甘美な罪 |
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= 悪魔と生け贄 = |
『………よいな。今宵の仕事を成し遂げれば半人前のおまえも、ようやく立派な悪魔になれるのだ。ただし時間は厳守するように』 教会の鐘が鳴り響くのが聞こえて、あかねははっと物思いから覚めた。いそいで夜空を見上げると、月は中点に近づきつつあった。ついに生け贄が捧げられたのだ。遅れるわけにはいかない。腰掛けていた切り株から立ち上がり、簡単な呪文を唱えると黒いローブに包まれたあかねの体は、霞のようにかき消えた。 村外れの寂れた墓地は、不気味な静寂に満ちていた。そこには大きな十字架があり、古くから生け贄はこの十字架に鎖で繋がれ、悪魔に捧げられるというのがしきたりだった。 (……いた) 生け贄が約束通りその場所に留まっていることに、あかねは少しほっとした。しかし、近づくにしたがって人影が予想していた相手と違うことに、あかねは気づいた。 ……大きすぎる。生け贄は生娘と相場が決まっているというのに、背格好が大きすぎるのだ。これではまるで成人男子のようだ。 「どういうこと?」と、あかねが怪訝そうに呟いた、そのとき。 月に照らされたその人物が、気配を察したのかゆっくりと顔をあげた。 涼しげな目元。整った鼻梁。肩より少し長い髪に縁取られているのは、美貌と言っても良いほど整った顔だち。その姿になぜかどきんっとときめいてしまい、口もきけないでいるあかねを前にして、銀色の縁取りをした騎士の服を纏った男は、けだるい笑みを浮かべ口を開いた。 「……やあ。君が噂の悪魔かい。想像よりもずっと可愛らしいがね、それにしても待ちくたびれてしまったよ」 そのとろけるような美声に、自然と頬が熱くなるのを感じたが、あかねはいそいで懐から予言書を取り出した。そこには生け贄の名前が前もって記してある。羊皮紙に綴られた文言を何度も読み返してから、恐る恐る尋ねた。 「あの……予定では、生け贄は村の若い娘さんのはずなんですけど……?」 「ああ、その娘なら帰ったよ」 彼の顔を見つめることに熱心だったあかねは、さらりと告げられた事実に仰天した。 「えっ、帰った!?」 驚いたように目を丸くしたあかねの反応に、彼はくくっと可笑しそうに喉を鳴らしてから説明した。 「あんまり悲しんで泣くものだからね。私が身代わりを申し出たというわけさ。可憐な姫君の瞳に涙が溢れるのは、見るのも忍びないからねえ。どうせ退屈な旅の途中だったし、悪魔と対峙するなどそう滅多にできない体験だろう?」 そう言って飄々と笑う謎めいた男の顔を見ていると、その甘い笑顔をもっと近くで見てみたいと思う気持ちが湧いてこないでもないのだが、生け贄が入れ替わっているという事態に、焦りはじめるあかねだった。 (ど、どうしよう) こんな前例は聞いたことがなかったので、一度戻って指示を仰ごうかと思ったが時間は刻々と迫っている。生け贄の魂魄を取り出せなかったら、今年こそついに人間に降格されてしまうと思い直したあかねは、仕方なく目の前の妙に落ち着き払った男を生け贄にすることに決めた。 「とりあえず、貴方の名前を教えてください」 こほんと咳払いをしてから、あかねが厳かに言うとその男は、小首を傾げてみせた。さらりと彼の緩く癖のある髪が、幅広の肩から滑り落ちた。そのやけに色めいた動きに、あかねの目が吸い寄せられる。 ……くるりとした髪に指で触れてみたくなる、そんな髪だった。 「おやおや。人に尋ねる前に、君から名を名乗るのが礼儀だと思わないかね?」 命を奪われる寸前とは思えぬ、その太々しい態度にあかねは内心むっとしたが、彼の言う事ももっともだったので、小声で答えた。 「……あかね、です」 「ふふふ。可愛い名前だね。鮮やかに照り映える空の色か。君のような可愛い姫君とならば、夕空よりも朝焼けを共に眺めたいものだねえ……あかね」 と、艶やかな流し目を向けてきた彼の低い声で名を呼ばれると、どきっとあかねの心臓は跳ねあがった。人間とあまり交流した事が無いせいなのか、どうも調子が狂う。 「そっ、それよりも、貴方の名前を教えてください!」 「ああ、友雅……と呼んでおくれ」 頷いたあかねは、彼の名前を几帳面な字で羊皮紙に書きこんだ。 「友雅さんですね。これより貴方の魂魄を取り出し地獄へと導きます。貴方がこの世で行った罪状を申告してください」 「罪状? あまり思い当たる節はないのだけれどねえ……何かあったかな」 片眉をあげて考えるような表情になった友雅に、あかねが諭すように言った。 「何でも良いんです」 「どんなことでも?」 「はい。食べ物を盗んだとか、そんなことでも」 「食べ物はないが……もっと甘くてかぐわしいものなら、幾つか盗んだことがあるねえ。男なら盗まずにはいられぬほど魅力的なものばかりだったけどね。ふふふ……いたいけな姫君には、まだ早い話だったかな?」 きょとんとしたあかねの可愛い顔を見て、友雅が艶やかに微笑んだ。 「とっ、とにかく。窃盗……ですね」 どぎまぎしながら書き込むのだが、友雅にじっと見つめられていると思うと指先が震える。そんな彼女の気持ちを見透かしたように、鎖に繋がれたまま友雅が可笑しげに忍び笑いをした。彼のくすくす笑いを耳にすると、あかねはますます焦ってしまい、手元がおぼつかなくなる気がした。 「ねえ、あかね。ちょっとそれを見せてくれまいか。ああ、目が悪くてね。もう少し近寄っておくれ」 普段は予言書を悪魔以外に見せてはいけないのだが、人間の最期の頼みはあまり無碍にはしないようにと聞かされている。あかねは、友雅が見やすいように両手で羊皮紙を広げて持ち、彼の胸元近くに掲げてみせた。 友雅はあかねよりもずっと背が高く、大人っぽく……すらりと均整の取れた肉体は、とても男らしい。もたれかかってもしっかりと力強く支えてくれそうだ。そんなことをぼんやり思いながら彼を見上げているあかねの、可愛く上気した頬をちらりと見おろした友雅は、衝撃的な言葉を放った。 「ふむ……綴りが間違っているよ」 「ええっ!? ど、どど、どこですか!?」 あかねは慌てて、友雅が顎で示したあたりを真剣な眼差しで見つめた。自分で書いたもののせいかなかなか間違いが見つけられない。いまにも泣きだしそうな瞳で、あかねは口を開いた。 「提出前に直さないと、また落第になっちゃう。どこか教えてくださ……っ」 問いかけるように友雅を見上げて、そう言いかけたあかねの唇が遮られた。 あたたかく、やわらかな…………友雅の唇によって。 しっとりと吸いあげられる唇。 彼のぬくもりが、重なった唇から伝わってくる心地よさに、頭の芯が甘く痺れてゆく。 ちゅっと、軽い音をたてて顔を離した友雅は、堕天使のような蠱惑的な笑みを浮かべた。 「……冗談だよ。綴りはどこもかしこも正しい。ふふ、これで私の罪は作られたかい?可憐な小悪魔を騙したという罪を───」 ばちん、と派手な音が闇に響く。顔を真っ赤にしたあかねが、力任せに友雅の顔を平手打ちにしていた。 「なっ、ななん、何するんですか、友雅さん!」 生け贄が入れ替わっているだとか悪魔に申告すべき罪状だとかよりも、自分と友雅の間に起きたことに対して、あかねの頭はぐるぐると混乱していた。こんな事、見聞きしたことはあっても、今まで経験したこと無かったからだ。 「ひどいねぇ。縛られている者に暴力を揮うとは……悪魔というのは皆そうなのかい」 友雅の揶揄するような言い方に、あかねはさっと顔色を変えた。本来ならば生け贄が名を告げた時点で、悪魔に捧げられたものとされ、戒めを解かなければいけなかった。それなのに色々な事が起きて動転していたせいか、すっかりあかねは失念していたのだ。 「あの……逃げないでくださいね」 警戒するような目つきのあかねに、友雅は面白そうに微笑んで言った。 「ふふふ。可愛い君からなんて逃げたりしないよ……ありがとう」 「え」 「鎖を解いてくれたから。あかねも私を、少しは信用してくれているってことだろう?」 と、友雅から意味ありげな流し目を投げられて、何と答えて良いか分からずあかねがどぎまぎと口ごもっていると、ついにその時が訪れた。 ───重々しい鐘の音。 それが闇を切り裂くのと同時に、あかねの握りしめていた羊皮紙が、ぼっという音をたててたちまち灰と化してしまった。 「あ!」 「おやおや……すごいね。あっという間に灰になるとは、どんな絡繰りなのか知りたいものだねえ」 友雅がのんびりと言うのを耳にしながら、あかねは呆然と自分の置かれた状況について考えていた。 もう幾度も進級試験に落第しているのだから、とうとう見限られてしまうことだろう。悪魔を落第するなんて聞いたこともない。ましてや無力な人間にされてしまうなんて……。これからの不安と自分の不甲斐なさに、とうとうあかねの瞳に涙が溢れだした。友雅は、しくしく泣きだしたあかねの肩を抱いて、優しく囁いた。 「さあさあ泣くのはおよし、あかね。私が姫君の涙が苦手だということは、もう言ったろう? 君が泣きやまないと言うならば、私はまたどこぞで生け贄の身代わりをしたくなってしまう」 「やだ、友雅さんったら……」 彼の軽口に思わず吹きだしたあかねの可愛い笑顔を、うっとり見おろした友雅は尋ねた。 「これから君はどうなるの、あかね?」 「……ただの人間にされてしまうかもしれません」 くすんと鼻をすすって、あかねは悲しげに言った。悪魔としても半人前なのに、力を無くしてしまったらどうやって生きていけばいいのだろう。途方に暮れたようなあかねの髪に、そっと唇を落とした友雅が低く囁いた。 「ふふふ。そんなに悄気た表情をするものでないよ。人間というのもなかなか悪くないのだよ、姫君。こうして………恋を語る相手がいるのならね」 耳もとで響くあたたかい声に、思わずあかねは顔をあげた。すると謎めいた瞳で見おろしている友雅と視線が絡んだ。いつもは涼しげなのに、何かこみあげてくる感情を堪えているような、そんな熱い眼差し。その不思議な眼差しを友雅に注がれて、あかねの心臓はどきどきと早くなってしまう。 「唇………切れてしまったんですね。ごめんなさい、私のせいで」 そっと友雅の口元に指を伸ばした。さきほどあかねの平手を受けた彼の唇の端は、わずかに血が滲んでいる。痛々しいけれど、もはやあかねにはそれを癒す力は無い。すまなく思うあかねのいたいけな瞳を覗きこんで、友雅がそっと口を開いた。 「そうだね、これは君の罪だ………それに、君はもうひとつ罪を重ねているのだよ」 「わ、私が? 何もしてないと思うんですけど?」 罪と聞いて怖々と言ったあかねの頬を、友雅は両手で包んだ。じっと見おろすとあかねの花のような唇が可憐に震えるのがわかり、友雅の心と体を熱くさせた。子鹿のように無垢なあかねの瞳を見おろしたまま、友雅は低く笑った。 「ふふふ。無自覚な君すら愛おしいと思ってしまうのは、なぜだろうね? いや、わかっているよ。君の最大の罪はね、あかね。私の心を盗んだという………甘美な罪だよ」 月に照らされ、古(いにしえ)の十字架の影が傾く、夜半過ぎ。 偶然から巡り逢った二人の心を、甘い沈黙と熱い感情が満たしてゆく。 ………初夏の風が吹きぬける、とある夜のことだった。 |
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ときの彼方 / キンカン 様 |