと赤くなっているのだろう、熱を持ったあかねの頬に手を添えて。 このもどかしい思いに突き動かされるように、身体を捩るようにして、もどかしいキスを幾つも幾つも贈る。 ―――もどかしい 嬉しい、けれど、もどかしい 今、まさにこの瞬間に 触れたい 深く、もっと触れたい――― なのに―――――― 深い、あかねそのものを感じるような口付けが欲しい。いや、そんなものなんかでは到底足りない。深く深く、ただただ、あかねが欲しい。 「君の傍ら以外に私の居場所はないよ。これからもずっと、いや、君が拒んでも私は君と共にあるよ。君のそばを離れない―――あかね――――愛しい、私だけの、あかね―――」 「ふ…っ、―――ぅ」 口付けの間に間に、熱く囁かれ続ける、友雅の言葉・心・言葉・心――― 心地よく、友雅の熱があかねをも熱く煽っていく。 このまま友雅がくれる、この触れるだけの心地よいキスに浸っていたい誘惑に駆られるけれど。 ―――ああ、でも、このままじゃ本当に帰れなくなってしまう…! ――――――ダ メ ・ モウ、ダ メ……。 ありったけの理性をかき集めて、声を出す。 「――――――あ、―――じゃ……私、もう帰りますね」 後ろから腕をまわされたまま、耳に注がれた予想外の言葉。 ゆるりとまわされていた腕が優しく離れていくが、その心地よく熱い手はまだ友雅の肩に置かれたまま。 頭の上、肩の後ろから聞こえた音は、よく聞こえなかった。 否。―――理解できなかった ―――したく、なかった 「なん、―――て?帰る?」 耳を疑った。 あかねは相変わらず友雅の背後。ソファに守られ、友雅はあかねの腕と顔を不自然な姿勢でしか捕えることができないまま。 理解のできない音が、数瞬、友雅の動きを止めた。 そしてこの瞬間、―――勝負が決まった。 「だめ。決めたの」 「最初から言ってましたよね、私?ちょっとだけって。だいたい友雅さんも締切りの直前じゃないですか。お仕事の邪魔はイヤなんです、絶対に。それはずっと言ってるでしょ?」 「私をこんなにして、ひとり残して行ってしまおうというの?なんて酷い恋人なんだろうね。今日は恋人達の日ではなかったのかい?あと少し一緒に過ごしたい、こんなささやかな願いも聞き届けてはもらえないの?」 「でも、お仕事の忙しい時はいつも来てないですよね?だから、今日は少しだけでも会えて、私は嬉しかったのに―――友雅さんは違うの?」 思い切り身体を捩って、後ろを向いた友雅。 さっと友雅の肩から手を引いて、一歩下がる。二人の間にはソファの背もたれという大きな障壁。 じ、っと。意思の強い視線同士が絡まる。 「いや、嬉しいよ?だけど、こんな風に別れたんじゃ遣りきれないよ。もう少しだけ、あとホンの少し、君と一緒に過ごしたいと願うのはそんな大それた願いなの?」 切々と、視線で、声音で訴えてくる友雅に流されそうになるけれど。 赤らんだ顔を隠すように俯き加減になるのは仕方がない。それでも頑張って口を開く。 今日は負けないんだから!と、精一杯の抵抗を試みる。 「う……。――――でも、ダメ、やっぱり」 「あかね――――」 「それにっっっ。今日は―――お父さんも早く帰ってくる、ん、ですっっ」 「―――」 突然の父君の話題に、じ…っともの言いたげな視線を投げれば、やはり、あかねも言い訳になってないことくらいは自覚しているようで。 ―――別に父君に隠れて交際しているわけでもないし、あかねとは親公認の婚約者同士。別にいいじゃないか、と言っても大丈夫なはずだ。 しかもこんなに早い時間なら、まだ門限にも何の問題もない。無視できないことはないのだ。 しかし、これは今のあかねの精一杯の意思表示。『帰る』という決心は、もう絶対曲げないのだろう。 ――――頑固者め。 「――――――わかったよ。本当に帰るんだね。」 「――――あの、ごめんなさい…ね?」 大きく息を吐いて、あかねの我侭を受け入れた友雅に、あかねの良心がちりちりと痛む。 でも、“これでいいんだ” 、と自身を叱咤し、ソファから離れて帰り支度を始めた。 友雅も溜息を吐いて立ち上がる。 「ああ、待って。コートとキーをとってくるから。」 「ううん、大丈夫。まだそんなに遅くないし。まだ明るいもの。バスで帰るから」 ソファの横手に置いてあった学生カバンを手元に引き寄せ、いそいそと帰り支度を整える。 「私の仕事のことを心配してくれているんだろう?でもね、あかねを送り届ける時間くらいは心配せずとも十分にあるよ。だから―――」 まだ陽は西の空に残っている。そういえば、あかねが来てまだ2時間程しか経っていないはずだ。 「送り届けるくらいはさせておくれ。こんなささやかな願いすら聞き届けてくれないのかい?」 「今日はダメ。きかない」 「 残念だよ―――――今日という日に君を帰さなきゃいけないなんて。己を呪ってしまいたくなるほどにね。――――ねぇ、せめてもう一度口付けさせてはくれまいか?」 「や。」 ………即答。 「なぜ?キスもダメなのかい?」 また悲しそうな、寂しそうな顔で、恨めしげにあかねの良心を責め立ててみる。 でも、返ってきたあかねの答えは。 「――――――――――――だって。絶対………………歩いて帰れなくなるもん」 ―――実際、そのつもりだっただけに、次の言葉がすぐに出なかった。 ――――――――――――――――――――――可愛くない。 可愛くない、というか、見透かされてしまっているというか。 もう、これじゃあしょうがない、と、くすりと力のない笑みまで零れてしまった。 その笑みに誘われたのか、あかねもようやくふわりとしたいつもの笑みを見せてくれた。 「それよりね、早くお仕事終わらせて下さいね。週末には終わるんですよね?」 「ん?…ああ、土曜が締め切りだからね。金曜には終わらせるつもりだよ」 「あのね。週末―――ゆっくり、その、お泊まり、に…来てもいい、ですよね?」 珍しく、自分からそう言ってくれて。目元どころか顔中、耳まで真っ赤にしながら、上目遣いに悪戯な表情で友雅を見上げる。 「あかね……!」 「だから。ね?今日は帰ります。―――それで、ね。………お願いだからそのままそこに座っててくれませんか?」 せめて玄関まで、と思っていた友雅はここでもあかねに拒まれる。その落胆ぶりはあかねにもよく伝わって。 それでも友雅が、ソファに座って向こうを向いたのを確認すると、あかねは学生カバンを一旦置いて、友雅の背後に戻ってきた。 もう一度、ぎゅっと友雅にあかねの腕がまわされる。 「じゃあ、また土曜日にお邪魔しますね。今日は我侭をいっぱい聞いてくれてありがとう。お仕事頑張って下さいね」 「ああ」と軽く応えた友雅だが、拗ねているのか、堪えているのか、今度はソファから立ち上がろうともしなかった。 「気をつけて帰るんだよ?着いたらちゃんと連絡をおくれ。いいね?では、また週末にね」 あかねの顔を見ずにそう別れを告げた。 あかねも、「じゃあ、また、ね」とリビングを背にして、玄関に向かった。 が、廊下の途中でぴたっと立ち止まって。まだリビングに座る友雅に向かって大きな声で叫んだ。 「大人の友雅さんが我侭言わないで下さいねっ!寂しくてつまらないのは私も一緒なんだからっ!またメールします!さよならっっ!」 大きな、愛しい声が聞こえなくなる。 勢いよく玄関に突進していく足音。 ぱたん、と玄関のドアが閉まる音。 それらも、聞こえなくなった。 リビングに残された友雅はようよう、のろのろと立ち上がり、もう一杯コーヒーを淹れにキッチンに向かった。 仕事なんてすぐに手につくはずもなく。コーヒーを片手に、階下を見渡せる窓辺に寄り添う。 あのもどかしい口付けのとき。くったりと、あかねの腕から力が抜けていくのが伝わってきていた。 あのまま、体勢を入れ替えて。あかねを掬い上げて。寝室へと向かっていればよかったのだ。 帰る、と言ったときも。帰る間際でも。いつものようにキスや愛撫で追い詰めていればよかったのだ。 いや、そもそも、居眠りしている間に寝室へ運び込んでいればよかったのだ。 ――――――後悔先に立たず。 窓辺から、マンションのエントランスから出て行くあかねを見送る。 心なしか、足取りが軽そうに見えるのが憎らしい。 ふと、立ち止まって、友雅の部屋を見上げたあかねが、友雅に気付いたようで、小さく手を振った。 手を振りかえし、後姿を見えなくなるまで見送って。ようやく自身もリビングを後にした。 日に日に手強くなっていっているように感じるのは気のせいだろうか…。 それでも愛しさは日増しに募るといっても過言ではない。 愛しくて愛しくてたまらなく可愛らしい……。が、小憎らしい。 「土曜までなんて待ちきれるものか。これは金曜の放課後は是非お迎えに参上しなきゃいけないよね、あかね。まだまだ君のペースでは事を運ばせないよ?正しい恋人たちの日のやり直しだ、そうだろう?それに、なにより、お礼もしなきゃいけないしね?いや、まずはお仕置きが先かな――――」 ひとりごちながら、底の知れないような微笑みを浮かべて、あかねの残したチョコとマフラーを手にして仕事部屋に戻った友雅。 ―――――キーボードの音が最前にも増して、強く、激しく、途切れることなく響いていることを、バスの中のあかねはまだ、知らない。 ――――fin. |
|
|||
katura 様 |