手習

= 左近衛府少将と女房 =



手 習

夕月夜  難波津に泊てるは








 「どうしたんだね? 神子殿」



 雨上がりに訪ねた梨壺の局で、あかねが文机を前に難しい顔をしていた。



「友雅さん。」



 見上げる顔に広がる明るさ。そう、それが、君には似合うのだがねえ……



「いったい、何を見ているの。」



 文机に広げられていた文。濃く薄く紛らわして、しかも……



「蘆手、だね。中宮さまのお筆跡だ。なんのお誘いかな?」

「それが分かればこんなに悩んだりしないですよぉ。まるでパズルだし。」



 ぷうっとほっぺたがふくらむ。むくれた顔もいとおしい。



「でも、友雅さんすごいです。どうして、中宮さまからだってわかるんですか?」

「ふふ……宮中にも長くいるとね。いろんな文を目にするものだよ。」



 筆跡、墨の色、墨継ぎの癖。選ぶ紙もたきしめる香も、すべてがその人の個性だから。



 貸してごらん、と、文を手に取る。書き散らされたとりどりの花の中に、中宮さまのお言葉が見え隠れする。



    訪ねやは来む 春の名残を



(花合わせの後の遊びに誘っておいでかな?)



 よほどあかねを気に入られたようだ。もっと話したい、手元に置きたい、と。



 友雅はあかねを見つめた。

 何を疑うことも知らない、純粋な瞳。



(君を、この宮中に、置くのか……)



 君が浄めようとしているこの宮中の怨霊は、生まれるべくして生まれたものだ。

 人々の恨みねたみ哀しみ。日々奸計に明け暮れ、自身の栄達と愛欲がすべてのような醜い貴族たち。

 宮を警固すべき者たちが、最も宮を穢しているのだ。



 そう……おそらく、私も。







「友雅さん……?」



 あかねのほの温かい小さな手が、掌に滑り込んできた。



「どうしたんですか?」



 

        ……この瞳を汚されたくない。

 





 不意に浮かんだ小さな願いの思わぬ熱さに、ふとたじろぐ。

 未知の甘やかさが胸一杯に広がる感覚。







         ……この少女を、守りたい!





 今まで感じたことのない突き上げるような熱い衝動。

 掌にすっぽりと入り込んだあかねの手を握りしめ、そのままこちらへ抱き寄せて、そして……





 あかねの目に浮かんだ怯えの色。

 

握り取られた手を取り返すようにきゅっと引っ込め、大事なものを抱えるかのように胸に抱く。





「……退散した方がいいのかな?」



 探るように瞳の奥をのぞき込む。

















(いったい、何を考えているの?)



 友雅の心はいつもわからない。

 今のだって……





 引っ込めたくなど、なかったはず、なのに。





 失うものの大きさが怖い。

 自分の気持ちに正直になることが怖い。



 あなたが……怖い。















 友雅が静かに立ち上がった。

 衣服の塵を払うまねをして、形ばかり襟元袖口を整える。



「ではね、神子殿。」



 手にした蝙蝠で御簾を巻き上げ、すっと外へ出た。

 いつしかとっぷりと暮れた空に瞬く星を見上げる。ほおっと長いため息。

 そして。



 しゅ……しゅ……と遠ざかる衣擦れの音。







「待って……!」



 あかねの叫びは声にならない。



 急いで御簾に寄り、廊下をのぞいた。







 ひたと止まる足音。

 友雅が振り返った。





「ごめんなさい……」



 蝙蝠の陰でふっと笑う声がした。

 影はまた近寄り、ふんわりと侍従の香りを漂わせてあかねを包んだ。





「どうして、謝るんだい?」

「わからない……」

「わからないのに謝るのかい?」

「だって……」





 この人と離れたくない。このまま、この香りと温かさに包まれていたい。

 でも、それがとても怖いことのように思えるのは、何故だろう?

 何か、大きなもの、大切なものが、消えてなくなる予感。

 あかねの心を捕らえて離さない恐怖。





 かた、と、何かの音がした。



 友雅の体がすいと離れた。

 追うあかねを、友雅が制した。



「見られてしまうよ、ほら……」





 向こうの局に大殿油がともされた。

 御前から一人また一人と御達が下がってくるらしい。







「またね、神子殿。今度、手習いの手ほどきをしてさしあげよう。」



 いい子で待っておいで、と囁きこんで。







 侍従薫る影はゆったりと遠ざかる。



 どこからか、花の香りが漂ってきた。







遙かなる悠久の古典の中で / 美歩鈴 様