揺るがない願いを |
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= 本気になった男と戸惑う少女 = |
「やあ、神子殿。ご機嫌いかがかな?」 「──ッ…!?」 にこやかな微笑の下に隠された、咎めたてるような怒りの熱に気づいた彼女は、仲間に向けていた笑顔を凍り付かせて振り仰いだ。 □□ 「どうして、ここに…」 「それは君が一番よく分かっているのでは?」 「──あの…放して、ください…」 困惑と恐怖で小さく震える声。 左手で力のままに掴みあげた細い腕は、それが庇護しなくてはならない者なのだと知らしめている。 だが、走り始めてしまった男の想いを止める術は、もはやない。 「──いた、い…から。はなし、て…」 俯いてしまった表情を見ることは出来ないが、おそらくその輝かしい眸に恐怖を滲ませているのだろう。 けれど、だからどうした、と酷く凶暴な思いが心に渦巻く。 彼女の表情に、言葉に、一喜一憂し、そして厭われることに怯えていた昨日までの自分は、土御門を訪れた時点で霧散していた。 「放したら、君はまた…逃げるのだろう?」 己の唇から零れた言葉は、驚く程に冷酷な音をしていた。 甘く囁くような声しか知らないだろう彼女は、ビクリと肩を揺らして呆然と振り仰ぐ。 と、共に散策に出ていたのだろう傍らの詩紋の脚が動いた。瞬間、腰に穿いた太刀を抜き、切っ先をその喉元に突き出す。 「詩紋、動くな。その白い喉に傷が付いても知らないよ?」 「──とも、雅さん…?」 「君が関与すべきことではないのだよ。むしろ、私と神子殿の間に何人たりとも踏み込ませるつもりはない」 きっぱりと言い放てば、彼女の眸は込み上げる涙に濡れ始めた。 それを陶然と見下ろし、この眸も、髪も、唇も、心も、何もかもが自分の物だという独占欲に駆られる。幼い少女を危険に晒し、直接的な救いのひとつも差し出すことのない神になど、渡してなるものかと強く思う。 「友雅、神子を放せ。八葉は神子を護る者だ。傷つけることは許さぬ」 「──傷つける?馬鹿をお言いでないよ、泰明殿。傷つけられたのは…私の方だ」 「なんだと…?」 見つめ合ったままの、彼女の琥珀が揺れる。 自覚があるのか、それとも友雅の言葉に対する困惑なのか、それはわからない。 「おいで、神子殿。大人しくついてくるなら、詩紋への刃は引こう。あくまで抵抗するというなら──わかるね?」 陽光に晒された刃紋が鋭く光る。 それを愕然と目にした彼女は、色を失いながらも小さく頷いて拒絶の力を弱めた。 「友雅さん!?あかねちゃんに何をするつもりなんですか!?」 「そうがならないでくれ。話しをするだけだよ、詩紋」 「でも…っ!」 「神子、ついて行く必要はない」 「やめて…っ!やめて泰明さん。私は…大丈夫だから…」 「…っ神子?」 さっと印を結んだ泰明を押し留め、あかねは引きつった頬を無理に綻ばせ、震える声で「だいじょうぶ」と小さく繰り返した。 「詩紋くんも、ね?ちょっと、お話ししてくるだけだし…心配しないで…」 「けど…っ!!」 「行きましょう、友雅さん。お話しが終わったら…帰してくれるでしょう?」 「──それは君次第、とだけ言っておこう」 諦めたような、生気のない微笑に苛立ちが湧き上がる。 どうして自らの想いを封じて、離れようとするのか。 理由はおそらく、藤姫が言っていたとおりなのだろうと思う。 けれど、それが果たして全てなのか。そして、拒絶にも見える振る舞いで彼女が得る物は何なのか。それを知りたかった。 知った所で、その思惑に流されてやるつもりなど毛頭無いが。 彼女は今、友雅への想いを捨てようとしている。 それだけは間違いがない。それだけは、許すことなど出来はしない。 これまで友雅よりも神子としての責務を優先し、そして他の八葉と親しく過ごすのを黙認してきたのは、言葉にしたことはなくとも、彼女の心が自分の元にあるのだと確信していたからに過ぎない。 その姿を面白く思っていたわけではないが、それは当然のことだ。誰の目にも触れさせず、誰とも言葉交わすことなく、真綿でくるむようにして大切に大切に、閉じこめてしまいたいと願っていた。 それをしないのは、彼女の清く幼い心が成長するのを待ち、全てのしがらみを清算した上で、彼女の心を尊重した付き合いをしていきたいと真摯に考えていたからに他ならない。 それを、彼女は──裏切った。 今朝、あかねの住まう土御門に機嫌伺いと称して訪れたのは、昨夜の段階では散策の同行者が決まっていなかったからだ。 あわよくば、ふたりだけの穏やかな時を過ごせれば…という下心があったのは否めない。けれど、ひたすら真っ直ぐ一生懸命に責務を果たしていく彼女の役に立ちたい、と真摯に考えていたのもまた真実だった。 必死に前を見据えて踏ん張る背中を、抱きしめて撫でさすって、一時の安らぎを与えてあげたかった。 まだくちづけすら交わしたことのない、それどころか明確に想いを伝えたこともないふたりだ。共に過ごしていても、他愛ない日常の出来事を話したり、彼女の不安を和らげてやったり、互いの身の上を語ったりと何てことのない一日となる。 それでも、そんな時間は友雅にとっても彼女にとっても、もはや掛け替えのない大切な時となっていたはずなのに。 昨夜遅く、彼女は土御門を出奔した。 元より少ない荷を纏め、共に時空を渡った友人達と共に、泰明の住む安倍邸へと居を移したのだ。 友雅に相談もなく。 ただの一言も、そんな素振りのひとつもなく、突然に。 これが裏切りでなく、何だというのだ── 「──神子殿」 ビクリと小さな肩が震えた。 恐怖か、拒絶と取るべきか。そのどちらも、という可能性さえある。 想いは向き合っていたはずなのに、どこでどう擦れ違ってしまったのだろうか。込み上げる理不尽な怒りの中に、一握りの哀しみが広がっていく。 安倍邸の門前から攫うようにして自邸に連れてきた彼女は、母屋に脚を踏み入れた途端に友雅の手を振り払い背を向けてしまった。 強引で卑怯ともとれるやり口を嫌悪しているかのようなその仕草に、出来ることなら穏やかに話し合いたいと思っていた気持ちが萎み、代わりに鎌首をもたげたのは破壊衝動にも似た凶暴なまでの思いだ。 さらりと軽やかに揺れる春色の髪をかき分け、その細い首を強く圧迫してしまえば、かの人の全てが手に入るのだろうか。 けれどそうすれば、時と共に濁り行く双眸に光はなく、自分の姿を映しこむことさえ出来ない。 友雅は沸々と沸き上がる闇色の衝動を、必死で抑える。 「──神子殿…」 身の裡を焼く恋慕は、喉をも焼いて声を掠れさせた。 促すように呟かれたそれに、彼女はようやく意を決したように顔を上げる。 「…お話し、って…なんですか?」 「わかっているだろう?」 「──わかりません。分からないから、聞いているんです」 「聞きたいことはたくさんあるよ。全て訊ねても?」 瞳が揺れる。 それにも構わず、友雅は表面上穏やかに訊ねた。心中の嵐をここでさらけ出すつもりはなかった。 「どうして、土御門殿を出たんだい?」 「──晴明さんに、陰陽道のこととか…色々と教えて貰いたかったので…」 「ほう、かの方が門弟として迎えるとは、君にはさぞかし陰陽の才がおありなのだろうね」 「── …」 「けれど、住み込む必要はないだろうに。土御門殿から安倍邸まで、そう遠いわけでもない。君ならば制止も聞かずに一人で訪ねられるような距離だ。それなのに、なぜわざわざ?」 さらりと春色の髪を掬い上げれば、小さな肩があからさまに揺れた。 逃げたい衝動を必死に抑えているだろうその様子に、なけなしの理性が脆く崩れていく。 「…よ、夜!晴明さんが帰ってきてから、色々と教えてもらおうと…」 「それは異な事を仰るね」 「え…?」 「近頃晴明殿は、ほとんどを内裏で過ごされていると聞くよ。主上がお放しにならないとも、宮中に溢れる怪異を鎮めるためとも言われているがね。宿直の折にお会いすることもしばしばあるのだから、あながち噂だけではないようなのだが。──さて、神子殿は誰に師事するのだと言っていたかな?」 「──そ、それは…」 莫迦な子だ、と友雅は思う。 どれほど抗おうとも、どれほど逃げようとも、決して離してなどやらないというのに。 小動物を彷彿とさせる、小刻みな震えがたまらなく愛しく思えた。そしてそれ以上に、憎らしい。 「では質問を変えようか」 ホッと息をつく気配がした。 追及の手が緩められるとでも思ったのか。 「君は、私のことが好きだろう?」 「──な…っ!?」 彼女が絶句する。それもそのはずだ。どれほど想いも露わな接し方をしていても、明確に伝え合ったことなど無かったのだから。 だがそれが、彼女の唯一の逃げ道となってしまったことは否定できない。 僅かな光さえ、残してやるつもりはなかった。 全てを闇に包み込み、そして縋るモノをひとつひとつ潰してしまえば、彼女の全てが手に入るだろう。 「正直に言えばいい。そうすれば、悪いようにはしないけれど?」 そうとは思えないだろう微笑を浮かべてやる。 そんなものに騙される彼女ではないと知っているが、穏やかに微笑んでやることでどれほどあかねを追い詰められるかは、計算の内だった。 「そっ、そんなこと、あるわけ無いじゃないですかっ!!」 「どうして?」 「どうしてって…」 「誰しもが気付いているよ。もちろん、君も分かっているはずだ。その瞳が誰を追っているのか、嬉しそうに微笑むとき、寂しそうに憂えるとき、誰の姿を見ているのか」 「しらな…」 力なく左右に散る髪。 闇にあってなお輝く、その絹糸が欲しい。 「もういい加減、素直になりなさい。どれだけ悪あがきをしたところで、君の心はただひとつなのだから」 「言ってること、…わからな…」 「分からないわけがないだろう?分かっているからこそ、君は逃げた。おいそれと忍んで行くことも出来ない場所に逃げ込んで、私を排除しようとした。違うかい?」 「違う!そんなこと、知らない!!」 ダン、床が悲鳴を上げた。 叩きつけた拳が、鋭い熱を孕む。 「逃げるな!!もういい加減、私と向き合ってくれ!!」 彼女に向けて、初めて怒声が口をついた。 お願いだから、と懇願にも似た思いが溢れ出す。 破壊的な衝動。情けを乞う脆弱な心。 均衡が崩れてしまえば、あとは完全に破壊してしまうしかない。だから── 「──とも、ま…」 驚きに目を見開き、困惑を浮かべた瞳が揺れる。 逃がすものか 逃がすものか 逃がすものか 逃がすものか 決して、手放してなどやらない。 この腕に抱きしめたら最後、この身朽ち果てるまで、魂のみの存在となってもなお、離すことなどできはしない。 「何故、逃げる必要がある?頼むから、自分の心から目を逸らすのは止めなさい。君が偽らざる想いをぶつけてくれさえすれば、私には応える用意があると言っているんだ!」 「なに、を…」 全てを暴かれる恐怖に、彼女はじり…と後じさった。 それを追うように、青ざめた頬へと手を伸ばす。触れそうな際で手を止めれば、引きつった表情が一層強張っていった。 「そんな顔をするのは、ズルイよ。なぜ、ひとりで悩んでひとりで結論を出すんだい?」 戦慄く桜色の唇からは、拒絶の言葉は漏れてこない。 ただ、震える呼気が零れているだけ。 「君が悩んで苦しんでいる理由なら、わかっているつもりだ。どうしてそれを私に言わない?私はそんなに頼りないかい?」 「ちが… そうじゃ、」 眼差しを逸らさぬまま、彼女は小さくかぶりを振る。 頬に触れることが出来ずにいる掌に、冷たい美髪がさらさらと降り注いでは落ちていく。 「恋愛は、ひとりでする物ではないだろう?君がいて、私がいる。ふたりが揃って初めて、一歩前に進むことができる。違うかい?」 穏やかな声音に安心したのか、彼女の肩から少しずつ力が抜けていくのが分かった。 それでもその眸は、拒絶と困惑、そして愛情を乞う色が浮かんでいる。 素直になればいい。 それだけが、彼女にできる、唯一の事なのだから。 「君が自分の心を偽るのは勝手だがね、それを私にまで強要するのは筋違いという物だよ?」 ぱちり、 大きな眸が瞬く。 熱を持った眦から、儚い雫が滑り落ちた。 「君は手に負えないほどの我が侭な姫君だよ…」 「──っ?」 「勝手に私のことを好きになって、密かに想い続けていたのに、突然全てを翻して私に拒絶させようとする。そして、それが望めないとわかると逃げ出したんだ。私は君が後生大事に溜めて、そして今まさに捨てようとしている心を、暴くよ。偽りを引き裂いて、怯えている心をさらけ出して、そして──」 手に入れる。必ず あかねの背中が、ぶるりと大きく震える。 「私の心を無視しないでくれ。私たちはまだ、始まってもいないのだよ?」 はたり、はたり、 無意識のうちに溢れ出るのだろう涙は、未だ触れずにいる友雅の指先をしっとりと濡らしていく。 「君が私の心に火を灯した。私はかつて、誰も愛したことなど無かったのに、それでも構わないとさえ思っていたのに…誰かを想うという感情を芽生えさえたのは、他ならぬ君だ。この火は、誰にも消せやしないのだよ。もちろん、君にだって吹き消すことなど出来ない」 「もう諦めなさい。君は、私のことが好きなんだ。そうだろう?」 「──だけど!!」 おもむろに俯いたかの人は、己の衣を強く握りしめた。 絹が悲鳴を上げる。 「だけど、私はいつか…元の世界に帰っちゃう、んです。一緒には…いられな「それがどうした」 「…え?」 「それが、どれほどのことかと聞いているのだよ。もちろん、連れて行ってくれるのだろう?君の世界へ」 「──え…なに、」 「当然、私を道連れにしてくれるのだろう、と聞いているのだけど?」 「え、 だって…えっと、 帰って…こられないんですよ?」 「君のいない世界に未練など、髪の一筋ほどもあるものか。君が傍にある、君の傍にいる。互いが互いを見つめ、そして微笑み合う事が出来る。それだけあれば、他はどうでもいい」 「どうでもって…」 「君のそば以外、私にいるべき場所などありはしないのだよ。だから、言って?私が好きだと。放したくない、離れたくないと。その言葉だけで、君に生涯縛られてあげるから。そうすれば私は、ずっとずっと…君だけのものだから」 言葉の意味を理解出来ずにいるのか、彼女は茫洋とした瞳で友雅を見上げていた。 驚きのあまりか、止める術も無かろうと思えた涙は、すっかり干上がってその残滓を頬に残す。 「もちろん、私からは何も言わないよ?」 「──…?」 せめてもの仕返しにと、大人の笑まいを口元に乗せて。 「君には随分と、傷つけられてきたからね」 瞳に掛かる乱れ髪を、指の背でそっと撫でてやる。 「君の所以外に、私の居場所はない。君のそばで、君と共に歩むためだけに生き続ける。そんな私を…手に入れたくはないかい?」 意地悪な大人の微笑。 元来、狩猟する者は美しいと相場は決まっている。 捕食される者が見惚れ、逃げるのを忘れてしまう程に相手を惑わす。 さあ、手を伸ばして。 堕ちておいで── 決して、離しはしないから。 決して、逃がしはしないから。 「私を、手に入れて──そして、君で縛っておくれ」 揺るがない願いを、口端に乗せて── 君は今、甘い闇へ堕ちる。 fin. |
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さくらのさざめき / 麻桜 |